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体験者は語る A  (2/5)

蓮如上人御一代記聞書つづき



  ( 50 )

 蓮如上人がおいでになったころ、上人のもとに、
熱心に法を聞こうとする人々も大勢集まっていた中で、
  「 この中に、信心を得たものが何人いるであろうか。

 一人か二人か、いるであろうか 」 などと仰せになり,
集まっていた人々はだれもかれも驚いて、
「 肝をつぶしました 」 といったということです。




  ( 51 )

法敬坊が、 「 ご法話を聞くときには、何にもかも
同じように聞くのではなく、聴聞はかどを聞け 」 と
いわれました。

これは、肝心かなめのところをしっかりと聞け
ということです。




  ( 52 )

『報恩講私記』 に 「 憶念称名いさみありて 」 と
あるのは、称名は喜びいさんでする念仏だと
いうことである。
信心をいただいた上は、うれしさのあまりいさんで
称える念仏なのである。




  ( 53 )

 御文章について、蓮如上人は、
「 お聖教というものは、意味を取り違えることもあるし、
理解しにくいところもある。だが、この文は意味を取り
違えることもないだろう 」 と 仰せになりました。

わかりやすく書かれた御文章は、お慈悲の
きわまりです。
これを聞いていながら、信じ受け取ることのできない
ものは、仏法を聞く縁がまだ熟していない人なのです。




  ( 54 )

「 浄土真宗のみ教えを、この年になるまで聴聞し
続け、蓮如上人のお言葉を承っているが、
ただ、わたしの愚かな心が、そのお言葉の通りに
ならない 」 と、法敬坊はいわれました。




  ( 55 )

 実如上人がたびたび仰せになりました。
「 <仏法のことは、自分の心にまかせておくのではなく、
心がけて努めなければならない> と
 蓮如上人はお示しになった。

愚かな自分の心にまかせていては駄目である。

自分の心にまかせず、心がけて努めるのは
阿弥陀仏のはたらきによるのである 」 と。




  ( 56 )

 浄土真宗のみ教えを聞き知っている人は
いるけれども、自分自身の救いとして聞くことが
できる人はほとんどいないという言葉がある。

これは、信心を得るものがきわめて少ないと
いう意味である。




  ( 57 )

 蓮如上人は、 「 仏法のことを話しても、それを
世間のことに引き寄せて受け取る人ばかりである。

しかし、それにうんざりしないで、もう一度仏法の
ことに引き寄せて話をしなさい 」 と
仰せになリました。




  ( 58 )

 どのような人であっても、
自分は悪いとは思っていない。
そう思っているものは一人としていない。

しかしこれはまったく親鸞聖人からお叱りを受けた
人のすがたである。

だから、一人ずつでもよいから、自分こそが正しいと
いう思いをひるがえさなければならない。

そうでないと、長い間、地獄に深く沈むことに
なるのである。

このようなこともどうしてかといえば、
本当に仏法の奥底を知らないからである。




  ( 59 )

 蓮淳さまが堺の御坊へ出向かれたとき、

皆ひとのまことの信はさらになし
 ものしりがほの風情にてこそ
     
まことの信心を得た人はきわめて少ない。
 それなのに、だれもかれもがよくわかって
 いるような顔をしている。

という蓮如上人の歌を、紙に書いて
長押にはりつけておかれました。
そして、 「 わたしがここを発った後で、この歌の意味を
よく考えてみなさい 」 と仰せになりました。

蓮淳さまご自身がよくわからないということにして、
人々に問いかけられたのです。
この歌の  「 ものしりがほ 」 とは、まことの信心を
いただいていないのに、自分はご法義をよく心得て
いると思いこんでいるという意味です。




  ( 60 )

 法敬坊は、善導大師の六字釈をいつも必ず引用し、
安心のことだけを語り聞かせる人でありました。

それでさえ蓮如上人は、
「 もっと短くまとめて話しなさい 」 と仰せになるのでした。
これは、言葉を少なくして安心のかなめを
語り聞かせなさいとの仰せです。




  ( 61 )

 善宗が、 「 懇志を蓮如上人に差しあげるとき、
自分のものを差しあげるような顔をして持って
くるのは恥ずかしいことだ 」 といわれました。

それを聞いた人が、 「 どういうことでしょうか 」 と
尋ねたところ、
善宗は、 「 これはみな、阿弥陀如来の
おはたらきによって恵まれたものであるのに、
それを自分のもののように思って持ってくる。

もとより蓮如上人へ恵まれたものをわたしが
お取り次ぎするだけなのに、
それをまるで自分のものを差しあげるように
思っているのが恥ずかしいのである 」
といわれました。




  ( 62 )

 摂津の国、郡家村に主計という人がいました。

いつも絶えることなく念仏を称えていたので、
ひげを剃るとき顔のあちこちを切ってばかりいました。
ひげを剃っていることを忘れて念仏を称えるからです。

「 世間の人は、ことさらつとめて口を動かさなければ、
わずかの間も念仏を称えることができないのだろうか 」
と、何とも気がかりな様子でした。




  ( 63 )

仏法に深く帰依した人がいいました。
「 仏法は、若いうちに心がけて聞きなさい。
年を取ると、歩いて法座に行くことも思い通りに
ならず、法話を聞いていても眠くなってしまう
ものである。

だから、若いうちに心がけて聞きなさい 」 と。




  ( 64 )

阿弥陀如来は、衆生を調えてくださる。

調えるというのは、衆生のあさましい心を
そのままにしておいて、そこへ真実の心を
お与えになり、立派になさることである。

人々のあさましい心を取り除き、如来の
智慧だけにして、まったく別のものにして
しまうということではないのである。




  ( 65 )


わが妻わが子ほど愛しいものはない。

この愛しい妻子を教え導かないのは、
まことに情けないことである。

ただそれも過去からのよい縁がなければ、
力の及ぶところではない。

しかし、わが身一つを教え導かないでいて
よいものであろうか。




  ( 66 )

 慶聞坊がいわれました。
「 信心を得てもいないのに、信心を得たような
顔をしてごまかしていると、日に日に地獄が
近くなる。

うまくごまかしていたとしても、その結果は
あらわれるのであり、それで地獄が近くなる
のである。

ちょっと見ただけでは信心を得ているのか
いないのかわからないが、いつまでも命が
あると思わずに、今日を限りと思い、み教えを
聞いて信心を得なさいと、仏法に深く帰依した
昔の人はいわれたものである 」 と。




  ( 67 )

一度の心得違いが一生の心得違いとなり、
一度の心がけが一生の心がけとなる。

なぜなら、一度心得違いをして、そのまま命が
尽きてしまえば、ついに一生の誤りとなって、
取り返しがつかなくなるからである。




  ( 68 )

今日ばかりおもふこころを忘るなよ
 さなきはいとどのぞみおほきに

 今日を限りの命だと思う心を忘れては
 ならないぞ。
 そうでないと、この世のことに
 ますます欲が多くなるから。

覚如上人の詠まれた歌です。




  ( 69 )

 他流では、名号よりも絵像、
絵像よりも木像という。

だが浄土真宗では、木像よりも絵像、
絵像よりも名号というのである。




  ( 70 )

 山科本願寺の北殿で、蓮如上人は法敬坊に、
「 わたしはどのようなことでも相手のことを考え、
十のものを一つにして、たやすくすぐに道理が
うけとれるように話をしている。

ところが人々は、このことを少しも考えていない 」 と
仰せになりました。

御文章なども、最近は、言葉少なくお書きに
なっています。
「 今はわたしも年老いて、ものを聞いているうちにも
嫌気がさし、うっかり聞きもらすようになったので、
読むものにも肝心かなめのところを
すぐに理解できるように、言葉少なく書いて
いるのである 」 と仰せになりました。




  ( 71 )

 蓮悟さまが幼少のころ、加賀二俣の本泉寺に
おられたときのことです。

多くの人々が小型の名号をいただきたいと申し
出たので、それを蓮悟さまがお取り次になった
ところ、蓮如上人はその人々に対して、
「 それぞれみな、信心はあるか 」 と
仰せになりました。

「 信心は名号をいただいたすがたである。
 あのときの蓮如上人のお言葉が、今にして
 思いあたる 」 と、
後に蓮悟さまはお話しになリました。




  ( 72 )

 蓮如上人は、 「 堺の日向屋は三十万貫もの
財産を持っていたが、仏法を信じることなく一生を
終えたので、仏にはなっていないであろう。

大和の了妙は粗末な衣一つ着ることができないで
いるが、このたび仏となるに違いない 」 と
仰せになったということです。




  ( 73 )

久宝寺村の法性が蓮如上人に、
「 ただ仰せのままに浄土に往生させてくださいと
弥陀を信じておまかせするだけで、往生はたしかに
定まると思っておりますが、これでよろしい
でしょうか 」 と、お尋ね申しあげたところ、

ある人が側から、 「 それはいつもお聞きして
いることだ。
もっと別のこと、わからないことなどを
お尋ねしないでどうするのか 」 と口をはさみました。

そのとき蓮如上人は、
「 そのことだ、わたしがいつもよくないといって
いるのは。

だれもかれも目新しいことを聞きたい、
知りたいとばかり思っている。

信心をいただいた上は、何度でも
心の中の思いをこの法性のように口に出すのが
よいのである 」 と仰せになりました。




  ( 74 )

 
蓮如上人は、
「 なかなか信心を得ることができないと口に出して
 正直にいう人はよい。

 言葉では信心を語って、口先は信心を得た人と
 同じようであり、そのようにごまかしたまま死んで 
 しまうような人を、わたしは悲しく思うのである 」 と 
仰せになりました。




  ( 75 )

 浄土真宗のみ教えは、阿弥陀如来が
説かれたものである。
だから、御文章には  「 阿弥陀如来の仰せには 」 と
お書きになっている。




  ( 76 )

 蓮如上人が法敬坊に、 「 今いった弥陀を信じて
まかせよということを教えてくださった人を知って
いるか 」 とお尋ねになりました。

法敬坊が、 「 存じません 」 とお答えしたところ、
上人は、 「 では今から、これを教えてくださった人を
いおう。
だが、鍛冶や建築などの技術を教わる際にも、
お礼の品を差し出すものである。

ましてこれはきわめて大切なことである。
何かお礼の品を差し上げなさい。そうすればいって
あげよう 」 と仰せになりました。

そこで法敬坊が  「 もちろん、どのようなものでも
差しあげます 」 と申しあげると、
上人は 「 このことを教えてくださったお方は
阿弥陀如来である。阿弥陀如来が、われを信じて
まかせよと教えてくださったのである 」
と仰せになりました。




  ( 77 )

法敬坊が蓮如上人に、 「 上人のお書きになった
六字のお名号が、火事にあって焼けたとき、
六体の仏となりました。
まことに不思議なことでございます 」 と
申しあげました。

すると上人は
「 それは不思議なことでもない。
 六字の名号はもともと仏なのだから、
 その仏が仏になられたからといって
 不思議なことではない。

 それよりも、罪深い凡夫が、弥陀におまかせする
 信心ただ一つで仏になるということこそ、
 本当に不思議なことではないか 」 と
仰せになりました。




  ( 78 )

  「 日々の食事は、阿弥陀如来、親鸞聖人の
  おはたらきによって恵まれたものである。
  だから目には見えなくてもつねに
  はたらきかけてくださっていることを
  よくよく心得ておかねばならない 」 と、
蓮如上人は折にふれて仰せになったということです。




  ( 79 )

 
蓮如上人は、 「 < 噛むとはしるとも,呑むとしらすな >
という言葉がある。

噛みしめ味わうことを教えても、鵜呑みにすることを
教えてはならないという意味である。

妻子を持ち,魚や鳥の肉を食べ、罪深い身である
からといって、ただそれを鵜呑みにして、思いのままの
振舞いをするようなことがあってはならない 」 と
仰せになりました。




  ( 80 )

「 仏法では、無我が説かれている。
 われこそはという思いが少しでもあっては
 ならないのである。

 ところが、自分が悪いと思っている人はいない。
 これは親鸞聖人からお叱りを受けた人のすがた
 である 」 と、蓮如上人は仰せになりました。

仏のお力によって信心を得させていただくのです。
われこそはという思いが決してあっては
ならないのです。

この無我ということについては、実如上人も
たびたび仰せになリました。




  ( 81 )

「 『浄土見聞集』 に、<日ごろからよく心得ている
 ことでも、よき師にあって尋ねると、また得るところが
 ある > と示されている。
 この < よく心得ていることを尋ねると、
 得るところがある >
 というのが、まことに尊いお言葉なのである 」 と,
蓮如上人は仰せになりました。

そして、 「 自分の知らないことを尋ねて物知りになった
からといって、どれほどすぐれたことがあろうか 」 とも
仰せになりました。




  ( 82 )  

「 仏法を聴聞しても、多くのものは,自分自身の
 ためのみ教えとは思っていない。

 どうかすると、教えの一つでも覚えておいて、
 人に説いて聞かせ、その見返りを得ようとする
 ことがある 」 と、蓮如上人は仰せになりました。




  ( 83 )

  「 疑いなく信じておまかせするもののことは、
阿弥陀如来がよくご存知である。
阿弥陀如来がすべてご存知であると心得て、
身をつつしまなければならない。

目には見えなくてもつね如来がはたらきかけて
くださっていることを恐れ多いことだと心得なければ
ならない 」 と、蓮如上人は仰せになリました。




  ( 84 )

 実如上人は、 「 わたしが蓮如上人より承った
ことに、特別な教えがあるわけではない。

ただ阿弥陀如来におまかせする信心、これ一つで
あって、他に特別な教えはないのである。

この他に知っていることは何もない。
このことについては、どのような誓いをたてても
よい 」 と仰せになりました。




  ( 85 )

 実如上人は、 「 凡夫の往生は、ただ阿弥陀如来
におまかせする信心一つでたしかに定まる。

もし信心一つで仏になれないというのなら、
わたしはどのような誓いをたててもよい。

このことの証拠は、南無阿弥陀仏の六字の
名号である。
すべての世界の仏がたがその証人である 」 と
仰せになりました。




  ( 86 )

 蓮如上人は, 「 仏法について語りあう場では、
すすんでものをいいなさい。

黙りこんで一言もいわないものは何を考えて
いるかわからず恐ろしい。

信心を得たものも得ていないものも、ともかく
ものをいいなさい。

そうすれば、心の奥で思っていることも
よくわかるし、また、間違って受けとめたことも
人に直してもらえる。

だから、すすんでものをいいなさい 」 と
仰せになりました。




  ( 87 )

 
蓮如上人は、 「 おつとめの節も十分に知らないで、
自分では正しくおつとめをしていると思っている
ものがいる 」 と、おつとめの節回しが悪いことを
指摘して、慶聞坊をいつもお叱りになっていた
そうです。

これにこと寄せて、蓮如上人は、 「 仏法をまったく
知らないものについては、ご法義を誤って
受け取っているということすらいえない。

ただ悪いだけである。
だから、悪いと叱ることもない。

けれども、仏法に心を寄せ、多少とも
心得のあるものがご法義を誤って
受け取るのは、まことに大きなあやまち
なのである 」 と仰せになったとのことです。




  ( 88 )

 ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、
「 わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、
ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うの
ですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻って
しまいます 」 と申しあげたところ、
蓮如上人は、 「 その籠を水の中につけなさい。

わが身を仏法の水のなかにひたしておけばよいのだ 」 と
仰せになったということです。

 「 何ごとも信心がないから悪いのである。
よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。
信心がないことを大きな誤りだといわれるのである 」
とも仰せになりました。




  ( 89 )

 お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを
追っているだけでは何の意味もありません。

蓮如上人は、 「 ともかく繰り返し繰り返しお聖教を
読みなさい 」 と仰せになりました。
世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,
その意味はおのずと理解できるというのだから、
このことはよく心にとどめておかなければなりません。

お聖教はその文面にあらわれている通りにいただく
べきものです。
その上で、師のお言葉をいただかなければ
ならないのです。
自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。




  ( 90 )

 蓮如上人は、 「 お聖教を拝読するときには、
その一言一言が他力の信心の勧めであると
受け取っていけば、読み誤ることはない 」 と
仰せになりました。




  ( 91 )

 自分だけがと思いあがって,自分一人のさとりで
満足するような心でいるのは情けないことである。

信心を得て阿弥陀仏のお慈悲をいただいたからには、
自分だけがと思いあがる心などあるはずがない。

阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も
心もやわらげるとあるのだから、信心を得たものは、
おのずとおだやかな心になるはずである。

縁覚は自分一人のさとりに満足し、他の人を
顧みないから仏になれないのである。




  ( 92 )

 仏法について少しでも語るものは、みな自分
こそが正しいと思って話をしている。
けれども、信心をいただいたからには、自分は
罪深いものであると思い、仏恩報謝であると
思って、ありがたさのあまりに人に話を
するものなのである。




  ( 93 )

実如上人が順誓に、 「 < 自分が信心を得ても
いないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、
自分は何もものを持たないでいて、人にものを
与えようとするようなものである。

これでは人が承知するはずがない >と,
蓮如上人はお示しになった 」 と仰せになりました。
そして、 「 『往生礼讃』に <自信教人信>と
あるのだから、まず自分自身の信心を決定して、
その上で他の人々に信心を勧めるのである。

これが仏恩報謝になるのである。
自分自身の信心を決定してから人に教えて信心を
勧めるのは、すなわち仏の大悲を人々にひろく
伝える、<大悲伝普化>ということなのである 」 と
続けて仰せになりました。




  ( 94 )

 蓮如上人は、 「 聖教読みの聖教読まずがあり、
聖教読まずの聖教読みがある。

たとえ文字一つ知らなくても、人に頼んで聖教を
読んでもらい、それを他の人々にも聴聞させて
信心を得させるのは、聖教読まずの聖教読みである。

どれほど聖教を読み聞かせることができても、
聖教の真意を読み取ることもなく、ご法義を心得る
こともないのは、聖教読みの聖教読まずである 」 と
仰せになりました。
「 これは、<自信教人信>ということである 」 と
仰せになりました。




  ( 95 )

「 人前で聖教を読み聞かせるものが、仏法の
 真意を説きひろめたというためしはない。

 文字も知らない尼や入道などが、尊いことだ、
 ありがたいことだと、み教えを喜ぶのを聞いて、
 人々は信心を得るのである 」 と、
蓮如上人は仰せになったということです。

聖教について何一つ知らなくても、仏がお力を
加えてくださるから、尼や入道などが喜ぶのを
聞いて,人々は信心を得るのです。

聖教を読み聞かせることができても、
名声を求めることばかりが先に立って、
心にご法義をいただいていないから、
人から信用されないのです。




  ( 96 )

蓮如上人は、
「 浄土真宗のみ教えを信じるものは、
 どんなことでも、世俗的な心持で行うのは
 よくない。
 仏法にもとづいて、何ごとも行わなければ
 ならないのである 」 と仰せになりました。




  ( 97 )

 蓮如上人は、
「 世間では,何でもうまくこなしてそつがない
 人を立派な人だというが、その人に信心が
 ないならば、気をつけなければならない。

 そのような人は頼りにならないのである。
 たとえ、片方の目が見えず歩くのがまま
 ならないような人であっても、信心を得ている
 人こそ,頼りに思うべきである 」 と
仰せになりました。




  ( 98 )

「 君を思うはわれを思うなり 」 という言葉がある。
主君を大切に思ってしたがうものは,おのずと
出世するので、自分自身を大切にしたことになる
という意味である。

これと同じように、よき師の仰せにしたがって
信心を得れば,自分自身が極楽へ往生させて
いただくことになるのである。




  ( 99 )

 阿弥陀仏は,はかり知れない昔からすでに
仏である。

本来,仏であるにもかかわらず、人々を救う
ための手だてとして法蔵菩薩となって現れ、
四十八の誓願をたてられたのである。




  (100)

 蓮如上人は、 「 弥陀を信じておまかせする
人は、南無阿弥陀仏にその身を包まれている
のである 」 と仰せになりました。
目に見えない仏のおはたらきをますますありがたく
思わなければならないということです。




  (101)

丹後法眼蓮応が正装して、蓮如上人のもとへ
おうかがいしたとき、上人は蓮応の衣の襟を
たたいて、 「 南無阿弥陀仏だぞ 」 と
仰せになリました。

また実如上人は、座っておられる畳をたたいて、
「 南無阿弥陀仏に支えられているのである 」 と
仰せになりました。

この二つの仰せは、前条の 「 南無阿弥陀仏に
その身を包まれている 」 と示されたお言葉と
一致しています。




  (102)

蓮如上人は、 「 仏法を聞く身となった上は、
凡夫のわたしがすることは一つ一つが恐ろしい
ことなのだと心得なければならない。

すべてのことについて油断することのないよう
心がけなさい 」 と、折にふれて仰せになりました。

また、 「 仏法においては、明日ということが
あってはならない。
仏法のことは、急げ急げ 」 とも仰せになりました。




  (103)

 蓮如上人は、 「 今日という日はないものと
思いなさい 」 と仰せになりました。

上人は、どのようなことでも急いでおかたづけになり、
長々と時間をかけることをおきらいになりました。
そして、仏法を聞く身となった上は、明日のことも
今日するように、急ぐことをおほめになったのです。




  (104)

 蓮如上人は、 「 親鸞聖人の御影像をいただきたい
と申し出るのはただごとではない。
昔は,道場にご本尊以外のものを安置することは
なかったのである。

だから、もし信心もなく御影像を安置するのであれば、
必ず聖人のお叱りを受けることになるであろう 」 と
仰せになりました。





  (105)

「 時節到来という言葉がある。
あらかじめ用心をしていて、その上で事がおこった
場合に、時節到来というのである。

何一つ用心もしないで事がおこった場合は、
時節到来とはいわないのである。

信心を得るということも同じであり、あらかじめ仏法を
聴聞することを心がけた上で、信心を得るための縁が
ある身だとか、ない身だとかいうのである。

とにもかくにも、信心は聞くということにつきるのである 」
と、蓮如上人は仰せになりました。




  (106)

 蓮如上人が法敬坊に、 「 まきたてということを
知っているか 」 とお尋ねになりました。
法敬坊が、 「 まきたてというのは、畑に一度種を
まいただけで、何一つ手を加えないことです 」 と
お答えしたところ、上人は、 「 それだ。仏法でも、
そのまきたてが悪いのである。

一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、
自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと
思うのが、仏法についてのまきたてである。

心に思っていることを口に出して、他の人に直して
もらわなければ、心得違いはいつまでたっても直らない。

まきたてのような心では信心を得ることはできない
のである 」 と仰せになりました。




  (107)

 蓮如上人は、 「 どのようにしてでも、自分の
心得違いを他の人から直してもらうように心がけ
なければならない。
そのためには、心に思っていることを同じみ教えを
信じる仲間に話しておくべきである。

自分より目下のものがいうことを聞き入れようと
しないで、決まって腹を立てるのは、実に情けない
ことである。
だれからでも心得違いを直してもらうよう心がける
ことが大切なのである 」 と仰せになりました。




  (108)

 ある人が蓮如上人に、 「 信心はたしかに
定まりましたが、どうかすると、よき師のお言葉を
おろそかに思ってしまいます 」 と申しあげました。

それに対して上人は、 「 信心をいただいたからには、
当然よき師を崇め敬う心があるはずである。
だが、凡夫のどうしようもない性分によって、
師をおろそかにする思いがおこったときは、恐れ多い
ことだと反省し、その思いを捨てなければならない 」 と
仰せになりました。




  (109)

 蓮如上人は蓮悟さまに、 「 たとえ木の皮を身に
まとうような貧しいくらしであっても、それを悲しく
思ってはならない。
ただ弥陀におまかせする信心を得た身であることを、
ありがたく喜ぶべきである 」 と仰せになりました。




  (110)

 蓮如上人は、 「 身分や年齢の違いにかかわらず、 
どんな人も、うかうかと油断した心でいると,
大切なこのたびの浄土往生ができなくなってしまう
のである 」 と仰せになりました。




  (111)

 蓮如上人が歯の痛みで苦しんでおられたとき、
ときおり目を閉じ、 「 ああ 」 と声をお出しになりました。
みなが心配していると、 「 人々に信心のないことを
思うと、この身が切り裂かれるように悲しい 」 と
仰せになったということです。




  (112)

 蓮如上人は、 「 わたしは相手のことをよく考え、
その人に応じて仏法を聞かせるようにしている 」 と
仰せになりました。

どんなことであれ、相手が好むようなことを話題にし、
相手がうれしいと思ったところで、また仏法について
お話になりました。

いろいろと巧みな手だてを用いて、人々にみ教えを
お聞かせになったのです。

 


  (113)

 
蓮如上人は、 「 人々は仏法を信じることで、
このわたしを喜ばせようと思っているようだが、
それはよくない。

信心を得れば,その人自身がすぐれた功徳を
得るのである。

けれども、人々が信心を得てくれるのなら,
喜ぶばかりか恩にも着よう。
聞きたくない話であっても、本当に信心を得て
くれるのなら、喜んで聞こう 」 と仰せになりました。




  (114)

蓮如上人は、 「 たとえただ一人でも,本当に信心を
得ることになるのなら、わが身を犠牲にしてでも
み教えを勧めなさい。

それは決して無駄にはならないのである 」 と
仰せになりました。




  (115)

 あるとき蓮如上人は、ご門徒がみ教えの
心得違いをあらためたということをお聞きになって、
大変お喜びになり、 「 老いた顔の皺がのびた 」 と
仰せになりました。




  (116)

 蓮如上人があるご門徒に、 「 あなたの師が
み教えの心得違いをあらためたが、そのことを
うれしく思うか 」 とお尋ねになったところ、
その人は、 「 心得違いをすっかりあらためられ、
ご法義を大切にされるようになりました。

何よりもありがたくうれしく思います 」 とお答えしました。
上人はそれをお聞きになって、 「 わたしは、
あなたよりももっとうれしく思うぞ 」 と仰せになりました。




  (117)

蓮如上人は、能狂言のしぐさなどを演じさせて,
ご法話を聞くことに退屈しているものの心をくつろがせ、
疲れた気分をさっぱりとさせて、また新たにみ教えを
お説きになるのでした。
実に巧みな手だてであり、本当にありがたいことです。





  (118) 

 四天王寺の土塔会の祭礼を蓮如上人がご覧になり、
「 あれほどの多くの人々が、みな地獄へ堕ちていく。
それがあわれに思われる 」 と仰せになり、また、
「 だが、信心を得たご門徒は仏になるのである 」 と
仰せになりました。
これもまた、ありがたいお言葉です。







蓮如上人御一代記聞書

 (本)  終わり

 (末)に つづく 

最終は、(314)です。

つづきをどうぞ



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掲載者 妙念寺 藤本 誠

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