純白の「彼女」

〜画廊 峠の茶屋 寄贈作品〜



 私は外に出てみた。
 特に用事があったわけではない。
 しかし、外の風にでも当たらなければこの体の火照りを抑えることが出来そうもなかったからだ。

 外は予想通りの光景だった。
 寂しい冬の夕暮れの景色、冷たい風。
 見る者をどことなくもの悲しい気持ちにさせる風景だ。
 だけど、私はもうすぐ春が来ることを知っている。

「―ふう…」

 私は玄関口の階段に腰掛け、風に身を委ねる。

 なぜこんなにも落ち着かないんだろうか。
 彼女がいなくなってしまうわけではないのに。
 それとも、嬉しいのだろうか?

 意味もなく、時計を見てみる。
 手首には彼女とお揃いの腕時計が巻きついている。
 入学の前夜、もらったものだ。
 私達に時計など必要無いのに…

 ふと、気配を感じて後ろを向く。
 研究所の玄関の扉が開いており、そこに彼女がいた。
「…寒いですね」
 屋内との温度差に驚いたのだろう。彼女は少し身を震わせた。
「でも、気持ちいいです」
 そう言って、彼女は私と同じように風に身を委ねる。
 …そうだ、きっと今一番心がざわついているのは彼女なのだろう。
「セリオさん、横座っていいですか?」
 彼女は無邪気な笑顔で私に笑いかける。
 私は一つ頷くと、彼女のために場所を空ける。
「ありがとうございます」
 彼女は静かに私の側に腰掛ける。
 冷たい空気の中、彼女の温もりがふっ、と動いたのが分かった。

「―マルチさん、ご準備の方は?」
 視線を夕焼けから放さずに、私は話しかけた。
 まだ日は短く、この時間になるともう薄暗くなってくる。
「ほぼ終わりました。後は長瀬主任がやってくださるそうです」
「―そうですか」
 それっきり、会話は途切れてしまう。
 話すことはいくらでもあった。
 でも、この寂しい風景の中では、沈黙は良く似合うと思う。
 彼女もそれを感じ取っているのだろうか。

「セリオさん、あの…」
「―マルチさん」
 私は沈黙を破ろうとした彼女を遮った。
 あることを思い出したからだ。
「―少し…耳を澄ませてみませんか?」
「えっ?あ、はい…」
 私は視線を夕焼けに戻した後、目を閉じた。
 数秒後、彼女も同じようにしたことが何となく分かる。



 私の聴覚は大したことはない。
 普通の人より少し良いくらいだ。
 彼女にしても、同程度だと思う。
 でも、この静かな世界の中なら、何でも聞こえるような気がした。
「………」
 風が木を撫でる音。
 時おり聞こえる、車の音。
 私と彼女の微かな呼吸の音。
 それは目まぐるしく過ぎた今日という日の終わりには、とても心地よかった。
「―時間です」
 私は目を開けて呟いた。

キーンコーンカーンコーン…

チャイムの音だ。
彼女の通っていた学校は、毎日この時間に下校の合図としてチャイムを鳴らす。

「あ…」
 同じく目を開けた彼女も、その音を聞いたのだろう。
 少し驚いた顔をして、私を見ている。
「知りませんでした…こんなところまで聞こえてくるんですね…」
 その目は遠く、彼女の学校へ向けられていた。
 彼女にとって本当に大切な場所からの、贈り物。
 彼女が見ている先には、きっと懐かしい思い出が広がっているのだろう。
「何だか懐かしいですね。あの学校に通っていた頃のことが遠い昔のようです…」
 その思い出に向かって、彼女は優しく優しく微笑んだ。

「―私、このチャイムをいつもバス停で聞いていました」
「え?」
 彼女は私の方を見た。私も彼女の目を見て話す。
「―このチャイムが聞こえると、もうすぐマルチさんに会えるんだって思いました。だから、この音を聞くと何だか嬉しくなるんです。今日一日起こったことを、マルチさんが話してくださるのがとても楽しみでした。バスの中、バス停からこの研究所までの帰り道…マルチさん、たくさんお話してくれましたよね」
「そうでしたね…わたし、セリオさんを待たせてばかりでしたね」
 確かに、彼女はいつも同じ時間にはバス停には来なかった。
 その度に、私は帰りのバスを見送っていた。
 一人で帰ろうとは、思えなかった。
 彼女が方向音痴なのもあったけれど…
「―マルチさんはきっと学校で、私が出来なかった経験をたくさんされたんだと思います。だからいいんですよ」
 私は彼女に微笑みかけた。
 笑顔を教えてくれたのも彼女だ。

ひゅうぅぅ…

 不意に冷たい風が辺りを騒がせた。
 私はこの季節らしい冷え込みを感じながら、彼女が身を震わせたのを見逃さなかった。
「―マルチさん」
 私は一声かけると、肩に羽織っていたストールを外して、彼女に近づけた。
「あっ、いいです!セリオさんが着ててください!」
 彼女は慌てて制したが、私は構わずストールを彼女にかけた。
「セ、セリオさん…」
 私は、寒くないようにと彼女の肩にストールを巻きつけた。
 彼女の小さな体にはきっと、これは暖かいだろう。
「―マルチさん、お願いですからせめて今日だけは、ご自分の事だけ考えてください。今、体を壊されたりしたら私が浩之さんに会わせる顔がありません」
「…セリオさん…ありがとうございます…」
 彼女は観念したのか、そのままストールを抱きしめるように抑えた。
「浩之さん、今頃どうされてるでしょうね」
 彼女は大切な人の名前をいとおしそうに呟く。
「―そうですね…今日の私達のように、準備でお忙しいかもしれませんね」
「ですよね…わたし、お手伝いして来ようかな…」
 今、きっと彼女の頭の中はその人のことで一杯なのだろう。
 でも、それは無理も無いことだ。

「セリオさん、隣入りません?」
 彼女が笑顔でストールを半分差し出した。
 私は少し考えた後、そっと身を寄せた。
 二人で入るには少し小さかったけれど、一人で使っていた時よりずっと暖かかった。
「あったかいですね…」
「………」
 いつの間にか、西の空は真っ赤に染められていた。
「夕暮れは、セリオさんの色ですね」
「―私の色、ですか?」
 彼女の言葉に、私は問い返した。
「はい。夕暮れはいつも、学校帰りのセリオさんと一緒にいました。セリオさんの髪に真っ赤な日が当たって、とてもきれいだなって思いました」
「………」
「だから、夕暮れの赤はセリオさんの色だなって思うんです」
 そう言って、彼女は私に優しく微笑みかけた。
 この優しい笑顔は、今も昔も変わることはない。
 彼女以外の誰も持っていない、彼女の宝物だと思う。
「―マルチさんは、夕焼けの中でいつも笑顔でした」
「はい…わたしは笑顔が一番だって浩之さんが言ってくれましたから」
「―そうですか」
 私はさらに、彼女に身を寄せた。

 数分間、そうやって身を寄せ合った後、ふと私が切り出す。
「―いよいよ明日、ですね」
「はい」
「―マルチさんは、不安ではないのですか?」
「どうなんでしょう…。でも今、すごくドキドキしています」
 確かに、寄せ合った彼女の体からは、大きな鼓動を感じた。
 きっと、これは幸せな鼓動なんだと思う。
 明日幸せが生まれることへの、不安と…希望。
 私はきっと大丈夫だって思う。

「…セリオさん」
 彼女は押し殺したような声を立て、すっと立ち上がる。
 その拍子に、ストールは肩から滑り落ちる。
「―どうしました?」
 私はそれを拾い上げ、同じように立ち上がる。
 彼女は後ろを向いていて、私からは顔は見えない。
「…セリオさん…わたし、セリオさんにたくさん助けてもらいました」
「………」
「いつだってセリオさんは、わたしと一緒にいてくれました。本当に嬉しかったです…」
 それは私だって同じことだ。
 彼女にたくさんの思いやりをもらった。
 たくさんの事を教えてもらった。
「不出来な姉だったかもしれませんけど…」
 そんなことはない。
 最高のお姉さんだと思っている。

 そして彼女は、振り返って笑った。
 目には涙が溢れている。

「セリオさん、今まで本当にお世話になりました。ありがとうございました!」
 
 そう言って、彼女はぺこっと頭を下げる。
 私ももう、我慢できなかった。

「―マルチさん…!」
 私は彼女に抱きついた。
 体の中から何かがこみ上げてきた。
「セリオさん…セリオさんは最高の妹でしたよ…」
「―マルチさん…!マルチさんはこれからも私のお姉さんです…世界で一番の最高のお姉さんです…」

 寂しい夕暮れの中。
 冷たい風はいつの間にか止んでいた。
 私は…私達はもうすぐ春が来ることを知っている。

「―マルチさん…どうか…幸せになってくださいね…」
 私の目からも涙がこぼれ落ちる。
 知らなかった。
 嬉しいときにも涙が出るんだ…。
 彼女にまた一つ、教えてもらった。
「ありがとう…ありがとう…セリオさん…」

 冬の景色は寂しいけれど。
 降り注ぐ夕陽は暖かくて。
 私達は感じていた。
 私達は、家族であること。
 いつでも一緒にいて、思いやれる家族であること。

 ………

「マルチちゃん、おめでとう!」
「浩之君、マルチ大事にしろよ!」

 次の日、彼女は純白の中にいた。
「ぐすっ…皆さん、ありがとうございます〜」
 すでにもう、涙で一杯だ。
 あれだけの涙を体のどこにしまっていたのだろうかと思う。

 彼と彼女の、結婚式。
 二人のことを本当に大切に思う人達だけが集まっての、小さな結婚式。

「―浩之さん…マルチさんのこと、よろしくお願いします」
 私は彼と彼女の前に立つと、深々と頭を下げた。
「ああ。これからもよろしくな、セリオ」
 彼は優しく私に微笑みかけてくれた。
「―マルチさん、おめでとうございます。…とってもおきれいですよ」
「うう、セリオさん〜…ありがとうございますぅ…」
 彼女の涙は止まらない。
 でもそれは、幸せの涙だ。
 それにこれからは、彼がいつでも彼女のそばにいる。

「―マルチさん、皆さんが呼んでますよ」
「は、はい〜」
「じゃあ行くか、俺とマルチの結婚式のクライマックスだ!」
 彼女は涙を拭いて、彼は彼女を抱き上げて…
 二人は小さな教会の階段を登っていく。

「おめでとう!」

パーン!
パーン!

 クラッカーが高らかに鳴る。
 色とりどりの紙テープの中で、彼も彼女も私達も、幸せに笑っていた。

「セリオさん!」
 不意に、彼女が私の名を呼んだ。
 その小さな腕一杯に、真っ白な花束を持っている。

「…それっ!」

 彼女が腕を懸命に振り上げると、ブーケはふわっと空に舞った。
 まるで、白い妖精が飛んでるかのようだった。
 ブーケはきれいな放物線を描き、私の方へ飛んできた。

ふわ…

 ブーケは私の腕の中に舞い降りた。

「セリオさん!それ受け取ってくださいね!」
「―マルチさん…」
 これは、彼と彼女、そして私達みんなの幸せのお守りだ。

「おっ、次はセリオかぁ!?」
「浩之君はダメだぞ!」
 声が飛び交う。

 私は彼女に微笑みかけた。
 彼女も私に微笑み返した。

 純白のウェディングドレスの中、優しく微笑む彼女はまるで天使のようだった。

「―マルチさん、お幸せに…」

                    〜Fin〜

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