朱夏の里 〜 第三章 〜






 夕刻近くとなった通い馴れた山道を、私は背負子を肩に家路へと急いでいました。
 森の中は欝蒼として既にかなり薄暗く、馴れていなければ明かりが必要な程になっています。今は大丈夫ですけど、それでもこうした道を一人で歩くのは何とも心細く感じます。
 ですからそうした木々を抜けて、野原の広がる明るい場所へと戻ってきた時には、フゥと思わずため息が出ました。あとは農道とも獣道ともつかない細い道をたどって、いつもの様に家へと戻るだけです。
 でも…と、私は頭を振っていました。
 今日は戻るだけでは無いんです。帰ってしばらくしたら、今度はそこから出ていかなければならないのですから…。

 やがて、私は家に到着しました。
 そこは藁葺屋根のすっかり古びた家ではありましたが、ここに来てから皆と一緒に暮らしてきた我が家でもありました。

「ただいま〜。今帰りました〜」

 誰に言うともなくそう告げると、そのまま裏口から入って背負子を下ろします。
 そこには同じ背負子が縄も解かずに置かれていて、思わずクスッと笑いました。あんな状況でも、ハナコちゃんはちゃんと自分の分を持って帰っていた様です。
 薪を括ってある麻縄を両方の背負子とも外して、それを部屋の一角にある薪積み場に抱えて持っていきます。タロウ君が既に整理をしたのでしょうか。そこには今日の分である薪が、きちんと積んで置いてありました。
 いつもながらの几帳面さに感心しながら、その山をいたずらに崩さない様、さらに上へと積み重ねていきます。
 それが終った後、私は台所の井戸から水を汲むと足洗いの桶に入れ、手拭いを濡らして顔や手足を拭いました。
 次には割烹着を羽織って台所に立つと、その日に収穫され置かれていた野菜や茸を取り上げ、再び井戸水から土の付いた部分を丹念に水洗いしていきます。
 その中から人参と大根の皮を剥いて千切りにし、さらに里芋の皮を剥いて適当な大きさに切り、その中に舞茸や平茸を適当に刻んで、沢山保管されていた鰹節で作ったダシ汁の中にそれらを加えていきました。
 次には台所全ての竈にカチカチと火を入れて、勢いが出てきた所でそれらをゆっくりと煮込みながら、さらには途中から刻んだ油揚げ(私のお手製なので、油揚げには見えないかもしれません)を入れていきます。
 料理と言うにはあまりにも適当で簡単なものですけど、大人数ともなるとこうした内容がまさに一番でした。ハナコちゃんでしたらもっと凝ったものも出来るのですが、今日だけは許して貰うつもりです。
 そうこうしているうちに、先程火を入れたご飯釜の方からもブツブツと泡が立ち始めます。こうしたお釜のお米を研いで水を張っておくのはサブロウ君など歳中の子供たちの役割ですが、そうした仕事を今日もきちんとこなしてくれたので助かりました。
 初めチョロチョロ中パッパ。…そうした加減が初めは全く分からなくて、炊けてないシンのあるご飯やおコゲだらけのご飯を作ったりと、それはまさに失敗の連続でした。
 その度に皆からは随分と文句も言われましたが、その甲斐あってか、今では結構美味しいご飯が炊ける様になったと思います。
 丁度いいと思う所で藁を一掴み入れ、バアッと燃え上がったのを見届けて火を落とし、人心地にウンウンと頷きます。今日もきっと、美味しいご飯が炊けた事でしょう…。
 八割程火が通ったと思う所で鍋を上げ、私はそのまま食堂としている大広間の囲炉裏にかけました。そして木蓋をし、上に木杓を置きます。あとは囲炉裏に火を入れて、少し煮込めば直にでも食べられる筈です。
 火の後始末をして全て消えたのを確認した後、私は割烹着を脱ぐと、そのまま寝室として使っている部屋へと上がりました。
 そこでようやく農作業用の着物を脱ぐと、箪笥から浴衣を出して着替えます。
 帯を締め、これで全部終わったかなとホッとした時、ふと箪笥の上に目がいきました。
 それは、和紙に炭で描かれた可愛らしい一枚の絵でした。

『上手に描けましたねー。ところで、これは誰なんですか?』
『これねー、マルチおねーちゃん。キミコうまくかけたでしょ〜?』
『……そ、そうですねー。とっても似ています〜』

 小さなキミコちゃんが一生懸命に描いてくれた私の似顔絵。
 耳カバーの部分が鬼のツノみたいに思えて、思わず『鬼さんみたいですねぇ』と言ってしまいそうになったのを、私はふと思いだしていました。
 そのまま手に取り、しげしげとそれを眺めます。
 …長い様でいて、本当にあっという間でした。そうした思い出の一つ一つが、私にとっては宝物でした。
 それを再び箪笥の上に置き、私は台所へと戻りました。そして向こうから履いてきた突っ掛けに足を通すと、もう一度火を確認してから家を出ました。
 外の空気は既に冷たく、麓には夕暮れが迫っており、どこもかしこも夕焼けの綺麗な色に染まっていました。
 そして、皆で過ごした小さな藁葺屋根でもそれは同じでした。嬉しさが一杯に詰まった、まさに私たちのお城でした。

「本当に楽しくて、素晴らしい生活でした。こうした日々を、私は一生忘れません…」

 一礼し、これまでの感謝を一心に込めました。
 そして、今は誰も居ないその家をゆっくりと見つめた後、振り切る様に背を向けました。
 子供たちが何処へ行ったかは分かっています。もしかしたら、また狐のお面を付けて私を待っているのかもしれません。
 でも、その方がいいと私は感じていました。自分の泣き顔は見られても、子供たちの泣き顔は見たくありません。
 それに、ハナコちゃんは……
 パンッ!と自分の頬を両手で叩いて気持ちを奮い立たせながら、私はその場所へと歩いていきました。



◇      ◇      ◇



 そこは、幾度となく潜ってきた思い出の深い鳥居でした。それにもたれ掛かる様にして、タロウ君は私が来るのを待っていました。
 素顔はすっかりと夕焼けに染まり、柱の色に負けない程でした。そして、そんな左の頬には、まるで大きな紅葉の様な跡がクッキリと付いていました。
 それが何かは、見て直に分かりました。

「…僕、やっぱり出来なかったよ。…だって、ハナコ姉ちゃんの剣幕からじゃ、マルチ姉さんが本当にそう望んでいるなんて思えなかったもの…」

 顔を向けると同時に、申し開く様にして彼はそう言いました。
 私は、その頬に優しく自分の手を当てました。そして、そんな表情見るにつけ、何だか可笑しい様な、それでいて涙が潤む様な気持ちになりました。

「…ごめんなさい、私の為にこんな目にあって。ハナコちゃんにはちゃんと私から説明しておきますから、どうか怨まないであげてくださいね」
「やだなあ、こんな事位で怨む訳無いじゃない。だって、僕、ハナコ姉ちゃんの気持ちも分かるもの。それに…マルチ姉さんと初めて会った頃の僕だったら、きっと何も考えずに言われた通りにしていたんじゃないかなって思うから…」

 私は黙ってうなずきました。
 そんな様子に、彼はホッとした笑顔を向けてきました。

「やっぱり、マルチ姉さんの顔を見れて良かったよ。正直今は、そう思ってる。…へへ、実は初めてなんだよね。こうしてハナコ姉ちゃんに逆らったのって。…だからさ、マルチ姉さんも、ハナコ姉ちゃんの事を怨まないであげてね。そうでないと姉ちゃん、凄く寂しい気持ちになると思うから……」

 そんなタロウ君の言葉に、私も笑顔を向けました。
 そしてそのまま彼の頭に手を回し、先程のハナコちゃん同様、ギュッと抱き締めていました。

「…もう、すっかりお兄ちゃんなのですね。本当、とても嬉しいです。これで……私も安心して帰る事が出来ます…」
「…やっぱり、帰っちゃうの?…ここでずっと暮らすって訳にはいかないの?」
「……ええ。私の帰りを待っていてくれる人が、向こうの世界には居ますから。…タロウ君みたいに素直じゃなくて、食べ物なんかも好き嫌いの多い人ですけど、そんな心優しい所は本当にそっくりなんですよ…」

 私は自分の腕を解くと、再びタロウ君を見つめました。
 先程までの笑顔は消えて、何かを耐えている様なそんな表情に、私は再び涙線が緩むのを感じていました。

「…ハナコちゃんの事を、これからもずっと支えてあげてくださいね。…きっとこれからの生活は、タロウ君の力が何よりも必要になってくると思いますから…」
「……分かった。大丈夫だよ姉さん。だって、僕たち今までだってそうやってきたんだから……何も心配する必要なんて無いからね……」

 私は黙ってうなずくと、そのままゆっくり境内へと歩いて行きました。そこには子供たち全員が先程から集まっていました。
 そして、その先頭にはハナコちゃんが、静かな表情のまま私を待ち構えていました。
 子供たちはハナコちゃんの方をチラチラと伺う様にしています。いつもとは違うそうした雰囲気にどうしていいか分からず、オロオロしている様にも見えました。
 私はそんな彼女の前まで足を進めると、まるで対峙するかの様に正面に立ちました。

「……どうあっても、帰られるつもりなのですか?」

 彼女の言葉に、私は黙ったままうなずきました。
 夕暮れが次第に深くなり、やがて訪れる夜のとばりが、水平線から顔を覗かせているのが分かります。

「…タロウったら…あの子ったら…浩之さんをここに呼ぶのは嫌だって……。お姉さん、一体あの子に何を吹き込んだのですか?」
「……………………」
「答えてください!一体あの子に何をしたんです?あの子の協力が無かったらもうどうにもならないじゃないですか!…折角…折角その時期が来たっていうのに……お姉さんの大切な人を呼べるっていうのに……あの子ったら………」

 私はフゥと肩の力を抜きました。
 彼女にすれば、そんな態度が余裕に見えるのでしょうか。その表情に益々険しさを増してきます。
 軽く深呼吸をした後、私は話し始めました。

「…ハナコちゃん。私がここに来た当初、一番恐かった事って何だか分かりますか?……私はタロウ君が何よりも恐かったんです。私の素性やそれまで考えていた事や悩んでいた事が、喋ってもいないのに全て筒抜けでしたし、何よりも私をここへと連れてきた張本人だと初めは思っていましたから。…けど、実際には彼の力だけでは私をここに呼ぶ事は出来ない……それに加えてハナコちゃん、あなたの望みと子供たちの協力、そして…私のそうした思いが必要なんだという事を後になって知りました……」

 私は、タロウ君の事について話していました。
 ここに来た当初、そうした理由から彼には意図して近付かなかった事。
 でも実際には、彼は私が思う様な不気味な存在では無く、何処にでもいる明かるく気さくで元気な男の子だった事。そして私がそう信じられるまで、彼の方から粘り強く自分の事を何でも話し、それを行動で示してくれた事。
 幼少の頃から、こうした力に目覚めていた事。その為に、友達どころか家族からも気味悪がられて、完全に孤立していた事。
 そんなある日、突如この世界に引き込まれ、右も左も分からずにオロオロとした事。そして、ようやく自分以外の人が居ると気付いて、それでも初めは自分の事を知られるのが恐くて姿が見せられなかった事。

「…そんな時、タロウ君はハナコちゃんに見付けられたんですよね。そしてその後は……」
「…ええ、覚えています。とても脅えた目をしていて、走って逃げようとするのを私が慌てて後ろから抱き締めたんです。…その時、もの凄く暴れて、思いきり引っ掻かれて、あげくには噛みつかれもして……それでも何とか安心させようと思って、大丈夫だから、誰もあなたを傷付けないから、安心していいからって何度も何度も言い聞かせて……」

 当時を思い出したのか、ハナコちゃんはうつむきながら次第に小声となっていきました。
 そんな様子に、私は優しく話しかけました。

「…不思議な話ですよね。ハナコちゃんからそうされているうちに、彼の力は次第に封じられていったのですから。…そして、その後はごく普通の男の子として、ずっとここで生活する道を選んだんだって聞きました。そんな話の中で、タロウ君、言っていましたよ。ハナコお姉ちゃんには今でもとっても感謝している。その気持ちを胸に、僕はここで頑張っていきたい…って」
「…………………」
「…タロウ君のそうした気持ち、どうか分かってあげてください。決してハナコちゃんを困らせようと思っての事では無いのですから。…むしろ、そうして自分から考えて行動出来る様になった事を褒めてあげてください」

 私は慰めようと、ハナコちゃんの肩に手を掛けました。
 その途端、彼女はそれを思いきり振り払うと、より厳しい表情で私を睨みます。

「…それがどうしたと言うんですか?褒めてあげて欲しい?…フフ、そうですよね。お姉さんにしてみればその通りですよね。だって、そのお陰で愛しい浩之さんの所に帰れるんですものね。……結局、あの子にしたって私の事を裏切ったには変わり無いじゃないですか。感謝だか何だか知りませんけど、本当に手伝って欲しい時に手伝ってくれないんじゃ無意味って事ですよ!」
「ハナコちゃんそれは違います。タロウ君はあなたに気付いて欲しかったんです。我を通すだけでは誰も幸せになれないんだって事を分かって欲しいんです」
「何が我ですか!何が気付いて欲しかったですか!」

 その激しいまでの感情に、私は自分の表情までもが変わっていくのを感じていました。
 ハナコちゃんは尚も自分の言葉を続けます。

「私だって、自分のやっている事がどういう事か位分かっていますよ!けど、だからって指をくわえて見ているだけじゃ何も叶えられないじゃないですか。…お姉さんだって、このままでは向こうの世界へ帰ってしまう……だから、だからこうして帰らないでと何度も何度もお願いしているんじゃないですか!」
「……………」
「…私…マルチお姉さんが来てくれて本当に嬉しかったんですよ。…今まで、ずっと私がお姉ちゃんで、何をするにしてもお姉ちゃんどうする?これはどうしたらいい?って必ず皆が聞いてくれて、そうして頼ってくれて……でも、でも私だって、私からだって誰かに頼りたい事だってあるんですよ。…そして、上手に出来たら褒めて欲しいし、いけない事をしたら叱っても欲しい……そうやって、誰かに思いきり甘えたい事だってあるんです!」
「……甘えたいから…自分より年上の人に構って欲しいから……だから私をこの世界に呼んだのですか?」
「そうですよ!いけませんか?お姉さんだって浩之さんの心に触れてからは会いたい会いたいの一心だったじゃないですか。それと私の希望と何処が違うというんですか!そうして強く望んで行動したからこそ、お姉さんは浩之さんと結ばれたんじゃないですか!結ばれる事が出来たんじゃないですか!…そんなお姉さんに私をあれこれ言える資格があるんですか?!ねえ!教えてくださいよ!!」

 私には、そうした彼女のいきり立つ気持ちが痛い程よく分かりました。
 ですから、そんな言葉が自然と口を付いたのかもしれません。

「…私にはそんな資格などありません。だからハナコちゃんの言う通りかもしれません。…本当なら浩之さんだって、私じゃない人間の女性の方と一緒になって、ごく普通の幸せな家庭を築くべきなんです。でも、私というロボットの為に、自らその人生を変えられてしまっているんです。それは、全て私の我がままからです。私が…ロボットのくせに、その人間の方を愛してしまったからなんです…」
「だって!お姉さんはもう!」
「聞いてください。だからこそ、私は、浩之さんに全てを捧げ尽くしたいと思っています。こんな私を愛してくれた人だからこそ、私はその人の為にも、そして自分の為にも、ごく普通の男女としての生活をその世界で築いていきたいと思っているんです。それは、もしかしたら叶わぬ夢かもしれません。…けど、こうして私が人間になったからといって、子供を産める身体になったからといって、だからここに浩之さんを呼べばそれでいいという単純なものでは無いんです!」

 私は本音を口にしていました。
 そして、ここに来てからずっと感じ続けていた違和感を知りました。それはまさに、現状を良しとする安易な気持ちとの葛藤にあったんです。
 身体の内から常に囁かれていた甘言を、今一度、私は振り払いたいと思いました。

「ハナコちゃんも知っている様に、向こうでの生活は確かに理想とは言い難いものです。例え浩之さんと一緒に街を歩いていなくても、そうした悪評とも言える噂が、私たち二人には依然伸し掛かってきます。でも、正直に言って、それを昔ほど辛いとは感じていません。…何故ならば、私たちにはそれまでの積み重ねがあるからです。どうやって生活していけばいいか、どう二人の関係を保っていけばいいのか、いつも浩之さんと会話をしながら決めたり、時には友人の方や浩之さんのご両親や私のお父さんと相談したり、それでも意見が合わなくて二人して喧嘩になったり、ずるいと思いながらも自分から泣いてしまったり、浩之さんから怒られたり、逆に私の方から怒ったり、そうやって、不器用ながらもこれまで何とか上手くやってきたんです」
「…………………」
「そして、私はそうやって暮らしてこられた向こうでの生活を今でも大切に思っています。苦労も多いですが、楽しい事も本当に多かった……そして、そうした気持ちを育んでくれたのが、私たちの生まれ育ったその世界なんです!」

 それはもしかしたら単なる我がままでしか無いのかもしれません。自分勝手な言い草でしか無いのかもしれません。
 それでも私は、自分が自分である事の意味を再び、自らの言葉から感じていました。
 これだけは譲れない………もう一度、私はそれを口にしました。

「……帰ります。浩之さんの為に。…そして、自分の為にも…」

 私は静かにハナコちゃんを見つめました。
 穏やかに見えるその表情からは、冷たいまでの視線が私に向けて真っ直ぐに伸びているのが分かります。
 納得していない……そう、私は直感していました。

「…それがお姉さんの言い分ですか?……ふふ…本当にそっくりですよね……こうやってお互い譲ろうとしない所なんかも、本当によく似てる。…ふふふふ、私、ようやく分かったんですよ。……何でこんなにもお姉さんに執着しているんだか……今、初めて……」

 その瞳に怪しい光を感じて、私は一瞬たじろぎました。
 私のそんな表情を面白そうに見つめながら、ハナコちゃんは続けます。

「…他の子の時もそうなんですけど、お姉さんを此処へ迎える前、私はもの凄く心が高まるのを感じていたんですよ。タロウから聞いてどんな人なのかもある程度分かっていましたし、浩之さんという恋人の方の存在も知っていましたけど、何よりも自分より年上の方が来てくれるかもしれないと思う気持ちで尚更だったんでしょうね。……でも、そう感じた中に、ちょっぴり辛い気持ちがあったんですよ。何だろう?ってずっと思ってはいたんですけど……それが、お姉さんが此処に来てからは次第に大きくなっていって……そして今、はっきりと分かりました…」
「…それってまさか……」
「…分かりますか?…ふふふふふ、まさにその通りです。私、結局はお姉さんに嫉妬していただけなんですよね……そんな差別のある世界に居ながらも、何とかお互い頑張っていこうと二人一生懸命になって、そうした男性の心をしっかり掴んでいるのが羨ましく思えて、そんな姿がとても輝いて見えて……私にそっくりな容姿なのにって感じて………ふふふ、なあんだ、そうだったんだ………」

 ユラリ…
 彼女の身体が不自然に揺れたと思った瞬間、腰の入れ鞘に手を当てたかと思うと中のものを引き出していました。
 途端に、それまで静観していた子供たちが騒ぎ始めます。

「きゃー!やめてーハナコお姉ちゃーん!」
「ダメー!そんなことしちゃダメー!」
「皆来ないで!いいから私から下がっていなさい!!」

 彼女の一喝で、子供たちの動きがピタッと止まります。しかし、その表情は可哀相な程青ざめていて、小さい子は一様にガタガタと震えているのが分かりました。
 そして、そんな彼女の右手には、先程まで農作業として使っていたナタが握られ、冷たいまでに鈍い光を放っています。
 下の子にそんな思いをさせてまでどうして!と私は彼女を睨み付けました。

「…まるで、郭公と時鳥ですね。そのお話しは知っていますか?ハナコちゃん」
「…当然知っていますよお姉さん。昔々、中睦まじく暮らしていた二人の姉妹のお話ですよね。一つの焼いたお芋を二人して分ける時、お姉さんがわざわざ美味しい部分を妹にって渡して自分は外側の固い部分を食べたというのに、馬鹿な妹はお姉さんの方が良い所を食べたんじゃないかと疑って、包丁を持ちだしてお姉さんのお腹を裂いて調べたんです。……結局は妹の一方的な勘違いで、二人して悲しい鳥へと姿を変えたという救いの無いお話でしたけど……」
「……そこまで知っていながら、ハナコちゃんはそれを繰り返すつもりなのですか?」

 私は出来るだけ静かに尋ねました。刺激しない様にというよりは、自分の感情が高ぶるのを抑える為でした。
 それに意を介する様子も無く、ハナコちゃんは不敵な微笑みを見せながら、ユラユラと近づいてきます。

「…私はね、そのお話を初めて知った時、そんな馬鹿な事をする妹がはたしてこの世に居るんだろうかと信じられない気持ちだったんですよ。…食べ物が少ない時代とは言え、仮にも中睦まじく暮らしてきた姉妹ですよ?…以前からお姉さんを恨んでいたのならいざ知らず、そんな事は有りえないというのが私の素直な感想だったんです…」
「………………」
「…でもね、こうしてマルチお姉さんと暮らしてきて、その気持ちが今は少しだけ分かった気がするんですよ………きっと、優し過ぎたんですよね、その妹のお姉さんって。…その時だけじゃなくて、普段からとっても優しくて、そんなお姉さんが妹は大好きで、お姉さんのそうした愛情に甘えるだけ甘えて……そしてそれが当たり前だといつしか思って……だから…一寸した自分勝手な猜疑心から、あっという間に憎悪が膨らんで……それが自分でも…どうしょうもない程に…大きく………ふふ……」

 口元に浮かぶそうした笑みに、私は自分が抑え切れないのを感じていました。
 私は今一度ハナコちゃんを見据えると、絞り出す様に言いました。

「そこまでの判断が出来て、そうする事で全てが失われると分かっていて、それでもあなたは自分の思いを遂げたいと本気で考えているのですか?本当にそうなんですか?!ハナコちゃん!!」
「…………ふふ……ふふふふ……人間って悲しい生き物ですよね……そう、頭では分かっていても、どうしようも無い事ってあるんですよね。…もう……その事しか頭に無くなって………後の事はどうでもいいって思えて……」

 グワッ!
 ナタを持つ腕を振りかざし、彼女は涙を流しながらも恐ろしいまでの形相で私を睨み付けてきます。
 もう、この距離では逃げる事も叶いません。背中を見せれば、迷う事なく彼女はナタを振り下ろすでしょう。
 私は、覚悟を決めました。

「…分かりました。お芋の美味しい所を私が食べたと思うのなら、後はハナコちゃんの好きにしてください……」
「……この期に及んで命乞いですか?……何故?……」

 そんな彼女の言葉に、私はゆっくりと首を横に振りました。
 そしてその気持ちのまま、言葉を口にしました。

「…私は、郭公となって、飛んで浩之さんの元へと戻ります。そして、謝ろう思っています。…この先、ご一緒する事が出来なくて本当に申し訳ありませんと、その一言だけでも…」

 その時私は、そうなるだろう事を確信していました。この場を逃れて何とか生き延びようとは、何故か考えませんでした。
 そして、どうしてだろうと思いました。答えは、直に見つかりました。
 彼女と、そして子供たちと過ごしたそんな日々が、私にその瞬間を振り切るだけの力を失わせていたんです。そして、それこそが、私が一番に求めたいと思っていた「人の縁」そのものだったと気付きました。
 郭公となったお姉さんは、妹に包丁を突きたてられるその一瞬まで…いいえ、もしかしたらその後までも、そうした縁を感じ取っていたのかもしれません。

 私は、ゆっくりと目を閉じました。もはや、何の感情もありませんでした。



◇      ◇      ◇



 夏の早瀬川は昼の日の中にあってキラキラと眩しい程に美しく、そうした水の清らかさは、まるで生命に満ちあふれているかの様でした。
 日の光は既に天頂にあって、陽気は汗ばむ程になっています。それでも川原に居るせいか、思ったよりも過ごしやすいと私は感じていました。
 川辺に立ち、そうした光景に目を落ち着けます。
 そんな時、ふと上流から優しく吹き抜けてくる風を感じました。それはまるで、はるか昔の記憶の様でした。
 いま一度、私は胸元に抱えた燈籠船に目を向けました。

『…僕、やっぱり出来なかったよ。…だって、ハナコ姉ちゃんの剣幕からじゃ、マルチ姉さんが本当にそう望んでいるなんて思えなかったもの…』

 そうした声が聞こえてくる様に感じて、私はクスッと笑いました。
 今にして思えば、その一言が、全てを救う結果になったのだと思います。そしてそれこそが、私がそこに存在した意義そのものだったのかもしれません。
 私は屈むと、水の流れに手を入れました。
 思ったよりも冷たくて、そんな感覚が懐かしくて、私は流れの中にあるそうした自分の手を眺め続けていました。



◇      ◇      ◇



「姉ちゃん!もう止めろよ!」
「キャア!な、何をするのタロウ!」

 突然の叫び声に私は目を開けました。見ると横から飛び掛かっただろうタロウ君がハナコちゃんを抱き込んで草原に倒れ、揉み合っている姿が目に入りました。

「は、放しなさいタロウ!姉さんに何て事をするの!」
「姉ちゃんこそいい加減その手を離せよ!冗談ごとじゃ済まないんだぞ!」

 すっかり押え込んだハナコちゃんの腕を取り、草原に何度も何度も叩きつけています。
 それに抗しきれなくなった彼女は、握っていたナタをようやく放すと、再びそれを求めようと暴れ始めました。
 業を煮やしたのか、タロウ君はハナコちゃんの胸ぐらを掴むと、グイと自分の方へと引き寄せます。

「タロウ!あ、あなた姉さんにこんな事をしてただで済むと思って…」
「ただで済まないのは姉ちゃんの方だ!!」

パァン!

 そう言い終らないうちに、平手がハナコちゃんの頬に炸裂しました。
 その大きな音と同時に、あっという間に怒りが剥がされたかの様な驚きの表情が彼女に浮びます。
 やがて、そんな叩かれた頬を両手で押えると、信じられないという風に大きく目を剥き、唇をワナワナと振るわせながらタロウ君を見つめました。

「…姉ちゃん。もういいだろ?これ以上はやっちゃいけないよ。いけない事だよ」
「…タロウ…あなた……私に手を……手を……よ、よくも……」
「当たり前だろう!それがこれまで散々お世話になったマルチ姉さんへの態度かよ!我がままもいい加減にしろよ!」
「何が我がままよ!あなたに私の何が分かるって言うのよ!!」
「そんなの分からないよ!分かりたくもないよ!!」

 そんな突然の事で茫然としていた私でしたが、ハッと気付くと、慌てて仲裁に入ろうとしました。
 そんな私にタロウ君は顔を向け、左右に軽く首を振ってみせます。
 全部、僕に任せて……そう、伝えているのが分かりました。

「…ハナコ姉ちゃんだってもう、僕が口で何を言っても分からないだろ?だから、こんなものはさっさ無くしちゃうべきなんだよ。こんなのがあるから、マルチ姉さんに迷惑をかける事になるんだよ」

 そう言ったかと思うと、タロウ君は自分の着物の胸元から輝くものを取り出しました。よく見ると、それはハナコちゃんが大切にしている鏡でした。私が覗くのを避けていた、雲台の付いた、まるで神鏡の様な鏡でした。
 そして、それを出した瞬間、「ひっ」っとハナコちゃんの息を飲む声が聞こえました。

「タ、タロウ!それをどうするつもりなの?それは今、社の中でしか意味を成さないものなのよ?!」
「知ってるさ。さらには僕の力も加えてね。でも、こんなものがあるから、ハナコ姉ちゃんはこうして自分を見失ったりするんだよ。大体、稲荷神社にどうして天照大御神のお姿である神鏡が必要なのさ。おかしいじゃないか」
「ば、馬鹿な事を言ってないでその神鏡を返しなさい!後が酷いわよ!」
「構わないさ。叱咤でもメシ抜きでも後でいくらでも受けてあげるよ」

 そう言うと、タロウ君は立ち上がって先程までハナコちゃんが握っていたナタを拾い、それを右手に持ちかえます。

「やめてえええ!タロウ後生だからああああああーー!」

 意図が分かったハナコちゃんは、タロウ君に飛びつこうとしました。しかし、あらかじめ予想していたのか簡単にかわすと、その際にサッと足払いをかけます。
「ぎゃっ!?」っとあっけなくハナコちゃんはその場に転び、そのままタロウ君を見上げる形となりました。

「ごめん姉ちゃん。でも、分かって欲しいんだ。これはもう、姉ちゃんや僕たちには必要の無いものなんだよ。だからこれまで通りに、次に誰が来るか分からないのを良しとして、今ここに居る僕たちだけでも何とかやっていこうよ。それがいい。それが一番いいよハナコ姉ちゃん」
「駄目よ!それが無くなったら私は外の世界への目を失うのよ!それに、それにもう、二度とマルチお姉さんに会えなくなるのよおおお!」

 そんな叫び声の中、タロウ君は迷う事無く神鏡を宙に放ると、一振り二振りとナタを払いました。

パィィィィン!

 乾いた音がして、やがて神鏡は音もなく草原へと散っていきました。

「ああああああああーーーーー!」

 絶望の叫び声を上げながら、そうした神鏡に飛び付こうとするハナコちゃんの姿が目に入りました。そしてその場に四つんばいとなりがら、一つ一つのかけらを悲しいまでの落胆の声を上げながら拾い集めています。
 私は彼女の前に足を進めると、自らもその場に両ひざを付けてハナコちゃんの肩を掴み、正面を向かせました。

「ハナコちゃん。もういい、もういいんです。全ては終ったんです」
「…ひ、拾わなくては、拾わなくては、今ならまだ、今ならきっと直せる、今なら……」
「ハナコちゃん!もういいんです!そんなものはもう、あなたには要らないんです!そんなものでこんなに悩み苦しむ必要は無いんです!ハナコちゃん!!」

 ガクガクと彼女の身体を揺さぶりながら、私は正面からその顔を見つめ言いました。
 先程までの勝ち気な表情はすっかりと消え、涙でグショグショとなったその素顔は、まるで脅えた子供そのものでした。
 私は何度も何度も、そうした彼女に話しかけていました。
 …やがて、目の色に少し落ち着きが戻ってきたのが分かりました。

「……マルチ……お姉さん?……」
「ええ、私です。マルチです。分かりますか?…私の事が、分かりますか?」
「…マルチお姉さん……私……どうして?……どうして私、そんな事を……」
「いいんです。もういいんですよハナコちゃん。もう何も言う必要は無いんです。全ては終ったんです」
「…終った?……そう……終ったんだ………これで………あるべき所に全ては戻って………お姉さんも……マルチお姉さん………マルチおねえさぁああああああああん!」

 抱きつきてきたハナコちゃんを、私はしっかりと受け止めていました。
 そして、寂しい場所で迷子となり、必死になって帰ってきた子供の様な、そんな慟哭する背中をギュッと力強く抱き締めました。

「マルチおねえちゃん!」
「おねいちゃん。まるちおねいちゃあん!」
「もう終ったの?喧嘩終ったの?やっぱり帰っちゃうの?ねえ、帰らないで。やだよ、ボクやだよ!」
「かえらないで。キミコまたおねーちゃんのことかくから。だからかえらないで!」

 それまで黙っていた子供たちも一斉に私たちの元へと駆けつけてきます。そして、そんな小さな手で抱きついてくる子供たちの存在を身体一杯に感じながら、私は何度も何度も皆に謝っていました。
 行かなくてはならないのは分かっています。振り切らなくてはならないのは分かっています。でも、それでも、これではあまりにも悲し過ぎます。
 顔を上げ、私は皆を見回しました。そして、そうした一人一人の子の頭を撫でていきました。
 皆の顔を、表情を、声を、ずっとずっと忘れない様にする為に……
 私は皆の事を抱き締め、そして抱き締められました。本当なら一人一人にそうしてあげたい。ちゃんとしたお別れを言いたい。あまりにも急な事で、皆も何が何だかきっと分からなくて、このまま居なくなってしまって本当にいい訳がない。後悔しない訳がない。
 …このままでいい筈が無いではありませんか!

「あと三日!あと三日だけここに!」

 その声に、私は自分で驚いていました。そして、そうした表情は私だけではありませんでした。
 タロウ君、そして、目の前で顔を上げているハナコちゃん。そして、私…。
 そんな同じ言葉を三人が同時に発したと気付くまで、私たちは無言のまま、顔を見合わせていました。

 やがて、私はプッと吹き出しました。それはタロウ君も同じだった様で、互いに顔を見合わせると、次には涙混じりに笑い出していました。
 そんな様子に、周りの子供たちは、あっけにとられた顔をしています。

「……余計、辛くなるかもしれませんねぇ。でも……」
「…うん、やっぱりさあ、ちゃんとお別れしてってよ。僕だけじゃなくて皆にもさ。それと、ハナコ姉ちゃんにも……」
「……タロウには、ちゃんとお別れしたんですか?……お姉さん、ズルいです……」

 再び私の胸に顔を埋めるハナコちゃんの頭を撫でながら、私は誰にともなく頷きました。
 既に夕暮れは遥か彼方に去り、広い境内は、まるで森の中の様にすっかりと暗くなっていました。
 そして反対側からは、中秋を思わせる様なそんな大きなお月様が顔を見せ、そうした中をすっかり冷たくなった秋の風が寂しげに吹き抜けていきます。
 それに負けない位、私は明るく大きな声で言いました。

「さあ、そろそろ皆で帰りましょうか。下手っぴですけど、とりあえず私の手料理も待っていますから」

 その返事を聞く前に、私はペロリと舌を出していました。



◇      ◇      ◇



 この世界へと戻ってきた時、私の体内バッテリーは残り三日分を殆ど使い切っていたそうです。そして、私は自分でも気付かぬうちに、出た時の姿のまま、宿の前に倒れていたと聞きました。
 そんな私が目を覚ました時、そこには心配そうに覗き込んでいる女将さんと平八さんの姿がありました。
 そして…

『起きたか?この寝ぼすけ。あんまり心配かけんなよお前は…』

 私はその声の方に目を向けました。そして、厳しい中にもホッとした表情を見せている浩之さんの姿が目に入りました。
 バッと布団を跳ねると、そのまま浩之さんに抱きつきました。そして、ごめんなさい、ごめんなさいと何度も繰り返しながら泣きじゃくりました。まるでハナコちゃんみたいだと、私は心の何処かで思っていました。
 そして、浩之さんの匂いと温かさを一杯に感じながら、そんな私の頭を撫でてくれる優しさを感じながら、ようやくここに帰ってこられたんだと、心から安心した気持ちに包まれていました。

 その後私は、向こうで過ごした数ヶ月間が、こちらではたった三日しか経っていない事を知りました。それがタロウ君の力によるものかは、今となっては知る由もありませんが、私にはそんな彼の笑顔が見える様に思えました。
 しかし、たった三日間とは言え、自警団の方による探索も入った事で、本当ならばメイドロボットの失踪事件として大問題になる所だったのを、平八さんや女将さんのお力や自警団の団長さんの計らいによって、表沙汰にはならない様、済ませて頂いたと聞きました。
 そしてそうした中でも、浩之さんは寝る時間を惜しんで探索に参加し、私を探し続けていたと女将さんが話してくださいました。
 私は、改めて頭を下げながら、自分の犯した軽率な行動を何度もお詫びしました。

『マルチ、もうそんなに卑屈になるな。とにかく、お前がこうして無事に戻ってきてくれただけで凄く嬉しいんだからさ。何があったのかは、よければ後で全部聞かせてくれよな。それと、オレなんかよりも婆さんや爺さん、それと自警団の団長さんには本当よくお礼を言っておけよ?寝る時間を惜しんだ所の騒ぎじゃ無かったんだからな?』

 私は『はい』と返事をしていました。そして『女将さん、平八さん、そして、この場にはいらっしゃいませんが団長さん、そして浩之さん。皆さん本当に、本当にありがとうございました』と再び大きく頭を下げました。

 その後、私は事の一部始終を包み隠さずに話しました。
 昔話に出てくる様な不思議な世界。そこに住む十二人の子供たち。ハナコちゃんという女の子がリーダーとなり、タロウ君がそれを支えながら皆が一つとなって頑張って暮らしている小さな小さな山間のお里。
 普通でしたらとても信じられない様なそんな私のお話しを、誰も疑問を挟む事無く、真剣な表情で聞いてくださいました。
 そうした中で、私は女将さんと平八さんの様子がおかしい事に気付きました。二人とも、私が話している途中で不意に涙を流したり、お鼻をすすったりしていたからです。
 その度に私は話しを止めましたが、『…なんでもね。その先ば続けてでなス』と言うだけで、下を向いたまま黙ってしまいます。
 私は少し心配しながらもそのままお話しを続け、やがて、最後の三日間の事を話していました。

 それは、これまでと変らない生活の日々そのままでした。でも、お別れの日は確実に来る中で、行く者、残る者がどう心を寄せあえばいいのか、とても悩んだ日々でもありました。
 けれども、それはお互いにとって必要であり、そしてそれを誰もが大切に思えた素晴らしい日々だったと、私は今でもそう思っています。
 そして、お別れの日……その時にようやく確かめあえた、人としての互いの心。
 妬みも、憎しみも、そして苦しみも既にそこには無く、あるのは名残惜しさと、こうした日々を過ごせた事への感謝の気持ちそのものでした。
 目を閉じると、その時の一人一人の姿がはっきりと私の目の中に浮かびます。
 悲しそうでいて、それでも私を心配させまいとして、精一杯の笑顔を作って見送ってくれた皆の事を、私は生涯忘れません。忘れる事はありません……

 話し終った私は、女将さんと平八さんを見つめていました。
 そして、そんなうつむいて泣いている二人の姿に、私は理由も分からず目が潤んでくるのを感じていました。




「…マルチ。名残惜しいかもしれねえけど、そろそろいいんじゃねえか?」

 浩之さんの言葉に、私は顔を上げました。そして、水の中の手を上げると、再び流し燈籠を両手で支えました。
 四角い燈籠を帆に見立てた、紙と木で出来た一抱えはあるそのお船には、紙細工で丁寧に作られた流し雛が十二人分、それぞれの着物姿で乗っています。
 それは、平八さん、そして女将さんがそれぞれ作ってくださったものでした。そして、お船にも、お雛様にも、どちらにも名前は書いてありませんでした。
 死んだ訳じゃない。だから、名前は必要無い……そう言って、早瀬川にこれを流して欲しいと渡してくれた女将さん。黙って、目を伏せていた平八さん。
 私も、そして浩之さんも、それ以上を尋ねる事はしませんでした。

「…浩之さん。…もし私が…向こうの世界から浩之さんを呼んだとしたら…そこに来てくださいますか?」
「……さあてなぁ。その時になってみねーと分からねーかな。…結構気まぐれだからなぁ、オレはよ」
「……浩之さん、やっぱりズルいです…」

 お互い見つめあい、そして微笑みあいました。それで十分だと思いました。
 バシャ、バシャ、と水に入り、くるぶしが沈む辺りで屈むと、お船をそっと浮かべます。
 支える手を緩めると、するするとそれは動き出し、ゆっくりと川下へ向かい始めました。
 十二人を乗せた燈籠船。…ふらふらと揺られながらも、次第にその速度を早め、早瀬川の勢い乗って軽快に進んでいきます。

 私は、思わず手を振っていました。そして、もう流し尽くしたと思っていた涙が再び溢れます。
 次第に遠くなっていく………その事が、本当の決別を告げているかの様でした。

「元気でー。皆元気でー!」

 次第に小さく、見えなくなっていくその燈籠船に向かって何度も何度も叫びながら、私は大きく手を振り続けていました。







                     −   了   −











あとがき


 私が岩手県にある遠野の地を訪れたのは、お盆少し前の比較的涼しい時期でした。
 以前から民話や妖怪の里として一度は足を運びたいと願っていた土地でしたが、噂に違わず本当に何も無い所で、いくつかの展示館や民話センター、そして史跡が点在するだけの静かな町村といった寂しい雰囲気だったのをよく覚えています。
 だからでしょうか、この地より昔から伝わる数々の民話に触れるというのは、かくもその土地に生きた人々の心の一端に触れられる様に感じて、いつになく(柄にも無く?(^^;))深い感銘を受けていました。
 SS書きの端くれとしては、こうした題材を得た事で一つ書いてみたいと当初から思っていたのですが、今回マルチSSにトライする機会を得て、悪戦苦闘しながらも何とか書き上げたのがこのSSです。
 相変わらずの遅筆に加え、文書量が予定の倍を軽く越える計画性の無さも健在の内容ですが、読まれた方が何等かの感想を持って頂けたのであれば幸いです(^^)。
 今回、本SSの作成にあたり、校正を手伝ってくれた旧知からの悪友であるMAT、TACO両氏にはこの場を借りて感謝します。
 そして、いつも素晴らしいCGを見せてくれるのみならず、私へと幾度となくそれをプレゼントしてくださったunziさんへの多大なる感謝の気持ちを込めて、拙文ではありますがここに本SSを贈りたいと思います。
 ちなみに、お約束してから既に一年以上もの歳月が経ってしまい、大変失礼致しました(^^;)。まあ、その分、文章量は山盛り特大!という事でどうかご容赦ください(笑)。
 憩いの場であります『峠の茶屋』が益々発展されます事をお祈り致します(^^)。


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