朱夏の里 〜 第ニ章 〜






 小高い草原のその場所から、広大な土地の様子が一望出来ました。私は腰を下ろして膝を抱き、見るとも無くそんな景色を眺めていました。
 田畑の潤う山に囲まれた小さな村。陽に溢れ、新緑に被われ、優しい風が吹き、沢山の木々や草花が広がり、そして多くの生き物が伸び伸びと生きるそうした豊かな土地。
 ある意味、それは理想郷と言えるのかもしれません。
 けど、今の私にとって、それはどうでもいい事でした。頭の中を埋め尽くしていたのはただ一つ。…浩之さんの所に早く帰りたい。それだけでした。
 点在する民家の一つから、白い煙が立ち上っているのがここからは見えます。そこは、子供たちがお昼ご飯だと言って向かった先でした。

『どうぞいらしてください。皆と一緒にお昼にしましょう』

 その歳よりも随分と大人びた雰囲気でそう言ってくれたハナコちゃん。けど、私はその申し出を断っていました。
 そのまま子供たちに付いていって当たり前の様に食事を頂く事に、何か許せないものを感じていたからです。そうした和やかな団欒の場に、こんな私のトゲトゲした気持ちを持ち込む訳にはいきません。
 だからと言って、空腹感が無くなった訳でもありませんでした。それに正直に言うと、さっきよりもお腹が空いて仕方がありません。
 私にとって初めての感覚であるにも関らず、それは強烈なまでの主張を伴って私を責め苛んでいました。
 私は抱える膝に自分の顔を埋めました。このまま何も食べなくても、水さえあればしばらくは大丈夫な筈です。
 後で川を探しに行こう。そして、何としても帰る方法を見付けよう。
 その気持ちだけが、今の心の支えでした。


「……姉さん。マルチお姉さん、起きてください」

 揺り動かされるのを感じて、私は顔を上げました。目の前にはハナコちゃんの少し心配そうな顔がありました。
 少し眠っていたのでしょうか。私は目をゴシゴシこすると、そんな彼女を見上げました。

「ど、どうしたんですか?」
「おじやを作ってきました。初めて食べ物を口にされるのですから、重いものは避けた方がいいと思いましたので。自己流ですけど味噌で味つけしてありますから、よろしければ食べてみてください」

 そう言って、足の付いたお膳を私の横に置きました。そしてその上の布巾を取り払います。
 味噌おじやの入った底の深い大きめの器に、香の物を乗せた小皿が一つ。そして太めの片口箸に緑茶の湯呑み。薫る味噌の良い匂いに誘われて、私はその前に座り直していました。そんな時、再びお腹が鳴るのを感じて思わず俯きます。

「さあ、遠慮無く。他の子や私は既に済ませましたから」
「………………」
「どうしました?あ、もしかしたら不安なのかしら?…そうか、そうですよね。これまでに食べ物を口にした事が無いんですものね。でも大丈夫ですよ。まずは口に含んでみてください。不味かったりお嫌でしたら吐き出してくださっても構わないんですから」
「あ、いいえ。違うんです。そうじゃないんです」

 再びハナコちゃんを見上げると、私は説明していました。
 そもそも私には食べ物の味覚を調べる機能が備わっていた事。少量程度ならそうした食べ物を口に出来た事。そして、それは浩之さんに美味しいと喜んで貰える料理を作る為に必要だった事。
 私が食べ物を口にするのは初めてでは無いと知ったハナコちゃんは少し驚いた顔をしていましたが、直にニッコリと微笑むと、私の前に改めてお膳を差し出しました。

「それでしたら何の心配も無いですね。どうぞ遠慮無く召し上がってください…」
「い、いいえ、私がこれを頂く訳にはいきません。それに、私にはそんな資格などありませんから」
「資格?」

 さっきと同じ様にクスリと笑うと、ハナコちゃんは再び勝ち気な様子を見せました。
 その表情は見たくなくて、私は視線を逸らしました。

「ここに来ているという事は、こちらの食べ物を口にする必要があるという事です。資格は当然ありますよ」
「私は……ここに長居するつもりはありません。食事なら戻ってからしますから」
「ふふ、お姉さん、見掛けによらず強情なんですね」

 ドキッとしながらも、そんな言葉に私は黙ったままでした。それは無断でここに呼び寄せた彼女への、ささやかな反抗だったのかもしれません。
 そんな私に、彼女は再び口を開きます。

「極楽浄土に間違って行ってしまった時、そこで絶対にしてはいけない事って何だかご存じですか?」
「…え?………いいえ、分かりません。でも、それってどういう事ですか?まさか、ここがそうだとでも言うんですか?」
「うふふふ、どうなんでしょうか。とりあえず正解を言いますと、そこで出される食事には絶対に手を付けない事なんだそうです。戻れる可能性のある人もその瞬間、あっという間にこの世との繋がりを絶たれてしまうそうですよ…」
「………………………」

 私はその表情をまじまじと見つめました。同じ様にこちらをジッと見つめているハナコちゃんの表情はそのままでした。
 まるで人をからかうかの様に、口元が柔らかく笑っているのが分かります。
 そんな状態がしばらく続いた後、私は軽くため息を付くと、再び目の前のお膳に目を向けました。

「…折角ですから、これ、いただきます」
「どうぞ、召し上がってください」

 私はお箸を手に取ると、両手を合わせて短く黙礼し、おじやの入った器を手に取りました。
 いい匂いが、再び私の鼻をくすぐります。適量をお箸で取り、口に含みました。
 ほのかに甘く香ばしい、それでいて何とも懐かしい様な、そんなとても落ち着ける味がしました。

「どうですか?味の方、濃過ぎませんでした?」
「……丁度いいです。とても美味しいですよ。それに、とても手が込んでいるんですね。入っている千六本切りの大根は油で炒めてあるんですか?」
「ええ。菜種油があるものですからそれで軽く。でも、あとはだし汁にその大根と味噌とご飯を入れて煮込んで、仕上げに溶き卵をサッと流しただけの簡単なものです。誰にでも出来ますよ」
「…私が作るおじやはもっと簡単なんです。お味噌もだし汁も使わずに、水と塩と卵で簡単に仕上げただけのものをよく出していました。浩之さんがそれでいいというものですから。でも……私、メイドロボット失格ですね。ほんの一寸工夫するだけでこんなに美味しく出来るのに………」
「今度その浩之さんに食べさせてあげてください。きっと喜ばれますよ」

 そう言ってニコニコと嬉しそうにしています。ハナコちゃんに一番似合った笑顔だなと、それを見た私はそんな事を感じていました。
 彼女の作ったおじやはのどごしも良く、全てが申し分の無い出来でした。何よりもこうした食べ物を沢山摂る事が初体験の私にとって、口当たりの柔らかさはとてもありがたいものでした。
 香の物である茄子の糠漬けも素晴らしい出来で、おじやにとてもよく合いました。私はあっという間に全てを平らげてしまいました。

「ふー、美味しかったです〜。ありがとうございます〜」
「どうもおそまつさまでした。全部食べて頂けて嬉しいです」

 そのまま食後のお茶で喉を潤します。そして、それらは素晴らしい事だと私は実感していました。
 お腹の締めつけられる様な感覚もすっかりと消えて、身体全体が満足感に満たされています。何だか不思議な感覚でしたが、とても大切な事の様に思えました。
 ようやく人心地ついた所で、私はさっきからの質問を繰り返しました。

「やはり帰れないのですか?どうやっても無理なのですか?」
「ええ、今は無理です。申し訳ありませんけど」
「そ、それなら、私をここに呼び寄せた理由を教えて貰えませんか?ここで、私に何をさせようというのです?」

 その言葉に彼女は口を開きかけましたが、一瞬思い直した様な表情になると、そのまま俯いてしまいました。
 どうしたんだろうと思って再び尋ねようとしたその時、顔を上げるとまるで勢い付いたかの様に言いました。

「子供たちの世話をお願い出来ませんか?…その…私も含めて………」

 え?と思いました。もっと複雑な理由を想像していた私にとって、それはあまりにも拍子抜けする内容でした。そして、ハナコちゃんはまた私をからかっているのだろうかとも思いました。
 しかし、彼女の目は真剣そのものでした。まるで、私が断る訳が無いと心底信じているかの様でした。
 彼女の真意がよく分からず、私は聞き返していました。

「ここに居る子供さんたちのお世話は今まで誰がやっていたのですか?ハナコちゃんですか?」
「私とタロウです。生活面では他の子も色々とお手伝いをして助けてくれますけど、小さい子ですとせいぜい薪拾い位ですね。川魚獲りとかは危ないので必ず私かタロウ、それか二つ下のサブロウのいずれかと一緒に行く事に決めています」
「それじゃあ、ここではそれぞれが役割分担を持って共同生活をしているんですね。そうすると、ハナコちゃんはお母さん役なんですか?」
「ええ、そういう事になります。私が一番年上ですから」

 その言葉を不思議に思って、私はここに来てからの疑問をぶつけてみました。

「ハナコちゃん以外に年上の方って居ないのですか?それじゃあ、他の大人の方とかはどちらにいらっしゃるのですか?」
「そ、それは……何処かに行ってしまって………」

 何か隠している。そう思った私はさらに質問を繰り返えそうとしました。
 けど、その意図を察したのか、ハナコちゃんは素早くお膳を手に立ち上がると「失礼します」と踵を返そうとしました。

「待ってください。大人の方が居なくなってしまったなんて嘘なのでしょう?本当は初めから誰も居ないのではないのですか?」
「…………………」

 ハナコちゃんはその場に立ち止まりました。けど、私の言葉を否定しようとはせず、背中を見せながら黙ったままでした。
 やっぱり嘘だと分かった私は、考えていた事を全てぶつけてみました。

「間違っていたら言ってください。でも、何となく分かるんです。ここは、あなたが作った世界ではないのですか?」
「……………………」
「もしそうだとするなら、全てに納得がいくんです。…大人の居ない、子供たちだけの世界。あなたは何かの理由があって、こうした世界があればいいと強く願った。それが自然の摂理とどう重なったのかは私には分かりませんが、こうしてあなただけの世界が出来上がった。そうして、私の様に何人かの子供たちが同じく引き込まれていった」
「………………………」
「私と浩之さんが泊まった宿の女将さんが話してくれました。神隠しのお話しです。歳格好も服装も違うあの子達は、それぞれの時代でそうした神隠しの犠牲者となった子供たちではないのですか?」
「………ふふ、大した想像力ですね。だとしたら、私は神隠しの親玉という訳ですね」

 お膳を持ったまま立ち止まっていたハナコちゃんは、その時になって私の方に向き直りました。怒った様な光りを目にたたえ、それを示す様に語気が少し荒くなっていました。

「そうだとするなら、この場で私を倒せば全ては解決するんじゃないんですか?昔話なんかによくありますよね。そこまで確信を持っているのでしたら、そうしてくださっても構わないんですよ?」
「……それが本当なら、私は浩之さんの所に帰る為にもそうします」

 私は立ち上がると、スタスタと彼女の前まで歩み寄りました。ハナコちゃんは臆する事無く、そのまま私の方を見つめていました。
 お膳を挟んで殆ど手の届く位置まで足を進め、お互いに対峙します。そんな状態のまま、私たちはしばらく向き合っていました。

「…正直に言ってください。本当の所はどうなんですか?」
「…当たらずとも遠からずといった所です。でも、私はそんな親玉なんかじゃありません。例えそうだとするなら、こんな手間をかけて自分たちで食事を用意したりはしませんよ。食べたい時に目の前にパッと食べ物が出てきてくれる世界を作っているんじゃないんですか?」
「…私が頂いたおじやも、そうして作っているんですか?」
「そうです。お米や大根や大豆などは私たちの田畑からとれたものですし、お味噌も大豆からの私の手作りです。麹が初めは中々出来なくて随分と苦労させられました。塩は近くの高楢山で取れる岩塩を精製したものを使っています。卵は養鶏からのものです」
「そ、それらを全部自分たちの手でやっているのですか?小さい子も含めて?」
「ええ。全て自分たちの手でやっています。やるしか無いんです。ここには私を含めて十二人しか居ないのですから」

 私は絶句しました。一杯のおじやにそれだけの手間をかけている事もそうでしたが、それ以上に、今までの生活をしっかりと支えてきた彼女の気構えを感じ取ったからです。
 改めて、私は彼女に聞き返しました。

「自分から望んでここに来た……そう、私に言いましたよね?……だとしたら、ハナコちゃんも自分から望んでここに来たのですか?」
「…お姉さんの言いたい事は分かります。私だって、こうした生活そのままを希望していた訳じゃない。…ただ、私は丈夫な体が欲しかった。いつも寝たきりで、お友達といえば沢山の本と人形ぐらいしか無くて、部屋の天井を毎日毎日ずっとみつめながら、いつ果てるともないそんな生活から早く抜け出したい。…そんな事ばかり毎日毎日考えていました…」

 お膳を再び下に置き、真正面から私を見つめながらハナコちゃんはそんな身の上話を聞かせてくれました。
 華族の生まれな事。子供の頃から身体が弱く、重度の虚弱体質として殆どベッドでの生活だった事。食事と言えば、使用人が持ってくるお粥の様な食べ物ばかりだった事。兄と姉が居たけど、うっとうしがられて殆ど顔を見せてくれなかった事。そして、あまりの虚弱故に両親からも疎ましがられていた事。家が裕福だったので本だけは沢山買ってくれた事。
 そして……そうした日、私と同じ様に、誰かに呼ばれていると感じた事。

「私はお気に入りのお人形を抱いて外に出ていました。虚弱な私が自分からそうした行動に出るなんて今でも信じられない気持ちですけど、その日は不思議と気力が充実していたんです。…そして、行かなくちゃいけない……私はそこへ行くんだって、まるで自分で自分に言ってるかの様に心が突き動かされていって……そして、近くの社まで来た時にいきなり衝撃を感じて……気付いた時には、私はここに立っていました…」
「……………………」
「その時の私は、まさしく独りぼっちでした。見渡す限りこうした景色が広がっていて、そして他には誰も居ない………でも、誰か一人位は残っているんじゅないかと思って、点在する家々を走って見て回りました。結局は、どの家もまるで人だけが消えてしまったかの様に静まりかえっていたんです。お米やお味噌なんかの食べるものや着るものとかは全て残っているのにですよ?……これはとんでも無い事が起った。もしかしたら村全体が神隠しにあったのだろうか?って………。でも、それを恐いとは思わなかったし、不思議と心は落ち着いていたんです。家に居て寝たきりのまま疎ましがられるだけの毎日よりも、こんな冒険みたいな生活の方がワクワクした位ですから…」
「………………………」
「そんな時、たまたまその家にあった鏡を何気なく覗いたんです。…本当、驚きました。だって、そこに映っている顔は、私のものじゃないんですもの。何とお人形さんだったんですよ。私が唯一持ち出した、お人形さんの顔そのものだったんです」

 その言葉に、私はまじまじと彼女の顔を見つめました。しかし、そこにある素顔は、どう見ても人間の方のそれでした。
 そんな表情を読み取ったのでしょうか。小首を傾ける様な仕草をすると、彼女はクスリと笑いました。

「…最も、それはお人形さんがもし人間の顔だったらこんな感じかなあと想像出来る範囲のものでしたけどね。でも、私には直に分かりました。ここに来てから、何処を探してもそのお人形はありませんでしたから。…ある訳が無いんです。今の私がそうなんですから」
「…………………………」
「…そして、今更の様に気付いたんです。こんなにも自由に、伸び伸びと動ける自分が居るって事に。それまでは身体が弱くて、こうして野原を走った思い出すら無い私が、いくらでも自由にそうした事が出来る様になっていたって事にようやく…。何で気付かなかったんだろう…馬鹿みたい…そんな事を思っていたら、何だかそれが滑稽に思えて、そして可笑しくて、私は鏡を見ながら思い切り笑っていました。それこそお腹がよじれる程に。…もし、神様が居て、こんな形で私の願いを叶えてくれたのだとしたら、何とも悪戯好きの神様なんだろうって……」
「……そうやって、ずっと一人でここに暮らしていたんですか?」

 彼女はコクリと頷きました。その様子は落ち着いていて、とても歳相応とは思えない大人の女性そのものでした。
 不思議な話でした。あまりに現実離れしていて、とても全てを信じる気にはなれませんでした。実際、そうした生活の中で彼女が一体何を考え、行動していったのかまでは私には理解出来ませんでした。
 それでも、これまでとは全く勝手の違う生活を、彼女は彼女なりに工夫して少しでも豊かなものにしていこうと努力していった姿だけは十分に伺えました。

「…今までずっと一人で居たのと同じだから、寂しさは感じなかった…。それに、もしかしたら私の様にここに来る子が他にも居るんじゃないかという期待もありましたから。…そうやって日々生活するうちに、タロウが同じ様に境内に現われたんです。初めは随分と混乱していた様ですけれど、私という存在があった分、その度合が軽くて済んだのは彼にとって幸運だったのかもしれません。…そして、それをきっかけとして、一人、また一人と同じ様に少しずつ家族が増えていきました。私にはそれがとても嬉しかった。ここでの生活を皆喜んでくれて、どの子も私のお手伝いをしてくれて、私の作ったものを美味しい美味しと言って食べてくれるのを見て、家族って本当にいいもんだなって知る事が出来た。…血の繋がった家族がありながら得られなかった人としての温かさを、あの子たちを通じて私は初めて得る事が出来たんです」
「……………………」
「私、あの子たちのには出来るだけの事をしてあげたい。その為ならば、私はどんな苦労でも厭いません。マルチお姉さん。お願いです。今しらばく、私に協力しては頂けないでしょうか?私に出来る事なら何でもします。お願いします」

 彼女は突然地面に両膝を付くと、そのまま正面に両手を揃えて懇願する姿勢を見せてきました。
 私は驚き、動揺を覚えましたが、それでもそれを止めさせようとは何故か考えませんでした。
 彼女の懇願を受け入れてしまうという事は、ここに留まる事を了解したのと同じだと考えていたからです。それだけは出来ない。何としても避けなければなりません。
 でも、そんな彼女の姿に、私の中の心が動いたのもまた事実でした。
 こうした生身の身体となった事実に加えて、嫌でもこれからは一緒に生活していく必要があるだろう事を、この時私は直感していたからです。
 今帰れないのなら、帰れる時期を伺うしか無い。それならば、勝手に行動するよりも、彼女に付いている方がいいのかもしれない…。
 私は、改めて自分の気持ちを正直に打ち明けました。

「帰れる時が来たら、その時は必ず私は帰ります。それを約束してくださいますか?」
「…例え帰れたとしても、そこが来た時と同じとは限りませんよ?…もしかしたら浩之さんはその時は既に……」
「約束してください!私は、どんな事があっても必ず浩之さんの元へ帰ります。それを約束してくれるのなら、私はハナコちゃんとも約束します。女同士の約束です」
「………………………」

 しばらくそうした姿を続けていた彼女でしたが、やがてそのまま立ち上がると、無言のまま膝元をパンパンと叩きました。
 そしてそのまま私を見ると、ニッコリと微笑みながら告げる様に言いました。

「わかりました。…それにしてもお姉さん、本当に強情なんですね。何だか私とよく似てる。もしかしたらそっくりかもしれない…」
「もしそうだとするなら、それは浩之さんの影響だと思います。こうと決めたら絶対に曲げない人ですから」

 ホッとした事もあってか、私はうっかりとそれを口にしていました。実際、浩之さんのそうした強情さには時として辟易させられる事もあったからです。
 しかし、そうした性格を受け継げた事に、今少しだけ私は感謝していました。
 私のそんな言葉を聞いたからでしょうか。ハナコちゃんはそれまでの堅苦しさを崩して彼女らしい、本当に子供っぽい笑顔を向けてきました。

「マルチお姉さん。その浩之さんの事、今でも好きですか?愛していますか?」
「ええ、愛しています。今も、これから先もずっと……」
「そっか……ふふふ、そっか〜、愛しているんだ〜。いいな〜。羨ましいな〜。ふふ、ふふふふ……」

 彼女はさらにニコニコと微笑むと、後ろ手になりながらくるくると私の目の前を踊る様に楽しそうに回り始めました。
 まるで自分の事の様に喜ぶそんな彼女の姿を見ていて、私は何とも複雑な思いに捕われていました。




◇      ◇      ◇



 私のここでの生活は、初日から多忙を極めました。
 子供たちの食事の世話は無論の事、その後片付けやおトイレの世話や喧嘩の諌めに寝る前のお話(私の事を皆聞きたがりました)でその日が終わったかと思うと、翌日からはもう田畑への作業に出ているといった状況でした。
 初日でしたので、私に出来る事といえば水田の雑草取りや農地の再耕といった単純な作業だけでしたが、それでも最初は間違って稲を抜いてしまったり、種を植えている所まで耕してしまったりとドジの連続でした。そんな私に、ハナコちゃんやタロウ君や皆は笑いながらも根気良く丁寧に教えてくれました。
 さらには養鶏の世話や合間に小さい子の遊び相手、ハナコちゃんと一緒の山への山菜や薬草採りに薪集め、川への洗濯やタロウ君と一緒の川魚獲り、そして帰ってきてからの食事の用意(昼間はハナコちゃんが作ってくれました)と、その日に生活する事を考えて身体を動かしているだけで、あっという間に一日が過ぎていくといった感じでした。
 家事全般はそれまでやっていた事とは言え、何から何まで勝手が違う上に、常に足りないものばかりでした。その度に「…足らぬ足らぬは工夫が足りませんねぇ」と呪文の様に口を付いていましたが、それが功を奏してか、結果的には何とかやりくり出来てしまうのが面白い所ではありました。
 向こうから着てきた浴衣は寝間着代わりとなり、日中は農作業に適した粗末な昔の着物を借りていました。私はその格好で一日を過ごす事が多く、あまりに疲れ過ぎた時などは、そのまま横になって寝てしまう事も度々でした。
 そうした中で、一番に困ったのがトイレでした。小さい方はいいとして、大きい方はまさに初めて。さすがにそれだけは恥ずかしくてハナコちゃんにも聞けません。何となくお腹が突っ張ってきたと感じた時点で、私は皆の目を盗む様に畑に入ると、そこにある臨時の厠で何とか頑張って初めての用を足しました。その一事だけは、今もって忘れようとしても忘れられない出来事です。
 お風呂の方は近くの川で済ませます。暖かい季節なので、お水が少し冷たいのを我慢すれば大丈夫ですが、子供たちをゾロゾロと連れていかなければならないので少し困った事も起きました。

「あっ!おねーちゃんのおっぱい大っきー。さわらせてさわらせてー」
「ずるいずるい。私もさわるー」
「あー!おねーちゃんのお又、毛が生えてる〜」
「すげー!大人だ大人だー」
「へーんだ。ボクだって生えてるもんねー。ほれほれー」
「なんでー。生えてるったって産毛じゃん。それにそんな小さいんじゃ全然子供だねーだ」

 そうしたエッチな話題に、子供たちはいつでも大喜びです。さすがに今は馴れましたけれど、それでも毎回毎回同じ内容でよくも飽きないものですねぇと感心する程でした。
 石鹸が無いので、米糠を木綿に包んだものを代用品として小さい子を洗ってあげます。
 すると、そんな様子に触発されるのでしょうか。もう自分で洗える子までもが私にせがんでくるので本当に困っていました。

「はいはい、もう大きい子は自分で洗いましょうね。ユウタ君はもう出来る歳ですよね?」
「えー、やだやだー、洗ってよ洗ってよー。ハナコおねーちゃんはちゃんと洗ってくれたよー?」
「それならハナコちゃんに頼んでください。お姉ちゃんは大きい子は知りませんよ」
「うー、ケチー、だってハナコおねーちゃん居ないじゃないかー。頼みたくも頼めないよー」
「え?そんな筈は……」

 私は辺りをキョロキョロと見回しました。すると、岩陰の水場からこちらをコソコソ伺う彼女の頭が見えました。
 今の騒ぎを聞きつけて慌てて隠れたのが明白です。自分の身体を洗う暇さえも無いのにズルいですぅと思いましたが、同時にいい事を思い付きました。

「ユウタ君、ちょっといいですか?」

 それで寄って来たユウタ君に、コソコソと耳打ちします。
 やがて、私の言葉にうんうんと頷くと、そのまま気付かれない様に姿を消しました。

「もーしょうがないですねー。それじゃ今日だけ特別ですよー。ユウタ君」

 少し大きい声を出しながら、彼女の見える位置に背を向けて子供を洗うマネをします。
 そんな姿に他の子は不思議そうな顔をしていましたが、私は自分の口に指を当てて黙っている様に促しました。

「はい、じゃあ今度はこっちを洗いましょうねー。あー、だいぶ汚れてますねー。ユウタ君駄目ですよー不潔なままじゃー」

 相変わらず下手な演技を続けます。そろそろかな……と思っていた時、突然後ろで悲鳴が上がりました。

「きゃー!いったーい!ユウタいきなり何処掴んでるんですか!早くその手を放しなさい!」
「ちぇー、やっぱりマルチお姉ちゃんの方がおっぱい大きいや。ハナコお姉ちゃんのつまんないのー」
「な、なんですってえ〜!」

 そんな様子に私はクスクスと笑ってしまいました。回りの子もそれにつられてアハハハハと大きな声で笑います。
 ハナコちゃんはやがて怒気を帯びた表情で私の前まで来ると、目の前に仁王立ちとなりました。その胸には、ユウタ君に思い切り掴まれた指の跡がしっかりと付いていました。

「お姉さん酷い!私だってたまにはゆっくりと自分の身体とか洗いたいんだから協力してくれたっていいじゃないですか!」
「ズルいですねえハナコちゃんは。子供さんのお世話に協力するとは約束しましたけど、私一人に押しつけていいとまでは言ってませんよ?」
「だからって、だからってこんな事するなんて酷い……酷いよぉ……」

 次第に涙声となるハナコちゃんを見て、少しやり過ぎたかなと思っていると、回りの子達もそれにつられてグスングスン始めています。私は慌てました。

「ご、ごめんなさい。お願いだからそんな泣かないでください。お詫びに今度はハナコちゃんの背中を洗ってあげますから」
「え!本当?本当ですか?!」

 泣いていたと思った表情がコロッと笑顔に戻ります。まさかウソ泣きだとは思っていなかったので、その素早さに私は唖然とするばかりでした。
 それを指摘する間も無く、彼女はササッと私の前に来て背中を差し出します。

「それじゃお願いします。ほら早く早くぅ。背中だけじゃなくて前もお願いしますね。ついでに頭も洗ってください。約束してくれたでしょ?ね?ね?」
「…え?……あ、は、はい…」

 そんな勢いに断る事も出来ないまま、私は彼女の背中を洗い始めました。そんな様子に他の子も納得したのか、今は小さい子同士で仲良く洗いっこをしています。
 私の手が痒い所に当たる度、くすぐったそうにしているハナコちゃん。こうした時の彼女の表情は本当に明るくて可愛らしく、周りの小さな子と何ら変わる所の無い様に思えました。
 大人と子供の、そんな二つの顔を持つ不思議な女の子…。
 ここへ来る前の素顔ってどんなだったのかなあと、彼女の背中に触れながら私はそんな事を考えていました。




◇      ◇      ◇



 日々の単調さというものは、時間の感覚を無くすものなんだなと気付けたのはごく最近の様に思います。それ程までに、ここでの生活はあっという間の出来事でした。
 春から初夏へと移り変わるそうした季節の中、私は向こうの世界を思い出している暇すらありませんでした。目の前の忙しさというものは、そうした大切な事でさえ、忘却のかなたに押しやってしまえるものなのでしょうか。
 それでも、騒がしい程に聞こえていた蝉の声がいつしか消え、入れ代わる様に虫の声が響く様になり、ムクムクとした入道雲もいつのまにか姿をひそめて、高い所を流れる鰯雲や筋雲を多く目にする日が増えてくると、そうした慌ただしさの中に埋もれていた思いが、少しづつ自分の中に蘇ってくるのを感じていました。
 そして、私たちの住む広い平原を吹き抜ける風にも、はっきりと季節の変化が感じられる頃、私は自分の成すべきことを改めて自覚する様になっていました。
 私がここに来てから初めのうち物怖じしていた小さい子も、今ではすっかり馴れたみたいで、その誰もが心から慕ってくれている様でした。起きてから寝るまでの間…いいえ、寝てからも私の側を離れようとしない子も居る程で、そうした姿は本当に可愛いと思いました。そして、そうした生活に幸せを感じていたもの事実でした。
 それだけに…いいえ、それだからこそ、私は背反する心の辛さを感じずにはいられませんでした。
 今この時、例えここから私が居なくなったとしても、この子たちならそれまでと変わる事無く上手にやっていけるでしょう。でも……本当にそれでいいんでしょうか……
 かたわらで息づいている小さな子の安らかな寝顔を見ながら、そんな思いに捕われる日々を私は続けていました。




◇      ◇      ◇



 空が以前よりも高くなったなあと思える、そんな晴れた日の午後でした。
 この季節、紅葉にはまだ少し早いかなと感じながらも、その兆しは木々の葉の中に表れている事に私は気付いていました。
 見た目にこそ夏の間と変わらない様子でしたが、そこに息づく生き物達の変化も含めて、この場に立っているだけでも全てを感じ取れるのが何とも不思議でした。こうした生活を続けている事で、私も自然の一部として迎え入れて貰えたという事なんでしょうか。
 山の麓にある雑木林の中でナタを持ち、私はそんな想いを巡らせながらも、枯れている適当な枝を見付けてはそれを薙ぎ払う作業を繰り返していました。
 切り落とした枝は後で一ヶ所に集め、背負子にくくりつけて持って帰って薪として使います。
 かなり払ったかなと思える所で一旦作業を終え、それらを集めて一抱えしながらその場所へと向かいました。そこには既にハナコちゃんとタロウ君が居て、同じ様に抱えてきた枝を適当に積み上げていました。
 私もその場に抱えてきた枝を投げ出し、首の汗を手拭いで拭いました。既に何度かの往復で、その量はかなりのものになっていました。

「随分集まったよね。これだけあれば十分かな?」
「そうね。今日はこの位にしましょうか。後は背負子にくくるだけね」
「では枝の長さを揃えてしまいましょう。大分馴れてきたので私がやりましょうか」

 そう言いながら私は手近な大枝を引っ張ると、ナタで適当な長さに分断していきます。
 ナタというものをこれまで一度も使った事の無い私が、こうした作業に従事出来るなんて思いもしませんでしたけど、今ではそれを嬉しいと感じていました。何でもそうですけど、こうして身体を動かして働けるというのは本当に素晴らしい事だと思います。
 再び額に汗する中、少し離れた傍らでは、タロウ君が切り揃えた枝をまとめて紐でくくっている姿が見えました。いつもだったら『ああ、違うよ姉さん。もっと長さを揃えてくれなきゃ薪として使えないよ』などと口煩く言ってきたりするのですが、どうやら今日は合格みたいです。
 それに安心して、再び枝へと集中を戻したそんな時、突然ハナコちゃんが変な事を言い始めました。

「タロウ。悪いんですけど、私とマルチお姉さんの背負子分も作っておいてくれるかしら?そして自分の分だけ持って先に帰っていなさい。私たち二人は後から戻りますから」
「え?どうして?これからどっか行くの?」
「あなたは知らなくてもいいんです。女の子同士の大切なお話なんですから。いい子ですから、ね?」
「ちぇー、分かったよ。でも、もし秘密の場所とかだったら、後で必ず教えてよ?」
「そんなんじゃありませんよ。じゃあ、後をよろしくお願いしますね」

 そう言うと、まだ作業を続けている私の背中を叩きながら「行きましょう」と促します。
 一体何なのか訳が分からないまま、仕方無く作業を中断すると、「すみませんけど、後お願いします」とタロウ君に一言添えてその場を離れました。既にハナコちゃんは山の中へと入っていきます。
 腰の入れ鞘にナタを戻して、私は急いでその後を追いかけました。

「…ハナコちゃん待ってください。一体何処に行くんですか?」
「もう少し先です。いい所を見付けたんですよ」
「いい所?…それだったらタロウ君に教えてあげれば……」
「後で教えます。とりあえずは二人で行きましょう」

 そう言いながら彼女は横に並んだかと思うと急に手を握り、次にはそれを大きく振りながら嬉しそうにしています。まるで小さな子供みたいな彼女のそんな様子に、私は少し困惑していました。
 一緒に暮らす様になってからかなり経つにも関らず、私は彼女のそんな気まぐれな部分が未だ理解出来ないでいました。機嫌が良いと思ったら急に落ち込んだり、その逆もあったりと、いつも唐突なので予想すら出来ないんです。
 それでも小さい子の前では絶対にそうした姿を見せず、誰にでも分け隔ての無い良いお姉ちゃんでしたが、何故か私の前でだけはそんな一面を見せ続けていました。
 そしてこうした機嫌の良い時には、まるで小さい子供の様にぴったりとくっついて離れませんでした。皆に内緒でこうして私を誘い出し、自分だけの秘密の場所を見せてくれる時は特にそうです。
 一度目は、かなり山奥の二十メートルはありそうな大きな滝。二度目は真夜中の平原に沢山の光りを放つ平家ホタルの群生地。そして今回は三度目でした。

『見て見て。ねえ、お姉さんあれ見て!』

 私は、そうした場所でのハナコちゃんの喜び様を思い出していました。
 私の腕にギュッとしがみ付いて得意そうに喜んでいるそんな姿は、私から見ても凄く可愛いと思いました。そして、そんなにまでして慕ってくれる事を嬉しいなと感じていたのも確かです。
 でも、そんな気持ちも、ここから出られないという面からすれば、必ずしも手放しでという訳にはいきません。
 そんな理由からか、彼女に対する私の心の中は常に複雑でした。素直に喜びたいのに喜べないそんな苛立ちを、心の何処かに持っていたからかもしれません。
 私の気持ちを知ってか知らずか、隣ではハナコちゃんが相変わらず手を繋いで嬉しそうに歌っています。


つぶどん つぶどん どんつぶどん
泥田の中の どんつぶどん
つぶどん つぶどん どんつぶどん…



 その姿に、私は知られない様ため息をつきました。それでなくても、今日は少し体調が思わしく無いんです。
 今までなら、そうした不調は身体の場所と程度が特定出来たのですが、この身体となってからは自分の事なのに「何となく」といった感覚でしか分からないので困っていました。
 その点では、子供たちが訴える疾病もまた同じでした。でも、幸いにして…というか、私はまだ腹下し以外を言ってくる子を知らずにいました。
 ハナコちゃん曰く、これから冬に向けて風邪を引く子も増えるとかで、それをこじらせない様にさせるのが大変なんだそうです。そして、それは年長組の大切な役割だとも言っていました。
 大病になっても、ここにはお医者さんが居ません。それだけに健康管理には人一倍気を付けなければならない事を私も痛感していました。

「…お姉さん。マルチお姉さん?!」
「…え?…あ、はい!」

 慌てて返事をしていました。考え事で、すっかり上の空だった様です。

「どうされたんですか?あまり顔色も良く無い様ですし、少し疲れたんじゃありません?」
「い、いいえ大丈夫です。疲れて無いとは言いませんけど、今の身体がまだ完全には馴れていないだけですから。気をつけていないと直にお腹を下したりしますし、ロボットだった頃よりも神経を使わないと駄目なんですよね」
「クスクス。暑いからって、お腹出して寝ていちゃ駄目なんですよ?…でも、今日の場所に行けば、そうした症状も緩和されるかもしれません」

 いつにも増して自信たっぷりのそんな様子に、私は思わず聞き返します。

「…それって、薬草が採れる場所とかですか?そういえば前に伊吹防風という人参に似た植物があるって言ってましたよね。胃腸の整腸や風邪にも効く万能薬だとか…」
「ええ、春が最も多いんですが、セリ科の多年草なので今でも採れます。その場所もいくつか見当は付けているんですけど、それはまた次回という事にしましょう。今日行く所はそれとはまた別なんですよ」

 相変わらずそこに行くのが楽しくてたまらないといった様子で、ハナコちゃんは笑顔を繰り返していました。
 そんな気持ちに、やっぱり少しでも応えてあげたい……。
 私は自分の中に元気を吹き込むと、繋いだ手を大きく振りながら、二人して「つぶどん」を歌いました。ちなみに、つぶどんとはタニシの事なんだそうです。
 そんな同道を続けていた私たちでしたが、突然ハナコちゃんは不満そうな声を上げました。

「マルチお姉さん。その耳カバーはずっと付けておくつもりなんですか?もうロボットでは無いのだから必要無いと思うんですけど…」
「これは……私が私である事への大切な証しなんです。気になるかもしれませんけど、どうかこのままにさせてください」

 私はハナコちゃんの手を放すと、両手で耳カバーを押える様にしてそう応えました。
 それはもう何度も繰り返された掛け合いみたいなものでしたが、彼女は相変わらず納得していない様子でした。
 そんな返事はとうに予想していたんでしょう。直ぐに口をとがらせると、後ろ手につまらなそうな表情で空を仰ぎ見ます。

「私、マルチお姉さんが寝ている時にその耳カバー、捨てちゃおうかなあって何度思ったか分からないんですよ?…だって、今のお姉さんには全然似合わないんですもの」
「ハナコちゃん。そんな意地悪な事言わないでください。これは私の大切なものなんです。それに、これが無いと今の浩之さんには分かって貰えませんから…」
「髪の色の事ですね。でも私、その髪の色の方が好きですよ。緑の黒髪って言うんですよね。美人さんの証明みたいなものではないですか」

 そう言ってクスクスと笑うハナコちゃん。それとは逆に、私はそうした自身の変化に依然戸惑っていました。
 髪の色の変化と共に、これまでの自分の面影までもが次第に失われていく様な、そんな恐しさをひしひしと感じていたからです。
 実際、ここしばらくは自分から鏡を覗いていません。
 皆と一緒に住んでいる家には直径にして十五センチ程の丸い雲台の付いた神鏡の様な鏡があって、高い位置にあるのでハナコちゃん専用となっていましたが、私も覗ける位置な事もあって、出来るだけ近づかない様にしていました。
 現実を見ていない事は十分に分かっています。でも、それを覗く事で、まるで他の人を見るかの様な浩之さんの表情が想像出来る様に思えて、そちらの方が私には遥かに苦痛だったんです。
 それを考えると、ハナコちゃんが経験した身体の劇的な変化は、私の想像を遥かに越えていました。はたして、私の様に悩む事は無かったのでしょうか…。
 実際、そうした時々の気持ちは、彼女にしか分からない事だとは思います。ですが程度の差こそあれ、自身の葛藤が全く無かったとはとても信じられません。
 それでも、彼女はその事実をしっかりと受け止め、自分の力を信じて努力し、そして乗り越えていったのだと私は感じていました。
 そして、そうした彼女の見掛けによらない力強さや逞しさ、その生き方に次第に惹かれていったのもまた事実です。
 …もし、私がこのままここに留まるのであれば、今の様な心配はする必要の無い事です。そして、それこそがここに居る子供たち…とりわけハナコちゃんの強い希望である事も…

「着きましたよお姉さん。あれですあれ!」

 私は首を振っていました。やはりそれは考えたくありませんでした。
 今、ここに在る私が自分の希望する道を選ぶというのは、もしかしたら既に罪深き事なのかもしれません。
 しかしそれでも、私は自分の意志を通したい。
 この世に生を受け、人と同じに生きる事を許された身であるのなら、その先で得たいものは、たった一つの我がままな希望だけなのですから。

「…お姉さん、どうされました?またボーっとしているんですか?」

 小首を傾げる様に覗き込んでくるそうした表情に一瞬驚きましたが、私は直ぐに笑顔を作ると、そのままフルフルと首を振っていました。
 そんな態度に少し怪訝そうな表情で見ていましたが、直ぐに元の笑顔に戻ると、さも当たり前の様に言いました。

「何を考えてるのか知りませんけど、良ければ一人で悩んでないで何でも相談してくださいね。もう、お姉さんは大切な家族の一員なんですから…」

 …私が彼女の立場だったなら、きっと同じ事を言ったかもしれません。
 それでも、そうした言葉が鋭く身体に突き刺さるのを私は感じていました。




◇      ◇      ◇



 勇壮な渓谷の中を、川面を添う様に一陣の冷たい風が吹いてきました。それは首だけを出した部分を優しく撫でながら、ゆっくりと川下へ吹き抜けていきます。
 そんな風の感触がとても気持ち良くて、私は「ふう」と声を出していました。
 サラサラと穏やかに流れる川面が一望出来るこの場所は、少し大雨が振って水かさが増しただけでも、再び川の中に沈んでしまう事でしょう。それを思うと、ここしばらくは晴れた日が続いて良かったと実感していました。

「どうですかお姉さん。お湯加減の方は」
「丁度いいですよ。やっぱり温泉はとても気持ちがいいですねぇ。…でも、私たちだけでこんな風に入っていていいんでしょうか?何だかタロウ君や他の子に申し訳無いです…」
「気にしないでください。帰ったら私から説明しますし、晴れれば明日にでも皆を連れてくるつもりですから。…それよりも、今はこうしてお姉さんと二人、のんびりと入る事が出来て本当に良かったです」

 手拭いで長い髪をアップにしながら、ハナコちゃんは嬉しそうに言ってきます。申し訳無い気持ちは相変わらずでしたが、その言葉を一寸だけ同感に思いながら、私も笑顔を返していました。
 私たちは、彼女が見付けたという川面の横の温泉池に身をゆだねていました。いつもは川での入浴ばかりでしたので、こうした湯浴みは本当に久しぶりでした。
 初めにハナコちゃんがここを見付けた時は、こうして人がゆったりと入れる程大きなものでは無かったそうです。それから時間を見付けては少しずつここに来ては自分の手で広げていったとかで、今では悠に大人三人が入れる程の大きさとなっていました。
 さらには川から用水路を通じて適量の水が入る仕組みになっており、若干高いお湯の温度も上手く調整されていて、まさに山奥の秘湯といった感じの趣ある作りになっています。

「ここを見付けてからは、大雨になったらどうしようかといつも心配しながら作業をしていたんですけど、一度もそうした事が無くて本当に助かりました。私、ついているんですねきっと」
「…そうかもしれませんねぇ。何をするにもハナコちゃんは人一倍頑張り屋さんですから、そのご褒美にって運がきっと味方してくれているんだと思いますよ」
「うふふ、お姉さんありがとう。何だかマルチお姉さんにそう言って貰えると、本当にそうかなって思えてきちゃいます」
「いえいえ。でも、もう一人でこんな山奥にまで入るのは今後は止めてくださいね。それを皆に約束させたハナコちゃん自らが破っては意味がありませんから。…まあ大丈夫だとは思いますけど、万が一という事もありますからね…」

 そんな私の言葉に、ハナコちゃんはペロリと舌を出しながらも「はい、以後気を付けます」と照れ笑いをしています。私も微笑みながら、久々にゆったりとした気持ちを感じていました。
 首全体までトップリと湯に漬かり、後ろにもたれながらゆっくりと目を閉じてみます。
 …本当に良い気持ちです。こんなにも伸び伸びとした気持ちは、ここに来てから初めてかもしれません。そのせいでしょうか、それまであまり気にしていなかった沢山の音が今日は不思議と耳に入ります。
 すぐ横を流れる川のせせらぎ、周囲りで響き合う虫の声、枝葉を擦らせる風の音、遥か上空を飛び交う鳶の鳴き声。そして、深い山の中へと帰っていく動物達の呼び合う声…。
 こうした自然の中に身を置いて、恩恵を僅かに頂くことで、身体の疲れを癒せるこの充実感。それはなんて贅沢で、そして素晴らしい事なんでしょう。
 浩之さんが居れば、是非ここに連れてきてあげたい。そして、そうした身体や心の疲れを、ゆっくりと優しくほぐしてあげたい…
 夢うつつの中で、私はそんな事を思っていました。

「……さん。…姉さん。起きてください。溺れちゃいますよ」

 そんな声が聞こえて、私は慌てて目を開けました。
 真正面から心配そうに覗き込んでいるハナコちゃんの顔がそこにはありました。

「……え?!あ!眠っていましたか?」
「ええ、しっかりと。そのまま放っておいたらブクブク沈んでしまう所でしたよ?」
「…す、すみません。すっかり落ち着いてしまって……」
「いいんですよ。そんなの気にしないでください。何なら溺れない様に支えていてあげましょうか?」
「や、やですねぇハナコちゃん。もう寝ませんよぉ〜」

 そんな言葉に相変わらずクスクスと彼女は笑っています。こうして二人で居る時の彼女は本当に無邪気で、まる母親に甘える子供の様な雰囲気がありました。
 そしてそんな言葉の通り、今でも私の側をピッタリとくっついて離れようとしません。
 それだけならいつもの事なのですが、今日は大胆にもそのまま膝の上に乗ってくると、私の首に両腕を絡めはじめました。

「ちょ、ちょっとハナコちゃん。そんなにくっつかないでください」
「ふふふふ、マルチお姉さん……」

 鼻がくっつきそうな程顔を寄せたかと思うと、次には子供の様にギュッと抱きついてきます。その瞬間、彼女の髪を支えていた手拭いがハラリと落ち、私の顔をかすめる様にして長い綺麗な黒髪がハラリと舞い降りました。
 フワッとした彼女の甘い髪の匂いを感じて、私はドキッとしていました。

「ど、どうしちゃったんですか?今日は随分と甘えん坊さんですねぇ…」
「…だって……こうしてマルチお姉さんと二人っきりなんて、本当に久しぶりなんですもの。…だから今日は、私がお姉さんを独り占め……ふふ……ふふふふ…」

 完全に自分の世界へ入り込んでいるそんな様子に、私はどうしたらいいか分からなくなっていました。
 仕方無く、その場を誤魔化す様に笑ってみましたが、結局は単なる引きつり顔にしかなりませんでした。誰かがこの光景を見たのなら、私たちの周りには百合の花が咲き乱れている様に見えたのではないでしょうか。
 長い髪がお湯に漬かるのも構わずスリスリとしてきながら、ハナコちゃんは耳元で囁く様に言いました。

「…お姉さん、もう、ここでの生活は馴れましたか?」
「…え?あ、ええ、もう随分と経ちますし大分馴れたと思います。農作業とか鶏の世話とか、掃除洗濯にしても勝手が違ったり経験の無い事ばかりでしたけど、ハナコちゃんやタロウ君や、そして皆が親切に何度でも教えてくれましたから…」
「…いいえ、それ以上に、マルチお姉さんには沢山助けて貰いました。私、マルチお姉さんには凄く感謝しています。お姉さんが居なかったら、本当どうなっていたか分かりません…」
「そんな。私は元々メイドロボットですから、人間の方のお役に立てる事が嬉しいんです。ですからそうした事は当たり前と思ってくれていいんですよ」
「いいえ!それは違います!」

 いきなりガバッと離れたかと思うと、そのまま私の肩に手を置いて真正面から向き直ります。
 起伏の激しい子だと分かってはいても、その突然さに私は驚きの目を向けました。

「お姉さんはロボットなんかじゃ無い!人間です!もう立派な人間です!タロウやサブロウ、そして他の子とも同じ人間なんです。…だから私たちと同じに甘えてくれていい、怒ってくれていい、そして我がままも言ってくれていい、そして、そして……」
「は、ハナコちゃん落ち着いてください。一体どうしたんですか?」

 彼女の両目に涙が光っているのを見て、私は慌てました。そして、何が彼女を激情させているのか知ろうとしました。
 でも、そうした余裕すら彼女は与えようとしませんでした。私が宥めるのも聞かずに、その勢いに任せて彼女は喋り続けました。

「…そして、そして叱ってもいい。ううん、叱って欲しい。小さい子も含めて、そして大きい子も含めて。そして、そして私も、私の事も叱って欲しいんです!……メイドロボットなんかじゃない。お姉さんは人間です。もう人間そのものです。身体だって、心だって、そして、その存在だって……それだけ私たちには大切な人です。ずっとずっと居て欲しい人なんです!」
「ハナコちゃん。それは……」
「そして…そして…マルチお姉さん!……皆の…私も含めた皆の……お母さんになってくれませんか?!…私たちに遠慮せずに何でも言ってくれるお母さんになって欲しい。…それにはお姉さん……マルチお姉さんじゃなき駄目なんです。そうじゃなきゃイヤなんです!!」
「ハナコちゃん!」

 間髪入れず、私は彼女の両肩を掴んでいました。そして肩で息をしている彼女の両目をしっかりと見据えていました。

「その時が来たら帰ります……そう、私は言った筈ですよ?…それはハナコちゃんも聞いて知っている筈です」
「…確かに聞きました。でも、まだその時は………そ、それに………」
「……それに?」

 思わず聞き返していました。自分でも急ぎ過ぎている事は分かっていましたが、今ここで甘い返事をする訳にはいかないと思っていました。
 浩之さんに会う為にも、それは譲る事の出来ない返事でした。

「……お姉さん、そういえば、調子が悪いのは直りましたか?…ここは温泉ですし、少し位の事ならあっという間だと思うんですけど」
「……え?」

 何を言ってるんでしょう?…またいつもの気まぐれでしょうか?
 話をワザと外そうとするそうした彼女の態度に、私は自然と肩の力を抜いていました。この後、彼女は全く関係の無い話をしてそのままという事が多かったからです。
 そして思った通り、まるで何かを思い出したかの様に別の話しを続けました。

「…私の時もそうだったんですよね。あれは草津でしたか。…温泉療法とかで、三月ばかり転地療養に出た事があるんですよ。虚弱に効果があると両親が聞きつけでもしたんでしょうね。執事とお手伝いさん二人を伴っての初めての長旅でした。客車も一等の貸し切りで、しかも診療ベッドまで搬入して……きっと、かなり費用がかかったんでしょうね。…そのくせ、見送りには誰一人として来ませんでしたけど……」
「…………」
「そんな訳で始まった療養生活でしたけど、場所が変ったからといって、生活そのものが大きく変ったかと言えばそんな事は無かったんですよ。相変わらず私は寝てばかりだし、外の景色と空気の冷たさが少し違った程度で……でも、温泉はとても気持ち良かった………そう、まるでここのお湯みたいに……」
「…………?」
「…でも、変ったのはそれだけじゃ無かったんです。それは、私も全然気付かなかった……そう、あの時も、こうして温泉に漬かっていたんですよね。ああ、気持ちいいなあ…って思いながら……」

 …スッ…と彼女は身を寄せると、再び私に抱きついてきました。私は身体を固くしたまま、耳だけを傾けていました。
 もう、今日はこうした話はしない方がいいのかもしれない……そんな事を考えていたその時です。

「……そして、急にお腹に痛みを感じて……ふふ、こんな風に……」

ドクン!

 彼女の手が伸びてきて、私のお腹に触れたと思ったその刹那!
 その内とも下とも思える場所から沸き上がってくる様な、これまで知覚した事の無い重い痛みに急激に襲われ、私は飛びあがりました。
 そのまま彼女の身体を突き飛ばすと、目の前の川へとバシャバシャ駆け込みます。
 そしてバシャンと勢いよく飛び込んだ瞬間、その冷たさに身体が反応してとたんに丸くなり、両膝を付きながら無意識のうちに下腹を両手で押えていました。
 そして涙目に、その流れていくものを私は確認していました。
 清流の中に垂らした、一筋の赤い流れ。…それは自然の流れにあって、自分の異質なものを原罪という名の元に溶かし込んでいる気持ちにさせられました。
 あってはならないそうした汚れが、私という人の手によってもたらされている……そんな罪の意識が、鈍痛と共に私を苛みます。
 目からポロポロと涙が溢れましたが、私はそれを止める術を知りませんでした。

「…お姉さん」
「来ないで!来ないでください!」

 こんな姿、誰にも見られたく無い!
 川下を目で追ったまま、私は拒絶の叫びをあげていました。

「…私が何かした訳じゃありませんよ。お姉さんの症状を聞いて、そうなのかなって思っただけですから」
「……酷い……こんなのって、こんな事って……」

 止まるという事を忘れたかの様に、両目からは涙が溢れ続けます。その時の私は、彼女の言葉が耳に届いていませんでした。
 一瞬、浩之さんの顔が浮かびました。けど、私は無意識のうちにそれを打ち消しました。どうしてそうしたのか、理由は直に分かりました。

「…酷い事なんか無いですよ。むしろ女性としてはおめでたい事じゃないですか…」
「!いやっ!触らないでください!」

 突然、背後から彼女に抱きつかれて私は逃げだそうとしました。しかし、その痛みからか思う様に身体に力が入らず、再びその場に膝を付く事になりました。
 背中を通して、温泉で温まった彼女の肌の温もりが感じられます。
 つかの間!突然に股間を触られ、今度こそ私は飛び上がりました。

「だめえ!!何をしているのハナコちゃん!?」
「…何って?ふふ、だってお姉さん、現実を見ようとしないんだもの。…ほら、こんなに綺麗なのに…」

 そう言って広げた彼女の掌には、私が初潮を迎えた証しがしっかりと示されていました。
 一瞬それに顔を背け、次の瞬間にはその手をひっ掴むと、強引に水の中に付けてバシャバシャと掌をこすります。そして流れ落ちたのを確認するとそのまま向き直り、今度こそ彼女との距離を取っていました。
 ハナコちゃんはされるがままにそれ以上何もせず、相変わらずニコニコしながら私を見ています。

「お姉さん、本当におめでとうごさいます。これでお姉さんは立派な大人の女性になったのですよね。今日はお祝いですから、帰ったら早速お赤飯を炊きましょう。こうしたお祝い事の為に特別にあずきが保管してあるんですよ。あ、でもこれはまだ皆には内緒ですよ?…そうそう、それに加えて、もっとおめでたい事があるんですよ。ふふ、何だと思います?…実は黙っていたんですけど、マルチお姉さんが待ちに待った浩之さんにいよいよ…」
「いい加減にしなさいハナコちゃん!!」

 私は怒りと共に叫んでいました。ここに来て、それは初めての事でした。
 彼女の方も驚いたのでしょう。それまでの浮かれていた表情が急激に変り、そんな戸惑った様子を私に向けてきます。

「な…何を怒っているんですか?…あ、もしかして私、やり過ぎてしまったのかしら?…だとしたら、お姉さんごめんなさい。だって私、とっても嬉しかったんですもの。これでお姉さんに子供とか出来て、そのままここで生活してくれたらいいなって、何だか自分の事の様に思えていたから…」
「…自分の事の様にじゃなくて、自分の事だから…ではないのですか?」

 その一言に驚いたのでしょうか。ハッとした表情のまま、彼女は口をつぐんでしまいました。
 私は尚も続けました。

「おかしいとは思っていたんです。ハナコちゃんがお友達としていたお人形さんの容姿でこの世界に来たのなら、元々のハナコちゃんの姿は何処に行ってしまったんだろうってずっと考えていました。…子供たち全員に聞いてみても、そんな身体が入れ代わる様な体験をした子は一人も居ませんでしたし、それに加えて、そうした疑問をハナコちゃんは口にしませんでしたよね。こうして二人きりの時ですら一度もです。…そして、私は元の身体を失い、肉体を持ってこの世界に現われた……」
「……………………」
「私、何でその事に気付かなかったのでしょうね。……少なくとも、髪の色が変っていった時には気付くべきだったんです。でも、こうした瞬間まで、私、気付けなかった……その事がとても……とても悔しいです……」

 ポロポロと私の目からは再び涙が零れていきました。そして、まさに自分の言葉通りでした。
 私は、気付くべきだったんです。こうした痛みを知る前に……。
 彼女の…ハナコちゃんの身体をまとって、この世界に現われたんだというその事に……。

「……どうして?…どうしてそんなに悲しむ必要があるんですか?…それこそが、お姉さんの一番の希望だったんじゃないんですか?…念願の、浩之さんの子供を産める身体になれたじゃないですか。これで浩之さんをこの世界に呼べば…」
「浩之さんを巻き込まないでください!」

 私は彼女の両肩を掴んでいました。一瞬、その表情に脅えが走ったのが分かりました。
 自分でも気がつかない程に、私は厳しい顔をしていました。

「…浩之さんを巻き込むのは止めてください。これ以上、こんな思いをさせないでください。…お願いします」
「……ど、どうして?…どうしてそこまで嫌がるの?…だって、女性なら誰しもそれを望むものじゃないですか。好きな男性の子供を産んで、自らの手で育てられるんですよ?…誰に何を言われる事も無く、自由な生活の中で伸び伸びと。今の子供たちだって、新しく誕生する命は嬉しいに決まっています。皆が祝福して、協力して、そして赤ちゃんがすくすくと成長していく姿を誰もが喜べるんです。こんなに素晴らしい事って無いじゃないですか」
「…ハナコちゃんは、あなたはそれでいいんですか?…この身体は元々あなたのものなんですよ?…ハナコちゃんの姿をした私が浩之さんの側に仕えている姿を見て、あなたは何も感じないんですか?」
「…クスクス……何を言ってるんですか。その身体はもう、マルチお姉さんのものではないですか…」

 するりと私の手を抜けると、すっかりと落ち着きを取り戻した表情でハナコちゃんはそう言い放ちました。

「…私はいいんです。これってきっとすり替えなんですよね。お姉さんの幸せな姿を見ていると、自分も幸せを感じられるんだって、一緒に暮らしてみて分かったし。…それに、今の私だって、まだそうした希望を捨てた訳じゃないんです。もしかしたらお姉さんと同じ瞬間をもう一度迎えられるかもしれない。そうしたら子供たちの誰かと……結ばれる事だってあるかもしれないんです…」
「………………」
「でも、例えそうならなくてもいいんです。そんな事よりも、こうして元気に動き回れて、皆の為に働く事が出来て、そうした元気な身体になれたその事だけで私、とっても幸せなんです。…向こうの世界に居たままだったら、きっと私、こうして誰かの為に一生懸命になれる事も無かった。それを嬉しいと感じる事もきっと無かった。そして…はたしてこの歳まで生きられたかどうかすら分かりません。…それを考えれば、そんな神様の気まぐれ位、どうという事はありませんよ…」
「…………………」
「…だから、ここで皆で一緒に暮らしましょうよ。実際何も無い所ですし、子供を育てるのに理想の環境とは言い難いですけれど、前の世界には無い幸せをここでは手にする事が出来ると思います。私も身を粉にしてでも働いて頑張って協力しますし、子供たちだって皆きっと助けてくれます。そうやって、互いに支えあいながら生き甲斐を持って楽しく一生懸命に生きていきませんか?…マルチお姉さん、お願いします。どうか、私たちの希望となってください。お願いします!」
「……ハナコちゃん………」

 目の前でペコリと頭を下げているハナコちゃんを、私は思い切り抱き締めていました。
 そして彼女の頭に顔を埋めながら、何度も何度もその頭をさすりました。髪から香る彼女の匂いを再び感じて、私はさらに両腕への力を込めていました。
 流れる涙が、そんな彼女の髪を濡らしていきます。そして、そんな私に応えるかの様に、ハナコちゃんもまた回した両腕に力を込めてくるのを感じていました。

 私たち二人は、そのまま抱き合っていました。まるで、未来永劫それが続くかの様に。
 そして、お互いの温もりを、そんな気持ちを、心を、そうやって交換しあうかの様に……

「……帰ります。私は、帰らなければならないんです」

 ピクン…と、彼女の身体が腕の中で反応したのが分かりました。私は構わず続けました。

「……ハナコちゃんは不思議に思うかもしれませんね。そうまでして、何故私が帰りたいのか。…再び元の身体に戻ってまで、どうして帰りたいと思うのか……」
「…………………」
「でも、ハナコちゃんはもう分かっているんじゃないですか?…ここでの生活を大切に思うハナコちゃんなら、私のそうした気持ちは既に気付いていると思います。…実際、一緒に暮らしてみて、ここでの生活は決して楽ではないという事が私にもよく分かりました。…でも、ハナコちゃんはそうした生活こそを生き甲斐と感じて、子供たちの面倒を一生懸命に見てきて、そして、そうした気持ちを皆が理解してくれて、だからこそ誰もが頑張れて、そして楽しく暮らせています。それは、あなたの力があればこそです。…そして、それが出来るあなたなら、きっと今の私の気持ちが分かる筈です」
「……嘘!そんなの嘘よ!」

 バッ!っと自分から振りほどく様に私から離れると、厳しい表情のままハナコちゃんは私の顔を見つめていました。
 それは、まるで般若を思わせました。それ程までに、彼女の顔には強い怒りが宿っているのが分かりました。
 変らぬ心のまま、私はそんな彼女を見据えていました。

「……マルチお姉さん……私、わたし…認めたく無い。そんなの認めたく無いよ……」

 一瞬、子供の様な泣き顔を向けるハナコちゃん。でも、私は首を横に振っていました。
 今の自分が非情なのは分かっていましたが、それでも尚、そうしなければならないと感じていました。

「認めたく無い!絶対に!!…どうして?…女の子の日を迎えて、ようやく浩之さんをこちらに迎えられる様になって、そして、向こうの世界では絶対に得られない女性としての幸せをようやく掴めたというのに、どうしてお姉さんはそれを拒むの!?」
「…私は拒んでいませんよ。拒んでいるのはむしろ、ハナコちゃんの方ではないですか?…私の希望を、ハナコちゃんはこうした現実だけで全て否定しようとしているんです」

 私は自分の股間に手を当てるとそれを写し取り、ハナコちゃんがやった様に目の前にかざしました。
 そんな私の手を、茫然とした表情のまま彼女は見つめていました。

「…今の私にとって、これは嬉しい事なんかじゃありません。何故なら、これは私の身体では無い証しだからです。…そしてハナコちゃん、それはあなたにとっても同じ事です。…こうして、自分の元の身体が私という他人に摺り替わって、それでも嬉しいと感じられる気持ちをいつまでも持ち続けられるとは、私にはとても思えませんし信じられません…」
「…………………」
「分かりますか?あなたにとっても、私にとっても、もはや選択の余地は無いんです。私があなたの身体をまとい、そして女の子の日を迎えたのであれば、もはやこれ以上、私はここに居てはいけないんです。居てはいけない存在なんです!」

 それはまるで、私の中に残る彼女の心がそう言わせているかの様でした。
 そして、そうした一言一言が、どこか帰巣本能を刺激するかの様に、深く自分の胸に突き刺さっていくのを感じていました。

 ハナコちゃんは青ざめた表情のまま、しばらく私を見つめていました。そして、バシャバシャと自分から振り切ると、そのまま自分の着物を掴んで元来た道を走りながら引き返していきました。
 その後ろ姿を、私は黙ったまま見つめていました。
 そして、ようやく帰れる時が来たんだという事を、とても寂しい気持ちの中で感じていました。


「朱夏の里 −第三章−」 へ続く.....