門出にて    〜 『峠の茶屋』100,000Hit記念 〜
 
 
 
 

 朝からカラッと晴れ上がったその日は、まるでスカイブルーの絵の具をふんだんに使った様な久々の上天気だった。
 普段から怠惰が染み付いた生活を送っているオレであっても、こうした日をゴロゴロ寝て過ごす程怠け者ではない。
 梅雨で溜りに溜った洗濯物を一気に洗い機に放り込み、窓という窓を全開にして布団を外に出し日向干しをする。それが終ったら次は部屋の掃除だ。ついでに風呂場もやってしまおう。風呂はやっぱり綺麗な浴槽が気持ちいい。
 そんなこんなでバタバタやっていると、やがてピーッピーッと洗濯完了の音が聞こえてくる。
 それ!っとばかりに洗濯槽から出してカゴに入れ、外の干し場に持っていく。そして、パンッ!パンッ!と十分に皺伸ばしをしながら、一つ一つを丁寧に干していく。
 くぅー、なんてえか、こういうのってやっぱり気持ちがいいよなあ。
 湿気があるからだろう。日が高くなるにつれて、徐々に気温も上がっていく感じがする。今日はこのまま夏日になりそうな雰囲気だ。

 …これが終ったら、久々にあいつを連れて街にでも遊びに行ってみようかな。

 そんな事を考えながらも、オレは黙々と仕事を片づけていった。干し場はまさに衣類の花で満開だ。
 ふと、室内にある時計に目を向ける。外の光で見難い針は、昼までにまだ二時間以上もある事を告げていた。
 早起きは三文の得。昔の人はいい事を言ったもんだ。それが日曜ならば尚更かもしれない。

「浩之さーん、ただいま戻りました〜」

 後は靴下を残すだけという所で、そんな元気な声が玄関先から聞こえてきた。お昼ご飯の材料を調達しに行った筈だが、それだけにしてはやたらと元気だ。
 ……ははーん、何か嬉しい事でもあったかな、これは。

「どうした〜?やけに嬉しそうじゃないか」
「そうなんですよ〜。とっても嬉しい事があったんです〜。浩之さんこれ、これ見てください」

 そう言いながら、部屋の中からタタタと駆け寄ってきた。
 トーンチェックのコットンシャツにひだの少ない暖色系のキュロット姿。
 そのシャツは元々オレのもので、洗い方を間違えて思い切り縮んでしまったから捨てようとしたのを「それ、捨てるのなら欲しいですぅ〜」とばかりに奪い取って着ていたりする。
 当然男物だし、縮んだとは言えマルチが着るには依然ブカブカなのだが、それでも本人一番のお気に入りらしい。それがまたスカート姿と結構マッチしていたりするから、着こなしも中々に大したものだ。

「ほぉほぉよく似合っているじゃないか。で、その服装が嬉しい理由ですか? 藤田マルチさん?」
「あー、またそういうイジワルな事を言うんですねぇ。いけませんよぉ藤田浩之さん。メイドロボットの言う事にちゃんと耳を傾けてくださるのがご主人様としての第一の資質だってお父さんが言っていました。浩之さんもそうじゃなきゃ駄目ですぅ〜」

 むむっ!こいつ中々に言う様になったな。いつもだったら思わずのフリしてペシ!の刑だが、まあ今日は気分が良いので許してやろう。
 それにしても、マルチの持ってるそれは明らかに煮物だ。しかも器に入ってラップまでかけてある。買い物に行ったんじゃなかったのか?

「…なあ、まさか脅かそうと思って、隠れて料理していたとかじゃないよな?」
「浩之さん違いますよ。これ、よく見てください。私ではこんなに上手く作れないですよ〜」

 そう言われて、改めて手にあるものをしげしげと見やる。どうやらそれは筑前煮の様だ。
 竹の子、人参、ごぼう、コンニャク、レンコン、椎茸、鶏肉が渾然一体と色も豊かに見事なまでに煮込まれている。ここから見ているだけでも、一口含んで染み出る鶏肉からのジューシーな香ばしさが実感出来る様だ。

「……だな。これだけの煮込みとなると、時間と年期が入っていなければ到底無理だ。……もしかして、お隣の八重おばさんか?」
「そうなんです。今まであまりお話しした事の無い方でしたけど、さっき買い物から帰ってきたら『これ、作り過ぎちゃったから良かったら浩之さんと食べてみて?』って突然手渡してくれたんですよ。私、びっくりしちゃって、あの後ちゃんとお礼言えたかどうかよく覚えていなくて、おばさんに申し訳無い事をしてしまったかもです」
「……そうか。よかったなマルチ。後で器を返しに行く時はオレも一緒に行こう。ちゃんと二人でお礼を言おうな」
「はい、浩之さん」

 マルチは嬉しそうにニコニコとしていた。そんな様子を見て、オレも自然と顔がほころんでいくのが分かる。

 あれから三年か……

 長い様でいて、なんだかあっという間の事だった。こうした日々を、一体どれ程に待ち続けただろうか。
 オレみたいに、メイドロボットを擁してきた者。周りにどう見られようとも、自分の考えを変えなかった者。
 そうした輩への、まさに安息の日々……

「…それにしても、今日は随分といい天気だな……」
「本当ですね。梅雨の中休みとは思えない程ですねぇ」

 誘ってみるか……
 …へっ、何だかオレ、変にドキドキしているな。まるでウブな高校生そのものだ。

「……なあ、家の中が終ったら、久々に街へでも遊びに行ってみないか? お前、見たい映画があるって言ってただろ? それを見て、それから店を色々とひやかして、帰りは近くの植物公園を通って紫陽花を眺めてくるってコースもいいかもな」

 そんなオレの言葉にビックリしたんだろう。大きな目をより見開く様にしたかと思うと、次にはパッと花が咲いた様な笑顔となった。

「いいですねえ〜。私も賛成です〜。……でも、浩之さん…」

 咲いた花が一瞬にして蕾に戻った様なそんな表情。
 考えている事があまりに分かり易くて面白くて、オレは思わず吹き出していた。

「そんなに心配すんなって。それに今日は、久々にあのスーパーへ行ってみたんだろ? 以前イヤな思いをしたからもう行きたくないって言ってたけど、様子はどうだった?」
「あ、はい、親切にしてくれました。食べ物と洗剤をちゃんと目の前で分けてくれましたし、揚げ物のパックなんかも一つ一つ丁寧にビニールに入れてくれて『お箸も付けとく?』って聞いてくれたんです。今まで一度もそんな事は無かったですから、何だかほえーって感じで感心してしまいました」
「ほれみろ。だったらもう大丈夫だよ。まあ、そういう事なら今日は様子見も兼ねて出てみようぜ。危ない様ならダッシュで戻ってくればいいんだからさ」

 前後に素早く両腕を振って走るマネ。
 それを見たマルチはクスクスと明るい笑顔を見せていた。
 
 

◇      ◇      ◇



 特介法。それが全国の都道府県に一斉に施行されたのはつい二週間程前の事だった。
 正式には特殊介護機保護法といい、介護を中心とした生活アシストの機械全般がその対象となる。
 その内容は、主にその機械を利用する側が当人の意思に基づいた権利を有する事が出来るというもので、バッテリーなどによる駆動系と神経直結の感応機構から構成される義手や義足など接合型の機械については既に施行されていた法律だった。
 それが今回、内容が抜本から見直され解釈がより拡大した事で、さらに多くのアシスト機械に対してもそれが認められる様になった。
 そして、その法律には真の目的と言えるものがある。
 それは、メイドロボットに代表される自律学習型特殊介護機の保護という点だ。
 これまでにもあった動物保護法など「人心保護」(動物虐待による人心荒廃の防止)の観点とは大きく異なり、新たにロボットの「生存権」が認められ、ユーザー代表及びメーカー代表における倫理規定に基づいた第三者機関の監査保護が制定されている。
 これまで何かにつけて虐待の対象ともなっていた数々のそうした問題に対し、ようやく国が解決の道をはっきりと示した画期的な内容だった。

 一つ。メイドロボットは所有者の人権の元、国の定める準人権を有する。
 一つ。メイドロボットは所有者の保護の元、準人権の範囲で指示される労務に従うを有する。
 一つ。メイドロボットは所有者もしくは所有者が認めた家族にのみ労務に従うを有する。
 一つ。メイドロボットは準人権を越えた労務を強制された場合、その心身保護から製造元もしくは第三者機関への報告を行う義務を有する。
 一つ。業務雇用者としてメイドロボットに労務を科す場合、それを理由とした既雇用者への解雇は一切認められない。

 まだいくつかあるけど、要約すると大体こんな感じだ。つまり、メイドロボットにも、社会生活においてきちんとした権利が認められた事になる。
 当然、これが決まるまでには世論も含め数々の一寸した騒ぎがあった。メイドロボットという新たな人類を受け入れられるか否かという大きな問題だから、それもごく当然かもしれない。実際国内だけの問題に留まらず、既に大きな問題を抱えている諸外国からの外圧もあったと聞いている。
 しかし、こうしたメイドロボットの誕生をどこよりも先駆けた日本の意地とも言うべき今回の法律は、世界にも類を見ない画期的なものであり、国民からの支持も予想以上に高い様だ。
 無論、その背景には多くの人々による働きかけがあったのは言うまでも無い。
 …とまあ偉そうに言ってるオレではあるが、この件について別に何をした訳じゃない。声高らかに叫んだ訳でも、そうした運動に積極的に参加した訳でも無い。
 ただ、日々の生活を守り、こいつとの時間を大切にする事。そして、それを支持してくれた多くの人との付き合いを大切にしていく事。
 そうした、ある意味ごく当たり前の生活を、ごく当たり前にこなし過ごしてきただけなのだ。
 今でも、オレはそれで良かったと思っている。こうした世の流れになったのもそうだけど、マルチが以前オレに告げた「今の生活を大切にしていきましょう」という一言を守れたのだから。それが、オレにとっては何よりも一番大切だったから…
 そして、そんなオレの傍らには、今でも変らぬこいつが居る。

「浩之さん、あのペットショップの子犬さん可愛かったですねぇ。ホワイトテリアって言うんですけど、私の事を見てキャンキャンって嬉しそうに吠えていました。ああした子犬さんと一緒に過ごせたらきっと楽しいでしょうねぇ〜」
「…そうだな、きっと子犬も喜ぶだろうな。何せ同じレベルでの遊び相手には事欠かない訳だしな」
「……浩之さん。もしかして酷い事言ってます?」
「いやいや、素直な感想だよ」

 突然、キュッと背中をつねられる。見やると、マルチは一寸だけムッとした顔をしていた。
 オレはポンポンとその頭を叩いてやる。
 すると、突然その手を取ったかと思うと次にはギュッと腕ごと抱きついてきた。

「おいおい何だよいきなり。大胆な奴だな」
「浩之さんこれは罰です。植物公園までずっとこのままです」
「へいへい、了解ですよ、お嬢様。………けどまあ何だ、久々だな、こうして街を一緒に歩くのもさ」
「……本当ですよねぇ。何だか夢みたいです〜」

 今、こいつは耳カバーを付けたままだ。そして、一寸前だったらこうした二人の姿は愚かな存在でしか無かった。
 でも、今はそんな事に気を遣う必要も無い。
 人が行き交う街中にあって、オレとマルチはその流れに自然と溶け込んでいた。まるで、昔からそれが当たり前だったかの様に、周りの反応もごく普通のものだった。
 中には渋い表情をする人も居る。けど、以前の様に蔑む言葉をかける奴は殆ど居ない。
 そして、それに代る様にして、面白い言葉が聞こえてくる。

「見たか今の? あれ、メイドロボじゃねえよな?」
「人間だろ? 最近、あの手の耳カバーが流行だって言うからよ」

 …そう見えるのも当然かもしれない。実際、マルチはただのロボットではないのだから。
 身体は機械でも、心はオレと同じ人間そのものなのだから。
 そして思う。…人は、もしかしたら、メイドロボットに対してそうした心を持ちたいと随分以前から望んでいたのではないだろうか。
 それが出来なかったのは、こうした彼女達に人間の方がどう接するべきか分からなかったから。そして、周りの目を必要以上に気にする必要があると思いこんでいたから。
 …ただ、それだけの事ではないだろうか。

「あ、公園、見えてきましたよ。……うわぁ〜、綺麗ですね〜。浩之さん、あれ、あれ凄いです〜」
「おお!見事なもんだな。紫陽花もこれだけ花が満開だと見ごたえ十分だな」
「本当ですよねぇ。これだけ一杯咲いているなら、雨の日でもきっと寂しく無いですよね」

 植物公園の入り口からは、深い紫を湛えた紫陽花が一面に満開だった。それが順路の両側に咲き誇り、まるでその先へと誘う様に道を作っている。
 オレと、マルチがこれから進む道。人とメイドロボットとが進む道。
 それは、まだまだ平坦な道では無いのかもしれない。事実、解決しなければならない問題がまだいくつも残っている。
 けど、そうした王道とも言えるべきこの道は、人々の心に着実に刻まれ芽生え始めているのかもしれない。そしてそれは良い事だと、少なくともオレはそう思っている。
 日曜日に一緒に映画を見て、喫茶店で一休みして映画の感想を交換して、その後一緒にウィンドウショッピングをして、そして、こうして植物公園までの道を二人で巡ってみて……そんな、ごく当たり前の二人の時間が持てるという事がいかに大切であるか、それを実感出来ただけでもオレは十分に満足だった。

「浩之さんほら見てください。かたつむりさんです〜」
「ああ本当だ。何だか久々に見掛けるな。…へー、やっぱりこいつ紫陽花とが一番よく合うな〜」
「…何か浩之さんが言うと、食べ物みたいに聞こえますよ」
「そっか?それじゃあついでだからこいつを掴まえて今夜はマルチ風エスカルゴでいっちょ酒の魚に…」
「浩之さん!」

 あれよあれよという間にオレはカタツムリの前から引き剥がされていた。可哀想とか鬼畜とかムードが無いとか散々言われながらズルズル引きずられていく。
 それでもひとしきり騒いだ後は再びにオレの腕をギュッと抱えながら、その身体をピッタリと預けてきた。

「…さてとマルチ、どっから見て回る?」
「そういうのは聞いちゃ駄目です。浩之さんがお好きに決めてください。私はそれに従いますから」
「了解。男の役目って奴だな」

 オレは目を細め、そして歩きだしていた。彼女が歩調を合わせてくる。
 お互い、こんなやり取りが自然と出来る様になったんだなあと、そんな事を思いながら頭を巡らせる。

「…そうだな……久々にあの人に会っていこうか。多分、今日なら居ると思うんだ」
「え?………あ!もしかしたら花のクーさんの事ですか?」
「花のくーさん?…ああ、そんな呼び方してたなお前は。まあそんな所だ。あの約束って確か去年の事だったろ?だったらもう出来上がっていると思うしな」
「そうですよね。随分とご無沙汰してしまいましたけど、出来上がっているのでしたら凄く楽しみですよね。早く見たいな〜って私も思っていましたから」

 オレ達はその人を捜し回った。写生が好きな人で、こうした晴れた日はいつも綺麗な花園の前に陣取ってカンバスを広げ、そうした一つ一つの表情を丁寧に写し取っている。
 考えてみれば、かれこれ二年近い付き合いになるのだろうか。以前は家にもよく遊びに来てくれたのだが、最近はめっきりとご無沙汰になっていた。
 そういえば、今年はまだ年賀状での挨拶だけだ。電話で声を聞いたのは昨年末だったから、かれこれ半年以上という事になる。
 それにしても、本当にどうしちゃったんだろう? そんなに長く連絡を絶やす人じゃあ無かったのに。
 結構高齢みたいだったから、まさかそのまま……って、ま、まさかな……

「あ!いらっしゃいましたぁ〜。クーさぁ〜ん、お久しぶりですぅ〜」

 そんなつまらない考えを打ち砕く様にして、マルチは大きな声を上げると弾かれた様に走り出していた。ホッとしてオレも目を向ける。遠目からでも、その姿は直に分かった。
 ダークグリーンのハンティングキャップを被り、タータンチェックのシャツに厚手のブッシュパンツ。いつ見ても不思議とサマになっているスタイルだ。そしてカイゼル風の立派な白ひげ。これで猟銃でもあれば実際ハンターに見えるだろう。

「おお!久しぶりじゃのおマルチ嬢ちゃん。いやいや、ようやくこうして会えたのお。どうかね?元気でやっておったかね?」
「はい、おかげさまで私も浩之さんも元気です。それにしてもどうしたんですか? 連絡が全然無かったから心配していたんですよぉ〜」
「うんうんそうかそうか、それはすまんかったのお。いや、ワシの方も会いに行こう行こうとは思っておったんじゃが色々あってのぉ。でもまあ、こうして元気な姿に再び会えたし、本当に良かった良かった」
「良かった良かったじゃないよ。せめて連絡位入れてくれよ。よもや倒れたのかと思うじゃないか」

 マルチに追いつき、唐突にそれは無いもんだと自分でも思ったが、既にオレの口からはそんな言葉が出てしまっていた。
 やば!とは思ったが、もはや後の祭りだ。

「こらっ!嬢ちゃんの主たるお前さんの方こそ一体何をやっておったのかね!そもそもあの法律が最終審議にかけられたのはもう一年も前の話しだぞ?しかもその頃には十中八九可決される事が決まっておったのじゃ。なら今日日の若者らしくその辺りの空気なり情報をこうピピーッと感じ取ってさっさと二人の時間をこうした野外で楽しむとかするのが当たり前というものじゃろうが!実際、そうしている若者をワシャ何度も街で見掛けて知っておる!それなのにお前さんときたらまるで年寄りが石橋を何度も何度も杖で叩きながら結局はおっかなくて渡らないが如く嬢ちゃんと一緒に家の中から一歩も出ずにずーーーっと籠っておったのじゃろうが?ええ!どうなんじゃい!!」
「い、いやあ、いきなりそんなに色々と言われてもさあ。確かにその通りではあるんだけど、オレとしてはマルチとの約束もあったし、再びああしたイヤな思いはしたく無かったしでね…」
「言い訳をするでない!全く、お前さんにはそうした覚悟というものが相変わらず出来ておらん様だの。少しはマルチ嬢ちゃんを見習ったどうかね?メイドロボットの排斥が厳しい時分、ワシが街中で持病の癪で苦しんでいた時にその多くが見て見ぬフリをしてくれる中唯一声を掛けてくれて、そして一生懸命に心配してくれて救急車を呼んでくれて、あげくは病院まで一緒に付き添ってくれたのだぞ?ともすれば医者や看護婦すらいい顔をしなかったご時世じゃわい!それなのにマルチ嬢ちゃんときたらまるでワシ専属のメイドロボットの様に振る舞ってくれて一生懸命に心配してくれて……うう、あの時の事を思うと今でも涙無くては語れんわい…」
「…は、はあ」
「『はあ』では無い!全く、何でマルチ嬢ちゃんの様に素晴らしい娘がお前さんの従属なんじゃい!なあ、マルチ嬢ちゃんや、今からでも遅くはない。このワシの所へ来る気は無いかの?ワシの婆さんもマルチ嬢ちゃんは殊の外お気に入りでの。なーんも気兼ねする必要なんて無いからのお…」
「ちょっとちょっと爺さん。いきなりオレの目の前で口説いてんじゃねーって」
「だれが爺さんだ!この年寄り臭い若造が!」

 はあ…と再びオレは心の中でため息を付いていた。
 この爺さん、決して悪い人じゃないんだけど、どうもオレが側に居るとまるで戦う早口言葉の様に騒がしくなる。加えて口も目茶苦茶悪い。オレなんて門前の小僧扱いだ。
 …でも、何だか憎めないんだよな。変な気兼ねは無いし、年代を越えた友達みたいに思えるからだろうか。
 こんな歳の取り方ってのも悪くないと、会う度に思うのもまた事実だった。

「へいへい、どうせオレは年寄りですよだ。歳に似合わない爺さんにはかなわんぜ全く」
「まっ!またそういう減らず口を!そんなだからワシはお前さんにマルチ嬢ちゃんを任せるのは心配なんじゃ!大体この半年間一度も連絡をよこさんというのは…」
「クーさんクーさん、もうその辺りにしましょうよ。折角久々に会えたんですから喧嘩なんて駄目ですよぉ。そして浩之さん。浩之さんもですよ。目上の人なんですからクーさんにそんな言い方はいけませんよ」
「わかったわかった。そんじゃま、今回はオレが悪かったという事で。どうもお久しぶりです、クーさん」

 オレは片手を差し出した。爺さんはそれを一瞥するとフンと鼻を鳴らしてくる。
 か、かっわいくねえジジイだ!

「…まあよかろう。お前さんの方からこうして手を出してくるとは思わなんだ。少しは成長しておる様だの」

 そう言ってオレの手にその手を重ねてくる。ゴツゴツと痩せた、そんな年輪を感じさせる男の手。
 一寸だけ、オレは感動していた。

「二人とも、あの件でワシを探しておったんじゃろう? 全く、いつ見に来るのかと思っていつも持ち歩いておったんじゃぞ? それなのに、ちっともそんな様子が無いからいい加減待ちくたびれたわい。…まあええ、実はな、あれから少しずつ手直しをしたんじゃ。一番最初は向日葵だったが…ええと、どれだったかの……確か持ってきてる筈なんじゃが……」

 こちらが切り出す前にそう言われ、オレとマルチは黙ったままそんなクーさんの様子をジッと見つめていた。
 『これも縁だ。ワシの拙い絵でよければ、二人一緒のを描いてやるぞ』と言ってくれたのが去年の夏。考えたら、あれから既に一年近い月日が経ってしまった事になる。
 悪い事をしてしまったなあと、今ごろになってオレは実感していた。

「おお!あったあった。これじゃこれじゃ。ホレ、二日前に改めて仕上げた出来立てじゃぞ」
 
 


 
 
 

 そう言って差し出してくれたそのカンバスを、オレとマルチは二人で支える様にして受け取っていた。
 そして、そこに描かれているものをじっくりと眺める。
 目に飛び込んできたのは、あまりにも鮮やかな紫の調和。そうした色彩を湛える紫陽花の中に、まるで馴染むかの様にして立ち並んでいる二人の姿。
 絵の中のオレとマルチは、屈託の無い、とても素直な笑顔を見せていた。
 いかにも夏らしい、とても涼しげな薄い服装。紫陽花の中にあって少しミスマッチにも思えたが、不思議とそうした格好が色彩の中で自然に映えている。

「わぁ〜凄いですねえ〜。ここに咲いている紫陽花がそのまま絵の中に入ったみたいです〜」
「…本当にそうだな。なんだかこの絵の中にもう一組のオレたちが居て、絵の中での生活を営んでいる様にも感じるな……」

 そんな鮮烈とも言える描写に、オレはすっかり感嘆していた。
 これまでにも、マルチ本人を描いた絵はいくつか見せて貰っていた。けれども、これ程までに『これから』を感じる絵は初めての事だった。
 そもそも、クーさんの絵にオレが登場したのだって初めてだ。どうせマルチを可愛く描いてオレなど置物その一程度だろうと高を括っていたのだけれど、この絵はそうした浅はかな考えを吹き飛ばすに十分だった。
 二人揃って初めて意味がある、まさにそんな表現がピッタリだった。

「どうじゃ?ワシの言いたい事が何なのか、もう十分に分かったじゃろう?」

 オレは顔を上げ、そして黙ったまま頷いた。それがその絵への返答だった。
 この人は、初めて会った時からそうだった。決して自ら説明をせず、描いたその絵をまず見せてから自分の思いを当てさせようとする。
 そして、オレは気付いていた。右下に描かれた『雲治』というその文字に。

「…筆名、変えたんですか?」
「うむ、いつまでも雲のクーさんでもあるまいと思っての。この絵からは思い切って本名で行く事にした。これまではこうした花などの自然画ばかりじゃったが、これからはもっと人物も描いてみたくなっての」
「へー、いつの間にか随分と心境が変化していたんですね。以前はあんなにも人嫌いだったのに…」
「なーに、世も変れば人も変るて。それはお前さんも似た様なもんじゃろうが。それもこれも、マルチ嬢ちゃんがあればこそじゃがのぉ…」

 マルチは相変わらずジッとその絵を眺めたままだった。描かれた二人の姿がよっぽど気に入ったらしい。
 オレとクーさん……もとい、雲治さんはそんな姿をしばらく見つめた後、どちらからともなく互いに笑い合った。

「マルチ嬢ちゃんや、その絵は気に入って貰えたかの?」
「……え?あ!は、はい!あの……私、絵の事はやっぱり良く分からないんですけど、これは今まで見た中でも一番凄いと思います。こんなに綺麗に描いてくださって、本当にありがとうございます」

 ペコリとおじぎをするマルチ。雲治さんはそれを見て満足そうにウンウンと頷いた。

「そうかそうか、それは良かった。この季節に合わせて描き直した甲斐があったわい。マルチ嬢ちゃん、その絵、遠慮せずに持っていきなさい。ワシからのプレゼントじゃ。大事にするんじゃぞ?」
「え!い、いいんですか?本当にですか?もしそうなら、私、凄く凄く嬉しいです。クーさんどうもありがとうございます〜〜」
「ちょ、一寸待った爺さん。これ、筆名を変えての初めての絵じゃないか。そんな大切なモノをこんな簡単に貰う訳にはいかないよ」
「誰が爺さんじゃ。…まあ、お前さんから名前で呼ばれるよりはマシかもしれんがの」

 そう言うと、なにやらニタッと笑ったかと思ったらいきなりオレを指差してこう言った。

「それはな、お前さんへの結婚祝いでもあるんじゃよ。これまで伸ばし伸ばしになっとったものなあ。当然、このジジイも披露宴には呼んで貰えるんじゃろうなあ?」

 えっ!と思い、マルチの方に顔を向ける。
 「貰ったです〜〜貰っちゃったですぅ〜」と両手に絵を抱えて踊る様にして喜んでいる。
 こっちの会話なんて聞いちゃいねえ。

「…ったく、そんな心配しなくていいんだってば。その時には必ず招待しようとマルチとも話していたんだから。第一、忘れでもしたらオレがマルチに怒られちゃうよ」
「心配もするわい!ったく、こっちは老い先の短い年寄りなんじゃぞ?マルチ嬢ちゃんの白無垢姿を見ずにして死ぬ様な事にでもなれば、その時はお前さんの枕元へ必ず化けて出てやるからの」
「脅かさないでくれよ縁起でも無い!大体これから人物画に本格的に取り組もうというのに先が短いも無いもんだろう?もっともっと爺さんにはこの先いくらでも頑張って貰って沢山の絵を見せて貰わないとオレだって……」

 そこまで言って、オレは言葉に詰まっていた。
 この人は、誰よりもそうしたオレたち二人の姿を楽しみにしていたんだという事に気付いたから。
 周りの目が冷たかったそんな時代にあっても、この人のオレたちを見る目はいつも暖かだったから……

「…まあ何だ、ワシにとってもお前さんらにとっても、今日は良き門出の日だな。思えば、これも面白い人生じゃ。だが、まだまだその先はどうなるかは分からん。それでも、楽しみがより増えたと思えば得した気持ちにもなろうというもんじゃ。そうは思わんか?」
「……へっ、思うも何も、それをしっかりと教えてくれたのは爺さんじゃないか。それがあったからこそ、オレたちは頑張れたんだぜ? だから爺さんもこれからも頑張ってくれよ。オレもマルチも楽しみにしているんだからさ」
「…何を言っとるかこの若造が。それこそがこっちのセリフじゃわい」

 そんなオレと爺さんは、いつしか再び握手を交わしていた。
 傍らでは、そんなオレたちを不思議そうに交互に見やるマルチの姿があった。

「…誠に良き、門出の日……だな…」

 そんな一言を、オレは自然とつぶやいていた。
 
 




                     −   了   −



 
 
 
 
 
 


 


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