第798回 念仏は称えるが

 平成20年 5月8日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

大分臼杵にお住まいだった佐々木蓮麿という方のご本を、読んでおりましたら
大変に 有難いところがあり このホームページでご紹介しようと思い 準備して
おりましたが、念のため 検索しましたら、すでに4年前に 一度 その内容を
紹介していることに気づきました。「仏法の繁昌」という文章がそれです。

何度読み返しても新鮮でありがたいものだと 味わわせていただいています。
同じ 本の中には「念仏は称えるが」という ところもありました。

 今回は、ここを要約してご紹介します。


一人のお婆さんが寺に参られて
「私はまことに つまらぬものであります」とおっしゃいます。

そこで 「どんなにつまらぬのですか」と尋ねると、
「私は若いころから 寺に参って ずいぶん長いあいだ仏法を聴聞したのですが
今になってみると 別にどうなったというでもなく、昔と変わらぬ浅ましい心ばかりで
まことにお恥ずかしいしだいであります」と申されます。


「それでは 念仏は称えられますか」と聞くと
「念仏だけは、どうにか称えさせていただいております」との答えです。


そこで

「念仏だけは どうにか称えている、とは何事ですか。阿弥陀如来の本願は
私どもに念仏する一つで助ける、と呼んでいて下さるのではありませんか。

今 あなたが念仏だけは 称えていると申されるが、それだけで十分では
ありませんか。

問題は、念仏だけでは 物足りぬように考えておられるあなたの心であります。
まだまだ自分の心を立派にして、それを役立てようとする自力作善の気持ちが
強いものですから、ただ念仏する一つで助けて下さる、本願のありがたさが
分からぬのです。

若いときから長らく聴聞したと言っておられますが、それは聴聞の時間が長い
ばかりで、聴聞の仕方が間違っておったのです。


 今晩、お仏壇の前に座って、たとい5分間でも、ほんとうに心が一つになれるか、
御慈悲のことばかりが思われるか、と吟味してごらんなさい。
おそらくわずか5分の間ですらも 出来はしません。落第です。一生かかっても
決して出来るものではありません。

自分の心を深く吟味して行きますと、ただ念仏を称えるひとつで助けるという
本願の思し召しがいかにありがたいか、またいかに尊いか、ということがシミジミと
知られてくるでしょう」と申しました。


「ご院主さん!、私は今まで幾十年の間、全く方向違いの聴聞をしておりました。
口に念仏は称えておりながら、念仏の一つで助けるとある如来の本願をよそにして、
ただ徒に 自分の心をよくすることばかりにかかっていた私のまちがいに驚きました」と。


本願の救いは目の前に差し出されているのであります。
「本願の念仏は『いつでも』 『どこでも』『だれでも』いただける救いである」と
また「道は近きにあり、人これを遠きに求む」と 言われた方があります。

本願念仏の救いこそ 誰でも、今、ここでいただくことのできる救いであります。

問題は 自己自身の心の姿が知れているのか、どうかの一点にあるのです。

親鸞聖人は 「おのれが能を思量せよ」とも 「おのれが分を思量せよ」とも
仰せられております。

念仏の救いが いただけないのは、智恵がないからでもなく、学問がないからでも
ありません。

自分そのものの値打ちが分からないからであります。

世間の智恵は外に向かう智恵であり、仏道の智恵は内に向かう智恵であります。


という文章です。

少々要約しておりますので 全文は   百華苑発行  信心清話で ご確認ください。

ただ念仏一つで 救われるという 教え、どんなに心が乱れようが 念仏一つで
救うという教えを ありがたく いただきたいと 思います。

愛知県、田原のソノさんという妙好人が

「私はな、毎日毎日、朝から晩まで、ほしいおしい、にくいかわいいの煩悩妄念
ばかりの日送りをしておりますから、阿弥陀さまのお仕事は大繁昌でございます」との

言葉をありがたく受け取らせていただきます。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、5月15日に 新しい内容に変わります。



         


           私も一言(伝言板)