体験者は語る D (5/5)
蓮如上人御一代記聞書 (末) 続き
本願寺出版社
蓮如上人御一代記聞書・現代語版
末 156頁〜
(240)
安芸の蓮崇は、加賀の国を転覆させ、
いろいろと間違ったことをしたので、破門となりました。
その後、蓮如上人がご病気になられたとき、
蓮崇は上人にお詫びを申しあげようと山科の
本願寺へ参上したのですが、上人に取り次いで
くれる人はいませんでした。
ちょうどそのころ、蓮如上人がふと、
「 蓮崇を許してやろうと思うよ 」 と仰せになりました。
上人のご子息がたをはじめ人々は 「 一度、仏法に
害を与えた人物でありますから、お許しになるのは
どうかと思います 」 と申しあげたところ、
上人は、
「 それがいけない。何と嘆かわしいことをいうのだ。
心さえあらためるなら、どんなものでももらさず救う
というのが仏の本願ではないか 」 と仰せになって,
蓮崇をお許しになりました。
蓮崇が上人のもとへ参り、お目にかかったとき、
感動の涙で畳を濡らしたということです。
その後、蓮如上人がお亡くなりになり、そのご中陰の間に、
蓮崇も山科の本願寺で亡くなりました。
(241)
奥州に、浄土真宗のみ教えを乱すようなことを
説いている人がいるということをお聞きになって、
蓮如上人はその人、浄祐を奥州から呼び寄せ、
お会いになりました。
上人はひどくお腹立ちで、
「 さてもさても、ご開山聖人のみ教えを乱すとは。
何と嘆かわしいことか。何と腹立たしいことか
」 と
お叱りになり、歯がみをしながら、 「 切りきざんでも
足りないくらいだ 」 と仰せになりました。
ご法義を乱すもののことを 「 とりわけ嘆かわしい
」 と
仰せになったのです。
(242)
「 思案のきわまりというべきは、五劫の間思いを
めぐらしておたてになった阿弥陀如来の本願であり、
これを超えるものはない。
弥陀如来のこのご思案のおもむきを心に受け取れば、
どんな人でも必ず仏になるのである。
心に受け取るといっても他でもない。
「 われにまかせよ、必ず救う 」 という機法一体の
名号のいわれを疑いなく信じることである 」
と
仰せになりました。
(243)
蓮如上人は、 「 わたしが生涯の間行ってきた
ことは、すべて仏法のことであり、いろいろな
方法を用い、手だてを尽くして、人々に信心を
得させるためにしてきたことである 」 と
仰せになりました。
(244)
同じくご病床にあった蓮如上人が、
「 今、わたしがいうことは、仏のまことの言葉である。
しっかりと聞いてよく心得なさい 」 と
仰せになりました。
また、ご自身がお詠みになった和歌についても、
「 三十一文字の歌をつくったからといって、
風雅の思いを詠んだのではない。
すべてみ教えにほかならないのである 」 と
仰せになりました。
(245)
「 < 三人集まると、よい知恵が浮ぶ >
という
言葉があるように、どんなことも集まって話し
あえば、はっとするようなよい考えが出てくる
ものだ 」 と、蓮如上人が実如上人に
仰せになりました。
これもまた仏法の上では、きわめて大切な
お諭しです。
(246)
蓮如上人が法敬坊順誓に、 「 法敬とわたしとは
兄弟である 」 と仰せになりました。
法敬坊が、 「 これはもったいない、恐れ多いことで
ございます 」 と申しあげると、上人は、
「 信心を得たなら、先に浄土に生まれるものは兄、
後に生れるものは弟である。
だから、法敬とは兄弟である 」 と仰せになりました。
これは、『往生論註』 の 「 仏恩を等しくいただくので
あるから、同じ信心を得る。
その上は世界中のだれもがみな兄弟である 」
と
いうお示しのおこころです。
(247)
蓮如上人は、山科本願寺南殿の山水の
庭園に面した縁側にお座りになって、
「 あらかじめ思っていたことと、実際とは違うもの
であるが、その中でも大きく違うのは、極楽へ
往生したときのことであろう。
この世で極楽のありさまを想い浮べて、
ありがたいことだ、尊いことだと思うのは、
大したことではない。
実際に極楽へ往生してからの喜びは、とても
言葉ではいい表すことができないであろう 」
と
仰せになりました。
(248)
「 人は、嘘をつかないようにしようと努める
ことを大変よいことだと思っているが、心に嘘
いつわりのないようにしようと努める人は
それほど多くはない。
また、よいことは、なかなかできるものでは
ないとしても、世間でいう善、仏法で説く善、
ともに心がけて行いたいものである 」 と
仰せになりました。
(249)
蓮如上人は、 「 『安心決定鈔』 を 四十年余りの間
拝読してきたが、読み飽きるということのない
お聖教である 」 と仰せになりました。
また、 「 黄金を掘り出すようなお聖教である
」
とも仰せになりました。
(250)
大坂の御坊で、蓮如上人は集まっていた
人々に対し、 「 先日、わたしが話したことは
『安心決定鈔』のほんの一部である。
浄土真宗のみ教えでは、この『安心決定鈔』に
説かれていることが、きわめて大切なのである
」 と
仰せになりました。
(251)
法敬坊が、 「 ご法義を尊んでいる人よりも、
ご法義を尊いと喜ぶ人の方が尊く思われます
」 と
申しあげたところ、蓮如上人は、
「 おもしろいことをいうものだ。
ご法義を尊んでいるすがたをあらわにし、
ありがたそうに振舞う人は尊くもない。
ただありがたいと尊んで素直に喜ぶ人こそ、
本当に尊いのである。おもしろいことをいうものだ。
法敬は道理にかなっていることをいった 」 と
仰せになりました。
(252)
これは蓮悟さまの夢の記録です。
文亀三年一月十五日の夜の夢である。
蓮如上人がわたしにいろいろと質問をなさった後で、
「 毎日、むなしく暮らしていることを情けなく思う。
勉学の意味も兼ねて、せめて一巻の経であっても、
一日に一度はみなが集まり、読むようにしなさい
」 と
仰せになった。
わたしたちが毎日をあまりにむなしく過ごしている
ことを悲しく思われて、上人はこのように仰せに
なったのである。
(253)
これも蓮悟さまの夢の記録です。
文亀三年十二月二十八日の夜の夢である。
蓮如上人が法衣に袈裟というお姿で襖をあけて
お出ましになったので、ご法話をされるのだ、
聴聞しようと思っていたところ、衝立に書かれている
御文章のお言葉をわたしが読んでいるのをご覧に
なって、 「 それは何か 」 とお尋ねになった。
そこで、 「 御文章でございます 」 と申しあげると、
「 それこそが大切である。心してよく聞きなさい
」 と
仰せになったのである。
(254)
これも蓮悟さまの夢の記録です。
永正元年十二月二十九日の夜の夢である。
蓮如上人が、 「 家を立派に建てた上は、信心を
たしかにいただいて念仏申しなさい 」 と、
きびしく仰せになったのである。
(255)
これも蓮悟さまの夢の記録です。
大永三年一月一日の夜の夢である。
山科本願寺の南殿で、蓮如上人がご法義について
いろいろとお話しになった後で、 「 地方にはまだ
自力の心のものがいるが、その心を捨てるよう
きびしく教え導きなさい 」 と仰せになったのである。
(256)
これも蓮悟さまの夢の記録です。
大永六年一月五日の夜の夢である。
蓮如上人が、 「 このたびの浄土往生のことは
もっとも大切である。
み教えにあうことのできる今こそがよい機会である。
このときを逃すと、大変である 」 と仰せになった。
そこで、 「 承知しました 」 とお答えしたところ、上人は、
「 ただ承知しましたといっているだけでは成しとげ
られない。このたびの浄土往生は本当に大切
なのである 」 と仰せになったのである。
次の夜の夢である。
兄、蓮誓が、 「 わたしは吉崎で蓮如上人より
浄土真宗のかなめを習い受けた。
浄土真宗で用いない書物などをひろく読んで、
み教えを間違って受けとめることがあるが、
幸いに、ここにみ教えのかなめを抜き出した
お聖教がある。
これが浄土真宗の大切な書であると、吉崎で上人
から習い受けたのである 」 と仰せになったのである。
夢の数々を書き記したことについてのわたしの
思いはこうである。
蓮如上人がこの世を去られたので、今はその一言の
仰せも大切であると思われる。
このように夢の中に現れて仰せになるお言葉も、
ご存命のときと同じ尊い仰せであり、真実の仰せで
あると受けとめているので、これを書き記したのである。
ここに記したことは本当に夢のお告げともいうべき
ものである。
夢というのは概して妄想であるが、仏や菩薩の化身で
あるお方は、夢に姿をあらわして教え導くということがある。
だからなおさらのこと、このような夢の中での尊い
お言葉を聞き記しておくのである
(257)
蓮如上人は、 「 仏恩が尊いなどというのは、
聞いた感じが悪く、粗略な言い方である。
仏恩をありがたく思うといえば、聞いた感じがとても
よいのである 」 と仰せになりました。
同じように、 「 御文章が 」 というのも粗略ないい方です。
御文章を聴聞して、 「 御文章をありがたく承りました
」 と
いうのがよいのです。
「 仏法に関することは、どれほど尊び敬ってもよい
のである 」 と仰せになりました。
(258)
蓮如上人は、 「 仏法について語りあうとき、
念仏の仲間を< 方々 > というのは無作法である。
< 御方々 > というのがよい 」 と仰せになりました。
(259)
蓮如上人は、 「 家をつくるにしても、頭さえ雨に
濡れなければ、後はどのようにつくってもよい
」 と
仰せになりました。
何ごとにつけても、度をこえたことをおきらいになり、
「 衣服などに至るまでも、よいものを着たいと思うのは
あさましいことである。
目に見えない仏のおはたらきをありがたく思い、
仏法のことだけを心がけるようにしなさい 」
と
仰せになりました。
(260)
蓮如上人は、 「 どんな人であっても、
浄土真宗のご法義を喜ぶ家で働くことになったら、
昨日までは他宗の信徒であっても、今日からは仏法の
お仕事をさせていただくのだと心得なければならない。
商売などの仕事もすべて、仏法のお仕事と心得
なければならないのである 」 と仰せになりました。
(261)
蓮如上人は、 「 雨の降る日や暑さのきびしいときは、
おつとめを長々としないで、はやく終えるようにし、
参詣の人々を帰らせるのがよい 」 と仰せになりました。
これも上人のお慈悲であり、人々をいたわって
くださったのです。
そのお心は、仏の大慈大悲の御あわれみ
そのものでした。
上人はいつも、 「 わたしはその人その人に応じて、
み教えを勧めているのである 」 と
仰せになっていました。
ご門徒が上人のお心の通りにならないことは、
大変嘆かわしいといったくらいでは、まだ言葉が
足りないほどのことなのです。
(262)
将軍足利義尚より、加賀の国で一揆をおこした
人々を門徒から追放せよという命令があったので、
蓮如上人は、加賀に居住していたご子息たちを
山科本願寺に呼び寄せました。
そのとき上人は、 「 加賀の人々を門徒から追放せよと
命令されたことは、わが身をきられるよりも悲しく思う。
一揆に関わりのない尼や入道たちのことまで思うと、
本当に困りはててしまう 」 と仰せになりました。
ご門徒を破門なさるということは、本願寺の宗主で
ある上人にとって、とりわけ悲しいことであったのです。
(263)
蓮如上人は、 「 ご門徒たちが納めてくれた初物を、
すぐに他宗へ上げてしまうのはよくない。
一度でも二度でもこちらでいただいて、それから他へも
あげるのがよい 」 と仰せになりました。
このようなお考えは、他の人の思いもよらないことです。
ご門徒たちが納めてくださったものは、すべて仏法の
おかげであり、仏のご恩であるから、おろそかに思う
ことがあってはなりません。
本当にはっとさせられる仰せです。
(264)
法敬坊が大坂の御坊へおうかがいしたとき、
蓮如上人は法敬坊に対して、 「 わたしが往生しても、
あなたはその後十年は生きるであろう 」 と
仰せになりました。
法敬坊は不審に思って、いろいろと申しあげたのですが、
上人は重ねて、 「 十年は生きるであろう 」
と
仰せになりました。
上人がご往生されて一年経った時、なお健在であった
法敬坊に、ある人が、 「 蓮如上人がおおせになっていた
通りになりましたね。
というのも、上人がご往生の後、あなたが一年も
ご存命であったのは、上人より命を与えていただいた
からなのです 」 といいました。
すると法敬坊は、 「 本当にそのようでございます
」 と
いって、手をあわせ、 「 ありがたいことだ
」 と
感謝しました。
このようなわけで、法敬坊は蓮如上人が
仰せになった通り、十年命をながらえました。
本当に仏のご加護を賜った不思議な人です。
(265)
蓮如上人は、 「 どんなことであれ、不必要なことを
するのは、仏のご加護を軽視する振舞いである
」 と、
何かにつけていつも仰せになったということです。
(266)
蓮如上人は、 「 食事をいただくときにも、
阿弥陀如来・親鸞聖人のご恩によって恵まれた
ものであることを忘れたことはない 」 と
仰せになりました。
また、 「 ただ一口食べても、そのことが思い
おこされてくるのである 」 とも仰せになりました。
(267)
蓮如上人はお食事のお膳をご覧になっても、
「 普通はいただくことのできない、仏より賜った
ご飯を口にするのだとありがたく思う 」 と
仰せになりました。
それで、食べ物をすぐに口にされることもなく、
「 ただ仏のご恩の尊いことばかりを思う 」
とも
仰せになりました。
(268)
これは蓮悟さまの夢の記録です。
享禄二年十二月十八日の夜の夢である。
蓮如上人がわたしに御文章を書いてくださった。
その御文章のお言葉に梅干しのたとえがあり、
「 梅干しのことをいえば、聞いている人はみな口の
中がすっぱくなる。
人によって異なることのない一味の安心はこれと
同じである 」 と記されていた。
これは、『往生論註』の 「 だれもが同じく念仏して
往生するのであり、別の道はない 」 という文の
こころをお示しになったように思われる。
(269)
「 人々は仏法を好まないから、仏法に親しむように
心がけないのです 」 と、空善が申しあげたところ、
蓮如上人は、 「 好まないというのは、それは
きらっていることではないのか 」 と仰せになりました。
(270)
蓮如上人は、 「 仏法を信じない人は、
仏法を病気のようにきらうものである。
ご法話を聞いていて、ああ気づまりだ、はやく終われば
よいのにと思うのは、仏法を病気のようにきらっている
のではないか 」 と仰せになりました。
(271)
大永五年一月二十四日、ご病床にあった実如上人が、
「 蓮如上人がはやくわたしのところに来いと左手で
手招きをしておられる。
ああ、ありがたい 」 と、繰り返し仰せになって、
お念仏を申されるので、側にいた人々は病のために
お心が乱れて、このようなことをも仰せになるので
あろうと心配しました。
ところが、そうではなくて、 「 うとうとと眠ったときの夢で
見たのだ 」 と、後で仰せになったので、人々はみな
安心しました。
これもまた尊い不思議なことです。
(272)
大永五年一月二十五日実如上人が弟の蓮淳さま、
蓮悟さまに対して、蓮如上人が本願寺の住職の
地位を譲られてからのことをいろいろお話しになりました。
そして、ご自身の安心のことをお述べになり、
「 弥陀を信じておまかせし、往生はたしかに定まった
と心得ている。
それは、蓮如上人のご教化のおかげであり、今日まで
自分こそがと思う心をもたなかったことがうれしい
」 と
仰せになりました。
この仰せは本当にありがたく、また、深く驚かされる
ものです。
わたしも人々も、このように心得てこそ、他力の信心が
たしかに定まったということでありましょう。
これは間違いなく本当に大切なことなのです。
(273)
「 『嘆徳文』に<親鸞聖人>とあるのをそのまま
朗読すると、実名を口にすることになって恐れ多いから、
<祖師聖人>と読むのである。
また、<開山聖人>と読むこともあるが、これも同じく
実名でお呼びするのが恐れ多いからである 」
と
仰せになりました。
(274)
親鸞聖人のことをただ 「 聖人 」 とじかにお呼びすると、
粗略な感じがする。
「 この聖人 」 と指し示していうのも、やはり粗略であろう。
「 開山 」 というのは略するときだけに用いてもよいであろう。
「 開山聖人 」 とお呼びするのがよいのである。
(275)
『嘆徳文』に 「 以て弘誓に託す 」 とあるのを、
その 「 以て 」 を抜いては読まないのである。
(276)
蓮如上人が堺の御坊におられたとき、ご子息の
蓮淳さまが訪ねて来られました。
上人はそのとき御堂で、机の上に御文書を置いて、
一人二人、五人十人と、参詣してきた人々に対して、
御文章を読み聞かせておられました。
その夜、いろいろとお話しになったときに、上人は、
「 近ごろ、おもしろいことを思いついた。一人でも
お参りの人がいるならば、いつも御文章を読んで
聞かせることにしよう。
そうすれば、仏法に縁のある人は信心を得るであろう。
近ごろ、こんなおもしろいことを考え出したのだ
」 と、
繰り返し仰せになりました。
蓮淳さまはこのお言葉を聞いて、 「 御文章が大切で
あることがますますわかった 」 と仰せになりました。
(277)
ある人が、 「 この世のことに関心を持つのと同じくらい、
仏法のことに心を寄せたいものです 」 といったところ、
蓮如上人は、 「 仏法を世間のことと対等に並べて
いうのは、粗雑である。
ただ仏法のことだけを深く喜びなさい 」 と
仰せになりました。
また、ある人が、 「 仏法は、一日一日今日を限りと
思って心がけるものです。
一生の間と思うから、わずらわしく思うのです
」 というと、
別の人が、 「 わずらわしいと思うのは、仏法を十分心得て
いないからです。
人の命がどれほど長くても、仏法は飽きることなく喜ぶ
べきものです 」 といいました。
(278)
「 僧侶は他の人々までも教え導くことができるのに、
自分自身を教え導くことができないでいるのは、
情けないことである 」 とお仰せになりました。
(279)
赤尾の道宗が、蓮如上人にご文章を書いて
いただきたいとお願いしたところ、上人は、
「 御文章は落としてしまうこともあるから、何よりまず
信心を得なさい。
信心をいただきさえすれば、それは落とすことがない
のである 」 と仰せになりました。
その上で、上人は次の年に御文書をお書きになって、
道宗にお与えになったのでした。
(280)
法敬坊が、 「 仏法の話をするとき、み教えを
心から求めている人を前にして語ると、
力が入って話しやすい 」 といわれました。
(281)
「 信心もない人が大切なお聖教を所有して
いるのは、幼い子供が剣を持っているような
ものだと思う。
どういうことかというと、剣は役に立つもので
あるけれども、幼い子供が持てば、手を切って
けがをする。
十分、心得のある人が持てば、本当に役立つ
ものとなるのである 」 と仰せになりました。
(282)
蓮如上人は、 「 今このときでも、わたしが死ねと
命じたならば、死ぬものはいるだろう。
だが、信心を得よといっても、信心を得るものは
いないだろう 」 と仰せになりました。
(283)
大坂の御坊で、蓮如上人は参詣の人々に対し、
「 信心一つで、凡夫の往生が定まるというのは、
何よりも深遠な、秘事秘伝のみ教えではないか
」
と仰せになりました。
(284)
蓮如上人が御堂を建立されたとき、法敬坊が、
「 何もかも不思議なほど立派で、ながめなども
見事でございます 」 と申しあげたところ、上人は、
「 わたしはもっと不思議なことを知っている。
凡夫が仏になるという、何より不思議なことを
知っているのである 」 と仰せになりました。
(285)
蓮如上人が、善従に掛軸にするためのご法語を
書いてお与えになりました。
その後、上人が善従に、 「 以前、書き与えたものを
どのようにしているか 」 とお尋ねになったので、
善従は 「 表装をいたしまして、箱に入れ大切に
しまってあります 」 とお答えしました。
すると上人は、 「 それはわけのわからないことを
したものだ。いつも掛けておいて、その言葉通りの
心持になれよ、ということであったのに 」 と
仰せになりました。
(286)
蓮如上人は、 「 わたしの側近くにいて仕え、いつも仏法を
聴聞しているものは、お役目という思いを忘れて法話を
聞いたなら、浄土に往生して仏になるだろう
」 と
仰せになりました。
これは本当にありがたい仰せです。
(287)
蓮如上人が僧侶たちに対して、 「 僧侶というものは
大罪人である 」 と仰せになりました。
一同が戸惑っておりますと、上人は続けて 「
罪が重い
からこそ、阿弥陀仏はお救いくださるのである
」 と
仰せになりました。
(288)
毎日御文章の尊いお言葉を聴聞させてくださることは、
そのつど宝をお与えになっているということなのです。
(289)
親鸞聖人がご在世のころ、高田の顕智が京都に
おられる聖人のもとを訪ね、 「 このたびはもう
お目にかかれないだろうと思っておりましたが、
不思議にもこうしてお目にかかることができました
」 と
申しあげました。
聖人が 「 どういうわけで、そういうのか 」
とお尋ねに
なると、顕智は、 「 船の旅で暴風にあい、難儀しました
」
とお答えしました。
すると聖人は、 「 それならば、船には乗らなければ
よいのに 」 と仰せになりました。
その後、顕智はこれも聖人の仰せになったことの
一つであると受けとめて、生涯の間船には乗ら
なかったのです。
また、きのこの毒にあたって、お目にかかるのが
遅れたときも、聖人が同じように仰せになったので、
顕智は生涯、きのこを食べることがなかったといいます。
蓮如上人はこの逸話について、 「 顕智がこのように
親鸞聖人の仰せを信じ、決して背かないようにしようと
思ったことは、本当にありがたい、すぐれた
心がけである 」 と仰せになりました。
(290)
「 体が暖かくなると眠くなる。
何とも情けないことである。
だから、そのことをよく心得て、体をすずしくたもち、
眠気をさますようにしなければならない。
体を思うがままにしていると、仏法のことも世間の
ことも、ともに怠惰になり、ぞんざいで注意を
欠くようになる。
これは心得ておくべき非常に大切なことである
」 と
仰せになりました。
(291)
「 信心を得たなら、念仏の仲間に荒々しくものを
いうこともなくなり、心もおだやかになるはずである。
阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心も
やわらげるとあるからである。
逆に、信心がなければ、自分中心の考え方になって、
言葉も荒くなり、争いも必ずおこってくるものである。
実にあさましいことである。
よく心得ておかねばならない 」 と仰せになりました。
(292)
蓮如上人が北国のあるご門徒のことについて、
「 どうして長い間京都にやって来ないのか
」 と
お尋ねになりました。
お側のものが、 「 あるお方のきびしい お叱りがあった
からです 」 とお答え申しあげたところ、上人はたいそう
ご機嫌が悪くなり、 「 ご開山聖人のご門徒を
そのように叱るものがあってはならない。
わたしはだれ一人としておろそかには思わないのに。
< どのようなものが何をいおうとも、はやく京都に
来るように >と 伝えなさい 」 と仰せになりました。
(293)
蓮如上人は、 「 ご門徒の方々を悪くいうことは、
決してあってはならない。
ご開山聖人は、御同行・御同朋とお呼びになって
心から大切にされたのに、その方々をおろそかに
思うのは間違ったことである 」 と仰せになりました。
(294)
蓮如上人は、 「 ご開山聖人のもっとも大切なお客人
というのは、ご門徒の方々のことである 」 と
仰せになりました。
(295)
ご門徒の方々が京都にやって来ると、
蓮如上人は、寒いときには、酒などをよく温めさせて、
「 道中の寒さを忘れられるように 」 と仰せになり、
また暑いときには、 「 酒などを冷やせ 」 と
仰せになりました。
このように上人自ら言葉を添えて指示されたのです。
また、 「 ご門徒が京都までやって来られたのに、
取り次ぎがおそいのはけしからんことだ 」 と仰せになり、
「 ご門徒をいつまでも待たせて、会うのがおそく
なるのはよくない 」 とも仰せになりました。
(296)
「 何ごとにおいても、善いことを思いつくのは仏の
おかげであり、悪いことでも、それを捨てることが
できたのは仏のおかげである。
悪いことを捨てるのも、善いことを取るのも、
すべてみな仏のおかげである 」 と仰せになりました。
(297)
蓮如上人は、ご門徒からの贈物を衣の下で
手をあわせて拝まれるのでした。
また、すべてを仏のお恵みと受けとめて
おられたので、ご自身の着物までも、
足に触れるようなことがあると、うやうやしく
おしいただかれるのでした。
「 ご門徒からの贈物は、とりもなおさず
親鸞聖人から恵まれたものであると思っている
」 と
仰せになりました。
(298)
「 仏法においては、愛するものと別れる悲しみにも、
求めても得られない苦しみにも、すべてどのような
ことにつけても、このたび必ず浄土に往生させて
いただくことを思うと、喜びが多くなるものである。
それは仏のご恩である 」 と仰せになりました。
(299)
「 仏法に深く帰依した人に親しみ近づいて、
損になることは一つもない。
その人がどれほどおかしいことをし、ばかげた
ことをいっても、心には必ず仏法があると思うので、
その人に親しんでいる自分に多くの徳が得られる
のである 」 と仰せになりました。
(300)
蓮如上人が仏の化身であるということの証拠は
数多くあります。
そのことは前にも記しておきました。
上人の詠まれた歌に、
かたみには六字の御名をのこしおく
なからんあとのかたみともなれ
わたしの亡き後にわたしを思い出す
形見として、南無阿弥陀仏の六字の
名号を残しておく。
というのがあります。この歌からも、上人が弥陀の
化身であるということが明らかに知られるのです。
(301)
蓮如上人はお子さまたちにしばしばご自分の足を
お見せになりました。
その足には、草鞋の緒のくいこんだ痕がはっきりと
残っているのでした。
そして、 「 このように、京都と地方の間を草鞋の緒が
くいこむほど自分の足で行き来して仏法を説きひろめた
のである 」 と仰せになりました。
(302)
蓮如上人は、 「 悪い人のまねをするより、
信心がたしかに定まった人のまねをしなさい
」 と
仰せになリました。
(303)
蓮如上人は病をおして、大坂の御坊より京都山科の
本願寺へ出向かれました。
その途中、明応八年二月十八日、三番の浄賢の道場で
出迎えに来られていた実如上人に対して、
蓮如上人は、
「 浄土真宗のかなめを御文章に詳しく書きとどめて
おいたので、今ではみ教えを乱すものもいないであろう。
このことを十分心得て、ご門徒たちへも御文章の通りに
説き聞かせなさい 」 とご遺言なさったということです。
こういうわけですから、
実如上人のご信心も御文章の通りであり、
同じように諸国のご門徒も御文章の通りに信心を
得てほしいというお心の証として、実如上人はご門徒に
お与えになる御文章の末尾に花押を添えられたのでした。
、
(304)
「 存覚上人は大勢至菩薩の化身といわれている。
ところが、その上人がお書きになった『六要鈔』には、
三心の字訓やその他の箇所に、
<知識の及ばないところがある>とあり、
また、<親鸞聖人の博識を仰ぐべきである>とある。
大勢至菩薩の化身であるけれども、親鸞聖人の著作に
ついて、このようにお書きになっているのである。
聖人のお心は本当にはかりがたいということを示され
たものであり、自力のはからいを捨てて、他力を仰ぐ
という聖人の本意にもかなっているのである。
このようなことを存覚上人のすぐれたところなのである』と
仰せになりました。
(305)
「 存覚上人が『六要鈔』をお書きになったのは、
ご自身の学識を示すためではない。
親鸞聖人のお言葉をほめたたえるため、崇め尊ぶ
ためである 」 と仰せになりました。
(306)
存覚上人は次のような辞世の歌を
お詠みになりました。
いまははや一夜の夢となりにけり
往来あまたのかりのやどやど
この迷いの世界を仮の宿として、数えきれない
くらい生と死を繰り返してきた。だが、いまでは
それもただ一夜の夢となってしまった。
この歌について、蓮如上人は、
「 存覚上人はやはり釈尊の化身なのである。
この世界に何度も何度も生れ変わって、
人々をお救いになったというお心と同じである
」 と
仰せになり、
また、 「 わたし自身に引き寄せてうかがうと、
この迷いの世界に数えきれないくらい生と死を
繰り返してきた身が、臨終のときを迎えた今、
浄土に往生して仏のさとりを開くことになるであろう、
というお心である 」 と仰せになりました。
(307)
蓮如上人は、 「 万物を生み出す力に、陽の気と
陰の気とがある。
陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を
受ける日陰の花はおそく咲くのである。
これと同じように、宿善が開けることについても、
おそいはやいがある。
だから、すでに往生したもの、今往生するもの、
これから往生するものという違いがある。
弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人も
いれば、おそく開ける人もいる。
いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、
ともに心から仏法を聴聞しなければならない
」 と
仰せになりました。
そして、すでに往生した、今往生する、これから往生
するという違いがあることについて、上人は、
「 昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、
今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。
また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる
」 と
仰せになりました。
(308)
蓮如上人が廊下をお通りになっていたとき、
紙切れが落ちているのをご覧になって、
「 阿弥陀仏より恵まれたものを粗末にするのか
」 と
仰せになり、その紙切れを拾って、両手でおしいただ
かれたのでした。
「 蓮如上人は、紙切れのようなものまですべて、
仏より恵まれたものと考えておられたので、
何一つとして粗末にされることはなかった 」
と、
実如上人は仰せになりました。
(309)
ご往生のときが近くなってきたころ、蓮如上人は、
「 わたしがこの病の床でいうことは、すべて仏の
まことの言葉である。
気をつけてしっかりと聞きなさい 」 と仰せになりました。
(310)
ご病床にあった蓮如上人は、慶聞坊を呼び寄せて、
「 わたしには不思議に思われることがある。
病のためにぼんやりしているが、気を取り直して、
あなたに話そう 」 と仰せになりました。
(311)
蓮如上人は、 「 世間のことについても、
仏法のことについても、わが身を軽くして
努めるのがよい 」 と仰せになりました。
黙りこんでいるものをおきらいになり、
「 仏法について語りあう場で、ものをいわないのは
よくない 」 と仰せになり、また小声でものをいうのも
「 よくない 」 と仰せになりました。
(312)
蓮如上人は 「 仏法は心がけが肝心。
世間も心がけが肝心 」 と、対句にして仰せになりました。
また、 「 み教えは言うほどに値うちが出る。
庭の松は結うほどに値うちが出る 」 と、これも対句にして
仰せになりました。
(313)
蓮如上人がご存命のころ、蓮悟さまが堺で
模様入りの麻布を買い求めたところ、上人は、
「 そのようなものはわたしのところにもあるのに、
無駄な買物をしたものだ 」 と仰せになりました。
蓮悟さまが、 「 これはわたしのお金で買い求めた
ものです 」 とお答え申しあげると、上人は
「 そのお金は自分のものか。何もかも仏のものである。
阿弥陀如来・親鸞聖人のお恵みでないものは、
何一つとしてないのである 」 と仰せになりました。
(314)
蓮如上人が蓮悟さまに贈物をしたところ、
蓮悟さまは、 「 わたしにはもったいないことです
」
といって、お受け取りになりませんでした。
すると上人は、
「 与えられたものは素直に受け取りなさい。
そして、信心もしっかりといただくようにしなさい。
信心がないから仏のお心にかなわないといって、
贈物を受け取らないようだけれども、それは
つまらないことである。
わたしが与えると思うのか。そうではない。
すべてみな仏のお恵みである。
仏のお恵みでないものがあるだろうか 」 と
仰せになりました。
蓮如上人御一代記聞書 (末) 終
本願寺出版社 蓮如上人御一代記聞書現代語版より
掲載者 妙念寺 藤本 誠