第985回 一水四見 〜立場によって 違って見える〜

 
平成23年 12月8日〜

仏教には「一水四見」(いっすいしけん)という言葉があります。
同じ一つのものでも、見る側によって、いろいろ 異なって見えることで、
同じ「水」を見る場合でも、立場によって四つの様相があることをいい、
一処四見、一境四見 との表現もあります。


 人間が「水」を見れば普通の水であっても、魚にとっては 自分たちの住む世界、
住み家であり餌を求める生活の場。
天人には 宝石で飾られ輝きを放つ池。
餓鬼には 膿血で充満した河と見えたり、飲もうとした瞬間に火に変わり
からだを焼きこがず苦しみの存在に見えるものでしょう。

 このように、同じ一つの「水」を、「人」「魚」「天人」「餓鬼」という立場で、
おのおの異って見えることを例えたものです。
仏教の唯識学で使われている例えです。

同じような意味で 「一月三舟」(いちげつさんしゅう)という言葉もあります。
舟から月を見るとき、止まっている舟からは、月は止まっているように見え、
南に向かう舟からは、月も南に向かっているように、北に向かう舟からは、
月も北に向かっているように見えるという意味です。
人間は、その立場立場によって、いろいろと違う見方をするものです。


「山川草木悉皆成仏」 ということが 大乗仏教の特徴と言われます。
人間だけではなく、山も川も 草も木も 法を聞くことが出来ないものまでも

すべてが仏に成るというのです。

どうも これは 極端でなかなか理解できませんでしたが、
仏教は 私の問題 誰か他の人や 他のものを心配する前に この私が
どうなるのかの問題です。

そう考えると、もし 修行をしてお浄土へ生まれる教えで、本人の力によって
さとりを開くことが必要なら、努力できないものは 救われることはないのでしょうが、
阿弥陀さまの願いによって、お念仏によって私が 救われ 仏にしていただく、
そう考えると 今 私が見ている平凡な 馴染みの山や川も 草も木も
私がお浄土へ 生まれ 仏のさとりを いただくと もうそれは お浄土の

素晴らしい荘厳に見えるであろうと思います。

 そして、今は この私を救うために 風を起こし 雨を降らせ 音をだし 
様々に はたらきかけてくださっているのだと 。
人間の私には 普通の山も川も 仏になって見つめるとき それは

お浄土のすばらしい荘厳であろうと思います。

私が 救われれば 私の周りのすべてのものが 仏の荘厳 仏国土になっている 
そう味わうのが お念仏の教えではないかと 思えてきました。

私が 救われることで すべてが 救われる 南無阿弥陀仏には

そのはたらきがあるのです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、1215日に新しい内容に変わります。

         


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