純白の「彼女」
〜画廊 峠の茶屋 寄贈作品〜
私の聴覚は大したことはない。
普通の人より少し良いくらいだ。
彼女にしても、同程度だと思う。
でも、この静かな世界の中なら、何でも聞こえるような気がした。
「………」
風が木を撫でる音。
時おり聞こえる、車の音。
私と彼女の微かな呼吸の音。
それは目まぐるしく過ぎた今日という日の終わりには、とても心地よかった。
「―時間です」
私は目を開けて呟いた。
キーンコーンカーンコーン…
チャイムの音だ。
彼女の通っていた学校は、毎日この時間に下校の合図としてチャイムを鳴らす。
「あ…」
同じく目を開けた彼女も、その音を聞いたのだろう。
少し驚いた顔をして、私を見ている。
「知りませんでした…こんなところまで聞こえてくるんですね…」
その目は遠く、彼女の学校へ向けられていた。
彼女にとって本当に大切な場所からの、贈り物。
彼女が見ている先には、きっと懐かしい思い出が広がっているのだろう。
「何だか懐かしいですね。あの学校に通っていた頃のことが遠い昔のようです…」
その思い出に向かって、彼女は優しく優しく微笑んだ。
「―私、このチャイムをいつもバス停で聞いていました」
「え?」
彼女は私の方を見た。私も彼女の目を見て話す。
「―このチャイムが聞こえると、もうすぐマルチさんに会えるんだって思いました。だから、この音を聞くと何だか嬉しくなるんです。今日一日起こったことを、マルチさんが話してくださるのがとても楽しみでした。バスの中、バス停からこの研究所までの帰り道…マルチさん、たくさんお話してくれましたよね」
「そうでしたね…わたし、セリオさんを待たせてばかりでしたね」
確かに、彼女はいつも同じ時間にはバス停には来なかった。
その度に、私は帰りのバスを見送っていた。
一人で帰ろうとは、思えなかった。
彼女が方向音痴なのもあったけれど…
「―マルチさんはきっと学校で、私が出来なかった経験をたくさんされたんだと思います。だからいいんですよ」
私は彼女に微笑みかけた。
笑顔を教えてくれたのも彼女だ。
ひゅうぅぅ…
不意に冷たい風が辺りを騒がせた。
私はこの季節らしい冷え込みを感じながら、彼女が身を震わせたのを見逃さなかった。
「―マルチさん」
私は一声かけると、肩に羽織っていたストールを外して、彼女に近づけた。
「あっ、いいです!セリオさんが着ててください!」
彼女は慌てて制したが、私は構わずストールを彼女にかけた。
「セ、セリオさん…」
私は、寒くないようにと彼女の肩にストールを巻きつけた。
彼女の小さな体にはきっと、これは暖かいだろう。
「―マルチさん、お願いですからせめて今日だけは、ご自分の事だけ考えてください。今、体を壊されたりしたら私が浩之さんに会わせる顔がありません」
「…セリオさん…ありがとうございます…」
彼女は観念したのか、そのままストールを抱きしめるように抑えた。
「浩之さん、今頃どうされてるでしょうね」
彼女は大切な人の名前をいとおしそうに呟く。
「―そうですね…今日の私達のように、準備でお忙しいかもしれませんね」
「ですよね…わたし、お手伝いして来ようかな…」
今、きっと彼女の頭の中はその人のことで一杯なのだろう。
でも、それは無理も無いことだ。
「セリオさん、隣入りません?」
彼女が笑顔でストールを半分差し出した。
私は少し考えた後、そっと身を寄せた。
二人で入るには少し小さかったけれど、一人で使っていた時よりずっと暖かかった。
「あったかいですね…」
「………」
いつの間にか、西の空は真っ赤に染められていた。
「夕暮れは、セリオさんの色ですね」
「―私の色、ですか?」
彼女の言葉に、私は問い返した。
「はい。夕暮れはいつも、学校帰りのセリオさんと一緒にいました。セリオさんの髪に真っ赤な日が当たって、とてもきれいだなって思いました」
「………」
「だから、夕暮れの赤はセリオさんの色だなって思うんです」
そう言って、彼女は私に優しく微笑みかけた。
この優しい笑顔は、今も昔も変わることはない。
彼女以外の誰も持っていない、彼女の宝物だと思う。
「―マルチさんは、夕焼けの中でいつも笑顔でした」
「はい…わたしは笑顔が一番だって浩之さんが言ってくれましたから」
「―そうですか」
私はさらに、彼女に身を寄せた。
数分間、そうやって身を寄せ合った後、ふと私が切り出す。
「―いよいよ明日、ですね」
「はい」
「―マルチさんは、不安ではないのですか?」
「どうなんでしょう…。でも今、すごくドキドキしています」
確かに、寄せ合った彼女の体からは、大きな鼓動を感じた。
きっと、これは幸せな鼓動なんだと思う。
明日幸せが生まれることへの、不安と…希望。
私はきっと大丈夫だって思う。
「…セリオさん」
彼女は押し殺したような声を立て、すっと立ち上がる。
その拍子に、ストールは肩から滑り落ちる。
「―どうしました?」
私はそれを拾い上げ、同じように立ち上がる。
彼女は後ろを向いていて、私からは顔は見えない。
「…セリオさん…わたし、セリオさんにたくさん助けてもらいました」
「………」
「いつだってセリオさんは、わたしと一緒にいてくれました。本当に嬉しかったです…」
それは私だって同じことだ。
彼女にたくさんの思いやりをもらった。
たくさんの事を教えてもらった。
「不出来な姉だったかもしれませんけど…」
そんなことはない。
最高のお姉さんだと思っている。
そして彼女は、振り返って笑った。
目には涙が溢れている。
「セリオさん、今まで本当にお世話になりました。ありがとうございました!」
そう言って、彼女はぺこっと頭を下げる。
私ももう、我慢できなかった。
「―マルチさん…!」
私は彼女に抱きついた。
体の中から何かがこみ上げてきた。
「セリオさん…セリオさんは最高の妹でしたよ…」
「―マルチさん…!マルチさんはこれからも私のお姉さんです…世界で一番の最高のお姉さんです…」
寂しい夕暮れの中。
冷たい風はいつの間にか止んでいた。
私は…私達はもうすぐ春が来ることを知っている。
「―マルチさん…どうか…幸せになってくださいね…」
私の目からも涙がこぼれ落ちる。
知らなかった。
嬉しいときにも涙が出るんだ…。
彼女にまた一つ、教えてもらった。
「ありがとう…ありがとう…セリオさん…」
冬の景色は寂しいけれど。
降り注ぐ夕陽は暖かくて。
私達は感じていた。
私達は、家族であること。
いつでも一緒にいて、思いやれる家族であること。
………
「マルチちゃん、おめでとう!」
「浩之君、マルチ大事にしろよ!」
次の日、彼女は純白の中にいた。
「ぐすっ…皆さん、ありがとうございます〜」
すでにもう、涙で一杯だ。
あれだけの涙を体のどこにしまっていたのだろうかと思う。
彼と彼女の、結婚式。
二人のことを本当に大切に思う人達だけが集まっての、小さな結婚式。
「―浩之さん…マルチさんのこと、よろしくお願いします」
私は彼と彼女の前に立つと、深々と頭を下げた。
「ああ。これからもよろしくな、セリオ」
彼は優しく私に微笑みかけてくれた。
「―マルチさん、おめでとうございます。…とってもおきれいですよ」
「うう、セリオさん〜…ありがとうございますぅ…」
彼女の涙は止まらない。
でもそれは、幸せの涙だ。
それにこれからは、彼がいつでも彼女のそばにいる。
「―マルチさん、皆さんが呼んでますよ」
「は、はい〜」
「じゃあ行くか、俺とマルチの結婚式のクライマックスだ!」
彼女は涙を拭いて、彼は彼女を抱き上げて…
二人は小さな教会の階段を登っていく。
「おめでとう!」
パーン!
パーン!
クラッカーが高らかに鳴る。
色とりどりの紙テープの中で、彼も彼女も私達も、幸せに笑っていた。
「セリオさん!」
不意に、彼女が私の名を呼んだ。
その小さな腕一杯に、真っ白な花束を持っている。
「…それっ!」
彼女が腕を懸命に振り上げると、ブーケはふわっと空に舞った。
まるで、白い妖精が飛んでるかのようだった。
ブーケはきれいな放物線を描き、私の方へ飛んできた。
ふわ…
ブーケは私の腕の中に舞い降りた。
「セリオさん!それ受け取ってくださいね!」
「―マルチさん…」
これは、彼と彼女、そして私達みんなの幸せのお守りだ。
「おっ、次はセリオかぁ!?」
「浩之君はダメだぞ!」
声が飛び交う。
私は彼女に微笑みかけた。
彼女も私に微笑み返した。
純白のウェディングドレスの中、優しく微笑む彼女はまるで天使のようだった。
「―マルチさん、お幸せに…」
〜Fin〜
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