サンド


観経・その一      (現代語版)



(ここが宝庫D 5/7 )




仏説観無量寿経  その1


浄土三部経(現代語版)155頁〜



(1) 次のように、わたしは聞かせていただいた。

 あるとき、釈尊は王舎城の耆闍崛山においでになって、千二百五
十人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。また、文殊菩薩を中心
とする三万二千の菩薩たちも加わっていた。

(2) そのとき王舎城に阿闍世という王子がいて、提婆達多という
悪友にそそのかされて父の頻婆娑羅王を捕え、七重にかこまれた牢
獄に閉じこめ、家来たちに命じてひとりもそこに近づくことを許さ
なかった。王妃韋提希は深く王の身の上を気づかい、自分の体を洗
いきよめて、小麦粉に酥蜜をまぜたものを塗り、胸飾りの一つ一つ


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にぶどうの汁をつめて、ひそかに王のもとに行き、それを差しあげ
た。頻婆娑羅王はこれを食べ、水で口をすすいでから、合掌してう
やうやしく耆闍崛山の方に向かい、遠く山上の釈尊に礼拝して、次
のように申しあげた。

  「 世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。ど
うかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授
けください 」

 そこで目連は、神通力によってまるで鷹や隼が飛ぶようにすみや
かに頻婆娑羅王のもとへ行った。そして毎日このようにして王に八
斎戒を授けた。釈尊はまた、富楼那をお遣わしになり、王のために
教えを説かせられた。こうして三週間が過ぎたが、頻婆娑羅王はそ
の間、韋提希の運ぶものを食べ、尊い教えを聞くことができたので、
表情もおだやかで喜びに満ちていた。


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(3) ちょうどそのころ、阿闍世王が牢獄の門番に向かって尋ねた。
  「 父はまだ生きているか 」
 門番は答えて申しあげた。
  「 王さま、母君が小麦粉に酥蜜をまぜてお体に塗り、胸飾りにぶ
どうの汁をつめて、父君に差しあげておられます。また、仏弟子の
目連尊者や富楼那尊者が神通力により空から飛んできて、父君に教
えを説いておられます。わたしどもにはとても制止することができ
ません 」

 阿闍世王はこれを聞いて、母の韋提希を怒って言った。
  「 母は罪人だ、罪人である父の味方をするのだから。仏弟子ども
も悪人だ。あやしげな術を使って悪王である父をたすけ、何日も生
かしておくとはもってのほかだ 」

 そして剣をとって、母の韋提希を殺害しようとした。


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 そのとき聡明で思慮深い月光という大臣が、同僚の耆婆とともに
阿闍世王に一礼して申しあげた。

  「 王さま、わたしどもの聞くところでは、毘陀論経の中には、こ
の世が始まって以来多くの悪王がいて、王位を望んで父を殺害した
ものが一万八千人にも及ぶと説かれているそうです。しかし母を殺
害するという非道な行いをしたものなど、今まで一度も聞いたこと
がありません。それにもかかわらず、今王さまが母君を殺害なさる
なら、それは王族の家柄を汚すものです。わたしどもはとうてい聞
くに忍びません。このようなことは旃陀羅のすることです。もはや
ここにいるわけにはまいりません 」

 こういってふたりの大臣は、剣のつかに手をかけてじりじりと後
ずさりした。

 そこで阿闍世王は驚き、恐れをなして耆婆にいった。


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  「 お前はわたしの味方になってくれないのか 」

 耆婆が申しあげた。
  「 王さま、どうか母君を殺害するようなことだけはおやめくださ
い 」

 阿闍世王は、この耆婆の言葉を聞いて自分の行いを悔い、ふたり
の大臣に許しを求め、ただちに剣を捨てて、母を殺害することを思
いとどまった。そして宮中の役人に命じて、母を王宮の奥深くに
閉じこめ、一歩も外へ出ることができないようにした。


(4) こうして閉じこめられた韋提希は、悲しみと憂いにやつれは
て、遠く耆闍崛山の方に向かい、釈尊に礼拝して申しあげた。

  「 世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしを
いたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおりま
す。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多


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いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしに
なって、わたしに会わせてください 」

 韋提希はこういいおわると、悲しみに涙を流し、遠く釈尊に向
かって礼拝した。するとまだその頭をあげないうちに、釈尊は耆闍
崛山にあって韋提希の思いをお知りになり、ただちに目連と阿難の
ふたりに命じて王宮に飛んでいかせ、またご自身も耆闍崛山からそ
の姿を消して王宮にお出ましになったのである。韋提希が礼拝を終
えて頭をあげると、そこに釈尊のお姿があった。そのお体は金色に
まばゆく輝き、さまざまな宝でできた蓮の花の上にお座りになって
おり、左に目連、右に阿難がつきそっている。そして、帝釈天や梵
天や四天王などが、空から一面に天の花を降らして釈尊を供養して
いる。韋提希はこのお姿を仰ぎ見て、すすんで胸飾りをかなぐり捨
て、その足もとに身を投げ出して声をあげて泣きくずれ、釈尊に向


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かって申しあげた。

  「 世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子
を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのよう
な提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。


(5) どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教え
ください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁
りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄
や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。
わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たり
したくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝
し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる
世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください 」

 そこで釈尊は眉間の白毫から光を放たれた。その金色に輝く光は、


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ひろく数限りない世界を照らし、もとへもどって釈尊の頭の上にと
どまり、それがまた金色に輝く台の形となる。それはちょうど須弥
山のようであった。そして、その中にすべての仏がたの清らかな国
土が現れた。すなわち、七つの宝でできた国、また蓮の花ばかりが
満ちあふれた国、また他化自在天の宮殿のような国、また水晶でで
きた鏡のように澄みきった国、それらさまざまな国々がすべて現れ
たのである。釈尊は、このような数限りない仏がたの世界がうるわ
しいすがたをそなえているのを、韋提希にお見せになったのである。
 
 そこで韋提希は釈尊に申しあげた。

  「 世尊、このさまざまな仏の世界はみな清らかで光り輝いており
ますが、わたしは今、中でも極楽世界の阿弥陀仏のもとに生れたい
と思います。どうか世尊、わたしにその極楽世界のすがたを想い描
く方法をお教えください。そして、そのすがたとわたしの心が一つ


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になり、観が成就する方法をお教えください 」


(6) すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から
輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻
婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少しも
さまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけ
て礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世
界に帰ることのない位に至ることができたのである。


(7) そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
  「 そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏はこの世界からそれほ
ど遠くないところにおいでになるのである。だからそなたは思い
を極楽世界にかけ、清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏を
はっきりと想い描くがよい。わたしは今、そなたのために極楽世界
のすがたを想い描くためのいろいろな方法を説き、また清らかな行


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を修めたいと願う未来のすべての人々を西方の極楽世界に生れさせ
よう。その世界に生れたいと願うものは、次の三種の善い行いを修
めるがよい。

 一つには、親孝行をし、師や年長の者に仕え、やさしい心を持っ
てむやみに生きものを殺さず、十善を修めること。

 二つには、仏・法・僧の三宝に帰依し、いろいろな戒めを守り、
行いを正しくすること。

 三つには、さとりを求める心を起し、深く因果の道理を信じ、大
乗の経典を口にとなえて、他の人々にそれを教え勧めること。

 このような三種を清らかな行いというのである 」

 釈尊は続けて仰せになる。

  「 韋提希よ、そなたは知っているだろうか。この三種の行いは、
過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、 


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さとりを得る正しい因なのである 」


(8) 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。

  「 そなたたちはわたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐ
らすがよい。わたしは今、煩悩に苦しめられる未来のすべての人々
のために、清らかな行いを説き示そう。

 韋提希よ、よくこのことを尋ねた。

 阿難よ、そなたはこれからわたしが説く教えを忘れずに心にとど
め、多くの人々に説きひろめるがよい。わたしは今、韋提希と未来
のすべての人々が西方の極楽世界を想い描くことのできるようにし
よう。仏の力によって、ちょうどくもりのない鏡に自分の顔かたち
を映し出すように、その清らかな国土を見ることができるのである。
そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ち
あふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう 」


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 さらに釈尊は韋提希に仰せになった。

  「 そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得てい
ないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特
別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができる
のである 」

 そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。

  「 世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることがで
きます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪
い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められ
ることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏
の極楽世界を見ることができるでしょうか 」


(9) そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
  「 そなたや未来の人々は、ただひたすら西方に思いをかけて、そ


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の世界を想い描くがよい。では、どのようにして西方を思い描くの
だろうか。それにはまず、生れながら目が見えないのでない限り、
目が見えるものはみな日没の光景を見るがよい。その観を始めるに
あたってはまず姿勢を正して西に向かって座り、はっきりと夕日
を思い描くがよい。そして心を乱さず、思いを一点に集中して他
のことに気をとられずにいられたなら、次に、夕日がまさに沈もう
として、西の空に太鼓が浮んでいるようになっているのを見るがよ
い。それを見おわった後、目を閉じても開いても、その夕日のすが
たがはっきりと見えるようにするのである。このように想い描くの
を日想といい、第一の観と名づける。


(10) 次に水を想い描くがよい。
 
 水の清く澄みきったようすをはっきりと心に想い描き、心を乱さ
ないようにするのである。水を想い描きおわったなら、次にその水


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が氷となったようすを想うがよい。そして氷の透きとおったようす
を想い描き、それが瑠璃であるという想いを起すがよい。この想い
を成しおえたなら、極楽世界の瑠璃の大地が内にも外にも透きとお
り映りあうようすを見るであろう。

 その下には清らかな七つの宝で飾られた金の柱があって、瑠璃の
大地をささえている。それは八角形の柱であり、その八つの面はそ
れぞれ百もの宝玉で飾られている。それぞれの宝玉は千の光にきら
めき、それぞれの光にはまた八万四千の色があって、それが瑠璃
の大地に映え輝いているありさまはまるで千億もの太陽を集めたよ
うであり、とてもまばゆくて見ることはできない。またその極楽世
界の瑠璃の大地には、黄金の道が縦横に通じていて、しかもそれぞ
れの区域が七つの宝で整然と仕切られている。その一つ一つの宝に
は五百の色の光があり、その光は花のようであり、また星や月のよ


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うに輝き、大空にのぼって光明の台となる。その台の上には百の宝
でできた千万の楼閣がそびえている。また台の両側には、それぞれ
百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台
を飾っている。そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたる
ところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、苦・空・無常・無
我の教えが響きわたるのである。このように想いを描くのを水想とい
い、第二の観と名づける。


(11) さてこの観が成就したなら、さらにそのようすを一つ一つ想
い描き、それがきわめてはっきりと見えるようにして、目を閉じて
も開いても目の前から消え失せないようにしなければならない。そ
してただ眠っているときを除いて、常にこのことを想い続けるがよ
い。
 このように想い描くことができれば、ほぼ極楽世界の大地を見た


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ということができる。さらにすすんで三昧の境地に入ったなら、そ
の国の大地を一層はっきりと見ることができるのであるが、そのあ
りさまを一々詳しく説くことはできない。このように想い描くのを
地想といい、第三の観と名づける。

 ここで釈尊が阿難に仰せになった。

  「 阿難よ、そなたはこの教えを心にとどめて、苦しみを逃れたい
と思う未来のすべての人々のために、極楽世界の大地を想い描く方
法を説き聞かせるがよい。もしこの大地を観ずるなら、八十億劫
という長い間の迷いのもとである罪が消えて、命を終えた後には必
ずその清らかな国に生れるのである。このことは決して疑ってはな
らない。

 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観
というのである 」


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(12) 釈尊が阿難と韋提希に仰せになった。

  「 地想観が成就したなら、次には極楽世界の宝の樹を想い描くが
よい。

 宝の樹を想い描くには、まず一つ一つの樹を思い描き、それら
が七重の並木になったようすを想うがよい。それぞれの樹の高さは
八千由旬であり、これらの宝の樹は等しくみな七つの宝ででき花
や葉をつけていて、その花や葉の一つ一つがまた異なった宝の色を
持っている。瑠璃色の中からは金色の光を出し、玻璃色の中からは
紅色の光を出し、瑪瑙色の中からは蝦蛄の光を出し、蝦蛄色の中か
らは緑真珠の光を出し、その他、珊瑚、琥珀などすべての宝の光
でさまざまに輝いている。また樹々の上には美しい真珠でできた網
が一面におおっていて、それぞれの樹に七重に重なっている。その
網と網の間には五百億の美しい花で飾られた宮殿があって、それは


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まるで梵天の宮殿のようである。その宮殿の中には多くの天の童子
がいて、それぞれ五百億の宝玉でできた胸飾りを身につけている。
それらの宝玉の光は遠く百由旬を照らし、まるで百億の太陽や月を
一つにあわせたようで、そのみごとさは言葉に表しようがない。さ
まざまな宝の輝きが互いに入りまじり、その色どりは実に美しい。

 また、これらの宝の樹々は整然と向かいあって列をなし、葉の並
びもよくととのっていて少しも乱れることがない。それぞれの葉と
葉の間にはさまざまな美しい花が咲きそろい、花の上には七つの宝
でできた実をつけている。この葉の一つ一つは長さも広さも等しく
二十五由旬であり、その葉には千の色と百種の模様があって、まる
で天の宝玉の飾りのようである。たくさんの美しい花は金色に輝き、
まるで火の輪のようにきらめきながら、葉と葉の間でまわっている。
ちょうど帝釈天の宝の瓶のように、その花からは次から次へと多く


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の実がわき出ている。そしてその実が放つ大いなる光明は、幡と数
限りない宝に飾られた天蓋となる。その中には、世界中でなされる
仏のすぐれたはたらきのすべてが映し出され、さらにさまざまな仏
がたの国々も、みな映し出されている。

 このように極楽世界の宝の樹を想い描きおわったなら、またその
すがたを一つ一つ順々に想うがよい。そしてそれらの幹や枝や葉
や花や実などを、すべてはっきりと想い描くのである。このように
想い描くのを樹想といい、第四の観と名づける。


(13) 次に極楽世界の池の水を想い描くがよい。
 
 極楽世界には八つの池がある。そのそれぞれの池の水は、七つの
宝の輝きを映して美しくきらめき、実になめらかであって、それは
もっともすぐれた宝玉からわき出ているのである。そして分れて十
四の支流となり、それぞれがみな七つの宝の色をたたえている。そ


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の水路は黄金でできていて、底には汚れのない色とりどりの砂が敷
かれている。一つ一つの流れには七つの宝でできた六十億もの蓮の
花があり、その花の形はまるくふっくらとして大きさはみな十二由
旬である。宝玉からわき出たその水は、花の間をゆるやかに流れ、
また樹々をうるおしている。その流れからおこるすばらしい響きは、
苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏
がたのすがたをほめたたえる声となる。また、宝玉からは金色のす
ばらしい光が輝き出ている。その光は百もの宝の色を持つ鳥となり、
そのやさしく美しい鳴き声は常に仏を念じ、法を念じ、僧を念じる
ことをほめたたえている。このように想い描くのを八功徳水想とい
い、第五の観と名づける。


(14) また、そのようにいろいろな宝で飾られた国土の各地には、
五百億のみごとな宝の楼閣がある。その楼閣の中には数限りない天


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人がいて、すばらしい音楽を奏でている。また空には楽器が浮んで
おり、兜率天にいる宝幢神の楽器のように、奏でるのもがなくても
おのずから鳴り、その響きはみな等しく仏を念じ、法を念じ、僧を
念じることを説くのである。

 このように想い描きおわったなら、ほぼ極楽世界の宝の樹と宝の
大地と宝の池を見たということができる。これを総観想といい、第
六の観と名づける。

 もしこのように観ずるなら、はかり知れない長い間のきわめて重
い罪が消えて、命を終えた後には必ずその国に生れるのである。こ
のように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観とい
うのである 」


(15) 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。

  「 そなたたちは、わたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめ


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ぐらすがよい。わたしは今そなたたちのために、苦悩を除く教えを
説き示そう。そなたたちはしっかりと心にとどめ、多くの人々のた
めに説きひろめるがよい 」

 釈尊のこのお言葉とともに、無量寿仏が突然空中に姿を現してお
立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそってお
られた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができな
い。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべよう
もなかった。ここに韋提希は、まのあたりに無量寿仏を見たてまつ
ることができたので、釈尊の足をおしいただき、うやうやしく礼拝
して申しあげた。

  「 世尊、わたしは今世尊のお力によって、無量寿仏と観世音・大
勢至の二菩薩を拝ませていただくことができましたが、世尊が世を
去られた後の世の人々は、どうすれば無量寿仏とその菩薩がたを見


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たてまつることができるでしょうか 」

 そこで釈尊は韋提希に仰せになった。

  「 韋提希よ、その仏を見たてまつりたいと思うなら、次のように
想い描くがよい。

 まず七つの宝でできた大地の上に蓮の花があると想い、その蓮の
花びらの一つ一つが百の宝の色を持っていると想い描くのである。
その花びらには八万四千のすじがあって、まるで天の美しい絵のよ
うである。またそのすじは、それぞれ八万四千の光に輝いている。
それらが一つ一つはっきりと見えるようにするがよい。花びらは小
さいものでも大きさが二百五十由旬はある。この蓮の花には、この
ような花びらが八万四千もあるのである。その花びらと花びらの間
はそれぞれ百億の宝玉で飾られていて、それぞれの宝玉は千の光明
を放っている。その光明はまるで七つの宝でできた天蓋のようにひ


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ろく地上をおおっている。蓮の花の芯は釈迦毘楞伽宝でできた台座
となっており、さらにそれが八万の金剛宝・甄叔迦宝・梵摩尼宝や
美しい真珠の網でいろいろに飾られている。そしてその台座の上に
は四本の宝柱があり、それぞれの宝柱は百千万億の須弥山を重ねた
ように高く、宝柱の上の幔幕はちょうど夜摩天の宮殿のようであり、
五百億もの美しい宝玉で飾れている。それぞれの宝玉には八万四
千の光があり、その光はそれぞれ八万四千の異なった金色に輝き、
さらにそれらの金色の輝きがひろく宝の大地に満ちわたり、いたる
ところでさまざまなすがたとなる、すなわち金剛の台ともなり、真
珠の網ともなり、あるいは色とりどりの花の雲ともなるというよう
に、いたるところで見るものの思うままのすがたをとり、仏のすぐ
れたはたらきをあらわしている。このように想い描くのを華座想と
いい、第七の観と名づける 」


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 さらに釈尊が阿難に仰せになった。
  「 阿難よ、このようなすばらしい花は、もともと法蔵菩薩の本願
の力によってできあがったものである。もしその仏を想い描こうと
するなら、まずこの蓮の台座を想い描く観を行うがよい。ただしこ
の観を行うときには、決して雑然と想い描いてはならない。その花
びら、宝玉、光、台座、宝柱をそれぞれ一つ一つ正しく想い描いて、
ちょうど鏡に自分の顔かたちを映し見るように、それらをみなはっ
きりと想うがよい。この観が成就したなら、五万劫という長い間の
迷いのもとである罪が消えて、必ず極楽世界に生れることができる。

 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観
というのである 」


(16) 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。

  「 この観が終わったなら、次に仏を想い描くがよい。


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 なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であ
り、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。こ
のため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二
相八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となるということ
になり、そして、この心がそのまま仏なのである。まことに智慧が
海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださ
るのである。だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけて、
はっきりと想い描くがよい。

 阿弥陀仏を思い描くには、まずその像を思い描くのである。目を
閉じていても開いていても、金色に輝く一体の仏像が、その蓮の花
に座っておいでになるようすを常に想い浮べるがよい。

 こうして仏像が蓮の花に座っておられるのを思い描きおわったな
ら、心の目が開いて、明らかにはっきりと七つの宝で飾られた極楽


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世界の大地や池や立ち並ぶ樹々を見、その上を美しい宝の幔幕がひ
ろくおおい、またいろいろな宝で飾られた網が大空一面にかかって
いるのを見るであろう。これらのようすが、まるで自分の手の中に
あるもののように、きわめてはっきりと見えるようにするのである。

 この観が終わったなら、さきほどの蓮の花をまったく同じ大きな蓮
の花が一つ、仏の左側にあると想うがよい。また大きな蓮の花がも
う一つ、仏の右側にあると想うがよい。そしてその左側の蓮の花に
観世音菩薩の像が座って、仏と同じように金色の光を放っているの
を想い描き、また、右側の蓮の花に大勢至菩薩の像が座っているの
を想い描くがよい。

 この観が成就したとき、阿弥陀仏の像と観世音・大勢至の二菩薩
の像がみな金色の光明を放って、宝の樹々を照らすのを見るであろ
う。それぞれの宝の樹の下にはまた三つの蓮の花があって、それら


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の蓮の花に一仏と二菩薩の像が座っておいでになり、そのような一
仏二菩薩の像がその国に満ちわたっているのを見るのである。

 以上の観が成就したなら、行者は、極楽の水の流れや光明、また
さまざまな宝の樹や鴨や雁や鴛鴦などが、みなすぐれた教えを説く
のを聞くであろう。その観に入るときから観を終わるまで、常にすぐ
れた教えを聞くのである。そこで行者はその聞いたことを、観が
終わってからも心にとどめて忘れないようにするがよい。そして、そ
れらを経典に説いてあることと照らしあわせてみて、もしそれと相
違するならそれは妄想であり、もし合致するならそれはほぼ極楽世
界を見たということができる。このように想い描くのを像想といい、
第八の観と名づける。

 この観が成就したなら、はかり知れない長い間の迷いのもとであ
る罪が消えて、この身のままで念仏三昧に入ることができるのであ


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る 」


(17) さらに釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。

  「 この観が成就したなら、次に無量寿仏の真のおすがたと光明を
想い描くがよい。阿難よ、よく知るがよい。無量寿仏のお体は百
千万億の夜摩天の黄金のようにまばゆく輝き、その高さは六十万億
那由他恒河沙由旬である。また眉間の白毫は右にゆるやかにめぐり、
その大きさはちょうど須弥山を五つあわせたほどであって、その目
は四大海水のようにひろびろとしており、清らかに澄みきっている。
またお体の毛穴から放たれる光明はまるで須弥山のように大きく、
その頭の後ろにある円光の広さは百億の三千大千世界をあわせたほ
どである。その円光の中には百万億那由他恒河沙の化身の仏がおい
でになり、それぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつ
きそっている。


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 また、無量寿仏のお体には八万四千のすぐれたところがあり、そ
のそれぞれにはまた八万四千のこまかな特徴がそなわっている。さ
らにそのそれぞれにまた八万四千の光明があり、その一つ一つの光
明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその
中に摂め取り、お捨てになることがないのである。その光明やお体
の特徴、そして化身の仏について詳しく説くことはとてもできない。
ただ思いをこらし、心の目を開いて明らかに見るがよい。

 このように想い描くものは、さまざまな世界の仏がたをすべて見
たてまつることになる。すべての仏がたを見たてまつるのであるか
ら、この観を念仏三昧と名づける。また、この観を行えばすべての
仏のおすがたを想い描くことになり、仏のおすがたを想い描くので
あるから、仏の心を見たてまつることになる。その仏の心は大いな
る慈悲の心であり、このわけへだてのない慈悲をもって、仏はすべ


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ての人々を摂め取られるのである。

 この観が成就すれば、来世には仏がたの前に生れ、無生法忍を得
ることができる。だから智慧のすぐれたものは心を一つにして、
はっきりと無量寿仏を想い描くがよい。そして無量寿仏を想い描こ
うとするものは、その仏の特徴の一つを想い描くことから始めるが
よい。それにはまず、眉間の白毫をきわめてはっきりと想い描くこ
とである。眉間の白毫を想い描くなら、八万四千のすぐれた特徴を
持つおすがたがおのずから現れてくる。

 こうして無量寿仏を見たてまつるなら、それはすなわちさまざま
な世界の数限りない仏がたを見たてまつることになる。さまざまな
仏がたを見たてまつることによって、仏がたは目の前でさとりを得
ることを約束してくださるであろう。このように想い描くのをひろ
くすべての仏のおすがたを想い描く想といい、第九の観と名づける。 


185

 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観
というのである 」


(18) 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。

  「 さて、無量寿仏をはっきりと想い描きおわったなら、次に観世
音菩薩を想い描くがよい。

 この菩薩は、高さ八十万億那由他由旬であり、そのお体は金色に
輝いて、頭には肉髻があり、その後ろには縦横がともに百千由旬の
円光がある。その円光の中にはわたしと同じようなすがたの五百の
化身の仏がおいでになる。その化身の仏にはそれぞれ五百の化身の
菩薩と数限りない天人がつきそっている。
 
 また全身から放たれる光明は、迷いの世界にいる人々すべてを照
らし、そのすがたがそこに現れている。頭には宝玉でできた立派な
冠をつけていて、その中には高さ二十五由旬の化身の仏が立ってお 


186

いでになる。

 この菩薩の顔は金色に光り輝き、眉間の白毫は七つの宝の色をそ
なえ、その白毫から八万四千の光明が放たれている。その光明の一
つ一つには数限りない多くの化身の仏がおいでになり、そのそれぞ
れの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそい、それらの
化身の仏と菩薩が、自由自在にさまざまなすがたをとって、すべて
の世界に満ちておいでになる。そのようすはたとえていえば紅の蓮
の花の色のようである。

 またこの菩薩は八十億の光明でできた胸飾りをつけていて、その
中に極楽世界のうるわしいようすをすべてみな映し出している。ま
た手のひらには五百億ものさまざまな蓮の花の色があり、十本の指
先のそれぞれには印を押したような八万四千の絵模様がある。その
それぞれの絵模様には八万四千の色がそなわり、それぞれの色はま


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た八万四千の光を放っている。その光明はやわらかで、ひろくすべ
ての人々を照らしている。菩薩はこのすばらしい手をさしのべて人
人をお導きになるのである。

 またこの菩薩が足をおあげになるときには、足の裏にある千輻輪
の相がおのずから五百億の光明でできた台座となり、足をおろされ
るときには、宝玉でできた花があたり一面に散り、行きわたらない
ところがない。  

 その他、さまざまな特徴をその身にすべてそなえておられるのは
仏と同じであり、ほとんど異なることがない。ただ、頭の肉髻と無
見頂の相とが仏に及ばないだけである。このように想い描くのを観
世音菩薩の真のおすがたを想い描く想といい、第十の観と名づけ
る 」

 また釈尊は阿難に仰せになった。


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  「 もし観世音菩薩を想い描こうとするなら、この観を行うがよい。
この観を行うなら、さまざまなわざわいにあわず、これまでの悪い
行いもさまたげとはならず、はかり知れない長い間の迷いのもとで
ある罪が除かれる。この菩薩は、ただその名を聞くだけでもはかり
知れない功徳が得られるのである。ましてそのおすがたをはっきり
と想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。

 そこでこの菩薩を想い描こうとするなら、まずその頭の肉髻を想
い描き、次に宝冠を想い描くがよい。こうして順々に他のいろい
ろな特徴へと及んでいって、それらのようすもまた、まるで自分の
手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにする
のである。

 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観
というのである。


189

(19) 次にまた大勢至菩薩を想い描くがよい。

 この菩薩のお体の大きさは、前の観世音菩薩と同じである。しか
しその円光は縦横がともに百二十五由旬で、二百五十由旬を照らし
ている。そして全身から放たれる光明は、ひろくすべての国々を照
らして金色に輝き、縁のある人々はみな拝することができる。また、
この菩薩のわずか一つの毛穴から放たれる光明を見るだけで、すべ
ての仏がたの清らかな光明を見ることができるのである。そのため
この菩薩を無辺光と名づける。またこの菩薩は智慧の光でひろくす
べてを照らし、地獄や餓鬼や畜生の世界の苦しみから人々を救うの
に、この上なくすぐれた力を持っておいでになる。そのためこの菩
薩を大勢至と名づけるのである。

 この菩薩の宝冠には五百の宝の花があり、その一つ一つの花には
それぞれ五百の宝の台があって、その一つ一つの台の中にはすべて


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の仏がたの清らかな国土の広大なすぐれた光景がみな映し出されて
いる。またこの菩薩の頭の肉髻は紅の蓮の花のようである。その肉
髻の上には一つの宝の瓶があって、さまざまな光明に満ち、ひろく
仏のはたらきが現れる。その他の姿かたちはすべて観世音菩薩と同
じで少しも異なるところがない。

 この菩薩が歩まれるときにはすべての世界が揺れ動く、その揺れ
動くところには五百億の宝の花が咲き、それぞれの花のうるわしさ
はちょうど極楽世界のように気高くすぐれている。この菩薩を座ら
れるときには七つの宝でできた極楽世界の大地がいっせいに揺れ動
き、下方は金光仏の国土から上方は光明王仏の国土まで、その大地
もまた揺れ動く。そしてそのすべての世界におられる数限りない無
量寿仏の分身と観世音・大勢至の分身とが、みな極楽世界に集まり、
大空一面に満ちあふれて蓮の花の台座に座り、尊い教えを説き示し


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て苦しみ悩む人々をお救いになるのである。

 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観
というのである。こうして大勢至菩薩を見たてまつるのを、大勢至
菩薩のおすがたを想い描く想といい、第十一の観と名づける。

 この菩薩を想い描くなら、はかり知れない長い間の迷いのもとで
ある罪が除かれる。この観を行うなら迷いの世界に生まれるようなこ
とは二度となく、常に仏がたの清らかな国にいることができる。こ
の観が成就しおわることを、余すところなく観世音・大勢至の二菩
薩を想い描いたというのである。


(20) 以上の観を行ったなら、次には自分が往生するという想いを
起すがよい。

 まず西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、そ
の蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開


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くありさまを想い描くのである。そしてその蓮の花が開くときには
五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描くがよい。また自
分の目が開くのを想い描くがよい。そこで仏や菩薩が大空一面に満
ちわたっておられるようすを見るのである。さらにまた水の流れも
鳥のさえずりも樹々の間のさざめきも、そして仏がたの声もまた、
みな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合
致している。この観を終えてからも、その教えをよく心にとどめて
忘れないようにするのである。この観が終わったなら、無量寿仏の極
楽世界を見たといえる。このように想い描くのを普観想といい、第
十二の観と名づける。

 無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩と
ともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にそ
の身を守られるのである 」


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(21) 釈尊は続いて阿難と韋提希に仰せになった。

  「 もし、心から西方極楽世界に生れたいと思うなら、まず池の上
に一丈六尺の無量寿仏の像がおいでになると想い描くがよい。

 さきに説いたように、無量寿仏のお体の大きさははかり知れない
ほどであるから、愚かな人間ではとうてい想いの及ぶものではない。
しかしながら、無量寿仏が菩薩のときにおたてになった願の力によ
り、よく心をこらして想い描くなら、必ずその仏の真のおすがたを
見たてまつることができるのである。ただ仏の像を想い描くだけで
も、はかり知れない功徳が得られるのである。まして無量寿仏のお
すがたにそなわったすべての特徴を想い描くなら、それ以上の功徳
が得られることはいうまでもない。

 阿弥陀仏は神通力を思いのままにはたらかせ、すべての世界で自
由自在にさまざまなおすがたを現される。ときには大空一面に満ち


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わたるほどの大きなおすがたを現し、ときには一丈六尺、または
八尺の小さなおすがたを現される。そしてこのように現されたおす
がたは、みな金色に輝いている。また円光の中の化身の仏や宝の蓮
の花などは、前に説き示した通りである。

 観世音・大勢至の二菩薩は、どこでも同じおすがたをしておいで
になるから、人々はただ二菩薩の頭の特徴を見ることによって、こ
れが観世音菩薩であり、これが大勢至菩薩であると知るのである。
この二菩薩はともに阿弥陀仏を助けてひろくすべての人々をお導き
になる。このように想い描くのを雑想観といい、第十三の願となづ
ける 」



                      (観経 つつく)

195

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 掲載 妙念寺 藤本 誠  


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