第703回 誰が 救われるのか

 
平成18年 7月13日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
毎月 14日に 勉強会を開いていますが、いま 浄土真宗の必携をもとに
仏教とは 浄土真宗とは どういう教えかを 学んでいます。
その中に こんなところが ありました。

 
「だれが 救われるのか」 という文章です。

阿弥陀如来の救いの正機 (めあて)は、悪人であります。
この 「悪人」 とは、如来の光りに 照らされて知る 「わたくし」の代名詞にほかなりません。
たとえ 世間的には、よい人だといわれても、 また法律の罪は犯して いないからと
いっても、 胸をはって、自分は善人だ といえるでしょうか。

悪とは そういう表面的なこと ではなく、もっと根の深いところにあるのです。
わたくしたちは、当然  なさねばならぬことを、保身のために 怠ったことはないでしょうか。

ことばや行いにこそ、あらわすことをしないものの、心のなかでどれだけ人を傷つけ、
おかし、ほうむり さったことでしょう。
もっともらしい大義名分に 名をかりて、その実は自分の立場や利益を守ろうとし、
他人を苦境に 立たしたことは ないでしょうか。

生きるためには やむをえないといって、どれだけ多くの生命をうばっていることでしょうか。

仏の鏡のまえに 照らしだされて、「罪悪深重の凡夫」 以外の存在であるといえる人が
はたしてあるでしょうか。
それでいて、救いの正機が 悪人であると 聞かされれば、頭をめぐらしてよそに悪人を
さがすほど、このわたくしは 救いがたい存在なのです。


そのわたくしが救われるのですから、考えてみれば これはたいへんなことであります。

ただここで 注意せねばならない ことは、救いの正機が悪人で あるということは、
悪事は いくらしても 許されるということ ではありません。
「 救う 」 と 「 許す 」 とは  おおいに ちがいます。

子どもが かわいいから といって、子の悪事をよろこぶ親がありましょうか。
如来は、わたくしの悪を嘆きながら、 捨てずして 救い、ふたたび悪におちいること
のない仏にすることが、 その願いなのであります。

「 どんなによい薬があるからと  いって、好んで毒を飲めという ようなことは、
あってはならない 」 と親鸞聖人は、いましめて おられます。

教えを聞いてゆけば、悪人が めあてで あればこそ このわたくしが救いの正客で 
あったと知らされるのであり、 それでこそ すべての衆生が 救われるのであります。

万人が救われるという 大乗仏教の いたりつく極致が、 浄土真宗であります。

という文章です。 
救いの目当てが この私であったと 教えていただけるのが お念仏の働きだと
味わえます。
暑さに負けず お念仏の生活を 送らせていただきたいものです。

妙念寺 電話サービス 次回は 7月20日に新しい内容に変わります。

    浄土真宗必携 74ページより  尚 浄土真宗必携の全文はこのホームページに
    掲載しています。
       これが基本