見て・聞いて
仏教は、さまざまな説き方が
あります。
南無阿弥陀仏の教えは、
その中の一つです。
仏説無量寿経に説かれる
阿弥陀如来の本願の
はたらきで、すぐれた功徳を、
すべての衆生に与え、
「南無阿弥陀仏」一つで、
救われることを、教えて
くださったのが親鸞聖人です。
親鸞聖人を、宗祖と仰ぐ、
浄土真宗の本願寺派。
そこに所属する九州・佐賀の一寺院で
製作しているのがこのホームページです。
「南無阿弥陀仏」の味わいを、電話で
お話ししています。毎週木曜日に、
内容を変更しています。
法話原稿をこのページに掲載して
います。ここで、「見て、聞いて」 ください。
メールマガジン始めました 「こんな話を聞きました」。
ユーチューブ 妙念寺
(佐賀局 ニシ ホンガンと
記憶してください。)
24はニシ、西。 本願は、18願。
そこで、24-1800は、西本願
第1679回 おまかせ おまかせ
令和7年10月30日~
お寺の坊守さんで 47歳の若さで亡くなった
鈴木(すずき)章子(あやこ)さんという方がおられました。
ガンが見つかって、5年間の闘病生活の後、昭和63年に命終られました。
鈴木さんは、入院してガンの治療に取り組まれましたが、
限られたいのち前では、世間一般の価値観が通用しなくなることに
気づかれて、「お先真っ暗」となり、ここで、はじめて
「生死」の問題と向き合うことになり、悩んでいた時、
次のような手紙を受け取ります。
八十歳を過ぎた実家のお父さんからの手紙には、
「あなたは、一体何をドタバタしているのか。
生死はお任せ以外にはないのだ。人知の及ばぬことは
すべてお任せしなさい。
そのためにお寺に生まれさせてもらって、お寺に
嫁いだのではないか。
生死はあなたが考えることではない。
自分でどうにもならぬことをどうにかしようとすることは、
あなたの傲慢である。
ただ事実を大切にひきうけて任せなさい」とありました。
(『癌告知のあとで』二一頁)
お父さんの言葉に、誰にも代わってもらえない人生であることに
はっきりと、気づいたと言われています。
仏教は、人生の苦悩を克服するために、煩悩をなくしていくことを
本来は 教えるものです。
しかし、煩悩をなくすことなどとても不可能です。
そこで、心の持ち方を転換し、視点を変えることによって、
少しでも苦悩を克服できる方法があると気づかされ、そのことを、
四人の子供達へ伝えるために たくさんの詩を残しておられます。
その中に『変換』と題する詩には
死にむかって進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ
今ゼロであって当然な私が 今生きている
ひき算から足し算の変換 誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命
嬉しくて 踊っています “いのち 日々あらたなり”
うーん 分かります
人間の力の及こと、及ばないことがある。
自分で やれるだけやったら 後は お任せすればいいだけ、
間違いなく一番良い方向に進んでいくものです。
後がないと、残された日を、1日1日 引き算していくのではなく、
毎日毎日を精一杯生き抜くだけ、いのち終わってもすべてが
終わりではなく、まだまだお浄土で はたらくことのできる
未来があるのです。
大きな 確かな あしたがあるのです。
第1678回 愚者になりて 往生す
令和7年10月23日~
あるお寺の掲示版に
「よい人になろうと、お寺に通ったのに、どうしようもない
人間だと知らされた」とありました。
私たちは、子どもの頃から、よい人立派な人になろうと、勉強し、
社会に出ても一生懸命に頑張ってきました。
お寺に行くのも、よい人、立派な人になれるようにと、足を運びました。
ところが、浄土真宗のお話を聞いていると、これまで気づかなかった、
自分自身の本質に気づかされてくるのです。
あの人のここが問題、あの人は、間違っていると、
周りの人を批判するばかりで、自分自身の姿は見ることは
出来ていませんでした。
親鸞聖人は、関東の門弟たちに、たくさんの消息、お手紙を
京都から書き送っておらえれます。
その中に、最晩年の88歳の時、書かれた中に
故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と
候(そうら)いしことを、たしかにうけたまわり候いし
(今は亡き法然聖人が「浄土の教えに生きる人は愚者になって
往生するのです」と言われたことを確かにお聞きしました)と。
親鸞聖人は、29歳から35歳までの若い間に、東山の吉水で聞いた言葉を、
それから50年以上たって大切な教えとして、関東の門弟たちに
伝えようとしておられるのです。
ここで言う「愚かさ」とは、賢いとか愚かという相対的な意味ではなく、
人間、誰もが持つ根源的な愚かさのことを指しています。
たとえば、欲望にとらわれて自分を見失ったり、自分にとって
都合の悪いものを排除しようと、他者を傷つけ悲しませたり
するような愚かさです。
「愚者になる」とは、そのようにして生きている自分自身を、
他者を見るように、はっきりと見つめ、愚者の自覚を持つことこそが、
仏の教えに出会え、まことに生きることが出来るのだと述べて
おられるのです。
自分の愚かさを自覚するということはなかなかできることでは
ありません。
私たちは少しでも自分の姿をよく見せようとし、自己弁護して
正当化して、自分自身の本当の姿からつい目を背けてしまうからです。
自分の愚かさを認めるところから、他の人を理解し、人々との
深い関わりを持つことが出来、仏の願いが聞こえてくるようになるのです。
浄土真宗は 立派な人間になって救われるのではなく
愚者になって救われる教えであると知らされると、不安がなくなり
なんと有り難いことかと喜ばれるものです。
南無阿弥陀仏の呼び声に答えて、南無阿弥陀仏とお念仏が口にし
先輩達が勧めて頂いている 真実の教えを、素直に、心ゆくまで
味わわせていただきたいものです。
第1677回 裏のはたらき
令和7年 10月16日~
こんな話を聞きました。
明治時代のことでしょうか、京都の西本願寺にお参りした人が
はじめて、水道というものに出会いました。
ひねるだけで 水が出てくるのに驚いて、旅館の人に尋ねました。
これは、どこで買えるのですかと、これは職人さんが
取り付けてくれましたが、金物屋さんにあるのではないでしょうか。
金物屋さんに立ち寄り、水道の蛇口を幾つか求めて帰りました。
帰ると早速、壁に取り付けて、みんなを集めて、蛇口をひねりますが、
当然、水は出てきません。
水道の蛇口だけで、出るわけかがないのに、それを知らなかった
という話です。
これを聞いて、素直に笑ってはおれません、同じような生活を私たちは
毎日送っているのかもしれません。
まどみちを さんの詩に
「水道のせん」というのがあります。
水道のせんをひねると 水が出る 水道のせんさえあれば
いつ どんなところでも きれいな水が出るものだというように
とおい谷間の取入口も 山のむこうの浄水池も 山の上の配水池も
ここまでうねうねと土の中を はいめぐってきているパイプも
それらのすべてを つくった人も いっさい関係ないかのように
牛乳びんさえあれば 牛乳がやってくるかのように
電灯のたまさえあれば 電灯がともるかのように
水道せんひねると 水が出る
とあります。
私たちは 表面的な目に見えることしか感じていません。
そこにつながる大きな働や力、さまざまなご苦労があったことに
気づくことなく、あれもこれも、みんな当たり前になって、感謝も
喜びもない、無感動な生活をしています。
気づくのか、気づかないか、見えるか見えないかで、人生の味わいは
大きく違ってくるものです。
そして、こうしてお念仏を口にすることが出来ているのも、沢山の
はたらきが、ご縁があってのことです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏に出あい、お聴聞することで
表だけではなく、その裏に隠れている多くのはたらきに、
思いに気づかせていただき、はじめて
感動的な有り難い豊かな人生を受け取ることが出来るのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のはたらきによって、
私に届いている大きなはたらきかけを感じ、気づかせて
いただくことができるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1676回 無税の相続
令和7年 10月9日~
おかげさまで 10年半に一度の 佐賀組の巡番報恩講は
10月1日から 五日間 多くの方にお参りいただき有り難い法要となりました。
日頃は 一日だけ法要にお参りして、それで終わりの方が多いのですが、
今回は 連続してお参りいただく方が多かったように感じました。
ご講師の渡辺崇之先生の軽快なお話に、笑いと笑顔が絶えることのない
明るく賑やかな法要となり、有り難いことでした。
ところで、毎日の法座の最後に、総代と住職が挨拶していますが、
今回は、こんな話をしました。
それぞれのお宅に上がり込んで、月忌参りや法要に伺って30年あまり、
お念仏にご縁があるお宅と、まったくご縁の無いお宅とでは、まるで
違うことをつくづく感じます。
相続という言葉がありますが、相続というと今、税金のかかる
ことばかりをイメージされる方が多いと思いますが、もともとは、
念仏相続という言葉から出てきものではないかと思います。
昔は、長男が家を継ぎ、財産も家も家業も 全部一人で受け継いでいました。
他の兄弟には、その権利はありませんでした。
現代では 兄弟がみな平等に遺産を相続できるようになってきました。
財産は、分配すれば、段々と少なくなっていくものですが、
お念仏の教えは、全員に平等に伝えても 減ることはなく、子どもや孫へ
いつまでも、そのまま受け継ぐことができるものです。
物は、使えばすぐなくなってしまうものですが、お念仏の価値観は
どんなに分けても、減ることはなく、代々伝えていくことができるものです。
税金のかかる相続ばかりではなく、先だった親たちが最も喜ぶ、お念仏を通して
感じる力、思いやりのこころ、感謝の気持ち、喜びを受け取っていき
それを確実に次の世代へ伝えていただきたいものです。
どんな宝ものにもまして、このお念仏の価値観は 有り難い財産です。
歳を取っても、病気をしても、どんな災害に見舞われても、これほど
価値があり確かなものはありません。
それを、次の世代に受け継ぐには、まず、大人の私たちがお聴聞をして、
喜ぶ姿を見せること、あんな生き方が理想だと思えるように、
力強く、明るく活き活きとした姿を見せてあげることでしょう。
それには、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏を、確かに受け取り
味わう力を身に着けることがまずは第一です。
この秋には、秋の法座も予定しています。
一月は ご正忌報恩講 そして、3月には 次の真覚寺さんでの
巡番報恩講 まずは、大人がお聴聞をして、その喜びを、感じ取って
いくことが、お念仏相続の もっとも早道だろうと、思います。
第1675回 みんな 一人残らず
令和7年 10月2日~
テレビを見ていると、観光地や事件事故でも、スマホを
手に撮影する人々の姿をよく見かけます。
今は、写真や動画を、誰でも簡単に撮ることが出来るようになりましたが、
カメラ好きで、展示会をよく開いている方からこんな話を
聞いてことがあります。
子どもの運動会で写真を撮りたいので、カメラを貸してくれと ずっと昔に
友だちから頼まれたことがありました。
そこで、誰でも簡単にとれる簡易なカメラを準備すると、友人は
初めての子どものためだから、もっと良いものを貸してくれとの注文です。
自分が日頃使っているカメラは 扱いが難しいから無理だと
いっても聞いてくれません。
無理矢理、大きな望遠レンズの着いた高価なカメラを持って友人は
運動会へ行き、大量の写真を撮って意気揚々と帰ってきました。
ところが、どれもピントや絞りがうまくいかず、まともに写った
ものは一つもなかったということです。
どんなに高級なカメラでも それを使う知識や技能がないと
何の役にも立ちません。
見かけはヤスっぽい全自動のカメラですが、
知識のない人にとっては、それが一番ありがたい立派なカメラです。
これと似て、どんなに立派な教えがあっても、
その教えの通りに修行したり、戒律を守ったり出来ない人にとっては
何の意味もありません。
すべての人を必ず救うというお念仏の教えだから、技能や知識を
持たず、努力することも出来ない人でも、間違いなく
救われることが出来るのです。
これこそが、最も立派で有り難い教えと言えるでしょう。
ある運動会でのこと、やっと歩けるようになった子どもたちの
かけっこで、わずか10メートルほどの決勝点に向かって、
すぐに走り出す子どももいれば、ゴールではなく親の方に、
来てしまう子ども、大きな声の応援に驚いて、
スタートラインの上で 泣き動けなく成った子どももいます。
いつまでたっても、泣くだけで、動けない子どもに、先生が
抱き上げで、ゴールまで走ってくれた姿を見て、あああれが
阿弥陀さまの一人も漏らさず必ず救うということだなあと、
有り難く見せてもらったという 話も聞きました。
阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏となって、
一人も漏らさず救うと、今、はたらいていただいているのです。
いろいろ有り難い立派な教えがあっても、この私には
お念仏で救われる教え これしかないのです。
第1674回 世界中が雨の日も
令和7年 9月25日~
こんな話を聞きました。
10年ほど前の 朝の連続テレビ小説 「とと姉ちゃん」が
現在 お昼休みの時間に 再放送されています。
その主題歌は、宇多田ひかりさんの 「君に花束を」という曲です。
すばらしい歌だと聞いていますが、ある音楽番組に
この宇多田ひかりさんが出演、 司会者が質問して
「ご自分の歌で好きな歌は何ですか」との問いに、
この「君に花束を」が好きだと答えていました。
「その中でも 好きな部分はどこですか」との質問に
世界中が雨の日も 君の笑顔が僕の太陽だったよ
ですと答えていました。
世界中が雨の日も 太陽とは
どこかで聞いた言葉のように思えますが、日頃お勤めしている
正信偈の 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 を思い出しました。
私たちは貪りや憎しみ、愚痴などの煩悩に覆われて、
阿弥陀様のはたらきに、なかなか気づくことができませんが、
たとえ雲や霧が覆っていても、雲や霧の下にも明るさが
届いているように、阿弥陀さまのはたらきは、届いているのです。
空が、どれほどあつい雲におおわれていても、雲の下に闇はないように、
どれほどの愚かさを抱えた凡夫であっても、阿弥陀さまのはたらきは、
その愚かさが障りとならないと親鸞さまは仰っています。
自分の力で 煩悩を無くすことが出来なくても、
決して煩悩が妨げにはならないということ。
しかし親鸞さまは、
雲の上を見ようとするのではなく、雲の下に闇のないことを
驚かれました。
光はとどいている。どれほど私の愚かさの雲霧があつくとも、
阿弥陀さまのみ心は届いてくださっていた。そのことに驚かれたのです。
宇多田ひかりの 「君に花束を」
世界中が雨の日も君の笑顔が僕の太陽だったよ
「その歌詞の君の笑顔の 君とは 誰ですか」との問いに
今はなき 母親 藤圭子だと、答えていました。
母親の愛 そして阿弥陀さまのはたらき どんな雨の日も
霧の日も、そのままの私を いつも見守ってくれる
そのはたらきに、気づくことができる時、ありがたさが
沸いてくるものです。
どんな時も、見守り続けてくださる はたらきがあるのです。
第1673回 あなたは どちら
令和7年9月18日~
秋の彼岸法座のご案内に、こんなことを書きました。
ある念仏者の言葉に、「人生いろいろというが、
私は二つしかないと思う、阿弥陀さまのお慈悲を聞くか、
聞かないか」の違い。
聞くことが出来れば、有り難く恵まれた人生だったと喜べるし、
聞かねば、苦しく辛い無価値な人生だったと感じられてしまうもの。
あなたは どちら・・・。
との葉書を出しました。
阿弥陀さまのお慈悲 はたらきを、お聴聞するか しないか
そのチャンスが あるか ないかで、
人生は まるで違って見え、感じられるのです。
周りから見れば、同じような人生を送っていても、有り難かったと
喜びながら 充実した生き方ができる人と、こんなに努力したのに
苦労したのに 誰も分かってくれない。
いいことは 一つもなかった、悔しい 腹が立つ と
憤りながらの苦しい人生を送る人との、違いが出てくるのです。
仏さまの話を聞くことができた人は、自分の努力 頑張りばかり
ではなく、周りの人々の努力 頑張り 思いやりなどが少しづつ
見え感じられるようになるのです。
見る目が 感じる力が育ってくると、私の努力よりも
私に対する もっともっと大きな、多くの はたらきかけがあることに
気づくことが出来るのです。
そうすると、もったいない こんなことでは 申し訳ないと
感謝とともに もっと頑張ることができるようになるものです。
お聴聞のご縁がなく、周りが見えない人は 自分のことしか
見ることができず、ひとり孤独で、悪戦苦闘する感覚ばかりで
感謝も 喜びも 生き甲斐もなく
苦しい つらい人生であると感じられてしまうのです。
そうした 感じる力 知る力を身につけるには、
仏さまの話を 仏さまのはたらきを、お慈悲を聞いていくことで、
いかに有り難い人生であるか、何と 多くの人々が 私のために
はたらきかけていただいているかに、気づき はっきり感じ
喜び、感謝の気持ちが起こってくるのです。
そのお聴聞のご縁、この 10月 1日からの巡番報恩講の五日間
またとない 尊いチャンスです。最後のご縁です。
仕事を休んでも 大事な用事を後回しにしても
このご縁にあうことは、もっとも価値があることと思います。
聞いてくれ 聞いてくださいと
先だった父母 祖父母 多くの先輩達が そろって南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 呼びかけていただいているのです。
今しかない あしたでは遅い 今 聞いてくれと
願われているのです。
そして、 豊かな有り難い人生を 受け取って、
喜び多い感謝の毎日を送ってほしいと。
第1672回 誰も皆 86,400
令和7年9月11日~
一周忌で、「よくお聴聞されておられたご主人は、仏さまとなって、
今も 私たちのためにはたらいておられることでしょう。」
と、お話をし、最後の合掌をした後、床の間に置かれた遺影の前に、
ご本人のものと思われる腕時計が、置いてあるのに気づきました。
のぞき込んで、「あら、ちゃんと動いていますよ。」というと、
年配の妹さんが、「あらあーと」と、驚きの大きな声を出されました。
「この腕時計だけではなく、今、ご本人もちゃんと働きかけておられるのに、
こっちが気づかないだけなのでしょうね」
「そうやろね、そうやね・・・」 との高齢の妹さんの感動の声を
聞きながら帰ってきました。
時計、時間といえば、こんな話を聞きました。
すべての人に、86、400円、毎日毎日お渡ししますと言われると
とても、嬉しく有り難いものです。
だだ、次の日に持ち越すことはできず、その日のうちに
使い切ってしまわなければならないというのです。
自分の好きなものを、自由に買えて、うれしいものですが、残すことが
出来ない、使い切ってしまい貯金が出来ないのは、残念なことです。
同じように、私たちすべての者に、毎日毎日、86、400秒、
分にならすと1440分、24時間が間違いなく平等に
与えられているのです。
誰もがみんなが頂いている、86、400秒の時間ですが、
当たり前になって、感動もなく、余り喜んでもいません。
そればかりか、意識もせずにぼんやりと、無駄に使い切っています。
時には 誰かの行動や、言葉に腹を立てて、くやしい、
許せにないと、イライラ くよくよと、そのことばかりに心奪われて、
長い時間、悶々と無駄な時間を過ごすることもあります。
折角いただいている毎日毎日の86、400秒、無駄遣いをすることなく、
出来れば、喜び多い時間を多く持ちたいものです。
お金と同じく 自分の為だけに使うのではなく、
誰かの役立つこと、喜びを分けてあげることにも、挑戦するなど
意味ある使いかたを 考えて見ることも大事なことでしょう。
もし、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏を口にするご縁があれば、
平凡で 当たり前の毎日が、意味深く、有り難く、喜び多い、
素晴らしい価値ある時間であることが確認出来ることでしょう。
つらいこと、苦しいことで悩み続け、時間を無駄に使い切るより、
仏さまも 亡き父母も喜んでくださる、南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏を口に、味わい深い、喜び多い、豊かな時間を
味わいたいものです。
第1671回 見る 感じる力
令和7年 9月4日~
ご本山の朝のお勤めのご法話でこんな話を聞きました。
私たちは見えるものだけを大事にしていますが、見えないものも
有り難く大事なものがあることに、気づいていないのではないかという
お話です。
見えないものもあるというと、金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」の詩を
思い出します。
青いお空のそこふかく、 海の小石のそのように
夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
本当に大事なもの 有り難いものは 見えないものが多いようです。
親の愛や思いやり、優しさなどを、見ること、感じることができるか
出来ないかで、 その人の人生は大きく違ってくるものでしょう。
見る力がないのか 見ようとしないのか。
それが、見えるように 感じられるようになってくるのは、
学校教育などの知識の教育だけでは不十分で、
仏さまのお話、ご法話を聞かせていただくことで
今まで気づかなかった大事で、有り難いものに気づき、
見過ごしていることに気づき、感じられるようになってくるのでしょう。
仏さまのお話を聞かせていただく中で、少しづつ
変化が訪れてくると、人生はまるで違って見えてくることに気づきます。
見る力 感じる力、味わう力、それを育てていただくことが出来きるのが、
仏法に出遇うということだと、思います。
まわりが少し見えるようになってくると
いかに多くの力に守られ育てられているか、なんと有り難く
素晴らしことかに気づかせていただけるのです。
どうか、次の世代へも この見る力、感じる力を 伝え残して
行きたいものです。
それには、南無阿弥陀仏のみ教えを受け継ぐことが、もっとも確実で
近道だと味わいます。
第1670回 感謝・喜びの効果
令和7年 8月28日~
こんな話を 聞きました。
龍谷大学の臨床心理学の先生から「感謝の効用」のお話を聞きました。
その先生は、自分の講義を受けている学生さんたちに、3カ月間、
小さな習慣を続ける実験に参加してもらったそうです。
それは、寝る前に「今日も
おかげさまで 一日を 終えることができました。
ありがとうございました 」と、感謝の言葉を 3回繰り返すことです。
そして、実験に参加し学生さんには「 もし 何か 生活に 変化があれば、
メモして おいてください 」と、頼まれたそうです。
毎晩 3回 感謝の言葉を唱えることに、どんな意味があるのだろうかと
半信半疑だったようですが、3カ月たった頃、学生さんたちからは、
「 笑顔が増えてきた 」「 憂鬱な 気分が減った 」「 家族関係や
人間関係がよくなった 」「 身体的な 疲れが減った 」「 バイト先で
気遣いができるようになった 」などの 報告が あがってきたそうです。
どんな人にも、辛く苦しいことばかりではなく、うれしいこと、
感謝すべきことが必ずあるものです。
毎日 毎日 感謝の言葉を口にする、この習慣がきっかけとなって、
うれしいこと、感謝できることに 目が向くようになってくると、
神経伝達物質やホルモンのバランスよくなることが、いろいろの実験や、
研究でだんだんとわかってきたといいます。
「 幸せだから感謝するのではない。感謝できることが幸せである 」
という言葉があります。
幸せは、地位や名誉や財産などだけで決まるのではなく、ものの見方、
感じ方によって大きく変わってくるものです。
これまでの長い人生の中では、苦しいこと悲しいこと、つらいこと、
いろいろと困難なことに、どなたでも出会われたことでしょう。
しかし過去ではなく、今の自分を喜ぶことが出来る人こそ
幸せといえるでしょう。
思えば親鸞聖人のご生涯は、大変ご苦労の多いものでした。
大飢饉を何度も経験され、罪人とされ流罪にもなり、晩年には息子さんを
義絶するという悲しい出来事もありました。
社会一般のものさしでは、とても幸せとは言えない人生だったでしょうが、
もし聖人にお尋ねすることが出来れば、きっと「いろんなことがあったが、
多くの尊いご縁に よって 阿弥陀さまの ご本願に遇わせていただけた。
私ほど幸せな人生はなっかた 」とおっしゃるのではないでしょうか。
お念仏を称えることは、お念仏を聞くこと。お念仏を聞くとは、
阿弥陀さまの願いに遇わせていただき、阿弥陀さまのお慈悲の中に 今
私が生かされていると 知らされることです。
〝 感謝の言葉 〟でもある〝 お念仏・南無阿弥陀仏 〟を、称えて生きる
人生とは、まさに導かれ 護られている 有り難く、喜びいっぱいの
幸せな人生であることに、はっきりと気づかされ、味わう生活です。
親鸞聖人は 念仏者に恵まれる精神的喜びのことを「心多歓喜の益
( 心に よろこびが多いという利益 )」「
知恩報徳の益( 如来の恩を知り
その徳に報謝するという利益
)」そして最後に(やがて仏になると定まった
正定聚の位に入る )「 入正定聚の益・にゅうしょうじょうじゅのやく」との
十種の利益があると、『教行信証』に、お念仏を 口にする人が感じる喜びを
はっきりと示していただいています。
(本願寺新報二〇二四年七月二十日号掲載) 高田 文英師
龍谷大学教授 福井県鯖江市・西照寺衆徒を参照しました。
第1669回 スパイスをきかす人生
令和7年 8月21日~
電話法話の原稿を 大きな活字で印刷しようとしていますが、
その2冊目の校正をしていて、20年以上前のこんな 文章に出会いました。
お参りした時に、こんな質問を受けました。
「宗教は、どうして必要なんでしょうかね」と。
お料理が、得意そうな方でしたので、こんな答えをしました。
私たちは、毎日毎日食事をしています。
ところが、それを、いつも喜んで食べている方と、何の感動も持てず
淡々と食べている人、中には、文句をばかり言う人、
昔食べてあれは美味しかったと、目の前のものを
味わえない人など 様々な人がいます。
同じことなら、喜んで美味しく食べたいものですが、
中には、お世辞にも美味しいと言えない料理もあるものです。
どんなに高価な材料を使った料理でも、どうももう一つ
美味しさに欠けることもあります。
人生もおなじことではないかと思います。
周りからみれば、何不自由のない恵まれた生活、経済的にも
社会的にも、何の問題もない生活なのに、何か一つ足りない。
ちょうど高い材料を使って料理していながら、もう一つ味わいの少ない
お料理と共通するところがあるようです。
お料理なら、ほんの少しのスパイスをきかすだけで、もっともっと
美味しく魅力的になることもあります。
おそばには ワサビ、うどんには七味、そうめんにはショウガと、
おなじ麺類でも、違いがあります。
それぞれの料理を引き立たせて、尚一層美味しくするものがあるものです。
それを、ちゃんと知っている人と知らない人。
折角、誰かが薦めてくれるのに、大丈夫大丈夫と、いつもお醤油だけを
かけて食べているような生活を送っている人もいます。
人生でも、ほんのひと工夫、見方を変えることで 大きく
味わいが変わってくるのに、それを知らずに一生を終わって
いく人も多いようです。
宗教とは、多くの経験し、さまざまな失敗や過ちを
繰り返した先輩たちが、同じ誤りをしないように、もっと喜びを感じ
味わいを深める生き方があることを、伝え教えようとしたものでは
ないかと思います。
南無阿弥陀仏のお念仏を口にすることで、ものの見方が変えられて
同じ人生でも、ひと味違う、味わう力、味覚が育てられることを
先輩、ご祖先たちは伝えようとしているのではないかと感じます
同じ人生ならば、先輩のすすめを受け取って、味わい深い人生を、
喜び多い 感動的な人生を、送りたいものです。
第1698回 有り難い方の お通夜で
令和7年 8月14日~
先頃 いつもお参りいただいた有り難い方が 亡くなられまいした。
そのお通夜の席で こんなお話をしました。
〇〇さん 92歳の堂々とした ご一生でした。
子どものころ、鳥栖で空襲を受け苦労した話を、先日新聞に語って
おられましたが、成長後、〇〇会社に勤務 定年後は、地元で
自治会活動で活躍され、その誠実なお姿は、ここに参加されている
皆さんお一人お一人が、それぞれの場で充分にお感じになって
いることでしょう。
私が存じ上げる 〇〇さんは、お父様のご命日にご自宅に伺い
一緒にお勤めしていただく 真面目でありがたいお方でした。
お手元にお経さんの本が渡っていると思いますが、その本を
いつも持って、六ぺージからのお正信偈のおつとめしておられました。
ご自宅でばかりではなく、お寺でお彼岸や報恩講など 行事の折りには
必ずお参りになり、いつも大きな声で ご一緒に、
もう何百回と、お勤めをしておりました。
出来ますれば これから、みなさんも、〇〇さんとご一緒の
つもりで、お勤めをしていただければ有り難いことです。
お勤めの内容は、 お釈迦様が説かれた仏教ですが、それぞれの能力に
見合って、具体的にさまざまに数多く説かれています。
その中で、親鸞聖人という方が、これこそが、私のために説かれた教え
この教えでこそ、人間らしく堂々と生きていくことの出来る有り難い
教えであると、ご自分で味わい、私たちに勧めていただく内容で、
この教えこそが、お釈迦さまがもっとも説きたかった内容であると
まとめていただいているものです。
これから、みんな必ず老病死を迎えますが、その苦しみ
悩みを、乗り越えていくことの出来る 人間らしく生きぬく事のできる
南無阿弥陀仏の教えが説かれています。
このお勤めの後をした後で、毎回、必ずお話していたことが
ありますが、それは お勤めのあと、また お話しいたします。
まずは、〇〇さんとご一緒のつもりで、お勤めいたしましょう。
◎ 正信偈のおつとめ
ご一緒に おつとめいただきまして、ありがとうございます。
こうして、いつもお勤めした後、必ずお話していたことは
毎回 同じこと、ただ一つです。
お手元の経本の表紙に 浄土真宗とあります。
私たちの 科学的な頭では いのちが終われば、すべて無くなると
思っていますが、お釈迦様は この世だけではなく、自分の行いによって、
次の世界へ生まれていくのだと、教えていただいいます。
ほとんどの人は、自分で作った罪で、地獄へ生まれることになるのですが、
南無阿弥陀仏の人は お浄土へ生まれて 仏さまになって 活躍すると
教えていただいています。
ですから、もう〇〇さんは、仏さまとして 今すでにここで
はたらいていただいているのです。
残された私たちが出来ることは 仏さまになられた方が、喜んで
いただけるような生き方をすることでしょう。
それには、お念仏の教えに出あい、喜び多い生活をさせて
いただくことでしょう。 ・・・・・
このような お話をしました。
第1697回 見ていない 見えていない世界
令和7年 8月 7日~
悲しい事件が 起こりました。
外国から技能実習生として日本に来ている 青年が 住まいの近くの人を
傷つけ、殺害するという、どうしようもない悔しい事件です。
今、近くのコンビニの店員さんも、その多くは外国の若い人で
親切、丁寧で 日本人の若者には、とても出来ないほど、
立派な対応をしてくれます。
日本は 現在大変な、労働力不足だそうで、農業 工業 水産業
製造業あらゆる部門で、日本人が働きたくない、
大変な仕事を、彼らが受け持ってくれています。
技能実習法という法律では、「技能実習は、労働力の需給の調整の
手段として行われてはならない」とあるものの、現実は そうは
いかないように見受けます。
残念なことは、生活習慣の違いから、住居地で深夜まで騒いだり、
生活ゴミの出し方で、近所とのトラブルがあったりもするようですが、
受け入れる企業によって、生活の環境は大きく違っているようです。
どうも、私たちは、自分とは関係無い、余所のことだと
無関心で見て見ぬふりをしています。
お念仏の生活とは、自分の立場からだけで世間をみるのではなく
仏さまの目に 気づかせていただくことだとうと味わいます。
日頃、利害関係、知り合いかどうかなどを基準に、
世間を見ているようで、本当に狭い目でしか、世の中を見ていません。
自分に代わって、大変な仕事を、日本人が嫌がって逃れている
ことを、暑い中汗をかき、早朝や深夜、危険な仕事を
外国の若者が、最低賃金で頑張ってくれていることに、気づき、
こころに留め、見守ることが、出来るようになりたいものだと、思います。
私はちゃんと世の中を見て、何でも分かったつもりになって
いますが、仏さまから見れば、自己中心で 傲慢などうしようもない
人間に見えていることでしょう。
悲しい事件でしたが、そのことを私に気づかせてくださるため、
ご苦労だったのだと、受け止めさせていただいています。
観無量寿経が説かれるご縁となった 提婆達多が阿闍世をそそのかして
頻婆娑羅王を害させるという王舎城の悲劇、そのご縁で釈尊が
韋提希をお導きになって、阿弥陀仏の浄土を教えてくださったように
私のためのご苦労くださった方々であったと 味わえてなりません。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1696回 無駄な いのちは一つもない
令和7年7月31日~
8月が近づき、朝の日差しは、少しだけ柔らかく感じらます。
朝食の前に、墓地の草取りをしていますが、雑草の生命力の
強さに驚嘆しています。
腰を落として、手で一本ずつ根から抜き取っていけばいいのですが、
効率を求めて、カミソリで、ひげを剃るように、鍬で削ぎ取っていますので
すぐにまた伸びて、大汗をかいています。
仏さまのお話を聞いて、すこしは思いやりのある人間に育った
つもりでいますが、折角一生懸命に生きているのに、雑草だと
邪魔者扱いし、取り除き、良いことをしていると思っている自分に
気づきながらも、やめられません。
私にとっては、価値のない厄介な草ですが、仏さまの目かみれば
懸命いきているかわいい植物の一つと見えていることでしょう。
美しいものや、売れるもの 誰もが価値があると認めたものだけが
大事で、そうでないものは、無駄で邪魔だと、徹底して取り除く私、
みんな平等の いのちをいただいていると、聞きながら、
自分の都合で生きていることを感じます。
もしも、この草たちが思う存分成長し、地球を覆い尽くすことが
出来たなら、温暖化した地球は、少しは涼しくなるのかもしれませんが、
仏さまの気持ちに逆らって、悪者あつかいし排除している、人間中心、
自分中心で、生きていることに、思い当たります。
雑草だけではなく、人間を見る目も、価値のある人 ない人
私に都合のよい人 悪い人、仕分けして付き合っていますが
仏さまから見れば みんな我が子のように可愛い存在なのでしょう。
そして、仏さまは、どうか、正しく ものを見る力を身に着けてほしい、
みんなそれぞれに、なくてはならない貴重な存在であり、
無駄のもの、意味のないいのちは 一つとしてないことを 知ってほしい
気づいてほしいと、はたらきかけていただいているのでしょう。
この私のことも、今は、正しく見る目を持たない人間ですが、やがて
お浄土に生まれ、仏となって、人々に、正確に見る目を
真実を感じ取る力を、一人でも多くの人に、気づかせるために、
はたらいてほしいと、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と呼びかけ、
見守っていただいていることでしょう。
私の周りの、どんないのちも、一つとして無駄ないのちはない、
そのことに、はやく気づいてほしい、感じてほしい。
見る目が開かれてくると、この世界は この人生は なんと豊かで
なんと有り難く、すばらしいものに、見え感じられてくるものですよと。
第1695回 感じる力 知る力
令和7年 7月24日~
やっと 蝉が鳴き始めました。
いつもより 梅雨が早くあけて 暑い日が続きましたが、
その暑さの中に、聞こえてくるはずの蝉の声が 今年は
まったく聞こえてきませでした。
あまりの暑さに土壌が乾燥し、難くなって蝉が地上に
出てこれないのではないかと、心配をする声も聞かれました。
しかし、学校が夏休みになるころ、忘れることなく、地上にはいだして、
今は朝から うるさい声が響き渡っています。
蝉の一生は とても波乱に満ちています。卵から幼虫になるまでは
一年は木に留まり、梅雨のころ地上に落ちて、土の中に潜り込んで
いくのだそうです。
このとき多くはアリなどに食べられてしまうそうで、
無事生き延びたものが、それから、地中で何年もの間、生活し、
暑い夏のほんの僅かの間だけこの地上に這い出して、精一杯泣いて
泣いて、やっと子孫を残し、あっという間に、この世を去って
いくのだそうです。
暑い暑い 夏の間の僅かの間だけしか知らない蝉は、秋の紅葉の
季節や、冬の寒い時期、そして、春の新緑の様子にも気づかず、
知らずに一生を終わっていくのです。
今、子どものころを思い出すと、小学生の頃は、小学校生活がすべてで、
やがて来る中学の生活も、大人になることも、意識せず生きていました。
若く元気な時には、歳を取り老いていくこと、
病におかされて、痛かったり苦しかったりすることも、
想像できずに生きてきました。
今から思えば、その瞬間瞬間を精一杯生き、未来が、
次に来る世界があることを、意識することなく生きてきました。
蝉と人間の違い 動物と人間の違いは 前の世代の人が体験し
感じたことを、次の世代に伝え残していくことができることです。
ああすれば良かった、こうすれば良かったと、気づいたことを
感じたことを、次の世代へ伝え残すことができることです。
ところが、その先輩達の声、言葉、教えを、素直に聞き
受け取ることの大事さに、なかなか気づかずにいます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏は、この僅か100年の人生だけが
すべてではなく、やがて生まれて往く世界があること。
蝉のように短い一生を終わっていくのではなく、次の世界があることを
教えてくださる言葉です。
その言葉を、聞き取る力が 感じ取る力があるか、ないかで、
私の一生は大きく違ってくるものです。
今この世界がすべてではなく、次に来る世界があること、
先輩達の願いが、期待が、はたらきかけがあることに、気づく力
感じ取る力が 育ってくると、この人生は まるで違ってくるものです。
夏の短い間だけ泣き続ける蝉のように、短い一生で終わるのか
それとも、先に生きた人々の願いを聞き、この人生の大事な
意味を、有り難さを感じ取ることができれば、私の人生は
まるで違ってくるものです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を聞き、口にし、願いを感じとって
素晴らしい有り難いこの人生を、精一杯生き、味わいたいものです。
第1694回 未来を開くことば
令和7年7月17日~
この体は 食べたものでつくられ
心は、聞いた言葉で育てられ
そして、未来は口にする言葉で開かれる
こんな言葉を聞きました。
たしかに、口にする母乳からはじまって、いろいろの食物を
食べることで、体は成長し 人間になることができました。
そして、人間のこころは、耳から入ってきた言葉 目で見るものを
認識することで、育てられてきました。
動物的な本能の、勝ち残ることだけではなく、協調して生活することを
学び、それそれの能力を生かし、生き甲斐と喜びを味わう力を育てられ、
生きています。
私たちは、いろいろの言葉を口にして生きていますが、もし、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と、阿弥陀さまの与えてくださる言葉を、
口にして生きていくことに出会えた人は、これからの老病死の
苦しみに泣くのではなく、やがて仏になって、はたらくことの出来る
自分であることを知らされるのです。
どんなに丈夫な体に育っても、どんなに豊かな知識を持つ
立派な人間になっても、わずか100年の限られた人生で終わるのでは、
むなしい人生となってしまうことでしょう。
同じ人間に生まれても、口にする 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏に
導かれて、永遠のいのちを、仏になることのできる
いのちを受け取ることが出来なければ 悲しい人生となってしまうのです。
頭で理解するだけではなく、口して 耳で聞くことで、
人間に生まれた目的や、親や祖先の願いに気づくことが出来
はじめて、有り難い 喜び多い 永遠のいのちを 受け取ることが
出来るのです。
たとえこの体が 高齢になり、病気をし、いのち終わっても 大丈夫な
人生を歩むことができるようになるのです。
病院に通い、薬をのむ、体のことばかり心配するのではなく、
この心のことを考えると、仏さまの願いを 仏さまのはたらきを
耳で聞かせていただくことで、はじめて、人間らしい、永遠の未来を
希望の多いありがたい人生を受け取ることが出来るのです。
それを確かにしてくれるのが、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏
自分で口に出し、自分の耳で聞くことで、 素晴らしい限りない
人生であることを味わわせていただけるのです。
この体は 食べたものでつくられ
心は、聞いた言葉で育てられ
未来は、口にする言葉で開かれていくのです。
第1693回 水道の蛇口 電灯のたま
令和7年7月10日
こんな話を聞きました。
山奥で生まれ育った青年が、はじめて街に出て水道を見てびっくりしました。
蛇口をちょっとひねるだけで、大量の水が出てくるのに感激し
おみやげに、水道の蛇口を沢山買って帰りました。
ところが、自宅で、蛇口をひねってみても
まったく水が出てこなかった。という お話です。
無智を笑っていますが、私たちも 同じようなことを
しているのかもしれません。
詩人「まどみちお」さんの詩に、こんな詩がありました。
水道のせん
水道のせんをひねると 水がでる
水道のせんさえあれば
いつ どんなところででも
きれいな水が出るものだというように
とおい谷間の取り入れ口も
山のむこうの浄水池も
山の上の配水池も
ここまでうねうね土の中を
はいめぐっているパイプも
それらすべてを つくった人も
いっさい関係ないように
牛乳びんさえあれば
牛乳がやってくるかのように
電灯のたまさえあれば
電灯がともるかのように
水道のせんをひねると 水が出る
こんな詩です。
何事も みんな当たり前、お金を払っているから、大丈夫と
思い込んで生きていますが、この私に届くまでに
多くのはたらきが ご苦労が、思いが 詰まっていることに
まったく気づかずに生きています。
私が見ている日常の景色、その背景に目を向けると、
目には見えない さまざまな力によって支えられていることに
気づかせてもらう、そのことを「ご恩」を知るといいます。
自分が称えて、自分の耳で聞く 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は
当たり前になって 無感動に生きている この私に 何事も
当たり前ではなく、有り難いご縁があることを
気づかせてくださる、呼びかけの言葉ではないでしょうか。
毎日 毎日に、不安なく お浄土への道を
一歩一歩 歩ませていただいている、多くのご縁の
お陰であったと、ありがとうございます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 お念仏とともに
喜ばせていただきたいものです。
第1692回 ヨシ 間違いなし
令和7年 7月3日~
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
というご和讚があります。
ご本山のお晨朝の法話で こんな話を聞きました。
自動車の運転があまり上手でない人に、上達するコツを
教えるテレビ番組がありました。
講師の先生は、自分の目で見たことを、口にだしながら運転してみて
下さいと、指導されました。
『あ 信号が黄色になった、ブレーキを踏もう』
『右側の 歩行者が横断しそう』
『後の車、車間距離が近い、無理なブレーキは避けよう。』
運転しながら 目に入ること、次に行うこと、注意すべきことなどを
声に出し、それを聞きながら運転すると、それまでと違って
とてもスムーズに運転できるようになったといいます。
人間は 目からの情報が多いものの、耳からの情報が
一番正確に伝わるといいます。
そこで、目で見た情報を 声にだすことで、確かめ、見落としやミスを
防ぐことができるというのです。
そういえば、電車の運転手さんや、工場での作業で、指をさし
声にだして、動作を確認する姿を見ますが、あれも同じように
声に出して、見落としやミスを無くそうとする工夫でしょう。
「スイッチOFF ヨシ!」、とか、「頭上 ヨシ!」
右腕を真っすぐに伸ばし、対象を見て、人差し指でしっかりと指さします。
右手の指でさしたら、右の耳元まで戻し、指さし確認したことが
本当に正しいか、本当に大丈夫かを心の中で、再確認するの
だそうです。
そして「ヨシっ!」と発声しながら右手を振り下ろす。
また、自分自身の体も、行動を起こすときには かけ声を
かけたほうがよいと、「さあ立ち上がろう」「よいしょ」と、かけ声を
かけた方が 動きやすくなるものですよと整体の先生に聞きました。
この話を聞きながら、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏も、
自分で声を出し 自分の耳で聞く、「間違いなく この私を 救いとる
仏にするぞ」、親たちは すでに仏になって私のためにはたらき、
導いておられる、そのことを、耳で確認しながら、間違いない、
有り難いことだと確認し 喜びながら 力いっぱい生きていくように、
阿弥陀さまは 勧めていただいているのでしょう。
人間は、目で見るだけではなく、耳で 聞くのが一番 安心
できるからなのでしょう。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ヨシ 間違いなし 心配なし
ちゃんと確認しながら、今日も 元気で 自分で出来ることに
精一杯 取り組んでいきたいものです。
第1691回 尊いご縁で
令和7年 6月26日~
いろいろの価値観や宗教がありますが、他力念仏の教えほど
むずかしく、理解しがたい教えはないだろうと、ある先生は
お話くださいました。
子どもの頃から、努力こそが大事で ひとに頼らず自立することを
教え込まれて育てられ 今にいたっています。
その私が、いま、お念仏をして 他力の教えに出会えたことを
不思議とも、大変なことだととも思ってはいませんが、
これほど大変で 有り難いことはないのだと お話いただきました。
お念仏して お浄土に往生すると聞くと、ほとんどの人は
自分の努力で その努力の結果として お浄土へ生まれることが
出来るのだと 思い込んでいることでしょう。
ところが、自分の努力で 生まれる浄土は 方便化土の浄土、
疑城胎宮といわれ、お浄土に生まれても 蓮の花に
つつまれて、あたかも母親の体内にあるように、五百年の間、
仏に会わず、法を聞くことの出来ない方便の浄土に生まれると
いうのです。
『ご和讃』の初めに「冠頭讃」という和讃が二首ありますが
その一首目に
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
(「註釈版聖典」五五五頁)
阿弥陀如来の名号を称えながら、信心をまことに得た人は
「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」、
「憶念の心」というのは、いつまでも憶えていて、忘れないという心です。
いつまでも憶えていて忘れない……、そういう心が常に続いていく。
そして、それがそのまま「仏恩報ずるおもひ」になっていくと。
二首目は
誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」
浄土真宗の信心は、疑蓋無雑、つまり少しの疑いもないもの。
それを疑うと言うことは、自力の念仏になってしまう。
御名とは名号、南無阿弥陀仏のこと。
弥陀の本願を疑いながら、少しでも功徳を積もうとする、自力の念仏者は、
たとえ往生したとしても、その浄土は化土である宮殿の中に、五百年留まり
仏になることは出来ないと、大無量寿経には説かれています。
出家も出来ない 修行も出来ないこの私のことを 心配して
阿弥陀さまが、先にご苦労いただいて、南無阿弥陀仏を口にして
生きているものは 一人も漏らさずお浄土へ生まれさせ 仏にすると
はたらき続けておられるという お釈迦さまの教えを 弥陀の本願を
そのまま疑いなく、報恩の南無阿弥陀仏の生活を送らせていただくのです。
親も祖父母も 一緒に南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
呼びかけていただいている、そのお陰で出会えたのだろうと味わい
この尊い有り難い ご縁をいただいたことを喜び、
報恩のお念仏の生活を送らせいただきたいものです。
第1690回
安心して堂々と生きる
令和7年 6月19日~
10年半に一度 当番が回ってくる佐賀組の巡番報恩講がこの秋、
10月1日から、私どもでお勤めしますので、いま準備を進めています。
佐賀組の新聞 「佐賀組報」に、当番寺院の紹介するコーナーがあり、
こんな文章を 今考えています。
父を病で亡くし、母(徳川家康のひ孫)は、叔父へ嫁ぎ、
母に代わり懸命に育ててくれた大伯母(小倉局)への感謝を
表し、鍋島藩二代藩主光茂が小倉山妙念寺を建立したと
「聞書・葉隠」にあります。
関ヶ原の戦いの後、新寺院建立禁止の法度を破り、他力念仏の
寺院を建立したのは、自力を頼む勇猛な武士から変革が
求められる中、念仏者で育ての親・小倉局の生き方のように、
報恩の生活を推奨する意図があったのかもしれません。
武士道を説く葉隠の後半、光茂の行動には、念仏者の
生き方に通ずる報恩の慈悲深い記述が随所に見られます。
そのお念仏は今も生き続いています。
婦人会手作りの記念品を準備しお待ちしています。
銀行やマンション等の中に、自然を緑を残し、安らぎの場をと。
字数に制限があり、意を尽くさない部分がありますが、
聞書といえば 蓮如上人御一代記聞書がありますが、
佐賀の葉隠という聞書は、光茂に仕えた山本常朝という家臣が
語ったものの記録です。
戦国時代の歴代藩主の伝承、記述からはじまり、平和になって
自分が経験したことを具体的に 語ったものですが、
武士道といわれるものは、浄土真宗の阿弥陀さまへ絶対的な信頼を、
阿弥陀さまに代わって、藩主への、お殿様への報恩の生活に
置き換えたものであると受け止めています。
お浄土は語られていませんが、自分がいのちを落としても、
子どもや孫は、藩主、仲間に守られるという安心感も、安心して、堂々と
死んでいける、後は大丈夫という、まるで仏教の教えを元にして
いるように感じられてなりません。
このことは、川上清吉という学者さんが半世紀前に気づき
書き残していただいています。
浄土真宗は 阿弥陀さまへの全幅の信頼、葉隠が説く武士道は
藩主への絶対的な信服、見返りを求めるのではなく、すでに
いただいているこの状況を受け入れ、報恩の生き方をすると
受け止めています。
戦国時代とは 若く元気で自分の力で努力出来ていた時代、そして
歳を重ねた今は 自分の力よりも、すでにいただいている現実を受け入れ
かみしめて感謝しながら生きる、お釈迦さまのお念仏の教え、
浄土真宗の教えが、武士道の下敷きになっているように思えてなりません。
第1689回 呼びかけ続ける
令和7年 6月12日~
朝出かける時「今日は 傘持っていって」そう言われると
こんなに青空なのに どうして傘が必要だろうかと 少し
疑問を持つこともあります。
しかし、帰る頃に 雨が降ってくると、傘の有り難さ
そして、傘を持っていくよう 声を掛けてくれた人に 感謝の気持ちが
わいてくるものです。
子どもを思って、天気予報をちゃんとチェックしてくれていた
親の思いのお陰です。
また、外出中に突然のにわか雨で 軒先に飛び込んだときには
雨宿りするその屋根の有り難さを感じつつも、雨が上がってくると
もうその有り難さは忘れています。
雨の時、傘のありがたさを感じていても、いったん家の中に
入ってしまうと、雨からずっと守り続けてくれている屋根の有り難さを
思うことはありません。
傘や 軒先の有り難さは感じても あまりにも大きなものに対しては
ほとんど気づかず 当たり前になって生きています。
友だちや仲間、先輩の小さな親切は感じていても 日常的な親の大きな
深い思いや 働かけには、なかなか気づかないものです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏は 「傘を持っていって」と
呼びかけてくれた親の呼びかけに似て、経験少なく ぼんやりとしている
私のことを心配して、先手で呼びかけてくださる 仏さまの呼びかけです。
世の中のことは何事も見て、知っていると思い込み、
正確に見る力、知る力がないことに気づいていないこの私へ、
はたらきかけ呼びかけて、注意を喚起していただいているのです。
生きていくことの意味や、このいのちの行き先を、人生の本当の意味など
気づくことも、考えることもなく、ぼんやりしている
私に、心配してくださる親心の仏さまの呼びかけです。
損だ得だ、勝った負けたと、小さなものの見方で判断し
一喜一憂しながら、生きているこの私に、周りの仲間や、親の思い、
仏さまの思いに気づき 感じ取り いま自分が出来ることを
精一杯やりなさいと南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と、たえず呼びかけて
いただいているのです。
必ず救う 大丈夫 今できることを 精一杯つとめなさい、
応援しているよとの 呼びかけを聞きながら、お念仏と一緒に
力の限り生きていきたいものです。
やがて仏となって、自分のためではなく すべての人を救うはたらきをする。
先だった先輩達は もう仏となって、この私へ 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏と 呼びかけ、見守り 応援し続けていただいているのです。
第1688回 言えば 良かった
令和7年 6月5日
七日七日の中陰のお勤めの時に お嬢さんが 仰いました。
「そのうち、そのうちと 思っていたのに あまりにも急なことで
言葉を交わす間も無く別れ、一言 言っておけば 良かったと 」
悔やまれます」と。
お母さんを若くして亡くし、お父さんに育てられたお嬢さんでしたが、
そのお父さんが突然に、息を引き取られ、お礼も別れの言葉を交わすことが
出来なかったことを残念に思う言葉なのでしょう。
若さも健康も親も 無くして、はじめてその有り難さに気づくものです。
若いときには その有り難さなど、まったく感じることはありません、
若さが むしろ悩みや苦しみの種だったりしますが、少し老いを
感じはじめる時、若いことの有り難さに 気付かされるものです。
健康も 病気になって その有り難さに気づくもの、
同じように、親が生きている間は 当たり前で、時にはやっかいな存在ですが
いざ亡くしてしまうと、はじめて、その存在の大きさ、有り難さに
気付くものです。
でも 気づいた時は、もう遅い、無くした後のことです。
親が元気な時に、生きて居る間に「本当にありがとう、迷惑かけたね」
と、一言 お礼をいって置けば 良かったと、悔やまれて
ならないものです。
私たちが、持っている科学的な知識、価値観では、
いのちが終われば、すべてが無くなってしまうというもの。
別れれば、もう永遠に会えなくなると 思っています。
しかし、お釈迦さまが説いていただている教え 仏教では
この世がすべてではなく、いのち終わっても 生まれて往く世界が
あると、あります。
自分の行いによって、その行き先は決まるといいますが、ほとんどの人は
多くの人を苦しませ、悩ませたその報いで、苦しみの世界 地獄へ
いくことになるといいます。
しかし、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と阿弥陀如来のはたらき、
「必ず救う お浄土へ生まれさせ 仏にする」との はたらきかけに
気付いた人は、一人残らず、お浄土へ生まれ、仏となって
お釈迦さまのように 人々を救う はたらきをするのだと、説かれています。
ですから、お寺にお参りになり、阿弥陀さまのお話をよく聞いて
いただいていた お父様は 間違いなくお浄土へ生まれ、仏さまとなって
今もう はたらき掛けていただいていることでしょう。
「心配いらない、父さんは お浄土に生まれて仏として 活躍しているよ。
おまえの頑張りもちゃんと見ているよ。 どうか
今 自分で出来る事を、精一杯頑張りなさい、応援しているよ」と。
そのはたらきかけを 感じ取るには 仏さまのお話を、仏さまの
はたらきを、お聴聞することで 少しずつ気付かされていくものです。
その仏さまのはたらきに、気付くことが出来たならば
お父さまとは、悲しい永遠の別れではなく、いつも一緒に
いていただく 有り難い存在であると感じられてくるものです。
そのことに、気付けば 有り難い人生に 気付かなければ 悲しく
悔しい、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、
取り返すことのできない、過去にこだわる、後悔の毎日となるものです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 に出会えば、
大切な方が、いまも一緒にいていただく、明るい未来が
喜びの毎日が、訪れてくるものです。
第1687回 因果応報 自業自得
令和7年 5月29日
新聞やテレビを見ていると 重大な事件や事故が起ると、
「原因を究明して、再発を防ぐ」という言葉がよく聞かれます。
原因は何か。すぐ原因を探します。問題が起こったのには、
必ずその原因があると考えてのことです。
自分自身でも、腰が痛くなったのは、お腹が痛くなった
原因は あれがいけなかったか 、
これがダメだったかと、
すぐ原因を考えます。
さまざまな出来事には、必ず原因があるというのが
仏教の基本です。 因果の道理ということ、
必ず原因があって 結果が出ている、出来事には その原因が必ずある。
これが仏教の 基本的 考え方です。
「自業自得」、自分の行いは 自分に返ってくる。
「因果応報」悪いことをすれば 必ず悪い結果が出る
善いことをすれば、いつかは良い結果がくる可能性が高い。
良いことも 悪いことも 自分の行いの結果である。
自業自得 これが仏教
体に良くないものを暴飲暴食していれば やがて
必ず体に悪い影響が出てきます。
自分で原因を作って自分で、それを受け取っているのです。
良いことも悪いことも 責任は 自分にある という考え方です。
仏教は 奇跡ということは言わず、必ず原因があって
結果が出ているという考え方、因果の道理の教えです。
それも、自分で作る原因ばかりではなく、
親や兄弟 祖父母が作った原因の結果が
私に来ていることも多く、それに気づく、今のこの状態は、
自分自身の力だけでは無く 周りの誰かの努力のお陰で 私に
良い結果が出ている そのお陰である。そのご恩であると。
恩とは その原因を知るということです。
報恩講の恩、原因の因の下に 心がついています。
恩 原因に気付く 自分が作った原因ばかりではなく、
親や兄弟、周りの人々が 私のために はたらきかけて
いただいた、そのことに 気づくこと 知ることを、
恩を知る 恩を感じると言うのです。
自分中心で 親や周りの人のことを 気づかなければ
何事も当たり前、誰の世話にもならず
自分ひとりで大きくなったと思う人生になります。
恩を知り 恩に気づくと 感謝の心が芽生えてくるものです。
気付くか 気付かないか、知るか知らないかでは
その人生は大きく 違ってくるものです。
浄土真宗という教えは そうした有り難いはたらきかけだけではなく
これから何が起ころうと、どんな困難に遭遇しようと、最終的には
必ずお浄土へ生まれさせ、仏にするという阿弥陀さまのはたらき、
このご恩に気づき その恩に感謝し、報恩の生活が、出来るようになる、
有り難い 喜び多い、最強の最上 究極の教えです。
感謝出来ればありがたく、気付かなければつまらない人生で
終わってしまうのです。
南無阿弥陀仏は そのご恩に気付かせ 感謝を表すことば、
自分で口にしていますが,仏さまのはたらきの言葉です。
第1686回 期待され 待たれている私
令和7年5月22日~
お釈迦さまが教えていただいたのは、
ありとあらゆる仏さまが、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と
誉め称えておられる阿弥陀如来という仏さまのことです。
この阿弥陀さまは、すべての人を一人残らず 救いたい、
必ず自分の国であるお浄土へ生まれさせて、仏にしたいと
はたらいておられる仏さまであると言われます。
自分の力で、努力することが出来る、優秀な人だけではなく
この世を生きることで精一杯で、将来のことなど 考える余裕もない、
普通の人たちに、一人残らず、生き甲斐を持たせたい。
この世では、なかなか喜びを持ち、堂々と生きていくことは
難しい者でも、お浄土へ生まれさせることで、すべての人に
究極の喜びを与えたいと、口に称える南無阿弥陀仏の名号を与えて
自分の国に生まれさせ仏にしたいというのが、阿弥陀如来の願いです。
未来が明るく、確実なものとなると、今から生き甲斐を
持って、活き活きと生活できるようになるもの。
この世では、希望通りにはいかずに、嘆き悲しんでいても、
未来が明るい、明日が確実だと、苦難の今を乗り越えることが
できるものです。
必ず仏となし すべての人のために全力ではたらく
万能の力を持つ仏にするというのです。
自分の為に努力して成果を求めようとするのではなく、
人々の幸せを願い はたらきづづける仏になれるのです。
必ず活躍出来る場所があり、自分は期待され待たれている、
それが、間違いないと知ることが出来れば、
今から、生き甲斐が、喜びがわいてくるものです。
入学試験の合格通知を受け取り、春に学校が始まるのを
待っているように、会社から合格通知をもらって、
入社式を待つような
新しい役職を、新しい責任者の内示を受けた後の様に
未来が明るく、今から期待と喜びがわいてくるものです。
私が期待され待たれている、活躍する場所が
機会があることを知れば、今から生き甲斐があるのです。
お浄土は、のんびりと遊んで生活する極楽ではないのです。
仏になるとは、阿弥陀如来と一緒になって、人々を救う
はたらきに邁進する、活躍する仏になるのです。
自分の為に生きるのではなく、すべての人を救うはたらきをする
仏さまになる、未来があるのです。
私は 期待されて、待たれているのです。
南無阿弥陀仏を口にする私は、仏さまになる合格通知を
もらって、お浄土へ生まれるのを待っているのです。
明日に夢があると、今日から 喜びがあるもの。
明日孫が帰ってくる、何をしてやろうかと、心を巡らすように
やがて仏になる、何ができるか、どう働こうかと
こころ踊る毎日なのです。
第1685回 グッドタイミング
令和7年5月15日~
「熟す」という言葉があります。
機が熟すとか、成熟するというように、
物事を始めるのに、ちょうどよい時期が来る、
最高のタイミング、つまり
「ちょうど良い時期や状況になること」です。
これは、柿や梨など、果物が十分に熟して、食べごろになることに
例えて、新しい仕事などを始めようとするとき、社会の状況や
会社や組織の準備が整ったときなどに、よく
使われる表現でしょう。
「潮時を迎える」などともいいますが
潮が満ちてきて、船出するには最も良い状態
満潮を迎えるなど、物事を始めるのにちょうど良い時を
グッドタイミング、
時が満ちる チャンスが到来する。
今でしょう。
反対の言葉は
「青い」「未熟」「熟していない」などでしょうが、
「青い」は、人間や野菜や果物にも使います。
「未熟」は、人に、「熟していない」は物や時に使います。
どんなに有り難い立派な教えがあっても、
受け入れる体制が整わないと、なかなか出会えないものです。
若くて健康で、努力することで、自分の思い取りに
ことを進めることができると思っている間は、なかなか
気づかず チャンスがないものです。
病気をしたり、大切な人を亡くしたりして、
初めて、気づくことが出来るものです。
難しく、つらく、どうにもならない問題は、私にとって
初めての経験ですが、親や先輩達は、すでに何度も経験し、
何度も乗り越えてきた問題なのです。
お念仏の教えは、そうした先輩達の経験、体験した
解決法を集約して、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
伝えていただいているのです。
必ず救う 心配いらない お浄土へ生まれさせ仏にする
それは、阿弥陀如来がすべての人を救うためには
この私が必要だから、一緒になって 人々を救うはたらきを
手伝って欲しい 仏になって、その力を充分に身に付けてほしいと
期待され、待たれていると言うことです。
老病死を感じるようになって その教えに出遇うタイミングが
機が熟してきたのです。
今がチャンスです。
南無阿弥陀仏の教えに出会えるには
一番いいタイミングです。 やっと機が熟してきたのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1684回
何が起ころうと 大丈夫
令和7年 5月8日~
すべての人の苦しみを取り除き、一人残らず必ず救い取ると
いう、大きなはたらきがあり、それが阿弥陀如来という仏であると、
お釈迦さまは説かれています。
ところが、多くの人は 自分は いま、悩み苦しみもなく、
問題は無いので救われる必要などはないと思いながら、
その教えに気づかずに、生活しています。
私たちの悩み苦しみの大きな原因となるものに、病気がありますが、
若く健康なときには、まったく関係なく、発熱したり、
痛みが出た時に はじめて 頼りにするのが 病院であり
お医者さんでしょう。
しかし、回復すると もう 忘れています。
ところで、近年は健康なうちから生活習慣に気を配り
病気の発症を防ぎ、一人ひとりが自分らしく、生きることに
つながるようにする、「予防医学」が、重要視されてきています。
病気になってから、急いで治療を施し、寿命を延ばすことが
目的だった医療から、病気を 未然に防ぎ、心身ともに
病気になりにくい体づくりをする医学へと、
方向が変わってきているようです。
医学と同じく仏教も、老病死の問題の解決を目的としています。
若く元気で、問題が少ない間は、まったく関係の無いものと
思われがちですが、人間誰もが 間違いなく年を取り、病気をして、
命を終えていかねばなりません。
突然、大切な人や、自分が、その老病死に出会った時、
慌てず悩まずに どのように対応すればよいのか。
老病死の問題が起こってからの、対応では遅く、
病気になる前から、老いを迎えるまえから、どう受け入れ
対応すればいいのかを、お釈迦さまは説いて
いただいたのだろうと思います。
私たちが持っている現代の価値観では、若く 元気で
あることが良いことで、年を取り病になることは
悪いこととの認識でいます。
この考え方では、刻々と、悪い方へ悪い方へと 向かっていき
最悪の状態で一生を終わることになります。
そうではなく、順調に年を重ね、順調に病気に出あい、
順調に、この一生を終わっていく、そう受け入ることの
出来る価値観をもてれば、不安も、心配も
恐れることもありません。
救うというのは、いかなる状態でも、それを受け入れ、
対応する能力を開発することを仏教では説かれており、
先輩達は、それを、ちゃんと伝え残していただいているのです。
やがて必ず来る老病死に、気づかずのんびりと生きて居る
この私に例え 老いても、病気になっても、この人生が
終わっても大丈夫、人間らしく堂々と生きていく道が
あることを、常に、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と呼びかけて
知らせてただいているのだと、味わいます。
心配いらない やれることをやりなさい 後は
まかせておきなさい。一番良い方向へと進んでいきますよと。
老病死を受け入れていく力を若いときから身に付けておけば、
大丈夫、大丈夫 そう教えていただいているのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は、何が起ころうと 思い通りに
なろうと成るまいと、順調順調 予定どおり 何の心配も要らないと
呼びかけ、教えていただいている、それを受け入れていく、
力を、身に付けることを、説き教えていただいているのです。
第1683回 よいいしょ 良い一生
令和7年 5月1日~
「よいしょ よいしょ」と かけ声をかけて 立ち上がる方があります。
腰や足が痛んで、なかなか体を動かすことができにくく、かけ声と
いっしょに、体を起こしている方が、身近には沢山いらっしゃいます。
「なさけないですね。声でも出さないと、動けません」と、
ちょっと照れながら、悲しそうな表情をなさる方もあります。
「よいしょではなく よいいっしょ、よいいっしょではないですか」と
言いますと、なかなか意味が通じないようです。
「よいいっしょ、良い一生、良い人生 だったではありませんか。
足や腰が痛くなるまでも長生きさせてもらって、本当に
良い一生、素晴らしい一生だったと思いますね。」と言うと。
「そんなことはありませんよ。本当に、辛いこと、苦しいこと、
悲しいことばかりでした。長生きすると、良いことは 何
一つもありませんよ、辛い、いやなことばかりでした」と、嘆き、
反発される方もあります。
中には、そうですね。言われてみれば、本当に有り難く
もっともっと喜んで、良いことばかりですよね。と、素直にうなづいて
今日まで、こうして生かされていたことは、本当に素晴らしい人生
良い一生であったといっても、いいのでしょうねと。」
言われる方もあります。
月忌参りなどで、一緒にお勤めをし、
阿弥陀さまのお話を聞いていただいた方は、
「そうでした そうでした、ほんとうに有り難いことでした、
いろいろなことがあったものの、皆さんのお陰で、多くの
方々のお陰で今日まで、生かされたのですね。
すばらしい一生でした」と。喜んで下さる方が多いものです。
どうせ、かけ声をかけるのならば、
よいっしょ、よいしょではなく、よいいっしょう 良い一生、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と、声に出させてもらうことで、
当たり前で 平凡な、つまらない人生だと思っていたのに、
なんと有り難く、もったいなく、もっと喜ばせて
いただいてもいい、有り難い 尊い人生であったと
味わっていきたいものです。
よいしょではなく、良い一生、良い一生、有り難い
素晴らしい一生だったと、声に出す度に
この人生を、こころから喜ばせて
いただきたいものです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1682回 実を結ぶために
令和7年 4月24日~
春 花が一斉に咲きほこっています。よく見ると小鳥や虫たちが
その花の周りで大活躍しています。
美しく咲く花だけに目を奪われていますが、私たちの食卓に出る、
多くの果物や野菜も、実は こうした虫たちのお陰で実を結ぶことが
出来ているのだといいます。
とこで、イチゴやトマトなどはビニールハウスで栽培されることが
多くなり、自然から隔離したハウスの中では、虫のはたらきを
人間が変わってやる大変なご苦労だろうと思っていましたら、
ビニールハウスの中には、ミツバチを、それも何千匹という
ミツバチの巣箱を置くのだそうです。
専門の養蜂家に頼むのではなく、農家が自身で買い求めて、受粉させ
美味しいイチゴやトマトが収穫出来ているのだそうです。
科学が進んでも人間の力、機械の力だけでは無理で、多くの
自然の力にたすけられていることを、知りました。
収穫までの話でなく、
収穫した後も、麹菌などの助けを借りて、味噌・醤油・酢、お酒
ワイン、漬物、パンなど、発酵させることで
味に変化をもたらし、おいしくいただいているものが多くあります。
私たち人間は、食事をすることで、外からエネルギーを入れ
肉体を維持していますが、こころ、精神面でも
外からのはたらきかけで、大きく変られていくものです。
お念仏の教えに出会えたのも、祖父母や両親、友人など、
周りの人々の はたらきかけのお陰で、物の見方、考え方が、
大きく変えられたのではないでしょうか。
ご縁に遇い、お聴聞を繰り返すことで、より一層、喜び多く、
不安がすくなり、堂々と生きていく力を受け取れるように
なったのです。
イチゴやトマトが、しっかりと実を結ぶように、この私もこの人生に
大きな花をさかせ、実を結ばせていただきたいものです。
若く元気で、自由に行動出来る時だけではなく、老病死が近づき
自分自身を自由にコントロールできなくなっても、
南無阿弥陀仏の力で生きていく智慧を受け取った人は、苦しみ悩む
ばかりではなく、感謝、感動、喜びと、生き甲斐を
手に入れることが出来るのです。
悩み苦しみ怒りの人生から、南無阿弥陀仏の力、はたらきかけによって、
新しい未来を、素晴らしい毎日を、受け取ることが出来、
人生は大きく変化し、平凡な人生が 有り難い、尊い
素晴らしい人生であると味わえるようになったのです。
第1681回 知恩報徳
令和7年 4月17日~
ご門徒のお宅にお参りすると 普段は 蝋燭と花、お香の三具足、
年忌法要などの場合、蝋燭 お花が一対の五具足で、お荘厳されています。
五具足の場合、蝋燭と蝋燭の間は、僅か 30㎝ほどのしか
離れていませんが、一つの箱から取り出した同じ大きさの蝋燭なのに
お勤めが終わるころになると、長く残っているものと
短くなったもの 大きな差がつくことがあります。
短くなったのは、より明るく燃え上がったためだけではなく
空気の流れが微妙に違っているのか、蝋がとけ出し流れ落ちている
場合が多いものです。
これを見て、人間も同じ家に、兄弟として生まれても、
あるいは同じ時代に同じ地域で誕生し成長しても、ほんのちょっと違う
環境にいるだけで、大きな違いが出てしまう不思議を、
その蝋燭を通して味わっています。
先輩達は こうしたお荘厳を通して、私たちに何を伝え、
何を感じ取らせようとしているのでしょうか。
お香も花も蝋燭も、仏さまの智慧と慈悲を表すものといわれますが、
もっと長生きし、自由に、思い通り、別の場所で活躍したいと
思っていたのかもしれません。
でも、自分の置かれたその場で、不満を言うこともなく、火が付けられ、
だまって、一生を終わっています。
ところが、私たちは、すく損だ得だ、他の人がやればいい
自分はイヤだと、我が儘ばかり言って生活していますが、
花も蝋燭も、お香もだまって自分の勤めを果たし、
我が身を焼き、その命を投げ出し、一生を終わっている。
お前の周りには多くの人々が、黙々と自分の役割を果たして、
精一杯生きていることを、はっきりと気づかせ、感じさせ、
何ごとも当たり前、無感動で過ごすのではなく、感謝することの
出来る力を身に付けてほしいと、こうしたお荘厳を受け継いで
きたのかもしれません。
知恩報徳という言葉があります。
感じ取る力、そして感謝する力が身につくと、この人生は、
とれも有り難くなんと豊かなものであるかに気づくことが出来ると、
伝え、教えようとしているのでしょう。
時々ではなく、毎朝 毎晩 お仏壇の前に座り、お荘厳を
目にすることで、大切な子や孫を目覚めさせよう、気づかせよう
育てようとして、代々受け継いできたものだろうと味わっています。
第1680回 相続していますか
令和7年 4月10日~
ある年配の住職さんから こんな話を聞きました。
境内にある墓地を掃除していながら、思ったというのです。
この大きなお墓、こんなに立派なお墓なのに、お子さんや
お孫さんたちは、ほとんどお参りになりません。
お墓を建立したおじいちゃんは、このお墓を通して
何を伝えたかったのか、何を残したかったのか
残念ながら、今は まだ伝わっていないようです。
そして、住職さんは、自分の力不足を、つくづくと
感じ、仏さまになられた方々に申し訳ないと思われたと。
折角、こんな立派なお墓をたて、そればかりではなく、
お寺を維持していくために沢山の御寄進をされ
次の世代へ残そうとされたのに、それが伝えたい子どもや孫へ
伝わっていない。住職の自分の責任だと思うと嘆かれました。
子どもの頃には、気づくことはできませんでしたが、
親になって、親というものは 自分のことよりも
子どもや孫たちのことを第一に考えるものです。
家を建てるときも、そこに住むであろう人々、そして、
訪ねてくる人々のことを考えて設計し建設するものです。
農家の人は、次の世代の子孫のことを思って、
荒らさないよう収穫量が増えるようにと守り育てていくものでしょう。
商売をされる方は、お客さんを大事にして、末永く取引が
続くように工夫努力されて、次の世代へ残したいと頑張って
おられることと思います。
それは、自分のことよりも、次の世代のことを考えてのこと、
境内にあるお墓もそうした先祖、先輩たちの思いがこもった
ものだろうと思います。
仏教の教えは、お釈迦様の教えですが、それに加えて
親たちの願いがこもったものです。
やがて誰にでも間違いなく、訪れる老病死の苦しみ、悲しみ
つらさを何とか乗り越えて、喜び多く生き甲斐をもって生き抜いてほしい、
そうした願い仏教の教えを通して伝えようとされたのだと思います。
お金や物などの遺産は、目に見えてはっきりして有り難いものですが、
目には見えないものの、親たちが残してくれたこの教えを
多くの時間や、費用をかけて守ってこられたその無形の遺産をどうか
しっかりと、受け取っていただきたいと思います。
文化財にも有形の文化財と、無形の文化財とがあります。
お寺やお墓やお仏壇などは、形があるものですが、その意味
はたらき効果、親の願いをはっきりと確認いただけなければ
親の思いがムダになってしまいます。
是非、親たちの願いを 有形だけではなく、無形の財産を
相続していただきたいものです。

妙念寺