第998回 聞く側の問題 ~聞き味わう力を育てられる~
平成24年 3月 8日~
突然の脳血栓で倒れられた村上速水和上は、大学の教授でありながら、
「ものを書くこと」「言葉を喋る」という二つの機能に障害が起こり
闘病のご苦労をされましたが、病院の帰りには、本願寺の総会所に聞法に
通われることを日課とされていたといいます。
あるとき、先生がいまだ辿々しい口調で、次のようなことを話された
といいます。
総会所通いをしていると、聴聞の人の顔ぶれが大体決まっている。
そんな中で、法座が終わるといつも口癖のように、
「ああー、今日もいい話を聞かせてもらった。有り難い、有り難い」と
独り言をいいながら帰っていくおばあさんがいる。
自分が聞いて、それほど有り難いと思えない話のときでも、
「有り難い」という独り言が出る。
そのおばあさんの言葉をいつも聞いていながら、実は今日、
初めて気づかしてもらった。
聞法というのは、話す側に問題があると言うよりも、聞く側に
問題があるのではないかと・・・・・。
親鸞聖人の教学研究において第一人者として評されている先生が、
しかも六十歳を越えられて、今まで気づかなかったものを
一人のおばあさんから教えてもらったといわれたとき、
すばらしい師匠に出遇わせていただいたという感動を憶えたと、
お弟子の白川晴顕先生は、お書きになっています。
そして、村上先生は「病気をして嬉しいとは思わないが、
有り難いと思うようになった」と述懐されています。
それは、「病気をしたからこそ ご法義がよろこばれる。
病気は今まで気づかなかった喜びの再発見である」との味わいから
にじみ出た言葉です。
誰もが病気になることを好んではいません。その病気を有り難いと
味わうことのできる心の他に、どこに力強い生き方があるでしょうか。
如来の本願の大海に帰入すれば、病のままで病が有り難いと
受けとめられていく、悪が消滅することなく善に転じられていく、
ここに「一切の業繋ものぞこりぬ」の意味があるように思われますと
書かれています。(白川晴顕著 浄土和讃を読む 本願寺出版発行 参照)
受け取る側の問題、どんな有り難いお話を聞こうと、どんな親切な言葉を
かけてもらおうと、それを受け取る側が ちゃんと受け取らなければ、
その力を発揮しません。
子どもの将来を思う親の言葉も 有り難く受け取ることが出来るか
うるさくて邪魔だとしか受け取れないのか。
受け取る側の問題です。
南無阿弥陀仏の言葉も、おまえを救うという言葉も、阿弥陀さまが
お前のためにご苦労されたという言葉も、聞く力を持たないものには
何の意味も 有り難みもないものです。
この私のためにと、受け取れることができる、それがお育てに預かったという
ことだろうと思います。
私の周りの出来事 良いことも悪いことも みんな私のためにと
味わえる そうした力を育て養い、与えてくださるのが お念仏のはたらき
南無阿弥陀仏の力だと味わいます。
妙念寺電話サービス 次回は 3月15日に新しい内容に変わります