朱夏の里 〜 第一章 〜






こぉーかーお、こーかーおー
どーのーこーが、ほーしーいー
あーのーこーが、ほーしーいー
なーにを、きーせーてー
きんきらいーしょお、きーせーてー
なーーにを、かーせーてー
さーどーごーつー、かーせーぎー
なーんまーい、かーせーてー
はーらーいっぺー、かーせーぎー
にーげーーや、にーげーやー

(遠野わらべ唄『こかお』より)





「もういいっ!お前になんか頼まん!」

 突然の大声に驚いて、思わずそちらを振り向いていました。
 ホールに残る響きの中を、肩を怒らせながらこちらへズンズンと戻ってくる浩之さん。そんな姿が目に入ります。
 そしてその後ろでは、先程まで浩之さんとお話ししていたホテルのカウンターの方が、申し訳無さそうに頭を下げている様子が見えました。

 それまで座っていたふかふかのソファーから、私は腰を上げました。
 目の隅には、とても豪華で虹の様にきらびやかな彩りが、今でもチラチラと垣間見えています。
 県下一番。そう言われている、高い高い天井からの、とっても大きなクリスタルシャンデリア。
 そんな浮かれていた気持ちが、次第に萎んでくるのを私は感じていました。

「なあに?あれ」
「ちょっと、こっちに来るわよ」

 周りの方々からも、そんな声が上がります。
 先程までのニコニコとした表情が一変して、心配そうに事の成り行きを見守っている様子が、私にもよく分かりました。

「マルチ、行くぞ!」

 目の前に来ると同時に浩之さんはそう言って手を取ると、少し強引に促します。
 「は、はい」と返事をしながら、引かれるがままに私はその場を後にしました。
 浩之さんに向けられていた視線が私へと移るのを感じて、思わず顔を逸らします。
 その瞬間、大きくキラキラとした輝きが目の中へ一杯に映ったかと思うと、まるで幻の様に視界から消えてゆきました。
 私は再び、外の明かるい日差しの下へと戻っていました。

「くそっ!くそっ!あの石頭め!客を何だと思ってやがんだ!」

 手を引き続けながら、浩之さんはそうした言葉を繰り返します。私は、歩調を合わせるのに精一杯でした。
 それでも頭では考えていました。そして、何となくですが私には想像が出来ました。
 相変わらずグイグイと引っ張り続ける浩之さん。また歩調が乱れそうになります。

「浩之さん。浩之さん。あまり強く引っ張らないでください。痛いです」
「え?!…あ、ああ……」

 ようやく気付いてくださると、直ぐに足を緩めて、スッと私の手を離します。
 ホッとしてそのまま見上げると、息を荒くし、困惑した表情の浩之さんと目が合いました。けれども慌てて顔を逸らすと、背中を向けてそのままスタスタと歩きはじめます。
 その姿に、私は自分の考えが的中した事を知りました。けれども、結局は黙ってそのまま後に付いていきました。
 何処に行くアテが有る訳でもありません。ただ黙々と、二人していつまでも歩き続けます。そんな気まずい雰囲気のまま、時間だけがゆっくりと流れました。
 …どの位、そんな事を続けていたでしょうか。
 たまらなくなって、私は再び浩之さんに声をかけました。

「浩之さん。一体何があったのですか?」
「………………………」
「何か困った事ですか?私で、お力になれる事はありませんか?」
「………………………」

 分かってはいても、やはりそう聞いてしまいます。
 そして返ってくるのはいつもと同じ、沈黙だけでした。
 こうした時の浩之さんは、何を尋ねても答えてくれません。それも分かっていましたし、以前の私なら同じ様に黙ったままだったと思います。
 でも、今は……

 私は、尚も浩之さんに話しかけていました。
 二人で交わした大切な、とても大切な、その事を思い出しながら。

「浩之さん。前に、私と約束してくださった事を覚えていますか?」
「………………………」
「あの時と今とは、きっと同じなんだと思います。私の事で、浩之さんにはご迷惑をおかけしてしまって……」
「それはマルチのせいじゃ無い!何度言ったら分かるんだ!」

 突然足を止め、振り向きざま真正面から私を見据える浩之さん。険しくて真剣な眼差しが、ズキッと私の心に痛みをもたらします。
 やがて、浩之さんは再び背を向けると、さっきよりも早足で歩き始めました。
 私は慌ててその後を追いかけます。そして、理解していました。
 それは心の底から心配してくださっている、浩之さんならではの優しい表情なんだって事を。
 そして、そんな気持ちが必要以上に浩之さんを苦しめているという事も。

「話してください。お願いします」

 ……だからといって、それに心を捕われ過ぎてはいけない。二人共がそうなったら、そこからは抜け出せなくなってしまう……

「浩之さん、お願いします」

 ……だからこそ、そうならない為にも、落ち込んだ一方をもう一方が上手く支えていける様にしよう。
 そうすれば、片方だけが心を痛める事も無く、二人してうまくバランスを保ちながら、オレたちは何とかやっていける……

「お願いします。浩之さん!……それとも、もう忘れてしまわれたんですか?」

 ……頑張ろう。二人して。
 そして、こんなオレたちを応援してくれた、皆の気持ちに応える為にも……

「……忘れる訳ねえよ」
「え?」

 目の前でピタッと足を止める浩之さん。
 それがあまりにも急だったものですから、私は突進する様にボフッっと浩之さんにぶつかると、その勢いのまま抱きつく様に顔を埋めていました。
 それでも、言葉は続いていました。

「忘れる訳がねえ。二人で一緒に約束した事だ。しかもその後、指切りまでしたじゃねえか」

 私の失態を気にする様子も無く、そう言ってくださる浩之さん。
 慌てて一歩離れながら、そのまま私は見上げていました。
 こちらを振り向いてくれる浩之さんの姿がそこにはありました。それは、いつもの優しい笑顔の浩之さんでした。

「あ、ありがとうございます」

 そんな言葉が、自然と私の口から出ていました。
 よかった。いつもの浩之さんに戻ってくれた……けど、そう思ったのはほんの束の間でした。
 長い間、一緒に暮らしていた私には分かります。そうした笑顔の中に見せる、一抹の悲しげな表情を。…そして、その意味する所を理解した瞬間、同じ悲しみが私の中に一気に溢れ出して涙が込み上げてきます。
 いけない!浩之さんにこんな顔を見せたら、また心配されてしまいます。静まれ静まれ!泣いては駄目です。
 …でも、そう思えば思う程ポロポロと涙が溢れて止まりません。やがては鼻までがグシュグシュと音を立てはじめました。
 ハンカチ、ハンカチは何処でしょうか。それかチリガミでもいいんですけど。
 パタパタと自分の服のポケットをまさぐっていると、浩之さんの手がスッと伸びてきました。

「ほら、ハンカチ。普段からちゃんと持ってろよ」
「あ゛…あでぃがど〜ございまず〜」

 私は浩之さんからハンカチを受け取ると同時に、チーンとばかりに大きな音を立てていました。そして濡れていない部分で涙もふき取ります。
 それにしても、私ってどうしてこんなにも涙脆いんでしょうか。映画で感動したり、悲しいドラマを見たり、そしてこうした事があったりと気持ちが満たされる度に、浩之さんから毎回ハンカチを借りている様な気がします。

「本っっ当、お前って笑っちゃう位涙もろいよな〜。おかげでハンカチ、チリガミの携帯が欠かせなくなっちまったぜ全く…」
「ず、ず、ずびばぜ〜ん。ほんどうにずびばぜ〜ん」
「いいからいいから。それが収まるまではもう何も言うな。チリガミも山ほどあるから好きなだけ使っていいからな」
「は、はい゛〜」

 返事と同時にチリガミも貰いながら、ひたすら鼻をかみ続けます。そして、そんな私の頭を撫でてくれる温かい手を感じながら、再び一度浩之さんを見上げていました。
 先程までの悲しい表情は、すっかりと消えていました。
 ホッとした気持ちと共に、また涙が込み上げてきます。けれども、今度はそれを何とかこらえました。
 泣いてばかりでは駄目です。私も強くならなければ…。
 鼻をすすり上げながらも、私はようやく浩之さんに笑顔を返していました。




◇      ◇      ◇



 カタタン……カタタン……

 単調なリズムが繰り返されるローカル線の中、私は車窓からの景色を眺めていました。
 大きく広がる水田や畑。その中にポツポツと点在する雑木林や民家が立ち並んでいて、深緑に覆われた小高い山々がポコポコと膨らむ様に背後にそびえている……そんな、のどかな眺めがどこまでも続いています。
 そして、列車の騒音をかすめるかの様に聞こえてくる蝉の声。やっぱり夏なんだなって改めて思います。
 私は何となくウキウキしていました。こうした景色は大好きですし、見ていて飽きる事がありませんから。
 やがて、列車はゴーッとトンネルに入りました。車窓には自分の顔が映ります。
 何だかポヤーっとした表情だなって思って、キリッとしてみたり、反対にニヘラーっとしてみたりします。端から見たら、とってもお馬鹿さんに見えるかもしれません。
 そんな事をしていると、やがてトンネルを抜けて再び同じ田園風景が姿を現わしました。

『日本のこうした田園風景って、何処行っても大して変わらねーのな』

 以前、二人で京都旅行へ出た時に、新幹線の車窓からそう言っていた浩之さんの言葉が思い出されます。その言い方が可笑しくて、私は『そうですねぇ』とクスクス笑っていた事も…。
 でも、こうして初めての土地を眺めていると、そうでも無いのかなあと今は感じます。
 それは人の表情に似て、こうした田畑や雑木林や、そして小高い山の表情が、土地によってそれぞれ違っている様に思えるんです。
 上手くは説明できませんけど、新幹線からの風景はとても柔らかく見えたのに比べて、こうした東北の風景は何処となく硬い……そんな、感覚みたいなものでしょうか。
 季節は夏なのにも関わらず、もう今から冬に向けての準備をしている様な感じがして、私は蟻とキリギリスのお話しを何となく思いだしていました。

「……んん?…なんだもう着いたのか?」

 突然、向いに座っていた浩之さんが眠たそうにそんな事を聞いてきます。
 寝ぼけてらっしゃるんでしょうか。私は笑いながら応えました。

「まだですよ〜。到着まではあと七駅もありますから、まだお休みしててください」
「ん〜〜?そうなのか〜?…じゃあ、着く前にはちゃんと起こしてくれよな……」
「はい、任せてください」

 私がそう応えた頃には、浩之さんはもう窓側にもたれて軽いいびきを立てていました。
 その姿が何だかとても可愛いくて、ついクスクスと笑ってしまいます。
 そんな私に、相変わらず幸せそうな寝顔を見せてくれる浩之さん。さっきまでの緊張した様子が、まるでウソだったかの様に今は思えます。
 私は、再び窓の外に目を向けていました。


 あれから二年…
 浩之さんの所に戻れてから、それだけの月日があっという間に過ぎていました。
 もう二度と会えない……そう思いながら深い眠りについた私が再び目覚めた時、心から会いたかった浩之さんが目の前に立たれていた時のその嬉しさは、今でも本当に忘れる事が出来ません。
 ああ、ここに戻ってこれたんだ………そうした安堵と共に、こんなにも心の底から感謝出来る気持ちを、この時私は初めて知った様に思います。
 これからはいつでも一緒に居たい。浩之さんのお役に立ちたい。そんな私の我がままを、全て受け入れてくださった浩之さん。
 その事を心から祝福してくださった長瀬主任さんや研究室の皆さん。それと浩之さんの沢山のお友達の方々。
 そして、そんな私の存在を認めてくださった浩之さんのお父さんとお母さん。…そして、誰よりも温かい心をくださったあかりさん。
 皆さんからのそうした支えが無かったなら、今こうして浩之さんのお傍に居る事はきっと叶わなかったに違いありません。
 それ程に、私たち二人の生活には思いもよらぬ辛い事が待ち構えていました。

『馬鹿じゃねえのかこいつ?メイドロボットと腕なんか組んでやがんぜ』
『おーおー、メイドロボが恋人ってか?何処のボンボンだ?てめーはよ』
『あんたロボット?…へー、それでいて男連れかよ。随分と偉い身分じゃないの』
『機械のクセに態度デケーんだよ!』

 浩之さんと二人で、街へ遊びに出るという事…。
 たったそれだけと思う事が、いかに厳しく大変な事か、私は身をもって知る所となりました。
 何も知らずに浩之さんの腕につかまりながら街を歩いていると、見知らぬ方から突然、そうした言葉を投げかけられます。
 一体、何が起こったのか……初め私には全く分からなくて、それと恐さもあってただオロオロするばかりでした。
 そうした言葉に浩之さんは『おい!今何か言ったか!』と怒りを全身顕わにされて、それが元で掴み合いの喧嘩となる事もありました。その結果、警察の方のお世話になる事も少なくなかったんです。
 度重なるそんな経験から、私は自分の立場というものについて考えていました。何故こうなってしまうのか、その理由を知りたいと思いました。
 そして…私は、それを認めざるを得ませんでした。
 以前、長瀬主任さん……お父さんから聞かされていた、私の立場の事。
 それは、人間の方のお役に立ちたいとすればする程、これまで頑張ってこられた方々や、本来その場に在るべき方々の立場をも奪ってしまいかねないというものでした。

『…それは誰が良くて誰が悪いという簡単なものじゃない。…無論、こうして我々人間と容姿を同じくするメイドロボットが世に出てきた事で起こる問題には違いない。でもね、マルチ。それはお前たちがこの世に生を授かった事で受け入れなければならない運命の一つなんだ。そして、他の妹たちには無い、我々と全く同じ感情を持っているお前には尚更の事なんだよ。…生み出した側の私がこんな事を言うのは本当に身勝手で申し訳無く思っている。その事で恨まれても当然だとも感じているんだ……』
『あ、いえ、私はそんな事は………』
『いや、いいんだ。そういう事もあるんだとだけ今は覚えておきなさい。それとねマルチ。これも一つ教えておこう…』
『あ、はい』
『運命があらかじめ分かっているなら、それは変える事が出来る。少なくとも、私はそう信じている。もし、浩之君と二人で困難を感じる場合があっても、それは自分たち次第なんだという事をよく覚えておきなさい。私も出来る限りの力にはなるつもりだ。でも、最後には二人でどうしていくか、どうしていきたいかが一番大切なんだからね…』

 その意味を私が本当に理解出来るまでには、かなりの時間を要しました。どこかでこの現実を認めたくない、そんな気持ちが自分の中には常にあったからだと思います。
 そして、それは今でも変わっていないのかもしれません。
 それでも、その頃には私は浩之さんと一緒の外出を控える様になっていました。ご迷惑となるのは目に見えていましたし、そうした行動が周りの方の目に付くのなら、そうしなければいいのかなと考えたんです。
 でも、浩之さんはとても嫌がりました。

『何でオレたちがそんなコソコソしなきゃならねえんだ!誰に迷惑をかけてるって訳でもねーじゃねーか。だったら普段から堂々としていりゃいいんだ。くだらねえ中傷に耳を貸す必要なんてねえよ。第一、そんな奴ぁオレが黙っちゃいねえぜ!』

 いきり立つ浩之さんに、私は返す言葉を見つけられませんでした。浩之さんのそうした気持ちはとてもよく分かりましたし、…喧嘩は駄目ですけど、正直言って私も同じ気持ちだったんです。
 でも、現実に起っているそうした問題を無視していいという訳にもいきません。それに、そうした事で浩之さんが周りの方と摩擦を起されるのは、ロボットである私にとって耐えがたい事なんです。
 自分なりに色々と考えた末、私は浩之さんにそうした意思を伝えました。上手くは喋れませんでしたけど、浩之さんは最後まで聞いてくださいました。
 今は自分たちの正当性よりも、いかに上手く二人して生活していけるかを考えませんか…と。
 私は、目の前の生活を優先させた方が良いと考えていたんです。

『……お前はそれでいいのか?ロボットである事以外、人間と何ら変る所の無いお前なんだぞ?そんな不自由の中に、自ら身を置こうって言うのか?』

 私は黙って頷きました。
 そんな私を、浩之さんは黙ってしばらく見つめていましたが、最後には『…分かった。お前がそれでいいのならそうしよう』と言ってくださいました。
 私はホッとしていました。もしかしたら猛反対されるかなと覚悟もしていましたけど、思った以上にすんなり納得して頂けたのですから。
 多少の不便はあっても、それで浩之さんのお側にずっと居られるのなら……
 それに、浩之さんにとってもその方がきっと……


「んん〜〜〜?着いたのか〜〜?」

 ビクッ!
 突然の声に驚いて、そちらを振り向いていました。
 さっきと同じ様に、眠そうな顔を再びこちらに向けています。私に起こされている夢でも見ているのでしょうか?

「まだまだですよ。さっき聞かれてから次の駅にも到着していないです」
「そーなのか?もう十駅ぐらい通過しちゃったんじゃねーのか?」
「してないです〜。ちゃんと私が見張っているから大丈夫ですよ」

 ショボショボとした目のまま浩之さんは軽く笑うと、「じゃあ、ちゃんと見張ってろよな…」と再び窓側にもたれかかかります。
 そんな姿に、私は気になっていた事を思いだして口を開きました。

「浩之さん。行く先でのお宿なんですけど、本当に予約を取らなくて大丈夫なんですか?」
「ん〜?…あ〜〜、まあ何とかなるだろ。駄目なら駅のベンチに寝かせて貰おうぜ」
「私は構いませんけど、浩之さんがそれでは……」
「なーに、どうせ観光地だし泊まれねえなんて事はまずねえさ。最もさっきのホテルみてーに『申し訳ありませんが、メイドロボットの方と同室されるのはご遠慮申し上げております』なーんてのはこっちから願い下げだけどな」

 笑いながら気軽にそう言われる浩之さん。でも、正直私は心配していました。
 今日の事にしても、予約の際にこちらの希望を前もって伝えておいたのですから、こんな事が起る筈は無かったんです。
 けど、その後、私と同じ型のメイドロボットを伴ったお客さんが『こいつは介護用だ』と宿泊した際、実際には全く別の用途の為であって、その後周りの方に迷惑がかかる程無茶な事をされていたとかで………
 そんな目に遭わされていた同型の妹が、私は可哀想でなりませんでした。

「あのホテルの言い分も分からなくは無いのさ。けど、だからってこちらの事情を説明した上で予約した客を疎かにしていいってもんでもねえ。波風立てるつもりはねえけど、理を通すところはキチンと通さねえとな」

 心配が顔に出ていたのかもしれません。私は慌てて言いました。

「あの、私もそう思いますが、こうして浩之さんと一緒に外泊出来る折角の数少ない機会なのですから、あの、お宿が決まっていないと、その、…もしかしたら何処にも泊めて貰えないかなぁなんて最悪な……って…あっ!い、いえいえ今度こそはそんな事は無いと思いますけど…」
「…いいから少し落ち着けって」

 アタフタする私を見て、浩之さんは可笑しそうにしています。
 思った事が直ぐに顔に出てしまうこうした自分の性格を、私は時として恨めしく思う事がありました。説明下手ですし、それに加えてつい余計な事まで喋ってしまいますし…。

「さっきも言っただろ?別に宿にはこだわっていねえのさ。何ならその街でキャンプ用具一式買ったっていいんだ。初めっからそうすりゃあ良かったよな」
「す、すみません。私のせいで益々浩之さんにご迷惑をかけてしまって……」
「マルチ、それは言いっこ無しって決めただろ?」

 言葉を遮る少し厳しい声に気付いて、「そ、そうでしたすみません」と私は頭を下げていました。
 遜ったり、卑屈な言葉使いは全面禁止……それは、浩之さんとの約束事の一つでしたが、それでもうっかり破ってしまっている事が殆どでした。

「お前と一緒で、そして楽しければそれでいいのさ。他は特に望まねえよ。マルチはどう思ってる?」
「は、はい。…私も、浩之さんと一緒なのが一番いいです」
「よし!それで決まりだな。まあそんな所だ。てなわけで、もうひと眠りさせて貰うぜ。ちゃんと起こしてくれな」
「はい。任せてください」

 私の言葉にニコッとされると、浩之さんはそのまま背凭れて目を閉じました。その表情は、何だかホッとされている様子でした。
 私はそれを見つめながら、次の行き先が良い所であります様にと、心の中で祈らずにはおられませんでした。




◇      ◇      ◇



「美味い!お婆さんこれ美味いよ!」

 先程から一口含む毎に、そうした言葉を連発されている浩之さん。
 さすがに気になって、私は声を上げました。

「浩之さん。女将さんにそうした呼び方は失礼ですよ」
「…え?オレ何か悪い事言ったか?」

 ピタッと目の前で箸を止めると、器越しに驚いた表情を向けてきます。
 気付いてないのかなとは思っていましたけど、単刀直入にそう言われた事に私は少し驚いて、次の言葉を思わず失っていました。
 ポカンと無言のまま、浩之さんと見つめ合っているの図です。

「ワハハハハ、ええがらええがら。そりゃ婆あにゃ違ゃねえだものなあ」

 次の小鉢をお盆に乗せて戻ってきた女将さんは笑いながらそう言うと、気にする様子も無く浩之さんの傍らに両膝を付いてそれらを並べはじめました。
 絣の着物に割烹着を羽織り、少し小柄で白髪混じりのおばあさん。一言で表すと、そんな感じになるのでしょうか。
 でも、そんな見掛け以上に声がとっても良く通って、クルクルと元気で小まめに動く…というか働く姿がとても元気そうで、何だか見ているだけで楽しくなってくる様な、そんな凄く魅力のある方だなあと私は思っていました。

「ほれ、これも食ってみんね?婆あ特製のタレで味付けした鰻だんで、クセあるかもしんねげど、まあ試しだなス」
「あ、頂きます頂きます。どれどれ(…パク、モグモグ…)………うん!美味い!この濃い味わいが何とも美味いよ婆さん!」
「ひ、浩之さん!!」

 オロオロしていると、囲炉裏を挟んだ真向かいから豪快な笑い声が起りました。

「ガッハハハハハ、お嬢さん気にスねえ気にスねえ。そな事気にスる歳じゃねえだよごの婆あはよ」

 その言葉に、温厚な笑顔を浮かべていた女将さんの表情がサッと変ります。

「ンな事あねえ!おメに言われる程オラふけぢゃねえぞ!言っでええんはお客さんだげだ!」
「そ、そげな事位あで怒りなや〜。またこの前みでに血圧上がんべ?」
「このほでなす!ゲゲな事言ってんでね!それよりもオメー、酒はもうそのぐれえにスどけ。もう大酒出来る歳でもねーだがよ」
「普段からオラ相手に同じ大酒ぐらっどるオメが何言っとるだね。それにオメとは同級生だったがよ」
「フン!そげな昔のごた忘れただ!」

 そんな二人の姿を、私と浩之さんは互いに驚きの表情で眺めていました。
 まるで喧嘩をしている様にも見えますが、そうではありません。相手の方は森田平八さん。近隣にいくつもの田畑を持つ地主さんで、女将さんの森川トメさんとは夫婦という訳では無いのですが、こうしてトメさんの所によく泊まりに来ている幼なじみさんだそうです。
 お二人とも連れ合いの方を既になくされているとかで、昔からの幼なじみという事もあって自然と寄り合う様になったそうなんですが、平八さんからのプロポーズをトメさんが頑として受け入れてくれないとかで、さっきまで私と浩之さんにブツブツとこぼされていました。

「互いに老い先短い歳だがよぉ。こごらで一緒になっだでバツは当たらねと思うが?」
「何言っでるだが。先に手ぇ出しだオラの事振ってミヨちゃんばぐっづいたんは何処のどいづだ!…まーっだぐ昔っがらのそのスケベ癖は直らんな!」
「ンなこた言ったてもなあ。あの頃のオラは結構もてたでなあス。若けんだがら血気盛んはしょうが無かしょ?」
「ほげなこつばっがやっでっがら種馬の八なてあだ名付げられっだ!そのオメさが今はそのコ汚ねえジャージだが寝巻だがの格好スてオラとぐっつけだあ?冗談も休み休み言いなっス!」
「んだ事言っだてオメみてえに家ン中まで絣の着物なんぞ着てられんが。窮屈でたまらんと」
「んな事までは言っでねえ!もっとコ奇麗な格好してみろ言うとんだ!」
「…あ、あのー」

 思わず手を上げて合図を送ります。ハッとした様にお二人はそれに気が付くと、何とも気まずそうな顔をして互いに照れ笑いを作っていました。
 「おしょすぃ(恥ずかしい)よもお!」と女将さんはそのまま奥に引っ込んでしまい、後に残った平八さんは頭をポリポリと掻きながら「いやはや、みっどもねぇ所を…」と手酌でグイッと照れ隠しの様に飲み干しています。

「…終わったみてえだな……」
「…そうですねぇ〜………」

 嵐が過ぎ去った様な感じがして、私は茫然としたまま浩之さんに顔を向けました。
 同じ様に私を見つめている、茫然とした浩之さんの顔がそこにはありました。
 やがて、どちらからともなく吹き出していました。




◇      ◇      ◇



 私と浩之さんは、昔、旅館を営んでいたという森川トメさんの家にご厄介になっていました。
 東北の、四方を山に囲まれた盆地にある小さな街。そこに行くと決めたのは、『妖怪に会いに行こうぜ。ここからなら近いしさ』と浩之さんの一言からで、一時後には三陸からの列車にコトコトと揺られていました。
 柳田国男という作家さんの物語によって、全国的に有名となった『遠野』の地。
 その中心に位置する遠野駅に降り立った初めての印象は、本当に何も無い、物静かな所という感じでした。

『あっちゃー、小さい街とは聞いてたけど、これほどとはなー。一応観光地なんだから、駅前なら大きな宿ぐらいあるかと思ったけど…』
『浩之さん。とりあえずはお宿の方を探しましょう。宿泊案内所が近くにあると思いますで見つけてきます』
『あー待て待て。お前はここに残って待っていてくれ。この前みたいに迷子になられても困るし、オレ一人で探し回った方が早いからよ』

 言うと同時に駅の方へと戻り、駅員の方と二言三言会話をしたかと思うと慌ただしく私の前に来て『じゃな。ここに居ろよ』と念を押す様に告げると、そのまま街へと消えて行きました。
 そうした後ろ姿を見送りながら、私は少し悲しい気持ちに包まれていました。前の旅行で『任せてください!』とばかりに意気込んで宿泊場所を探しに出ながら、しっかり迷子になってしまってメソメソした事を思えばそれも当然なのかもしれませんが、本来お役に立つべき時なのに留守を言い渡される私って、やっぱりメイドロボット失格なんだと思います。
 それでも、初めての場所というのはやっぱりワクワクします。掃除の行き届いた駅舎やその駅前広場も素晴らしいです。
 そんな訳で、浩之さんには申し訳無いと思いながらも、早速私はその辺りをうろうろしてみる事にしました。
 駅舎の横に蒸気機関車があるのを見つけ、足を進めます。案内板を見ると、かつてこの路線を走っていた往年の機関車という事で、私はその周りをグルッと回ってみました。
 それは本当に小さな蒸気機関車でした。遊園地とかで見掛ける小型のSLを一回り大きくした程度のもので、こうした機関車が昔はここを走っていた事が何だかとても不思議に感じて、思わずしげしげと眺めてしまいました。
 周りに柵とかは無くて、子供たちが自由に乗り込んで『出発進行ー』と遊んでいます。私はそんな皆さんに向けて軽く手を振ってみました。
 運転台から元気良く手を振り返してくれる、小さな男の子や女の子。
 耳カバーからメイドロボットと気付いている筈ですが、その笑顔には変わらない無邪気さが光っています。私も笑顔を返しながら、そんな様子をしばらく眺めていました。
 やがて、わーっという掛け声と共に、全員が次の遊び場へと移動して行きました。
 その姿を見送りながら、一人残された私は再び駅前へと戻ります。浩之さんはまだ戻ってきていない様です。
 座って待っていようと思って、手近なベンチに腰掛けました。駅前の待ち合わせ場所として利用出来る簡易公園の中にあって、そこからは小さな作りの池が眺められます。
 そして、その中には一匹、そして二匹……と数えるのでしょうか?さらにもう一匹!
 頭にお皿を乗っけたカッパさんが、池の小島から悪戯そうな顔をしてこちらを見ています。
 マンガに出てくる様な愛敬さは無くて、本当に居るかもしれないと思えるリアルな雰囲気に、何だか背筋がゾクゾクするものを感じました。
 本当にこうした生き物が昔居て、しかも人の言葉を喋ったりしたのなら………きっと、かなり怖いんじゃないでしょうか。

『どこがら来なスっだ?』
『ひいっ!』

 思わず飛び上がっていました。も…もしかしてカッパさん?
 でも、それは違うと直ぐに分かりました。

『あんれ。何驚いてんだなス?』
『あ、あ、あの、あの……』
『そげな顔すんでねえよぉ。若え娘っこが迷子みてーに一人寂しそうにしでっから声を掛けたんだなっス。この辺りじゃ見掛げねえし、一人旅か思うでよお』
『あ、いいえ、ご主人さま……じゃなかった、浩之さんと一緒です。宿を探してくるから待ってろと言われたものですから』

 私はその方に事情を説明していました。
 手拭を頭に巻き付け、着古したモンペの様な農作業着姿のおばあさんでしたが、見事に日焼けしたその柔和な表情を向けながら、私の話す事をウンウンとうなずきながら聞いてくださいました。
 おばあさん……後に、元旅館の女将さんと分かりましたが、私の事を家出と思ったんだそうです。これまでにも何人か同じ様に声を掛けて、相談相手になってきたと語ってくださいました。

『そしだな事なら、この婆ん所に泊まるがええス。昔、これでも旅館やっどうだが、こん歳なっだもんで今は民宿兼自宅だが……っで、もう随分長い事だーれも来んがなス。まあ、それでも良かればの…』
『本当ですか?それはとっても嬉しいです。浩之さんが戻って来られたら早速………あ、でも、民宿なのにどうして誰も来ないんですか?』
『……聞ぎだいが?』
『は……はい……』

 おばあさんは突然ヒッヒッヒッと笑うと、目の前で両手をダラーンと下げて急に恨めしそうな顔をしました。

『………出るんだなス』
『え?で、出るって………あの………』

 再び、そして急激に背筋がゾクゾクとしてきます。そのせいか、後の言葉が出てきません。
 もちろん見た事はありません。でも、どんなものかは、浩之さんや研究所の方や皆さんからイヤという程一杯一杯聞かされていたのでよく知っていました。

『ウヂは昔がらの旧家での。だがら色々とあるんだなス。そらあ…ヒッヒッヒッ…毎晩が賑やがでよお………』

 さらにニヤーっとするおばあさんの顔。
 まるで金縛りにあった様に、その表情から目が離せません。足がガクガクしてしまって、逃げたいのに何故かうまく動きません。
 …私は……どうしたら……

『おーいマルチー、宿取れたぞ〜。一応旅館で部屋は狭いんだが……ってあれ?どうしたんだ真っ青な顔して。…それとこちらの方は?』
『ひっ、ひっ、ひっ、ひっ、ひっ』
『??本当にどうした?昼間っからお化けでも見たのか?』
『ひっ!浩之さん!浩之さあ〜〜〜んん!!』

 我を忘れて、思いきり浩之さんに飛び付いていました。




◇      ◇      ◇



「アハハハハハ。いやいやあん時はすまねがったなス。ほんの冗談のづもりだったが、まんずあんな驚ぐな思やせんものなあ」
「全ぐトメっちゃのそしたな所ば昔のままだなあ。オラの方からも謝っがら、どうか許してけろな?」
「あ、いえいえいいんです。私、怖がりですので、あんな大騒ぎをしてしまって。こちらこそ、どうもすみませんでした」
「はははは。本当、お前は怖がりだよなあ。幽霊の話しをすると直ぐに『イヤですぅ〜』って耳塞いで大騒ぎするものな」

 食事が終わり、浩之さんと私は女将さんや平八さんに誘われるがままに囲炉裏を囲んで、そのまま小さな飲み会となっていました。既にお猪口も小さいとばかりに湯呑みに変っていて、注いだり注がれたりと地酒徳利の往復が続いています。
 浩之さんの横で私も少しだけご相伴にあずかって、さっきからチビチビと舐める様にお付き合いしていました。

「もー、私が怖がりなのは浩之さんのせいですよ?いつも面白がってそんなお話ばっかりするんですから」
「おいおい、オレだけじゃねーだろ?主任の長瀬さんや他の研究員の人だってしてるじゃねえか。あ、そういえば志保なんかも最近やたらしてるよな」
「そういうお話はもう嫌です〜。本当に恐いのばかりなんですから〜」

 いじわるな浩之さんに、プイと一寸だけふくれてみます。
 そんな私に、当の浩之さんはいつもの様に「よしよし」と頭を撫でてくれます。完全に誤魔化しているとは思いますけど、それはそれでとても嬉しいです。

「そーがそーが。ンだば一づ、罪滅しにこの婆が遠野の民話でも話しちゃろかの。この宿を選んでぐれだサービスも兼ねで。これでも街の民話センターちゅう所で語りばしでだごどもあるんだなス」
「わぁ!本当ですか?!聞きたいです聞きたいです〜。是非是非お願いします〜」
「………恐いかも知ンねど?」
「お婆さん!……あ!!」
「なんでー。お前だって失礼なこと言ってんじゃねーか」
「ちっちっちっ違います!こっこれは間違えただけですぅ」
「アッハッハッハッ。えーでえーで。ンだば、始めっど…」

 女将さんはそう言うと、手にしていた湯呑みを膝元に置いて、シャンと姿勢を正ながら、遥か昔を思いだす様な深く優しい表情で話してくださいました。
 いたずら好きの河童がある日人間にとがめられ、罪滅ぼしに毎日川魚を持って来るお話や、マヨヒガという大きくて立派な館に迷い込んだ人の不思議な体験のお話。
 家の中にその姿を見かける様になったと思ったら、次第に富に恵まれる様になったという座敷わらしのお話や、誰もが知ってる寒い寒い冬の雪降る雪女のお話。
 子供たちがある日突然居なくなる神隠しのお話や、貧しき中での食べ物への片恨みから、実の姉と妹が惨劇の末に悲しき鳥へと変貌していく郭公と時鳥のお話しなどなど……
 照明が十分に届かない程高く吹き抜けている天井や、黒光りの凄みある立派な梁や柱に囲まれる中で、そうした一つ一つのお話が女将さんの明瞭な語り口から紡がれるのを聞いていると、まるでその世界にあっという間に引き込まれてしまった様な、そんな不思議な体験みたいなものを私は感じていました。
 そんな中、心に一番残ったお話しに「オシラサマ」というのがありました。
 …はるか昔、お百姓さんである父親とその娘が、とある山間でひっそりとつつましく暮らしていたそうです。そこには一頭の愛馬が居て、その世話は娘の役回りだったそうですが、歳を経るに従って娘は次第にその馬に恋をする様になり、やがては厩舎で一緒に寝泊まりするまでになり、最後は結ばれるに至ったそうです。
 当然、それを知った父親は怒り狂って、ついには娘の目の前で、馬の首を斧で切断してしまいます。その時、絶命した馬の首はそのまま白馬となって天に召され、その際に娘はその首にしがみつく様にして乗って行ってしまったそうです。
 後に一人だけ残された父親はそれはそれは悲しんで、理解してやれなかった自分の行いを生涯悔やみつづけた………そんな、何とも悲しいお話でした。
 オシラサマというのはその時に生まれた神様の事だそうで、馬を繋ぐのに利用した桑の枝で作った神像を祭り、家々の繁栄を願うものとしての信仰が生まれたと、お話の最後に教えてくださいました。
 結ばれるべきではなかった一人と一頭。でも、互いに思うが故に心から結ばれていったのだとしたら、誰がそれを否定出来るのでしょうか。
 聞き終った私は、そんな思いもあって涙ぐんでいました。

「………そっがあ、お嬢ちゃんは人の手で命ば授かっだんだものなあ」

 心なしか、女将さんの言葉には私への悲哀がこもっている様でした。
 たまらなくなって、私は唐突に質問していました。ここへ来てから思っていた事をそのままぶつける様に…。
 それは、こんなにも親切にしてくださった女将さんに、どうしても聞いてみたいとずっと思っていた事でした。

「女将さん。私、やっぱり間違っているんでしょうか?…本当なら私、人間の方にお仕えすべき存在なんです。それなのに、その人間の方に……浩之さんに……こんなにも大切に思って頂ける存在として……やっぱりそれは、いけない事なんでしょうか?」
「お、おいマルチ!お前婆さんに何て事聞いて……」

 スッ…と、女将さんは素早く手を広げたかと思うと、浩之さんの言葉を遮っていました。そして、そのまま私の方をジッと見据えると、詰問する様に少し厳しい口調で聞いてきました。

「…お嬢ちゃんはどう思っでるんだが?」
「え?…わ、私は……正直言って、分かりません。ですから……」
「ほお?分がらねっでのは何でだ?自分さ事の何が分がらねえだ?」
「……で、ですから……ですから女将さんに………」

 その目はまるで怒っているかの様に思えて、私はたじろいでいました。
 女将さんはそんな姿のまま、じっと私の事を見つめていました。目を逸らす事も出来ず、まるで引きつけられるかの様なそうした雰囲気に圧倒され続けていました。
 やがて、女将さんはゆっくりと口を開きました。

「その答えなら、既にオラが言った通りだなス。お話しの最後、なんて言っだが覚えでっが?」
「え?…そ、それは………最後はオシラサマとなって天に召されて……」
「ちがうべ。父親の話だが。…最後にどうなっだ?」
「それは……愛馬を手にかけた事を後悔して……」
「んだな。後悔したんだなス。馬っご殺して、自分の娘ば居なぐなっで、何もがもみーんな失っでしまったんだなス」

 そこまで言うと、女将さんはニッコリと笑顔を返してくれました。その意味が分からなくて、私は見つめるままでした。

「お嬢ちゃんば作っだ研究所の人は、きっとその事が分がってたんだなス。…自分たちの娘に一番幸せになっで貰うはどしたらええが、失ってなんねえものは何だっだが、ちゃーんと知ってたんだなス」
「………………………………」
「だがら、ンな事気にする必要など無えだなス。二人の好ぎにすればええだなス。お嬢ちゃんがそうすべ思うなら、信じでいるなら、迷う事無ぐその通りにすればええ。誰に遠慮する事もね。自分たちの思う通りにやりゃあええ。…そうすれば、いつがは必ず理解は得られるだなス。少なぐども、オラはそう信じでる。のお?平八さんよお?」
「ンだ。それに、オラにはお嬢ちゃんが人間じゃ無えなんで、とても信じられねえがよ。例えそうだったどしでも、オラたちの言葉に笑っで、泣いで、自分がらの気持ぢさ聞いて貰おうとそんだば一生懸命にもなっで、そしだな事に心痛めでる姿見でだら、ンなもん何を気にするもんでもねえ。お嬢さんの心は、間違い無くオラたち人間のそれだなっす。単に入れ物が違うってだげでよお……っと、失礼なごと言っちまっただが?」

 お二人の言葉が心に染みていく様でした。同時に、そうした質問を自らした事を少し恥ずかしく感じていました。

「い、いえ……そんな事はないです………女将さん、平八さん、ありがとうございます。本当にありがとうございます」

 私はお二人に頭を下げていました。メイドロボットが意思を持っているというだけで敬遠される方が多いのに、今日、こうして初めて会った方に、こんなにも元気付けて頂けたのは本当に初めての事でした。
 そして、そんな私の横で、同じ様に頭を下げてくださっている浩之さんの姿が目に入りました。
 心から、目頭が熱くなるのを感じました。

「んだなあ。平八さも、たまにゃえー事言うがなや」
「やっぱ惚れ直しただなす?なら、オラと結婚さすてけろ?」
「ほでなす!これとそれとは話が別だが!」

 頭を下げたそんな格好のまま、私と浩之さんは聞こえない様に笑っていました。
 悲しい涙よりも、こうした嬉しい涙の方が何倍もいい……
 そんな事を、私は心の中で感じていました。




◇      ◇      ◇



おーずーな、おーばーなー
なーだーいっちょう、かーしもしー
はーなこーおーりに、えーもさりー
なーにーばーなー、おーりーさー
こーがねばーなー、おーりーさー
ひとえだおった、ひっかずにー
ふたえだおった、ひっかずにー
みーえだみーに、ひゃーくれてー
そーばーうーずー、こーやーさー
やーどーとって、とーまったー
あかつきおーぎで、みーだればー
きんぎのよーな、じょーろーがー
てーらーかーらーおーりーだー
なーにーそーでー、おーりーだー
はーかまそーでー、おーりーだー
ひーっこやーまの、ひっこのこー
たーてやーまの、たーげのこー
ひっこっどけっこど、はまぐりねっこど
いーわーおんどり、こーすずめー……




 誰かが歌っている………
 そんな気がして、私は目を覚ましました。耳の奥では、そんな歌声がまだ響いている様な、不思議な感じがしていました。
 けど、今はもう聞こえません。やっぱり夢なのかな思って、私は徐に右手を動かしました。そしてその感触を確かめてホッとしていました。
 規則正しく上下を繰り返している、浩之さんの胸の上。…そんな素肌の感触が気持ち良くて、自然と私は頬擦りをしていました。
 浩之さんの温もり。浩之さんの匂い。そして…浩之さんの寝息。
 そのまま目を閉じかけて、ふと私は身を起しました。

「……だ、誰ですか?」

 縁側に面した障子の外を、誰かが横切った様に感じました。そのまま起き上がり、障子に近寄って注意深く開けてみます。
 首だけを出して見回すと、思った以上に外が明かるいのに驚きました。もう夜明けが近いのでしょうか。
 薄明かるさの中に、夏場の冷気と呼応するかの様にモヤがかっていて、縁側から向こうは白い霧でスッポリと覆われていました。そのせいで、明るいにも関らず周りの景色が全く見通せません。
 人影は何処にも無く、どうやら私の気のせいだった様です。障子を閉じると、そのまま浩之さんの元へと戻りました。
 …布団の上に両手を広げて、幸せそうな寝顔を見せている浩之さん。
 私はそのまま添い寝をすると、その寝顔を覗き込むみました。そして、そんなお鼻をチョンと突っつきます。

「本当にエッチですねぇ浩之さんは。もしかしたら、女将さんに聞かれちゃったかもしれませんよ?」

 そんな私の小声が、今の浩之さんに聞こえる筈もありません。ですから返事もありません。
 それでも、私は幸せを一杯に感じていました。
 浩之さんの事を、その男性を、女性としての私の身体で満足してさしあげられるんですから。
 ただ、唯一残念と思うのが、私には子供が産めない事でした。けれども、それは今考えても仕方のない事だと、最近は思える様になっていました。
 これから先、浩之さんがそれを望まれる事が、もしかしたらあるのかもしれません。けど、それはその時に考えればいい事なのかなと思っています。そして、浩之さんがどの様にされようとも、私はそれを拒むつもりはありません。
 ただ、私にはその事を必ず話して欲しい……それが、私が浩之さんへの唯一の望みでした。
 儚い望みだと思います。それを考えると、恋そのものが何と儚いのだろうって感じます。
 人間の方同士でも、それは同じなのでしょうか?

「……浩之さんとの赤ちゃん、欲しいです………」

 浩之さんの胸に再び頭を乗せながら、私はそんな事をつぶやいていました。


おーずーな、おーばーなー
なーだーいっちょう、かーしもしー
はーなこーおーりに、えーもさりー
…………



 安心して目を閉じたその時、あの歌が再び私の耳に蘇ってきました。それは夢の中で聞いていた、子供の合唱を思わせる様なあの歌声でした。
 誰が歌っているんでしょうか…しかも、こんなに早い時間に…。
 それが現実か確かめたくて、私は体内のチェック機能を実行させました。
 …視覚…聴覚…嗅覚…触覚…味覚…五感全て異常なし。…身体の各駆動部も異常値は出ていません。…体内バッテリーも、予備を含めて十分あります。このまま全く充電をしなくても、通常なら三日間は大丈夫な計算です

『おねえちゃんの希望、僕が叶えてあげようか?』

 その声に素早く身体を起しました。夢じゃない!やっぱり誰か居ます。
 その時、人の影が再びサッっと障子を横切りました。その姿からして、どうやら子供の様です。
 枕元の耳カバ−を素早く付けると、浴衣を羽織り直して私は障子へと向かいました。おもむろに引き開けて、明るくなっている外を見回します。

「だ、誰ですか?」
「こっちだよ、こっち」

 そんな声のする方に目を向けると、着物姿の小学校高学年位の男の子が縁側の角に立っている姿が目に入りました。
 無邪気な笑顔で何度も何度も手を振っています。それは、まるで私を遊び相手と勘違いしているかの様です。

「あなたは一体誰なんですか?」
「いいからいいから、早くおいでよ」

 そう言いながらアハハハと笑い声を残して、その子の姿はたちまち見えなくなりました。私は直ぐにその後を追いかけました。
 …後から考えてみれば、この時どうして先走った行動をしたのか全く不思議でした。本当なら、直ぐにでも浩之さんにそれを告げるべきだったのかも知れません。
 ただ、その時の私にはそうした余裕がありませんでした。その子の言葉が、どこか心の中で引っかかっていたからだと思います。
 縁側の角まで来ると、濃い霧の中、その子は門扉に立ってこちらを見つめていました。私はその場にあった突っ掛けを履くと、そのまま追いかけました。

「あはははは、こっちこっち」
「ま、待ってください!」

 こんなにも濃い霧の中、その子は迷う様子も無くどんどんと先へ進んで行きます。
 何処に行くんでしょう。近所の子供さんでしょうか?…確かこの先には、お稲荷さんを祭った神社しか無いって女将さんは言ってましたけど…。
 それとも……もしかして物の怪の類?
 一瞬、足がもつれそうなりました。けど、直に頭を振ってその考えを追い出しました。
 そんな筈はありません。お化けにしたって、妖怪にしたって、それはあくまで人間の方が考え出した架空のものです。そうしたものが恐いという感情は確かに私の中にもありますけれど、それは人間の方と同じ感情を持ってるが故と私は信じていました。
 恐い…だけど知りたい。私の希望?…何故?…初めて会ったあなたに、どうしてそんな事が言えるのですか?
 その子が答えを持ってるという確証も無いまま、ただ目の前の疑問に向かって、私は足を進めていきました。




◇      ◇      ◇



 気がつくと、そこはお稲荷さんの境内でした。
 霧の中、突然真っ赤な鳥居が見えてきて、それを潜った所で私は完全に子供の姿を見失っている事に気付きました。
 …いえ、それはもっと以前から見失っていたのかもしれません。それなのに何故か足は止まらず、気付いたらここまで一気に走っていたというのが正解の様に思います。
 私は膝を付きながら、はあはあと荒い息を続けていました。一体どれ位走ったのでしょうか。
 足回りを中心とする駆動モーターが過負荷気味となり、その熱で体内の緊急冷却機能が働いているのが分かりました。全身から汗が一気に吹き出し、浴衣が背中にぺったりと張りついて気持ちが悪いです。
 何の為にここまで走ってきたのか、もはやその理由すら私には分からなくなっていました。そんな中、考えていた事はただ一つ。早く浩之さんの所に帰ろう。それだけでした。
 ようやく身体を起し、自分でも分かる程に重い足取りで、来た鳥居を再び抜けようとしました。

「おやおや、こんな所に可哀想な娘が居るぞ」

 ハッとして振り向きました。さっきの男の子?!
 けどそこに居たものは、真っ白で細長い顔を持つ何とも異形なものでした。

「ヒィ!こ、来ないでください!」

 その異様さに思わず走ろうとして足がもつれ、そのままペタンと尻餅を付いていました。それでも何とか足を動かして、ズルズルとお尻を擦ったまま後退します。
 けど、そんなのは逃げているうちに入りません。たちまちそれは目の前までやってくると、次にはピョンピョンと嬉しそうに私の周りを踊る様に回り始めました。

「可哀想に可哀想に。こんなに汗でびしょ濡れになって、しかも驚いて尻餅まで付いてるぞ。やれ可哀想に可哀想に」

 そんな事を口走りながら、尚もピョンピョンと跳ねながら私の周りを回っています。
 何をされるのかと、私は身体を固くしてビクビクしていました。…けど、相変わらず跳ね回っているだけのそんな様子からは、危険な雰囲気は感じられません。どうやら、危害を加えるつもりは無い様です。
 少し落ち着きを取り戻し、改めてそれを見やりました。そしてよくよく見れば、それは単に狐のお面を被った子供の姿でした。
 思わずガックリとうなだれましたが、考えてみればここは稲荷神社です。それならそうした狐のお面が社にあっても不思議ではありません

「あなたはさっきの子供さんですね?私に何の用ですか?そして、さっきの言葉の意味はどういう事なんですか?」
「おやおや、この娘は人間の言葉を話しているぞ?やれやれ不思議やれ不思議。人間ならば人間の言葉は当たり前。なのにお人形が言葉を話すとはこれ如何に?これこれ不思議これ不思議」
「か、からかわないでください!」

 スクッと立ち上がり叫びました。そうした言葉に、私は多少怒っていたのかもしれません。

「私はメイドロボットです。この耳カバーを見ればお分かりになる筈です。元々人の言葉を理解したり、それに答えられる様に作られているんです。不思議でも何でもありません!」
「さてさてはてさて?人の言葉は喋っても、こんな格好や悪口に驚いたり怒ったりするお人形さんがはたして今まであったかな?それはお人形とは言わないぞ。お人形のフリをした人間なんじゃあないのかな?やれやれ不思議やれ不思議」
「わ、私は…………」

 何もかも見透かされている。そう思ったとたん、私の中に恐怖が蘇ってきました。
 …この子にこれ以上関ってはいけない。何故なら、この子は初めっから私を連れ出す為にあそこに現われたんだ…。
 今更ながらそれに気付いて、私は再び逃げだそうと駆け出しました。

「おやおや逃げるぞおや逃げるぞ」
「何処へ逃げるの何処行くの?」
「自分からここへ来たのにもう帰るの?」
「帰れないよ帰れない。だって自分から来たんでしょ?」
「僕らと遊ぶまでは帰れないよ」
「帰れないったら帰れない。くすくす、くすくす、帰れない」

 突然、私の目の前に同じ狐のお面を付けた子が沢山現われました。それはまるで申し合わせたかの様に唐突でした。
 私の行く先は完全に閉ざされ、再びその場に立ち尽くす事になりました。

「帰れないったら帰れない」
「帰れないったら帰れない」

 子供たちは同じ様に周りを右に左にグルグルピョンピョンと回りながら、さも嬉しそうに私を取り囲みます。
 その輪を押しのけて飛び出す事も考えましたが、私はためらっていました。子供たちが被るお面の気味悪さもありましたが、これだけ多くの知らない子供たちが、私に一体何の用があるのか計りかねていたからです。
 それに、私の事をそこまで知っているのも不思議でした。ここへ来たのは昨日が初めてです。なのにその様子からは、以前から知っていたとしか考えられません。

「それじゃ行くよお姉ちゃん。しっかり目をつぶっていてね」
「つむってつむって」
「つむってつむって。じゃないと目にゴミが入っちゃうよ?」

 え?っと思った瞬間…
 ゴウ!!
 そんな音と共に、私はまるで竜巻にでも包まれた様な感覚に襲われていました。
 思わず身を固くしてそれを凌ぎます。それでもその勢いはとても強くて、もはや自分が立っているという感覚すらありません。
 次には、身体全体が突き上げられる様な衝撃を感じました。それはかなり凄まじいもので、まるで身体がバラバラになるのではないかと思う位強烈でした。私は慌てて最低限の身体保持機能のみを残して全ての感覚機能を閉鎖しました。
 それは最初、上手くいった様に思えました。しかし、その勢いの強さからか次第に凄まじい感覚が戻ってくると、私の小細工をあざ笑うかの様に再び全身に衝撃が走り、それに翻弄され始めました。もう身を固くして耐えるしか、私には成す術がありません。

「助けて!助けてください!このままでは壊れてしまいます!浩之さん!浩之さん!!」

 もう駄目と思った次の瞬間!
 フッと風の感触が途切れると、まるでそんな事がウソだった様に静寂が戻っていました。
 震えている……それが、自分の身体だと気付くと同時に、私は足の下にある土の感触を意識していました。
 恐る恐る目を開けて、そのままゆっくりと辺りを見回します。

「いらっしゃいお姉ちゃん。おめでとう。そしてここにようこそ」
「初めまして。お待ちしていました」
「ねえ、早く遊びに行こうよ。とってもいい場所知ってるんだ。お姉ちゃんの為にわたし、お花の首飾り作ってあげる〜」
「ああ!そんなのずるいぞ。お姉ちゃんはボクと昆虫採集に行くんだ。ねえ、そうでしょ?」
「違う違う違うもん。わたしとお手玉するんだもん!」

 そんな言葉と同時に突然ワッと子供たちに囲まれて、私は驚いてしまいました。
 さっきの子供たちだと思いますが、今は誰もお面を被っておらず、それぞれが素顔のままでした。
 イガグリ頭のわんぱくそうな日焼けした男の子や、おかっぱ頭で人形を手にした女の子。ボサボサの髪に鼻を垂らした子や、背の高い、三つ編みにした綺麗な素顔の女の子。そうかと思うと青白い顔をして後ろの方ではにかんだ様な笑顔を浮かべている子や、女の子で真っ黒に日焼けして、その笑顔に白い歯が光っている元気そうな子も居て、背の高い低いだけでも本当に様々でした。
 服装も同様で、埃だらけの半ズボン姿の学生服や、桜色した可愛いブラウスにスカート姿の女の子。泥で汚れたTシャツに同じ半ズボン姿のラフな感じの男の子。かと思うと昔の時代劇に出てくる様な着物姿の男の子や白い学生服にモンペ姿の小さな女の子も居て、その柄や色も皆様々で、同じ格好姿の子は一人として居ませんでした。
 ただ、その笑顔だけは誰もが皆一様に同じで、人懐っこそうな目を私に向けていました。

「ま、待ってください。これは一体どういう事なんですか?」
「あれえ?おねえちゃんまだ気付かないみたいだよ〜?」
「気付かない気付かない〜。まだ気付かない〜」
「じゃあ僕が教えてあげるよ。ここはね〜…」
「あー!ずるいずるい、教えるのはボクが先だよボクが先!」

 囲んだまま再び喧騒を始める子供たちに、私はほとほと困ってしまいました。
 フウとため息を付いて、何気なく子供たちから視線を外します。そして周りの景色が自然と目に入り、驚きと共に私は固まってしまいました。

 ここは、一体………?!

 私は稲荷神社の境内に居た筈です。それなのに、周囲は見たことも無い満開のお花畑で一色となっていました。
 霧もいつのまにか晴れていていて、既に天中に在るお日さまからは、燦燦とした温かい陽光が降り注いでいます。
 時間の感覚がおかしくなっている事を感じながらも、私はもう一度、ゆっくりと辺りを見回しました。
 そこは間違い無く境内でした。私が潜った真っ赤な鳥居も、お稲荷さんを祭るお社もしっかりそこにありました。周りの地形も然程変わらないように思えます。しかし、その見た目の景色はまさに言葉通り一変していました。
 遠くにそびえる小高い山々や、その麓に広がる田畑に、多くを占める広い野原。そしてポツポツと点在するだけの民家。
 その中には舗装された道路も、走っていた筈の鉄道も、山々を渡り歩いていた高圧線もありません。田畑には農道が縦横に広がっていて、所々に藁葺屋根の家があるだけの、まるで昔話に出てくる様な光景が目の前に展開されていました。
 私は足元から周辺の草花に目を向けました。…タンポポ、スミレ、シロツメクサ、そして菜の花やオオバコやカキドウシ。
 昔は何処にでも群生していたという春の草花が、私の目の前を覆わんばかりに広がっています。それが境内を埋め尽くすというよりは、広い野原の中にぽつんと稲荷神社の鳥居と社があるといった感じで、高い木々に被われていた先程までの様子からは程遠いものの様に感じました。そして、それが当たり前であるかの様に、広い境内は明るい日差しが一杯に溢れています。
 …サアッ……と風が吹いて、私の頬を軽やかに撫でていきます。それは懐かしいばかりの春の風を感じさせました。
 それに呼応するかの様に、目の前を沢山の紋白蝶や紋黄蝶がフワッっと舞い上がり、次のお花畑へ移動するかの様にサーッと飛び去っていきました。それに遅れた蝶たちは、相変わらずマイペースで目の前の花に戯れています。
 匂いを感じました。草花の懐かしい、それでいてとても強い匂いでした。それは土の匂いにも言える事でした。
 不思議だったのは、こうした匂いを懐かしいと感じる事でした。私にはそうした草花や土、そして風への強い思い出は無い筈です。それにも関らず、今、こうして身体で感じられる全てがとても懐かしく、また喜びに満ちたものでした。
 …ピーヒョロロ…と、はるか上空を飛ぶ鳥の鳴き声が響きます。さっきまでの荒れ狂う様な騒ぎが夢だったと思える様な、それはのどかな光景でした。
 しばらく、このままこうしていたい…な……
 …そんな事を理由も無く、私は考えていました。

「ようこそお姉ちゃん。僕はタロウだよ」
「こんにちはお姉さん。私はハナコです」
「…え?……あ、はい、私はマルチです」

 そんな言葉に、私は反射的に頭を下げて挨拶をしていました。
 ハッと気付いて顔を上げると、さっき私を連れ出したイガグリ頭の男の子と、ストレートの長い髪を二つに分けて三つ編みにした綺麗な顔の女の子が並んで、ニコニコと私を見ていました。
 男の子は紺の粗末な生地で出来た着物姿なのに、女の子は若草色の綺麗なワンピースを着ていて、何だかそれがとても対照的に感じました。

「お、オレはサブロウだぞサブロウ」
「私は!私はミチコ!」
「お、おいらなんかカンタロウだぞ。…え、偉い名前なんだぞ。す、凄いだろう!」
「へん、そんなの長いだけだね!ボクなんかケンジだぞ。こっちの方が格好いいんだから」
「わ、わたしはね……」

 他の子も口々に自分の名前を紹介していく様子を、私は茫然としながら眺めていました。
 先の子も含めて総勢十二人。何となく『二十四の瞳』という言葉が連想されます。

「僕たちの世界にようこそ。お姉さんは十三人目のお友達だね」
「ここに来てくださった事を歓迎します。きっと気に入って頂けると思いますよ」

 先の二人の子が、変らない笑顔のままそう言ってきます。私としては、聞きたい事が山程ありました。

「ここは一体何処なんですか?さっきまでは、高い木々に囲まれた境内に居た筈です。それと、あなたが私を呼んだ理由は何ですか?それと、あなたの言った『希望を叶えてあげる』というのはどういう事ですか?」
「やだなあ、そんなに一気に聞かれても答えられる訳が無いよ。それに、そうした事はいずれ分かるから慌てなくても大丈夫だって。それよりも今は僕たちと遊ぼうよ。そのつもりで呼んだんだからさ」

 タロウという、歳の頃は恐らく小学五、六年生という感じの男の子がそんな事を言ってきます。さっきと同じで、私の質問には全く答えてくれない様子です。
 私は、再び苛立ちがつのってくるのを感じていました。

「やはりあなたが私を呼んだのですね。それなら先に質問に答えてください。私は浩之さん…私が仕えるご主人様の所に帰らなければなりません。これだけ日が高いのですから、きっと心配されています。ですからお願いします。私の質問に答えてください。そして帰してください」
「心配なさらなくとも大丈夫ですよ。その浩之さんとはいずれ必ず会えますから。ですから今しばらくは我慢してください。私たちはお姉さんに迷惑をかけようと思って言ってるんじゃないんです。むしろその逆です。きっと感謝してくれると信じています」

 ハナコと名乗ったその女の子が、優しい声色でそう答えてきます。
 見た感じ、タロウくんより一つか二つは上でしょうか。子供さんたちの中では一番のお姉ちゃんで、目鼻立ちの通った端整なその素顔には、聡明さと気品さが感じられました。長い髪も綺麗ですし、大きくなったらきっと凄い美人さんになるだろうと思います。
 けど、今はそんな言葉に驚く方が先でした。

「…感謝?…そ、それはどういう事ですか?」
「今は言えません。いえ、それはお姉さんが自ら感じて頂いた方がいいんです。その時には、知りたい事が全て分かって頂けると思いますし、私たちの希望もきっと理解して頂けると思うんです」
「あなたたちの希望…ですか?それは、私にここに居て欲しいという事ですか?」
「それは…………」

 ハナコちゃんは黙ってしまいました。さっきまでの笑顔も伏せたまま、少し寂しそうな様子を見せています。
 それは他の子も同じで、何か言いたくても言えない様な、そんなモジモジとした様子そのままでした。
 やがて、ハナコちゃんの方から口を開きました。

「…いずれにしても、お姉さんは今すぐには帰れません。例え私たちがそれを望んでも、今は駄目なんです」
「そんな!一方的に呼び出しておいてそんな理由は無いと思います。お願いですから意地悪しないで帰してください。その方法があるんですよね?ここに連れてきたあなたたちならそれを知っている筈です!」
「一方的?」

 ハナコちゃんはクスリと笑うと、少し勝ち気な表情を見せました。それはあたかも「何を言ってるの?」と問うているかの様でした。

「ここへ来たのはお姉さんの意思でもあるんですよ?いいえ、それは願望と言ってもいいかもしれない。タロウには迎えに行って貰いましたけど、結局は自分から来たんです」
「そんな訳がありません!私はタロウ君を追いかけていっただけです。こんな事になるって分かっていたなら追いかけたりしませんでした。それに第一、私はここの世界について何も知らないんです。ここは何処なんですか?それと、いつの時代なんですか?もしかして私は過去にでも来てしまったのですか?」
「お姉さん、落ち着いて。何も心配しなくてもいいんです。ここではお姉さんが心配する様な事は何も無いんですから」

 ハナコちゃんは私の両肩を押えながらニッコリと笑います。
 その姿には余裕が感じられて、オロオロしている私とは対照的でした。どっちがお姉さんか分からない程です。

「それよりもお姉さん、お腹空きませんか?朝から何も食べていないんでしょう?もうお昼ですものね」
「ハナコお姉ちゃん空いたー。あたしお腹すいたー」
「あ、僕も僕もー」
「お姉ちゃん。タロウお兄ちゃん。お腹すいたよ〜」

 それまで黙っていた子供たちが口々に騒ぎ始めます。「よしよし、一寸待ってろよ」とタロウ君が相手をしている中、私はハナコちゃんに答えていました。

「…空く訳が無いです。私はメイドロボットですから」
「そうですか…。でも、本当は空いてるんじゃありませんか?私はお腹が空きましたよ。だから、一緒に食べませんか?」
「ですから、私はロボットなんです。こうして身体を動かすには、体内にバッテリーの蓄電があればそれでいいんです。食べ物を食べる必要は………」

 ロボットについて説明しなければならないのかなと考えていた時、いきなり下の方でグゥーと音がしました。
 ビックリして、慌てて私は自分のお腹を押えました。

「ぐう〜〜〜だって〜。ぐう〜〜だってえ!」
「お姉ちゃんのお腹が鳴ったぞ鳴ったぞご飯だぞ〜」
「空いたぞ空いたぞお腹が空いたぞ〜」
「ご飯だご飯だ。うっれしいな〜」

 音を聞いた子供たちが再び騒ぎ始めます。一体何が起ったのか、私は再びチェック機能を実行………そ、そんな!
 やり方が分からない?!そ、そんな筈はありません。たしか、こうチェック機能を思考の中から呼び出して…………で、出来ない。出来ません!
 私はそれ以外のメンテナンス機能についても全て試しました。しかし、何をどう念じても、何度やっても、いままで普通にやってきた事が全く出来なくなっていました。
 まさかと思い、腕の充電コネクターを露出させようとしましたが、そこには痕跡すら残っていませんでした。

「……これは……一体どういう事なんですか?」

 両手を広げて、それをまじまじと見つめました。それは、見慣れた手の平でした。けど、私には直ぐに分かりました。
 私の身体は、既に以前のものでは無くなっていました。
 身体を動かす度に感じていた駆動モーターの僅かな振動はすっかり消え、入れ換わる様にドクッ…ドクッ…とした鼓動と体液の流れが全身を満たしています。それは、これまで感じていたどんな感覚とも比較にならない程、力強いものでした。
 新たな感覚…そうした中でも、お腹の内側を何かでキュウと締めつけられる様な、そんな不思議な感覚に私は戸惑っていました。

 …そして、それが何であるかを私は知っていました。ロボットである私が、自ら知りたいとずっと願っていた事。
 人間の方と同じ……まさに空腹感でした。

「…何故?………何で私が……人間に?……」

 その場にペタンと腰を付きました。そして、気付いていました。
 かつて自分が望んでいた事。それがどういう形であれ、現実に叶っているというでした。
 ショックでした。あまりに突然の事過ぎて、どうしてそうなったのか、その理由をハナコちゃんに尋ねる事すら思い付きませんでした。

「…直に馴れますよ。私も初めはそうだったんですから……」

 そんな言葉が耳に響いてくるのを、何処か遠い事の様に私は感じていました。


「朱夏の里 −第二章−」 へ続く.....