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(毎月 三日拝読の大意)
浄土真宗の信心についていえば、
ことさらに自分の悪い心を止めよとも、
また迷いのとらわれの心が起こるのを
止めよともいうわけではありません。
どのような仕事をして暮らしを立てて
いようとも、そのような日暮らしをしている
取り柄のない私たちを救おうとお誓いに
なった阿弥陀如来の本願であると
深く信じて、一心にみ仏の本願におまかせする
信心がまことなら、かならず阿弥陀如来の
お救いにあずかることができるのです。
そのうえで、どのように思って念仏するのか
といえば、浄土に往生するのは信心の
はたらきによるのだから、その信心をめぐまれた
ご恩を報じるためと思って、命のあるかぎり念仏
すべきです。
このような人を、浄土真宗の信心を
決定した人というのです。
(一帖第三通)
(毎月 四日 拝読の大意)
このところ、加賀・能登・越中などの国から、
僧侶も在家の人も、男も女も、たくさんの人が
この吉崎に参詣されますが、その人たちが
どういうお気持ちなのかと気がかりなことです。
というのは、浄土真宗のみ教えでは、このたび
浄土に往生することができるのは、他力の信心を
得ることによるからです。
しかし信心をたしかに得た人は見あたりません。
そうしたことで、どうして浄土に往生することが
できましょうか。
五里十里という遠い道をなんとか踏み越えて、
この雪の中を参詣されたのは、どういうお気持ち
なのだろうかと、はなはだ気がかりなことです。
そこでこれからどのように心得なければ
ならないかというと、他力の信心のいわれを
しっかり心にいただき、そのうえで、仏恩報謝の
ためにいつも念仏すべきなのです。
このように心得たならば浄土往生は
定まるのです。
その喜びからであれば、師とされる僧侶の寺へ
出向いて施しをなさるのもよいでしょう。
このような人を浄土真宗のみ教えをよく
心得た信心の人というのです。
(一帖第五通)
(毎月 五日 拝読の大意)
今年の夏は、なぜかことに眠気におそわれて、
このように眠いのはいったいどうしたことかと考えて
みますに、これはきっと浄土に往生するときが
近づいたのではないかと思われます。
本当にどうしようもなく、またなごり惜しいことです。
しかし、私は今日までも、往生のときが今にもくるかと、
油断せずにその心構えはしていました。
それにつけても、この土地で、私の亡き後も信心を
決定する人たちが、これから後も続いてくださる
ようにと、いつも心から願っているのです。
私が往生することについては、なんの疑いも
ありませんが、あなたがたの心には、大いに
油断があるように思います。
命のあるかぎり、私たちは、いつ往生のときが
きてもよい心構えで生きるべきです。
しかし、あなた方はその心構えが十分にできて
いないように思います。
明日をも知れないはかない命です。
命が終わってからでは、なにをいっても
むなしいことです。
命のある間に疑いがはれなかったならば、
きっと後悔するばかりでしょう。
どうぞ、十分お考えになってください。
(一帖第六通)
(毎月 六日拝読の大意)
文明三年四月上旬に、近江の地から北国へ来て、
越前や加賀の各地をまわりました。
そして、この吉崎という場所がとくに気に入りましたので、
狼などが棲むような土地でしたが、山を切り開いて、
七月二十七日に一寺を建立しました。
それから昨日、今日と日を過ごし、もう三年もたって
しまいました。
そのうちに多くの人々が集まってきましたが、
私がお寺を建てた目的と違ってきた様子なので、
今年から仏法を聞く気のない人たちの出入りを止めます。
私がこの地に住んでいるのはなんのためかといえば、
人間に生まれて、遇いがたいみ仏の教えに遇いながら、
むなしく地獄におちてしまうのは本当に嘆かわしい
ことなので、他力の信心を決定し、浄土往生をとげて
いただきたいからです。
しかし、浄土に往生しようと思わない人たちは、
なんのためにこの地に集まるのかわかりませんから、
出入りを止めたいと思うのです。
この地に集まるのは名誉や財産といった欲のため
ではなく、浄土に往生してさとりを得るためですから、
このことを聞いた人々は、自分勝手な思いにとらわれ
ないでほしいと思います。
(一帖第八通)
(毎月 七日 拝読の大意)
近ごろこの地方の念仏者の中に、根拠のない
あやしげな文句で、これこそが信心を得たすがただ
などといい、しかも自分は浄土真宗の信心をよく
心得ていると思っているものがいます。
そのものは、「十劫の昔に阿弥陀如来となられた
ときに、如来が私たちの往生をも定めてくださった
ご恩を、忘れないのが信心である」というのです。
これは大きなあやまりです。
阿弥陀如来がさとりを開いて仏となられたことを
知ったとしても、私たちが往生することのできる
他力の信心のいわれを知らなければなんにも
なりません。
これより後は、まず浄土真宗の信心のいわれを
しっかりと心得るべきです。
その信心とは、『大経』には、「至心・信楽・欲生」と
説かれ、『観経』には、「至誠心・深心・回向発願心」と
説かれ、『小経』には、「一心」と説かれていますが、
すべて他力の信心をあらわしたものです。
その信心とは、自力のはからいを捨て、ひたすら
阿弥陀如来を信じて、その他の神や仏に心をかけず
二心なく阿弥陀如来に帰命すれば、み仏は光明の
中におさめとってお捨てにならないのです。
これが信心を決定したすがたです。
このように心得た後の念仏は、み仏が信心を与えて
くださったご恩に報いる念仏であると思うべきです。
このような人を信心が決定した念仏者というのです。
(一帖第十三通)
(毎月 八日に拝読の大意)
阿弥陀如来の本願が世に超えすぐれていると
いうのは、よごれきった末法の世で、迷いの罪を
つくり続ける私たちを救うためにおこされた、
この上なくすぐれた誓願であるからです。
それでは、どのようにこの本願を心得、どのように
阿弥陀如来を信じて浄土に往生するのでしょうか。
このことをくわしく述べましょう。
末法の世に生まれた今の人々は、他の神や仏を
たのみとせず、ただひたすら阿弥陀如来に帰命
すれば、どれほど罪が深くとも、み仏は大慈悲を
もって、光明の中におさめとってくださいます。
このことを『観経』には、「光明遍照十方世界、
念仏衆生摂取不捨」と説かれています。
また、如来の本願の不可思議なはたらきによって、
迷いの世界への道をふさいでくださいます。
それを『大経』には、「横截五悪趣悪趣自然閉」と
説かれています。
如来の本願を信じて少しも疑いの心がないならば、
たとえ地獄へおちる身であると思っていても、
阿弥陀如来の光明におさめとられたものは、
地獄におちず浄土に往生する身となるのです。
このように、如来の大慈悲のご恩を常におおいに
うけている身ですから、いつも念仏して仏恩に
報じなければなりません。
これが真実信心を得たすがたです。
(二帖第四通)
(毎月 九日 拝読ご文章の大意)
この三、四年の間、ここに集まる念仏者を
見ていると、他力の信心を決定している
様子がありません。
念珠一連を持つ人もなく、み仏をうやまう
気持ちが欠けているようです。
親鸞聖人は、念珠を捨ててみ仏を拝めと
おっしゃったことはありません。
もちろん、浄土往生のためには、念珠を
持たなくても、他力の信心一つで十分です。
しかし、住職たるものは、袈裟をもかけ、
念珠も持って礼拝し、み仏をうやまう気持ちを
おもてに出してもよいでしょう。
そのことを縁として、真実信心をいただいた人は、
かならず口に念仏を称え、またふるまいにも
信心を得ているようすがあらわれるものです。
しかし今、真実信心を得ている人はいたって
少ないように思われます。
それは、み仏の本願の尊さをわが身に受け
とっていないからです。
信心についてよく心得ているような顔をして、
なにを聞いてもしっかり耳に入らず、ただ人まね
ばかりをしているというありさまです。
これでは自分の往生もあやうく、ましてご門徒や
お同行の教化などできるはずはありません。
そのような心では、このたびの浄土往生も
かないません。
なんとも気の毒なことです。
よくよく考えてください。
人間はまことにはかないものです。
決して油断をせずに、仏法を聴聞して
信心を決定するように心がけるべきです。
(二帖第五通)
(毎月 十日拝読のご文章の大意)
人間に生まれることは五戒をたもった功徳に
よるのであり、まことにまれなことです。
しかし、人生は短くはかないもので、たとえ栄華を
ほこっても、盛者必衰会者定離のならいで久しく
続くものではなく、しかも老少不定なのですから、
人の世はあてにはなりません。
ですから私たちは他力の信心を得て、浄土往生を
願うべきなのです。
その信心を得るには、智慧も学識も必要ではなく、
貧富や善悪や男女といった違いも一切関係なく、
ただ自力のはからいを捨て、二心なく阿弥陀如来を
たのむばかりです。
み仏はこのように信じるものを光明の中におさめとって、
命が終わればかならず浄土に生まれさせて
くださるのです。
この信心一つで浄土に往生することのたやすさから、
「安心」というのです。
『大経』の「易往而無人」というのは、信心を得れば
浄土に往生するのは易しいが、信心を得る人がまれで
あるから、浄土には往きやすいが人がいないと
いうことです。
このように信心のいわれを心得た後に私たちが称える
念仏はすべて、本願のはたらきによってお救いくださる
ご恩を報じるものです。
仏法をよく聞いて、なんのはからいもいらない信心の
いわれを知り、浄土往生をとげるよう心がけなさい。
(二帖第七通)
(毎月 11日拝読の大意)
近ごろ諸国で親鸞聖人のみ教えがさまざまに
異なって伝えられているのは、嘆かわしいことです。
浄土真宗では、他力の信心によって凡夫が
浄土に往生させていただくのですが、その信心を
説かずに、「阿弥陀如来が十劫の昔に私たちの
往生を定められたのを忘れないのが信心だ」と
いうものがいます。
これでは、阿弥陀如来に帰命し、他力の信心を
得たということにはなりません。
如来が十劫の昔に私たちの往生を定められたと
いうことを知ったとしても、他力の信心のいわれを
知らなければ、浄土に往生することは出来ません。
また、「阿弥陀如来に帰命するといっても、
善知識がいなければできないことなので、
ただ善知識をたのみとすべきである」という
ものもいますが、これもまちがっています。
善知識というのは、二心なく阿弥陀如来に
帰命しなさいとすすめる人のことだからです。
そこで宿善・善知識・光明・信心・名号という
「五重の義」がたてられています。
このことが成就しなければ、浄土に往生する
ことはできません。
ですから善知識は阿弥陀如来に帰命しなさいと
私たちを導く使いなのです。
善知識にあうことは必要ですが、阿弥陀如来に
帰命しないで、善知識ばかりをたのみとするのは、
大きなあやまりであると知るべきです。
(二帖第十一通)
(毎月 12日拝読の大意)
南無阿弥陀仏とはどういう意味かといえば、
「南無」には帰命と発願回向との二つの意味があり、
また「南無」には願、「阿弥陀仏」には行の意味が
あります。
ですから、自力のはからいを捨て、二心なく阿弥陀
如来に帰命するそのときに、如来は光明を放って
行者をおさめとってくださるのです。
それが阿弥陀仏の意味であり、また発願回向の
意味です。
そこで南無阿弥陀仏という六字は、私たちが
浄土に往生できる他力の信心のいわれを
あらわした、み仏の名前であるとわかるのです。
それを『大経』の願成就の文には、「聞其名号
信心歓喜」と説かれています。
「聞其名号」というのは、ただおおまかに聞くので
はなく、善知識にあって南無阿弥陀仏の六字の
いわれをよく聞くことであり、そうすれば、浄土に
往生することができるのが他力の信心の道理で
あります。
「信心歓喜」とは、信心決定して往生疑いなしと
喜ぶ心です。
阿弥陀如来のご苦労は言葉にあらわすことも
できないほど尊いものです。
親鸞聖人はご和讃に、南無阿弥陀仏の恩徳の
深さをお示しになっており、また「正信偈」にも、
「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあります。
ですから、いつどこででも、仏恩報謝の念仏を
申すべきであります。
(三帖第六通)
(毎月 13日拝読の大意)
今の世の女性たちは、みな一心に深く阿弥陀如来を
信じる以外に、迷いの世界を出て浄土に往生する道は
ないと思ってください。
それではどのように如来を信じ、往生を願うのか
といえば、なにも思い迷わずに、二心なく阿弥陀如来に
帰命して、おたすけくださいとおまかせするのです。
如来はその人をかならずお救いくださることは
疑いありません。
そして信心を得た後は、たしかにお救いくださる
ありがたさを思い、仏恩報謝の念仏を申すばかりです。
(四帖第十通)
(毎月 14日拝読の大意)
南無阿弥陀仏とはどういう意味なのか、また
どのように阿弥陀如来を信じるならば浄土に
往生することができるのか、それを心得るためには、
まず南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく心得
なければなりません。
南無阿弥陀仏とは、たすけると仰せになるみ仏に、
おたすけくださいとおまかせする信心であります。
そのようにおまかせする衆生を、阿弥陀如来は
よくお知りになって、この上ない功徳を与えて
くださいます。
このことを「衆生に回向してくださる」というのです。
そこで、阿弥陀如来におまかせする信心(機)の
衆生を、如来がおたすけくださる(法)ので、これを
機法一体の南無阿弥陀仏というのです。
これが私たちの往生が定まる他力の信心であると
心得るべきです。
(四帖第十一通)
(毎月 十五日に拝読の大意)
毎月二度の会合をするのはなんのためかと
いえば、自身が浄土に往生する、その信心を
得るためです。
ところが、その信心について話し合うことは
まったくなくて、近ごろは飲み食いだけして
帰っています。
これは仏法の本意にかなっていません。
信心を決定していない人々は疑問とするところを
問いただして、信心の有無を話し合うべきなのに、
なんの得るところもなく帰ってしまうのでは、
会合した意味がありません。
これからは、信心を決定していない人々は
お互いに信心について話し合うことが大切です。
そもそも浄土真宗の信心とは、いかに自分の罪が
深くとも、自力のはからいを捨て、二心なく阿弥陀
如来に帰命し、後生をおたすけくださいと如来に
おまかせすることです。
その衆生を、如来がことごとくお救いくださることは
疑いありません。
このように信心のいわれをよく心得た人は百人が
百人、みな往生できるのです。
その上で毎月会合をしても、仏恩報謝のためと
承知するならば、それこそ真実信心を得た行者と
いえましょう。
(四帖第十二通)
(毎月 16日に拝読の大意)
信心を得るというのは、第十八願を心得ると
いうことであり、それはとりもなおさず、南無阿弥陀仏
のいわれを心得るということです。
私たちが、南無と阿弥陀仏に帰命する心は、
私たちをお救いくださる阿弥陀仏の本願のはたらき
なのです。
これがすなわち、如来が凡夫に如来の徳を回向される
ということです。
それを『大経』には、「令諸衆生功徳成就」と説かれて
います。
はかりしれない昔からつくり続けてきた罪が、
本願のはたらきによって消滅するわけがあるので、
浄土に往生することに定まって決して退かない
位につくというのです。
「煩悩を断ぜずして涅槃をう」というのはこのことです。
この教えは、浄土真宗だけが説くものですから、
他の宗派の人に対していうべきことではありません。
十分心得るべきことです。
(五帖第五通)
(毎月 17日に拝読の大意)
浄土真宗の安心というのは南無阿弥陀仏の
六字のいわれを聞き開くことです。
善導大師はこの六字を、「言南無者即是帰命
亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行
以斯義故 必得往生」と釈されています。
「南無」とは帰命ということであり、帰命とは、
衆生が阿弥陀如来におたすけくださいと
おまかせすることです。
また発願回向とは、おまかせした衆生を
如来がおさめとってお救いになることです。
これはそのまま「阿弥陀仏」の四字の
意味でもあります。
そこで私たちのような愚かなものは、
どういう心をもち、また阿弥陀如来を
どのようにたのみたてまつればよいのか
というと、自力にたよることをやめ、後生を
おたすけくださいと二心なく阿弥陀如来
におまかせするのです。
そうすれば、浄土に往生することは疑い
ありません。
このように、「南無」の二字は、衆生が
阿弥陀如来をたのむという機をあらわしており、
「阿弥陀仏」の四字は、たのむ衆生を
おたすけくださる法をあらわしているから、
機法一体の南無阿弥陀仏というのです。
このようないわれがあるので、私たちの
往生は南無阿弥陀仏の六字にあらわし
尽くされているのです。
(四帖第十四通)
(毎月 18日拝読の大意)
この攝津の生玉の庄内大坂に坊舎を建てて、
もう三年が過ぎました。
この場所に住んでいるのは、一生を安穏に
過ごし、華やかでぜいたくな生活をしたり、
また花鳥風月などに心をよせるためでは
ありません。
信心を決定する人も増え、念仏する人々が
多く育ってほしいと思うばかりです。
もし少しでもとらわれをもって、無理難題を
いうような人があるようなら、この地に
とどまろうとは思わずにすぐに離れるべきで
あります。
僧侶であるか俗人であるかなどに関係なく、
信心を決定することこそが、阿弥陀如来や、
ことに親鸞聖人のご本意に沿うもので
ありましょう。
私も八十四歳になりましたが、この夏ごろから
体調が悪くなり、快復のきざしがありません。
この冬にはきっと往生の素懐をとげることに
なるでしょう。
それにつけても、生きているうちに、みなが
信心決定するようにと、朝な夕なそのこと
ばかりを思っています。
信心を得ることは、人間のはからいによること
ではありませんが、いつもそのことを思って
います。
どうか、この七日間の報恩講において、
だれもが信心を決定して、ともどもに
浄土往生をとげたいものです。
(四帖第十五通)
(毎月 19日拝読の大意)
末法の世にあって、まことの智慧もなく、
在家の生活をしているものたちは、一心に
阿弥陀如来をたのみたてまつって、ほかの
神や仏に心を向けず、ひたすらみ仏に
おまかせしなさい。
そのものを、どんなに罪は重くとも、かならず
阿弥陀如来はお救いくださいます。
これが第十八願、すなわち念仏往生の願の
こころです。
このように信心を決定した後は、寝てもさめ
ても、命のあるかぎりは仏恩報謝の念仏を
すべきです。
(五帖第一通)
「御文章ひらがな版・拝読のために」から
(平成11年発行・本願寺出版社)
「御文章ひらがな版・拝読のために」から
(平成11年発行・本願寺出版社)
転用の場合は、本願寺出版社の了承を必ずお取りください。
掲載者 藤本誠
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