南无阿弥陀仏の教えが
最も分かりやすい文章を
ここに掲載します。
目 次
なにがほんとうの教えか
如来の願い
釈尊の本意
阿弥陀如来と釈尊
救わずにはおかぬ本願
信心がかなめ
なにをどう信ずるのか
聞くとは
だれが救われるのか
称名は報恩
人間砂漠の案内者
人間ほど浅薄なものはない。
いずれも急がなくてもよいことを
急ぎ、争わなくてもよいことを、
争っている。
このはげしい悪と苦の渦のなかに、
あくせくとして、勤めはたらき、
やっと生計を保っているのである。
(仏説無量寿経)
きょうも一日、わたくしたちは、しあわせを
追い求めて生きてゆきます。
そのしあわせをあなたは、他の人とくらべる
ことによって、感じようとしてはいませんか。
たとえば服を三着もっていれば、一着しかない
人にくらべて、満足かもしれません。
しかし、新しい服を五着もっている人が
現われたら、いままでの満足感はたちまち
消えうせてしまいます。
住まいにしても、たった一部屋の間借りよりは、
部屋数の多いことが、満足でしょう。
ところがそれも、土地つきの邸宅にくらべると
やはり不満となってきます。
他の人とくらべて、しあわせを感じようとすれば、
いきおい人を押しのけてでも、先に出ようとする、
せり合いをはじめるようになり、あるいはその
競争に勝つ自信のないものは、ついには
他人がつまづいて、自分よりおくれることを
望むようになってしまいます。
またあなたは、ものや権力を所有することに
よって、しあわせになろうと望んではいませんか。
そのなかで、だれもが所有したがるのは
お金でしょう。
そのお金をはじめとして、わたくしたちの所有する
ものは、すべてふえたり滅ったりして、
変化するものです。
それにつれてその人の幸福も、ふくらんだり
しぼんだりするのです。
すばらしい繁栄をうたわれている現代に生きる
人間の、不安と孤独がますます増大する原因は、
実にここにあるのです。
つまり、幸福を比較の上にきずこうとし、所有に
よってつかもうとしているからです。
比較と所有によっては、ほんとうの幸福になる
道は開けてきません。
比較することによって、相互に傷つき、所有する
ことによって執着(とらわれ)し、そのことに苦しめ
られるのです。
「比較」と「所有」という二つの道だけが、
幸福への道ではありません。
さいわいなことに、もうひとつの、
しあわせへの門が、この人生には
ひらかれております。
その門に、わたくしたちはこれから入ろうと
思うのです。
ここで、ちょっと窓のそとに目をやってください。
そこにはなにがみえるでしょうか。
建てこんだ家並みですか。
それとも、すがすがしい自然の景観か、あるいは
団欒をしのばせる人家の灯かげかもしれません。
そのおなじ見なれた風景が、ときによってちがって
みえる経験を、あなたは、お持ちではありませんか。
道路を走る車の列が、あるときはゆううつな悩みのたね
として目にうつり、ときにはこの文明社会をきずいた
人間謳歌の隊列ともみえるでしょう。
ということは、あなたのもっている「人生を見る目」は、
そのときの気分にしたがってゆれうごく、不安定な
目でしかないことを物語っているのです。
わたくしたちの人生は、さまざまな人が寄りあつ
まって織りあげていく人間模様であるといえましょう。
まばゆい原色のデザインもあれば灰色の地柄もある、
喧噪のときもあれば無気味な沈黙もある、−−−
けれども、一見しただけではとらえどころのない
この人生も、たしかな目と耳をもつものには、
すばらしい図柄がうきあがってくるし、雑音の
なかから、あなたが聞かねばならぬ主旋律が
聞きとれてくるのです。
そういう、人生をみるたしかな目や耳を総称して
「真実の智慧」といいます。
仏教は、そういう智慧をやしなう教えです。
ものを見る目がやしなわれても、ただ眺めて
ばかりいたのでは、真実の智慧とはいえません。
その智慧にしたがって、うごいてゆかねば
無意味です。
うごくとはいっても、いまはやたらにいそがしい
時代です。
その多忙な日程をメモしておく行事黒板が、
あなたのおうちや職場にかけてあると思います。
その黒板にぎっしりかきこんである予定を、
あなたは自信をもって着実に果たしているでしょうか。
むしろ逆に、その日程に気ぜわしく追いかけられて、
イライラすることが多いのではないかと思います。
そうして、やっときょう一日の仕事をなしおえて、
かきこんである予定を消すとき、はたしてあなたは
満足と感謝のうちに消すことができますか。
満足どころか、一種のいいしれぬ空しさにおそわれる
ことはありませんか。
しいて忘れようとしても、いつのまにか迫ってくるこの
「空しさ」は、いったいどこからくるのでしょうか。
わたくしたちは、自分の人生にはたしてなにを残す
でしょうか。やりがいのある仕事を残して満足する人が
あるかもしれません。けれども、人間の残す仕事は
しれたもので、一、二の例外をのぞいて大多数の
わたくしたちのやる仕事は、褒められたとしても
貶されたとしても、それは一時のことであり、
けっきょくは間もなく忘れさられてしまいます。
また、お金をかせぐことに懸命になっているのが
わたくしたちです。
なるほど、お金はなくてはならないものではありますが、
これですべてが満足し人生の目標に達したという
わけにはいきません。
まさかあなたは、財を積みあげてそれだけを唯一の
ほこりとする人ではあるまいと思います。
そういうことを考えるとき、いそがしければいそがしい
ほど、わたくしたちは、消しても消えぬもっとたしかな
ものを求めたくなるのではありませんか。
日々の予定は、チョークで仮りにかいておかねば
なりませんが、その字の底には消えぬエナメルで、
一生読みつづけるすばらしい字をかきこんでおきたい
ものです。
どうゆう字をかいたらよいかは、この本を読み
つづけてゆかれるならば発見できるはずです。
真実の教えは、わたくしたちの生き方のなかに、
そういうたしかなよりどころをあたえるものなので
あります、
隊商が、長途の旅行の出発にあたって、
道案内をさがしてきました。
かれらは、その案内者のさしずにしたがって、
けわしい山を越え、危険なジャングルをくぐり、
砂漠にさしかかりました。
砂漠の旅は、単調なくりかえしと、
のどのかわきとのたたかいです。
やがて隊員たちは、案内者をうとんじはじめました。
荷物をになわずラクダの世話もせず、
「目的地は ?」 と問えば
「あちら、西の方へ前進だ」と答えるだけの
案内者に、隊員たちは貴重な水をわけることを
おしみ、はてはついに追放してしまいました。
だが、なにもしないよに思われていた案内者は、
じつは夜明けまえに起きだして、星座をみては
自分たちのおかれている位置をたしかめ、
これから進む方角をさだめていたのであります。
その案内者を追放したあげく、みずからの位置と
方角をみうしなった隊商は、やがて砂漠のなかで
死のさまよいをつづけてゆかねばなりませんでした。
あなたは、人生の案内者をもっていますか。
この現代の人間砂漠を旅するには、ぜひとも
たしかな先達が必要です。
そのたしかな案内者=釈尊と親鸞聖人を、
この書でご紹介いたします。
ぜひ一度あってみてください。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
(浄土真宗必携・本願寺出版・P49頁〜)
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと
おもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取
不捨の利益にあづけしめたまふなり。
弥陀の本願には、老少・善悪のひとを
えらばれず、
ただ信心を要とすとしるべし。
(歎異抄)
親鸞聖人のひらかれた浄土真宗は、
「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、
念仏を申す人生を歩み、浄土で真のさとりに至る」
教えであります。
そして「蓮華の国にうまれては、真如のさとりを
ひらきてぞ、生死の園にかえりきて、まよえる人を
救うなり」と示されるように、還相の徳までも
恵まれる宗教であります。
わたくしたちは、この教えに基づいて、
苦悩多い生活の中にありながら、
まことの幸福をえて、明るく安らかな世の中を
実現してゆくのであります。
「救い」ということは、一般に いろいろな内容を
意味しております。
たとえば神や仏を信心して、それに祈りや願いを
かけることによって、自分の願望がかなえられると
いう意味に使われています。
このような場合、「救い」ということは、自分が
なにかに行きづまり、たいそう困ったときに、
神とか仏とかいう人間を超えたものの不思議な
力によって、その障害が除かれるということです。
そういう救いは、わたくしたちが日常生活でよく口に
する”ああ助かった” ”おかげで救われた”という
ことと、あまり違いはありません。
自分のおもいをかなえるために、神とか仏とかいう、
人間を超えたものに祈願する、ただそれだけの
違いであります。
人間はともすれば、自分の生きる目標を、財産や、
地位や、名声などという世間的な願望のなかから
選んで、それらのものを懸命に追いかけ求めて
おります。
そして、それらの願望が満たされたら幸福な人生で
あると思い、満たされなければ不幸な人生であると
考えがちでありますが、はたしてそれは正しいこと
なのでしょうか。
わたくしたちが、この人生を生きてゆくためには、
その途上において、まったく思いもかけなかった
苦しみや、悲しみや、障害にあうことがあります。
そのとき、普段は利口そうなことをいっている
学識のある人でも、また実証主義的な考えをもった
若者でも、ひとたびこのような人生の壁につきあたると、
占いや、まじないや、祈祷によるご利益などを、
本気になって信じたりします。
それは、いろいろな災難や障害の奥に、悪魔とか、
たたりとかいう、ものの気の作用がひそんでいる
ように思ったり、それを祈りやお払いをして、悲しみや
苦しみからのがれたいと思うからであります。
そこに人間本来の弱さ、もろさというものが、
うかがわれます。
しかしこのような救いは、ときには解決されたように
思うことがあっても、それは決して根本的な解決では
ありませんし、科学と矛盾し、社会に害毒を及ぼす
ようなことさえあるのです。
そういう要素をもった救いを説く宗教は正しい宗教
ではありません。
現実の願いのとおりに、ものごとが好転し打開されて
ゆくためには、どこまでも人間のたゆみない努力が
必要で、科学の成果を活用することも大切であります。
日本の歴史のうえで、過去七百五十年間、一貫して
現世祈祷やまじないを行わず、占いやおまもり札、
日の吉凶などをまったく否定した教えがあります。
それは阿弥陀仏の救いを説かれた親鸞聖人の
浄土真宗であります。
いったいこのことは、なにを意味しているのでしょうか。
病気やお金もうけなどわたくしたちが直面している
さまざまの問題は、信じたり祈ったりすることによって
打開されるものではありません。
真実の「救い」とは、たとい現実が、どれほど自分の
願いどおりにならなかったとしても、また絶望と破綻
のなかで思案にくれるようなときであっても、なおその
壁を突破し、のり超えて生きる勇気と力を与えてくれる
ものでなくてはなりません。
それは、絶えずわたくしたちのために願い、わたくし
たちを救おうとして、はたらきかけていてくださる
阿弥陀如来を信じ、その本願力の恵みのなかに
生かされるという、まことの心のよりどころをもつことに
よってこそ得られるのであります。
それがそのまま仏のさとりをきわめていく道を進む
ことになるのであります。
人間にほんとうの智慧があったら、いまごろ公害に
悩むことはないでしょう。
人間に自己中心の欲がなかったら、戦争をして人間
どうしがお互いに殺しあいをするような愚かなことは
しないでしょう。
智慧がないばかりに、また自己中心の
心を離れることができないばかりに、われわれは
数限りない問題をかかえ、苦悩の淵に沈んで
いるのです。
仏教の目的は智慧をみがき、自己中心の欲、
つまり煩悩をなくすることにあります。
すなわち仏になることです。
そのために釈尊は、その生涯に多くの経を
説かれました。
相手に応じていろいろ説かれたので八万四千の
法門ともいわれます。
ところが親鸞聖人はそのなかから、
とくに『仏説無量寿経』(大無量寿経または大経
ともいう)を取りあげて「これこそまことの教えで
ある」といわれました。
それではこの経が、まことの教えであると
いわれるのはどういうわけでしょうか。
そのわけは、一つには、この『大無量寿経』の
ねらいは仏の願いを説くことにあるからです。
一般的にいいますと、まず仏の教えを信じ、
教えの通り修行すれば、さとりをひらき仏になる
ことができるのであって、これは道理としては、
よく納得ができます。
しかし現実をみつめるとき、なかなかその通りには
いきません。
肉体をもって生きてゆく人間には常に迷いと悩みが
つきまとい、仏のさとりに達することなど、とうてい
不可能なことであります。
それは、釈尊がこの世に生まれて、仏になられて
以来、二千五百年たった今日まで、生身のからだを
持った仏の出現を見ないことでよくわかります。
何の気なしに考えますと、われわれは仏道の修行を
すれば、それにつれて次第に心の霧が晴れるように
思います。
しかし実際は修行をすればするほど心の霧は濃く、
底知れぬ闇の深さに気付かされ、自分で自分を
どうすることもできなくなります。
したがって自分で願いをおこして仏になるということは
理想としてはたいせつなことですが、実際は
残念ながらできません。
その悲しい人間という存在を哀れんで、成仏する
ことをわたくしが願うのでなくて、仏が願っておられる
ことを説いたのが『大無量寿経』であり、この教え
以外にこのわたくしが仏になる道はないので、
これを「真実の教え」と親鸞聖人はいわれたので
あります。
二つには、釈尊みずからが『大無量寿経』のなかに、
この経こそ真実の教えであることを語っておられます。
すなわち釈尊は、この経を説かれるとき、
そのお顔がよろこびに輝き、いままでに
見たこともない尊いおすがたであったので、
弟子の阿難がおどろいてそのわけを
たずねると、「如来が無上の大悲をもって
迷いの衆生を哀れみ、世に出て広くいろいろの
教えを説くわけは、衆生を救うためにまことの
利益を恵みたいと思うからである」とこたえられて
いるのであります。
これは、釈尊ご自身の口をもって、この世に
出生せられた本意をあきらかにされたのであり、
おすがたが常と異なって光り輝いていることは、
いまやその本意をとげようとしておられることを、
すがたでもって示しておられるのであります。
さらに釈尊は、この経を結ぶにあたって、
「やがて後の代になれば、もろもろの教えの道は、
みなすたれてしまうであろうが、わたくしは
哀れみの心をもって、特にこの経だけを
いついつまでもとどめておこう。
そしてこの経に値うものは、いついかなるものでも、
みな望みのままにかの国に往生して、迷いを離れる
ことができるであろう」と、説かれるのでありました。
『大無量寿経』が、永遠に真実の教えであることは、
ほかならぬ釈尊の宣言であります。
わたくしたちは、釈尊という歴史のうえに現れた
仏を知ることができました。
この世に生まれ、修行し、さとりをひらいて仏となり、
教えを説いて人びとを救い、八十年の生涯をおえて
入滅されました。
この釈尊はたしかにわたくしたちとおなじ人間として
誕生されました。しかし誕生はおなじでも、
われわれとちがって「さとり」という体験をされ、
仏陀になられたということを忘れてはなりません。
そのさとりの内容は、永遠に変わらない真実の
法であります。
”この法は、わたくしが勝手につくりだしたものではない。
また、わたくしがこの世に現れても現れなくても、
それには何のかかわりもなく、真実の法はつねに存在
している。
わたくしはそれをさとっただけである”とご自身が
のべておられます。
釈尊をして、仏たらしめているものは、この永遠不滅の
真実の法にあるのであります。
この、永遠不滅の真実の法そのものを、
久遠の仏といいます。
さとりをひらいていない、わたくしたち人間の心では、
久遠の仏を直接に知ることはできません。
親鸞聖人のことばをかりていえば 「 いろもなく、かたちも
ましまさぬ 」 この久遠の仏である法性法身が,、迷いの
世界にむかって動きだし、わたくしのおろかな心を
めざめさせ、迷いの衆生を救おうとして、仏に
なられたのが、阿弥陀如来であり、この如来を
方便法身といいます。
すなわち、阿弥陀如来は、わたくしたちを救って
くださる真実の救主であり、釈尊は、この阿弥陀如来の
救いを説いて,、如来の本願を信ぜよとすすめてくださる、
歴史のうえにあらわれた教主であります。
親鸞聖人は 「 釈迦,・弥陀は慈悲の父母 」
(和讃)と
いわれましたが、阿弥陀如来は救いの母であり,
釈迦如来は教えの父であるといえましょう。
さてこの『大無量寿経』には、阿弥陀如来の
本願が説かれています。
わたくしたちは、何よりもこの本願を聞かねば
なりません。
この本願は『大無量寿経』に四十八の願いとして
誓われていますが、親鸞聖人はそのなかで、
とくに第十八願が「根本の願」であると受けとって
おられます。
その第十八願の要点は、”すべての人間に如来の
まことを信じさせ、如来の名号を称えさせて、かならず
浄土に生まれさせなければ、自分も仏にならない”
という誓いであります。
この誓いは、のちにあきらかにするように、絶対他力の
本願といわれるものですが、この本願の救い以外に、
わたくしたちが救われる道はないのであります。
この本願のうえに、如来はご自身のさとりをかけて、
わたくしたち衆生を救うことを誓われてありますが、
これを「同体の大悲」といいます。
他の宗教では、救主と人間とは主従の関係で
ありますが、いま如来とわたくしはおなじ立場に
立つ親子の関係であります。
阿弥陀如来が救いのみ親であるわけは、
この本願による生命のつながりによるのであります。
一般の教えにおいては、人間が自分の力を
ふりしぼって「さとりの道」をたどることを教えます。
たとえ神や仏といっても、それは自分の力の足りない
ところを補い助けるためのものと考えられているので
ありますが、浄土真宗でいう救いは,限りある人間の
力にたよらず、わたくしたちの救いのすべてが、
まったく阿弥陀如来の本願力の恵みによるもので
あると仰ぐのであります。
阿弥陀如来の本願は、他力回向の本願・絶対他力の
本願であります。
このように、救いのすべてが、他力のはたらきに
よるということは、浄土真宗だけが説くところであって、
すべての人が、のこらず救われるという根本の
立場がここにあるのです。
この如来の本願力は、どのようにしてわたくしに
はたらきかけるのかといえば、一つには
「南無阿弥陀仏」の名号として、わたくしの心に
とどき、また光明となって、わたくしを照育して
くださるのであります。
それはちょうど、母親が子を育てるのに、母乳と
慈愛の手をもってはたらきかけるようなものであります。
母の乳には、子の育つ栄養のすべてが含まれて
いるように、名号にはわたくしが救われるすべての
要素がそなわっているのであります。
およそ人間と名のつくものは、どんな愚かなもので
あろうと、そのいわれを聞くままが信となり、
となえるままが行となるよう成就されているのが
「南無阿弥陀仏」の名号にほかなりません。
また如来は、「摂取して捨てぬ」と光明をもって、
わたくしたちをおまもりくださるのであります。
光明とは、仏の智慧の姿であり、慈悲のはたらき
であります。
生活に心を奪われ、煩悩に心の眼をさえぎられて
如来のすがたを見ることのできないわたくしで
あっても、大悲の光明は、つねに見まもり、
照らしつづけていてくださるのです。
わたくしの内にはたらく名号と、外からまもる
摂取の光明によって、わたくしはこの煩悩の身の
まま救われてゆくのであり、この名号と光明を
内容とする本願力による救いこそ、わたくしたちの
人生に、ほろびない生命をもたらし、限りない
希望となにものにもくじけぬ勇気を生みだして
ゆく原動力となるのであります。
掲載者 妙念寺住職 藤本誠