Against Her Destiny



一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん
もし死なば、多くの実を結ぶべし
(ヨハネによる福音書12章24節)




「わたし、浩之さんのこと本当に本当に大好きでした! 誰よりも一番大好きでした!」

 言えた。
 わたしが一番言いたかったことを言えた。
 もういいよね。ね、もうこれで十分だよね。

  ドア越しに朝の光が射し込んでいる。

 ぺこり。

 わたしは深々とお辞儀をした。
  その動きがわずかに埃を舞いあげたのだろうか、射し込む光の中、小さくきらきらと反
射するものが漂う。

 藤田さまのおうち。素敵なおうちだった。夢のようなおうちだった。
 
「マルチ…。バス停まで送るよ…」
「いえ、いいんです。ここでさよならを言わせて下さい。ひろ…、いえ、わたしのご主人
さまにお仕えできた一番しあわせな場所でお別れしたいです。」

 わたしはうそを言っている。そんなはずない。あと一分でも、あと一秒でも浩之さんと
一緒にいたい。わたしのこころから愛するご主人様。この方の声を聞いていたい、この方
の姿を見ていたい。…この方をお慕いしていたい。   

「さようなら。ご主人様。いつまでもお元気で。」
「……ああ。マルチ、さ、さよなら…」
 ご主人様の両目が潤む。その涙をお拭きしたい。だけど、これ以上いるとわたしも涙が
止まらなくなる。それはきっとご主人様の心に痛みを残してしまう。それは、それだけは
許されない。
 わたしは必死になって笑顔を作る。
 もう一度頭を下げる。

 カチャ… ドアを開ける。
 さあっ… まるで音が聞こえるような勢いでまぶしい朝日がいっぱいに射し込んでく
る。しかめた目から危うく涙があふれそうになる。
 「…さようなら。」
 ご主人様の顔を見ずにきびすを返して歩き出した。
 「マルチ!」
 びくっ… ご主人様の声にわたしは思わず振り返った。
 「…マルチ。いつか、また会おうな。ずっと、ずっと、オレ待ってるからな…」
 ぐ……言葉がでない。我慢の限界に達している。わたしはかろうじて笑顔のかけらを見
せると深々と頭を下げ、もう一度歩き始めた。

 バス停へと続く道。
 まぶしい朝日に照らされたアスファルトの道。
 もう二度と歩くことのない道。

 もう少し、もう少し歩けば曲がり角がある。
 がんばれ、あそこまでは胸を張って歩け。
 がんばれ、あそこまでは涙をこぼすな。
 ご主人様にご心配をかけるな。
 これが最後のわたしのつとめ、最愛のご主人様への。

 …角を曲がる。瞬間、涙が堰を切って両目からあふれる。
 「ぐ、ぐっ くうううっ…」
 かみしめてもかみしめても口から嗚咽の声が漏れる。
 はたっ、はたっ…
 今日でもう着ることのない制服の胸に涙が音を立てて落ちる。
 前がよく見えない。
 わたしは道ばたの電信柱に片手をついて立ち止まる。
 「うぅ……うう……」
  ぽたっ ぽたっ…
 アスファルトの上に涙が落ちる。

 わたしが本当のご主人様に巡り会えた一夜。
 そして別れの一夜。
 わたしが本当のご主人様に愛された一夜。
 そして別れの一夜。

 わたしが本当に生きることができた一夜。
  そして別れの一夜。

 その一夜があけ、わたしはもうすぐ消えてしまう。 

 涙が、涙が、涙が止まらない。

 ばかだ。
 わたしはばかだ。
 ロボットの分際で。
 機械の分際で。
  作り物の体ににせもののこころを詰め込んだおもちゃの分際で。

 いったいこれ以上の何を望む資格があるというの。
  悲しむ資格も涙を流す資格もありはしない。
 わたしは人間じゃないのだから。
 わたしはロボットなのだから。
  そんなことはわかっている。
 わかっている。
 わかっている。
  だけど……

 『マルチはマルチだからな…』
 
 ご主人様…ご主人様…
 「ううっ… …うっ… うっ…」


 ぽんっ

 肩を叩かれたわたしは、はっと振り返る。まさかご主人様では…

 「…マルチ、気は済んだか?」
 「あ、長瀬主任。」
 あわててわたしは頭を下げた。そこに立って優しい笑顔をわたしに向けてくれていたの
はわたしの開発チームの主任、長瀬源五郎さんだった。
  ごしごし…
 制服の袖で涙を拭う。急いで笑顔を作る。

 ぺこり…
 深々と頭を下げる。
 「は、はい。あ、ありがとうございました。すばらしい思い出ができました。」
 「…そうか。さ、行くか。…みんなが待っている。」
 「…はい。どうもありがとうございました。開発スケジュールをむちゃくちゃにしてし
まって…本当に申し訳ございません。」
 「なに、そんなものはどうにでもなるさ。しかし、今日もいい天気だねえ」
 わたしもその声につられて空を見上げる。朝まだ早い春の空。少しかすんだような青空
は少し雲を浮かべていたが、おだやかな一日の始まりを感じさせる。おだやかな一日、そ
してわたしの最後の日。
 「そうですね。しっかり覚えていたいです…。」
 覚えていてもわたしはもう思い出すことはないのだけれど。
 「長瀬主任。わがままを言って申し訳ありませんでした。直ちにデータを回収して、わ
たしの体を次のわたしに回して下さい。」
 「…うむ。そうだな。とりあえずみんなのところへ行こう。」

 長瀬主任はわたしを連れて角に止めてあった来栖川電工サービスセンターのロゴの入っ
たバンに向かった。

 カチ… グロロロ… 
 ゆっくりとバンが動き出す。
 ご主人様の家が遠くなる。わたしの夢が遠くなる。

 …さよなら。ご主人様。

 


 

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