第983回 南无阿弥陀仏の意義 〜宇宙の法則・その相〜

 平成23年11月24日〜


 米沢英雄先生の 真実教の意義という お話の中に、南无阿弥陀仏の意義という文章が
あります。その途中からですが、こんなところがありました。

人間は自分のことは自分が一番知っているように思うのでありますが、
悲しいことには、自分のことは一番わからぬのであって、
どうしても自分を超えたものから、自分を教えていただかなければならぬ。

そこでこういう仏の智慧を自分で得ようとしてもなかなか得られません。
それが53仏の遍歴となって、最後に世自在王仏に会われて、自分自身を知れと言われて、
初めて自分の無力さを悟られて、真に謙虚になられた時に、どんなところでも
生きて行くことが出来るようになったのである。

人間は障りがあると、障りを何とかしようとしている時は、障りばかりであったが、
障りを受け取っていくことによって、障りは外にあるのでなくて、
自分の能力もかえりみずに、その障りを何とかしようとしていたのだという、
愚かな自分であることに気付くというと、障りが障りでなくなる。
そればかりか、その障りがあるお陰で、自分自身というものが
明らかにされてきた。

こういうことになると、もはや障りをどうかしようというような野心なしに、
障りは障りのままでそこに自由の境界というものが開かれてくる。
そういう道を世自在王仏の前に立たされるところに、法蔵比丘が初めて阿弥陀仏を
実現されたというわけであります。

阿弥陀仏というのは、いつも申し上げるように、無量寿・無量光と言われているのである。
それは無限というもので、宇宙の法則というか、相というもので、そこから人間は一歩も
出ることは出来ない。
法則のままに人間は生死していくという、自分の位置をはっきり自覚した言葉が
南無阿弥陀仏という言葉である。

我々は無量寿・無量光からは一歩も出られない。
真実の世界からは一歩も出られない。
その真実の世界に生きておって、自分では、自分の力で何もかもしておるようで
ありますけれども、真実の世界からは一歩も出ておらぬのであります。

我々は真実の世界におりながら、真実の世界に背いているのが我々であって、
その背いているということがわかりますというと、真実の世界と一つになることが出来る。
それが南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏することによって、真実に背いていた自分が
真実に帰らしめられ、真実と一つになる。それが南無阿弥陀仏という言葉である。

そうすると阿弥陀仏は南無阿弥陀仏することによって、阿弥陀仏になられた
ということが出来ると思う。
南無阿弥陀仏という言葉は、真実の中に生きながら真実に背いて、
真実と一つになれないという自覚を通して、真実と一つになったということである。

法蔵比丘は南無阿弥陀仏して阿弥陀仏になられた。
南無阿弥陀仏して阿弥陀仏になるというと、人間でありながら
阿弥陀仏に等しい智慧が与えられるので、南無阿弥陀仏することによって、
人間が人間でありながら、人間を超えて自由自在になれるというので、
この南無阿弥陀仏の法をすべての人に伝えて、全部の人に阿弥陀仏になってもらいたい。

障りの無い仏になるには念仏以外にない。
念仏を全部の人に伝えたいという願いから、法蔵菩薩となられて
人間の間を遍歴せられるというのが、法蔵菩薩の物語であると思う。


 妙念寺電話サービス 次回は 12月1日に新しい内容に変わります。

         


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