(22) ここで釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 極楽世界に往生するものには、上品上生から下品下生までの
九種類がある。その中で、まず上品上生から説き始めよう。
人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往
生するのである。その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、
二つには深心、三つには回向発願心である。この三種の心をそなえ
るものは、必ずその国に生れるのである。
次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。それは
どのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに
生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには
大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるもので
ある。この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、
一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することが
できる。
その国に生れるときには、その人が懸命に努め励んだことにより、
阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ、数限りない化身の
仏や数えきれないほどの修行僧や声聞たち、さらには数限りない天
人や七つの宝でできた宮殿とともに迎えにおいでになる。すなわち、
観世音菩薩は金剛でできた台座をささげて大勢至菩薩とともにその
人の前においでになり、阿弥陀仏は大いなる光明を放ってその人を
照らし、菩薩たちとともに手をさしのべてお迎えになるのである。
このとき観世音・大勢至の二菩薩は、数限りない菩薩たちとともに
その人をほめたたえてその心を励まされる。この人は来迎をまのあ
たりにしておどりあがって喜び、ふと自分を見ればその身はすでに
金剛の台座に乗っている。そして仏の後につきしたがって、たちど
ころにその国に生れるのである。
このようにして極楽世界に生れると、阿弥陀仏のおすがたにそな
わったさまざまな特徴と菩薩たちにそなわった特徴を見る。そして
光り輝く宝の林が尊い教えを説き述べると、それを聞きおわってた
だちに無生法忍をさとるのである。さらにわずかの間に次々と仏が
たに仕え、ひろくすべての世界を訪れる。そしてそれらの仏がたか
らさとりを得ることを約束され、ふたたび極楽世界に帰ってくると、
教えを記憶して決して忘れない力を限りなく得ることができるので
ある。これを上品上生のものと名づける。
(23) 次に上品中生について説こう。必ずしも大乗の経典を心に
たもって口にとなえるとは限らないが、その意味をよく理解し、真
実の道理を聞いても驚き戸惑うようなことはなく、深く因果の道理
を信じて大乗の教えをけなさず、この功徳をもって極楽世界に生れ
たいと願い求めるものがいる。
このように修行する人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏
は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ数限りない聖者たちとともに、
従者に取りかこまれて現れ、金色に光り輝く台座を持たせてその人
の前においでになり、< 仏の子よ、そなたは大乗の教えにかなった
行いをし、真実の道理をよく理解したから、わたしは今ここに来て
そなたをわたしの国に迎えるのである >と、ほめたたえて仰せにな
る。こうして千の化身の仏がたとともに、皆でいっせいに手をさし
のべてお導きになる。
この人がふと自分を見ればその身はすでに金色の台座に座ってい
る。そして合掌して仏がたをほめたたえると、たちまち極楽世界の
七つの宝でできた池の中に生れる。その金色の台座は大きな宝の花
のようであり、一夜が過ぎるとその花が開く。その人の体は金色に
光り輝き、足の下にはまた七つの宝でできた蓮の花がある。そして
仏と菩薩がいっせいに光明を放ってその身をお照らしになると、目
が開いてすべてをはっきりと見ることができる。また、すでに大乗
の教えを聞いていたことにより、極楽世界のさまざまな音がみな奥
深い真実の道理を説くのを聞くことができるのである。そこでその
人は金色の台座から降り、礼拝し合掌して仏をほめたたえるのであ
る。そして七日を経て後に、ただちにこの上ないさとりから退くこ
とのない位に至り、また空中を飛行して、ひろくすべての世界に
行って仏がたに仕え、そのもとでいろいろな禅定を修行する。この
ようにして一小劫を経て無生法忍の位に至り、仏がたから直接さ
とりを得ることを約束されるのである。これを上品中生のものと
名づける。
(24) 次に上品下生について説こう。また因果の道理を信じて大乗
の教えをけなさず、ひたすらこの上ないさとりを求める心を起こし、
その功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
この人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、観世音・大
勢至の二菩薩をはじめ多くの聖者たちとともに現れ、金色に輝く蓮
の花を持たせ、さらに五百の化身の仏を出現させてその人をお迎え
になる。このとき五百の化身の仏はいっせいに手をさしのべ、< 仏
の子よ、そなたは今心が清らかで、この上ないさとりを求める心を
起したから、わたしはここに来てそなたを迎えるのである> と、ほ
めたたえて仰せになる。この人はこのようすをまのあたりにし、ふ
と自分を見ればその身はすでに金色の蓮の花に座っている。すると
花は閉じ身を包み、仏の後につきしたがって、ただちに極楽世界
の七つの宝でできた池の中に生れることができる。こうして一日一
夜が過ぎると花が開き、七日のうちに仏を見たてまつることがで
きるが、はじめのうちはそのさまざまなすぐれた特徴をはっきりと
見ることができない。二十一日経って後に、はじめてはっきりと見
たてまつることができる。そして極楽世界のさまざまな音がみな尊
い教えを説くのを聞くことができるのである。またその人はひろく
すべての世界をめぐって仏がたを供養し、その仏がたから奥深い教
えを聞き、三小劫を経てすべての教えをさとる智慧を得、心に大き
な喜びを得る初地の位に至る。これを上品下生のものと名づける。
以上のことを上品のものの往生の想といい、第十四の観と名づけ
る 」
(25) 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に中品上生について説こう。五戒を受け、八斎戒をたもち、
その他さまざまな戒律を守って五逆の罪をつくらず、またいろいろ
なあやまちを犯さないように努め、それらの功徳をもって西方極楽
世界に生れたいと願い求めるものがいる。
この人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、多くの修行
僧や聖者とともに従者に取りかこまれて現れ、金色の光を放ってそ
の人の前においでになり、苦・空・無常・無我の道理を説いて、出
家のものがいろいろな苦しみを離れることができるのをほめたたえ
られる。この人はこのようすをまのあたりにして大いに喜び、ふと
自分を見ればその身はすでに蓮の花の台座に座っている。そこでひ
ざまずいて合掌し仏に向かって礼拝すると、まだその頭をあげない
うちにたちまち極楽世界に生まれることができ、身を包んでいた蓮の
花が開く。そしてその花の開くときに、その世界のさまざまな音が
みな四諦の道理をほめたたえるのを聞くことができる。そこでこの
人はただちに阿羅漢のさとりを開き、過去・現在・未来を知る智慧
と神通力を得、煩悩を離れる八種の禅定を身につけることができる
のである。これを中品上生のものと名づける。
(26) 次に中品中生について説こう。一日一夜の間、あるいは八
斎戒を守り、あるいは沙弥戒を守り、あるいは具足戒を守って、少
しも行いを乱さず、その功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求
めるものがいる。
このように戒律を守りその徳が身にそなわった人は、その命を終
えようとするとき、阿弥陀仏が多くの聖者とともに現れ、金色の光
を放ち、七つの宝でできた蓮の花を持たせてその人の前においでに
なるのを見る。このとき空中に声がして、< 善良なものよ、そなた
はまことによい功徳を積んだ。過去・現在・未来の仏がたの教えに
よくしたがったから、わたしはここに来てそなたを迎えるのであ
る > と、ほめたたえて仰せになるのが聞こえる。その人がふと自分を
見ればその身はすでに蓮の花に座っている。蓮の花はすぐに閉じて
その身を包み、西方極楽世界に生れる。そして宝の池の中で七日を
経てはじめて花が開くのである。
蓮の花が開くとこの人は目を開き、合掌して仏をほめたたえ、尊
い教えを聞いて喜び、須陀洹の位に至る。そして半劫を経て後に阿
羅漢となるのである。これを中品中生のものと名づける。
(27) 次に中品下生について説こう。善良なもののうち、親に孝行
を尽し、人々に思いやりの心を持つものがいる。
この人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、そ
の人のために阿弥陀仏の国の清らかで楽しいようすや、法蔵菩薩の
四十八願について説くのを聞く。これらのことを聞きおわりその命
を終えると、たとえば元気な若者がすばやくひじを曲げ伸しするく
らいのわずかな間に、西方極楽世界に生れる。そして七日を経て後
に、観世音・大勢至の二菩薩に会い、尊い教えを聞いて喜び、一
小劫を経て阿羅漢となるのである。これを中品下生のものと名づけ
る。
以上のことを中品のものの往生の想といい、第十五の観と名づけ
る 」
(28) 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品上生について説こう。さまざまな悪い行いをするも
のがいる。大乗の経典をけなすようなことはしないが、このような
愚かな人は、多くの悪い行いをしても少しも恥じることがない。
この人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、そ
の人のために大乗経典の経題をほめたたえるのを聞く。このいろ
いろな経題を聞くことにより、千劫の間のきわめて重く悪い行いの
罪が除かれる。
さらに善知識は合掌して南無阿弥陀仏と称えるように教える。こ
の教えにしたがって仏の名を称えることにより、五十億劫という長
い間の迷いのもとである罪が除かれるのである。
このとき阿弥陀仏は、化身の仏と化身の観世音・大勢至の二菩薩
をお遣わしになり、これらの仏と菩薩がその人の前においでになり、
<善良なものよ、そなたは仏の名を称えたことにより、さまざまな
罪がなくなったから、わたしはここに来てそなたを迎えるのであ
る> と、ほめたたえて仰せになる。この言葉が終わるとその人は、化
身の仏の光明が部屋中に満ちあふれているのを見る。そしてその光
を見て喜び、そのまま命を終えると、宝の蓮の花に乗り、その仏の
後につきしたがって極楽世界の宝の池の中に生れるのである。
こうして四十九日を経て後にはじめて蓮の花が開く。その花が開
くとき、深い慈悲を持つ観世音・大勢至の二菩薩が大いなる光明を
放ってその人の前においでになリ、経典の奥深い教えをお説きにな
る。その人はこれを聞き、信じてよく理解し、この上ないさとりを
求める心を起すのである。このよにして十小劫を経て、すべての
教えをさとる智慧を身につけ、初地の位に至る。これを下品上生
のものと名づける。
また、仏・法・僧の三宝の名を聞くことができたものも、ただち
に極楽世界に生まれることができるのである
」
(29) 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品中生について説こう。五戒や八斎戒や具足戒などを
犯し破っているものがいる。このような愚かな人は、教団の共有物
を奪い、僧侶に施されたものをも盗み、さらに私利私欲のために教
えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねて
それを誇ってさえいる。このような罪深い人は、その犯した悪事の
ために地獄に落ちることになる。
この人がその命を終えようとするとき、地獄の猛火がいっせいに
その人の前に押し寄せてくる。そこで、善知識にめぐりあい、哀れ
みの心からその人のために阿弥陀仏の持つ力のすぐれた徳と、光明
の持つさまざまな不可思議な力を説き、またその戒・定・慧・解
脱・解脱知見のすぐれた徳をほめたたえるのを聞く、その人はこれ
を聞いて、ただちに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が
除かれ、地獄の猛火はたちまちさわやかな風に変って、多くの美し
い花を吹き散らす。花の上にはみな化身の仏と菩薩がおいでになっ
て、その人をお迎えになる。するとたちまち極楽世界に生まれること
ができ、七つの宝でできた池の中にある蓮の花に包まれて、六劫を
経て後にはじめてその花が開くのである。その花が開くとき、観世
音・大勢至の二菩薩が清らかな声でその人を心安らかにし、大乗の
奥深い教えをお説きになる。そこでその教えを聞いてただちにこの
上ないさとりを求める心を起すのである。これを下品中生のもの
と名づける 」
(30) 続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を
犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このよう
な愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり
知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあ
い、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、
仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに
責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのな
ら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてそ
の人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の
名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という
長い間の迷いのもとである罪が除かれる。そしていよいよその命を
終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の
前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのであ
る。
その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開
く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、そ
の人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去
る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさと
りを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。
以上のことを下品のものの往生の想といい、第十六の観と名づけ
る 」
(31) 釈尊がこのようにお説きになると、韋提希は五百人の侍女と
ともにその教えを聞いて、たちまち極楽世界の広大なすぐれた光景
を見たてまつった。さらに阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩を見
たてまつることができて、心から喜び、これまでにはない尊いこと
であるとほめたたえ、すべての迷いが晴れて無生法忍のさとりを得
た。
そして五百人の侍女も、それぞれこの上ないさとりを求める心を
起して、その国に生れたいと願った。そこで釈尊はすべてのものに
対して、みな往生することができ、その国に生れたなら諸仏現前三
昧を得ると約束され、これを聞いた数限りない天人も、みなこの上
ないさとりを求める心を起したのである。
(32) そのとき阿難は座から立ち、釈尊の前に進み出て申しあげた。
「 世尊、ただいまの教えは何と名づけたらよいでしょうか
。また
この教えのかなめはどのようにたもてばよいのでしょうか
」
釈尊は阿難に仰せになった。
「 この教えは < 極楽世界と無量寿仏および観世音菩薩・大勢至菩
薩を観ずる経 > と名づけ、また < これまでの悪い行いもさまたげと
はならず、仏がたの前に生れる経 > と名づける。
そなたはこの教えをたもち、決して忘れてはならない。この観仏
三昧を行うものは、その身はこの世にありながら、無量寿仏および
観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができる。善良なもの
たちがただ無量寿仏の名と観世音・大勢至の二菩薩の名を聞くだけ
でも、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれるので
あるから、ましてそれらを心に念じ、常に思い続けるなら、なおさ
らのことである。
もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮
の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、
観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となリ、さとりの場に座り、
仏がたの家である無量寿仏の国に生れるのである
」
釈尊は阿難に仰せになった。
「 そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このこと
を心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよ
ということである 」
釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希
たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。
(33) こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難
は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説
き聞かせた。数限りない天人や竜や夜叉も、その説法を聞いてみな
大いに喜び、うやうやしく釈尊を礼拝して立ち去ったのである。
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