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サンド

 

見て・聞いて

     

仏教は、さまざまな説き方があります。
南無阿弥陀仏の教えは、その中の一つです。

仏説無量寿経に説かれる阿弥陀如来の本願の
はたらきで、すぐれた功徳を、すべての衆生に
与え、「南無阿弥陀仏」一つで、救われることを、
教えてくださったのが親鸞聖人です。


親鸞聖人を、宗祖と仰ぐ、浄土真宗の本願寺派。
そこに所属する九州・佐賀の一寺院で
製作しているのがこのホームページです。


「南無阿弥陀仏」の味わいを、電話で
お話ししています。毎週木曜日に、
内容を変更しています。


法話原稿をこのページに掲載して
います。ここで、「見て、聞いて」 ください。

メールマガジン始めました 「こんな話を聞きました」。
    
         

0952
 -24-1800

(佐賀局  ニシ  ホンガンと
記憶してください。)

24はニシ、西。 本願は、18願。
そこで、24-1800は、西本願




第1372回 ご先祖をしのんで 
  
 令和元年 5月 16日~

 月日の経つのは早いもので、法名釈(  )、(  )さんが
お亡くなりになられて、すでに( )年がたちました。
故人生前のいろいろな思い出の中に、この日をお迎えのことと存じます。


 浄土真宗の法事、年忌法要の意味は、ご先祖にお経をささげることではなく、
亡き人の忌日を縁として、仏さまのお徳をたたえ、お経に説かれているみ教えを
聞かせていただくことにあります。

年忌法要という形で、ご先祖が与えてくださったこの聞法の機会を、
だにすることのないように、仏法の意味に気づき、お念仏申させて
いただくことにご法事の意義があり、ご先祖に御恩報謝させていただける
道なのだと思います。


 今の私たちの家庭生活は多忙をきわめ、家族もそれぞれ、別々に
住んでいることが多くなりました。
したがって、仏法をつぎの世代に伝えることは、たいへんむつかしく
なってきました。

こうして、亡き人のご法事をご縁として皆さまがお集まりになり、
仏さまのみ教えを聞かせていただくことは、たいへん有意義な機会で
あるといわなければなりません。


 この機会に、私たちは決してひとりではなく、多くの人びととの
つながりの中で生かされていること。多くの親せきのかたがたの
いに包まれて生かされていること。
そして何よりも、お念仏を共にしていることを確かめていただきたいのです。

そしてこのお念仏は、ご先祖から、このご家庭にお伝えいただい
たものなのです。

 ともに手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とおとなえすることによって、
ご先祖がたとはもとより、ともすれば、ばらばらになりがちな家族の心が、
一つになれるのではないでしょうか。

単なる偶然によって、この場所に居合わせているのではありません。
「お念仏を共にする」というのは、いま申し上げたような意味なのです。


 家族はただ血のつながりというだけではなく、お念仏によって、
未来永劫につながっていくのだということを確かめる機会を、
年忌法要という形で、ご先祖がつくってくださっているのです。

何がご先祖のご恩にこたえる道なのか、ということに思いをめぐらしながら、
ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                   朗読法話集 第一集より






第1371回 次の世代に引き継いでいく

令和 元年 5月9日~

 前に生れんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪へ、
 連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。・・・ 教行信証

 最後の部分に引用

上の文章は、親鸞聖人の「教行信証」の終わりの部分に引用されたもので、
道綽禅師の「安楽集」の文章です。

教行信証は、親鸞聖人が、浄土真宗のみ教えを後の人たちに伝えるために、
いのちをかけて書かれた書物です。
五十二歳の頃書き始め、七十五歳の頃に一応の完成をみたものの、生涯、
推敲を続けておられます。

「前に生まれるものは後のものを導き、後に生まれるものは前のもののあとを尋ね、
 果てしなく繋がって、途切れることのないようにしたい」


親鸞聖人は、この言葉をどのようなお気持ちで引用されたのでしょう。

  親鸞聖人は、二十九歳の時、法然聖人のもとで、「善人も悪人もすべての人
平等に救われていくお念仏の教え」に出遇われました。
この教えは、自らの力をたよりに修行して、この世でさとりを得ようとする
自力の教えとは、まったく違うものでした。

自力の教えは。煩悩だらけのものにとって、歩むことのできない厳しい道でした。
それに対して、法然聖人の伝えてくださった、お念仏ひとつで救われる他力の教えは、
どんな人にも開かれた道でした。

ここでいうお念仏は、たくさん称えてその見返りとして救いが与えられるという
自力のお念仏ではありません。
称えているままが、阿弥陀さまがはたらいてくださっている姿であるという
他力のお念仏です。


 南無阿弥陀仏と称えることは、南無阿弥陀仏と聞くことです。
それは、教えを聞くことと一緒であると言っていいでしょう。


 自己中心の私に

私たちは、自己中心の心から離れられず、周りの人に対して、
「いい人・悪い人」と分け隔てをして、人を傷つけながら生きています。
また、人生に対して、「こんなことをしても意味がない」とか、
思うようにならないことがあると「人生、終わりだ」とか、
勝手な判断をして落ち込んだりしています。


 お念仏のみ教えは、そんな私たちに、すべての人が光り輝き、
すべての人生が光り輝くような世界に出遇わせてくれます。
そして、その世界が、私の人生を根底から支えてくれるのです。


 このお念仏のみ教えを、次の世代へと引き継いでいくお手伝いが、
少しでもできればいいと思っています。

      いのちの栞 毎日を仏法という鏡に 本願寺出版社 小池秀章師より 







第1370回 逃げている私を

令和 元年 5月2日~

  摂取不捨   『教行信証』

常にはたらきの中

「阿弥陀さまは、すべての人を必ず救うと願い、はたらき続けてくださっています」
この言葉がスッと受け容れられたら、それだけでいいのですが、それが難し人は、
まず「真実には、真実でないものを真実に導くはたらきがある」と

受け取ってみてください。私たちは、常にそのような真実のはたらきの中にいるのです。
にもかかわらず、真実から目を背け、真実に反する生き方をしているのです。


 親鸞聖人の書かれた「浄土和讃」の「弥陀経讃」に、

 十方微塵世界の  念仏の衆生をみそなはし

  摂取してすてざれば  阿弥陀となづけたてまつる

という和讃があります。
「十方の数限りない世界にいる、お念仏する人々をご覧になって、
摂収して捨てないので、阿弥陀とお呼び申し上げる」という意味です。


 自分こそ正しい?

 この和讃を紹介した時、「それでは、お念仏していない人は救われないのですか?」
という質問を受けたことがあります。


 親鸞聖人は、「摂取」という言葉の左側に註釈を加えておられます(左訓)。
それによると「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを
追はへとるなり、摂はをさめとる、取は迎へとる」とあります。

「ものの逃ぐるを追はへとるなり」とは、「逃げている人を追いかけて救いとる」
という意味で、「逃げている」とは、仏さまに背を向け、仏さまの教えに
反する生き方をしている人のことです。


自分こそ正しいと思い込み、自分を中心に、「いい・悪い」「好き・嫌い」と
物事を勝手に判断し、虚構の世界を創り上げ、その中で迷い傷つけ合っている人の
ことなのです。
それはまさに、この私たちのことなのです。


 阿弥陀さまのはたらきは、仏さまに近づく人だけに向けられているのではありません。
むしろ仏さまに背をむけ、自分勝手に生きている私たちにこそ、向けられるのです。


 「摂収不捨-仏さまは、仏さまから逃げている私を、必ず救い取ってくださいます」

 この言葉を頂くと、本当に申し訳なく、頭が下がります。
阿弥陀さまの心を忘れず、お念仏の人生を歩みたいものです。

          いのちの栞 毎日を仏法という鏡に 本願寺出版社 小池秀章師より








第1369回 いつも見守っていてくださる

 平成31年 4月 25日~

  大悲無倦        [正信偈]

「悲しまれるよ」

 多くの宗教は「いい事をしたら救われるけど、悪い事をしたら救われない」
と説きます。
しかし、浄土真宗では「いい事をした人も悪い事をした人も、平等に救われる」と
説きます。普通に考えると納得がいきません。


 ところで、皆さんは今までに、「そんな悪いことをしていたら、罰が当たるよ」
と言われたことはありませんか。
多分、多くの人が言われた経験があるでしょう。
ところが、私は今までに。親から「そんな悪いことをしていたら、罰が当たるよ」と
言われたことは。一度もありません。

とは言っても、小さい頃から、ずっといい子だったわけではありません。
悪い事もしました。
そんな時は親から、「そんな悪い事をしていたら、仏さまが悲しまれるよ」と
言われました。


 浄土真宗では、善悪平等の救いを説きますが、それは決して悪い事をしても
いいと言っているのではありません。
悪い事をしたら仏(阿弥陀)さまは、悲しまれるのです。
当然、いい事をしたら喜ばれるのです。



  善人も悪人も

 私は、母親から叱られた時は、あまり反省しなかったけれど、母親を悲しませて
しまった時は、深く反省したという、子どもの時の経験があります、

強く叱って正さないといけないこともありますが、悲しみの心に出あうこと
によって、人生が正されることもあるのです。

 阿弥陀さまはいつも私たちのことを心配して見守っていてくださいます。
人も悪人も平等に慈しんでくださいます。
さらに言えば、それは、私がいい事をしている時も、悪い事をしている時も、
どんな状態にあろうとも、見捨てず見守ってくださっているということなのです。


 『正信偈』に、『大悲無倦常照我(大悲、倦(ものう)きこと無くして、
常に我を照らしたもう」とあります。

阿弥陀さまの大いなる慈悲のはたらきは、飽きたり疲れたりすることなく、常に
私を照らし続けてくださっているのです。


 私は幼い頃からそのことを、「仏さまはいつも見守っていてくださいます」という言葉で
聞かせていただいてきました。

「大悲無倦・・・仏さまはいつも見守っていてくださいます・・・ 」
そんなあたたかい世界に包まれた人生を歩ませていただきましょう。

          いのちの栞 毎日を仏法という鏡に 本願寺出版社 小池秀章師より







第1368回 自己中心の心

 平成31年 4月18日~

  無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
   愛憎違順することは
   高峰岳山にことならず   「正像末和讃」

仏教の「迷い」

皆さんは、「迷う」という言葉を聞くと、どのようなことをイメージしますか。
私は、「道に迷う」や「今日の昼食は何を食べよう」というような「迷い」が浮かびます。


しかし、仏教で言う「迷い」とはそのようなことを言うのではなく、
「正しく物事を見ることができていない状態」のことを言います。
「正しく」とは「ありのままに」ということです。


 たとえば人を見た場合、多くの場合、「いい人」「悪い人」
「どちらでもない人」の三種類のどれかに当てはめて見ています。
ところが本当は、「いい人」がいるのではなく、「私が『いい人』だと思っている人」 
がいるだけなのです。


あるカレンダーの法語に、

「憎い人」など一人もいない 憎いと思う私がいるだけ  
 という言葉や

「いい人」「悪い人」私の都合でいい悪い

ということばがありました。胸に突き刺さるような言葉です。


 都合の「いい人」「悪い人」

私たちは、自分にとって都合のいい人を「いい人」と言い、愛し貪り求め(貧欲)
自分にとって都合の悪い人を「悪い人」と言い、怒り憎む(瞋恚)、
このように自己中心の心から離れられず、正しく物事を見ることができていない愚かさ(愚痴・無明)に
振り回されて生きているのです。

そのことを親鸞聖人は『正像末和讃』の中で

 無明煩悩しげくして
 塵数のごとく遍満す
 愛憎違順することは
 高峰岳山にことならず

 とお示しくださっています。

 無明煩悩という、すべてのものをありのままに見ることができず。
私を煩わし悩ます心(自己中心の心)がたくさんあって、塵の数ほど満ち満ちている。
そして、私の心に順ずるものは愛し、心に違うものは憎む(愛憎違順)、
そのような心が高い峰や山のように心の中に居座っている、というのです。

自己中心の心から離れられない私たちですが、「人間だから仕方がない」と

開き直るのではなく、それが深い悲しみとなった時、新しい世界が開けてくるのです。
そんな世界を求めて生きていきたいものです。

      いのちの栞 毎日を仏法という鏡に 本願寺出版社 小池秀章師より






第1367回 毎日を仏法という鏡に

 平成31年4月11日~ 

 経教はこれを喩ふるに鏡のごとし
  しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す
                    善導大師「観経疏」

二つの「見る

 「今日、鏡を見ましたか?」と聞かれたら、多くの人は、「はい、見ました」
と答えるでしょう。
続いて「どうでしたか?」と聞かれたら何と答えますか。


「どうでしたか?」と言われても困ってしまいますが、「別に、普通でした」
か、「少し髪の毛に寝癖がついていました」などと答えるでしょう。
まさか「家の鏡は四角かったです」と答える人はいないでしょう。
でも、それも鏡を見ていることに間違いはないのです。


 「鏡を見る」と「桜を見る」では、同じ「見る」でもその意味が違います。
「桜を見る」と言った場合は「桜」を見ますが、「鏡を見る」と言った場合は、
普通、「鏡」ではなく「鏡に映った自分」を見ることを意昧します。

 実は。仏法を聞くということは、この「鏡を見る」ということに近いのです。
仏法を聞いた時、仏さまの教えは、こんな教えなのかと、客観的に教えの内容
理解しただけでは、本当に仏法を聞いたとは言えないのです。
仏法を聞けば聞くほど、自分の姿が見えてくる。
そんな聞き方をしないと本当に聞いたとは 言えないのです。



 映し出される自分

善導大師は「観経疏」の中で、「お経に説かれた仏さまの教え(仏法)は、
鏡のようなものです。いくども読み、いくどもその心を尋ねるならば、智慧を
生み出します」と言われています。

 仏法という鏡に映し出された自分の姿とはどのような姿でしょう。
真実に目覚めた者の教えによって映し出された自分は、自己中心の心から離れられず、

煩悩に振り回されている愚かな自分に違いありません。
しかし、自分の愚かさが知らされたということは、真実のあり方・自分の
目指すべき方向が知らされたということでもあるのです。


 つまり、仏法を聞くということは、自らの愚かさが知らされると同時に、
らの目指すべき方向が知らされるということなのです。

なお、「いくども読み、いくどもその心を尋ねるならば、智慧を生み出します」
というお言葉は、自分が智慧を体得するというより、仏さまの智慧が届いて、
真実に導いてくださると受け取った方がいいでしょう。


 毎日、仏法という鏡の前に立ちたいものです。

           本願寺出版社発行 いのちの栞 小池秀章師より






第1366回 努力の質が問題

 平成31年 4月4日~

 本願寺派の勧学だった梯實圓和上のことばです。

先哲は、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪の機の中に味わう」

といわれています。
信心は自分の心の中にさがすのではない。
「必ず救う」とおおせられる本願招喚のみことばを聞き、
救いのお手元のたしかさを仰ぐことです。

反対に如来の慈悲は、如来のがわに仰ぐのではなく、
わが身の煩悩罪障の中に味わうのだといわれているのです。

   (「聖典セミナー 歎異鈔」、235頁、本願寺出版社)

         ◆

先日ある講演で、「なかなかお念仏が出ないのですが、
どうしたものでしょうか」という質問をいただきました。
「どしたものでしょうか」といわれても困ります。
私が代わりに称えてあげるわけにはいきません。

「称えない自分が浅ましいと気づいたら、すぐにお念仏することです」。
これしかないのです。

人間というのは、自分の心に任せていたら段々段々
怠ける方に行くものです。

「自分の心に任せないで、仏様に任せろ」と言われるの
ですから、仏様の仰せに任せてその仰せの通りに
お念仏しようと勤めていくことです。

「勤めたら自力になるではないか」と言いますが、そんなものは
自力とは言いません。
一生懸命念仏して「これが仏様のおはからいだった」と気がついたら、
それを他力というのです。

一生懸命念仏して「俺がやった」と自慢しているのを
自力というのです。

自力と他力というのは努力するかしないかという所で見てはいけません。
努力の質の問題なのです。怠け者の自分が、謹み深く努力し励んでいく。

そして、こんなに励む私ではなかったのに、はげまして

いただくといのは有り難いなというふうにいただければ、
それを他力というのです。

(「せいてん誌上講演 正信偈②、『季刊せいてん』103号『本願寺出版社』

          ◆

「総序」に「聞思して遅慮することなかれ」というお言葉があります。
私が思ったら思っただけ間違うぞ、だからお前の考えを
横に置いておけということです。

人間の考えを捨てる訳にはいかないから、ちょっと横に置いておけ。
教えを聞く時は自分の考えを横に置いて、仰せの言葉をスウーと
受け入れる。
すると仰せの言葉が主体、主人公になる。

(「せいてん誌上講演 正信偈④「季刊せいてん」105号『本願寺出版社)








第1365回 私の側 仏さまの側

 平成31年 3月28日~

 深川倫雄(本願寺派勧学)のことばです。

「あるような気がせん」
お前さんの気がしようがすまいが、弥陀は極楽を設けて
待っていて下さるちゅうたら「はあ、そうでございますか」と
聞いておけばいいんです。  (「仏力を談ず」、304頁、永田文昌堂)

         ◆

 ご開山さまは はじめ、「ありがたい阿弥陀さまのお心にかなう
人間になって救われよう」となさっておったんです。
ところが仲々、阿弥陀さまのお心にかなうお同行になられん
というのが悩みでした。
そして法然上人を尋ねると、そりゃまるっきり違います。
我々が阿弥陀さまに合わせるのじゃなくて、阿弥陀さまが
私に合わせて下さったのであります。 (「仏力を談ず」、313頁)

         ◆

 信心とご報謝は理屈が違う。
信心からご報謝がはじまります。
それで大切なのは信心ですから「信心をもて本とせられ候。」
そうすると報謝を末とする。
ですからいつも信心のお話があるわけです、信心は何の話か
というと如来さまのお話。
ご報謝は私どもの努力。私どもの努力をご信心のところで
ごっちゃに考えるのを自力という。   (「仏力を談ず」332頁)

         ◆

 私共の側を捨てるのがご法義、他力のこ法義なんだから、
心掛けて私共の側から言わんようにするのがよいですよ。
「ちょっとお尋ねしますが」と尋ねられたとします。
「あなたのお領解をいうてみなさい」
「はい、私は間違いない親さまじゃといただいております」と言うと、
そりゃあ私の側の言いかた。

「はい、必ず救うの親様でございます」と言うたら仏様の側。
「あんたのお領解を言うてみなさいと言うたじゃありませんか」
「はい、必ず救うの親様であります」
「あんたのお領解を尋ねているのです」
「私が言うておるのだから、それでいいじゃないですか。」   
あのねえ、自分を語らなくても自分を言うことはできるんです。

                   (「仏力を談ず」、337頁)






第1364回 いつもが臨終法話

 平成31年 3月21日~

 稲城選恵・本願寺派勧学のことばに こんなところが あります。

 浄土真宗の肝は、いつでも臨終法話にあります。
蓮如さんは「仏法には明日といふことはあるまじき」といわれる。
真宗の法話は臨終の法話だから、いまが終いでも間にあっている。
それが平生業成ということなんです。

 今晩か明日の朝まで いのちがないという人から、
「法話を聞かせてくれ」といって応えられないようなら、
僧侶は袈裟をとらないといけない。
明日にもいのちがない、それでも間に合うくらい充分に
間にあっているのが浄土真宗、それが平生業成です。

 浄土真宗では平生業成を明らかにしないといけない。
平生といったら「いま」。
いつでも「いま」ということ。
明日になったら平生にならない。
平生は昨日でもない「いま」です。

 ですから「教行信証」には、「総序」の終いに「遇ひがたくして
いま遇ふことを得たり」、三願転入の二十願から十八願の転入の
ところに「いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せリ」と
「いま」が二ヶ所でてくる。

 仏法は「いま」を説いている。
死んでからではない。
「いま」といったらわしが居るところ。わしがどこに居るか。
わしが居るところが助かる場所。本願成就だから、
助かるが先に届いて居るんです。

浄土真宗では 臨終法話ができないと僧侶の資格はない。

その臨終とは「いま」ですから。「仏法には明日といふことはあるまじき」
いま助かる法ですからね。


 (インタビュー「先學に聞く」、本願寺教学伝道研究所
     ニューズレター「あなかしこ」第三号)より







第1363回 先哲のことば

平成31年3月14日~

 「季刊せいてん」に お念仏を喜ばれた先輩方のことばが
掲載されていました。
そのお一人の 甲斐和里子さん(京都女子学園創設者)の文章がありました。

『新修 草かご』(百華苑出版)の中に

  コリヤ阿弥陀、助けたいなら助けさせう
   罪はわたさぬ悦びの種

「これは讃岐の庄松とかいう妙好人の法悦です」と何十年以前かに、
亡弟瑞義(足利瑞義勧学・龍谷大学第五代学長)が、きかしてくれた時
「何とキバツな口つきで表現せられたことかな」と感嘆したことである。

其の後又やってきて

  われこそと立ち上ったる弥陀のけんまく

「これは何人かの言葉か知らぬが、有難うて、そして面白いですがなア」と
きかしてくれた。
私は泣き笑いをしつつ口ずさんだ。
同じく弟から聞かされた故か、右の両句を同時に口ずさんでは悦ばして
いただくのがクセであった。

ところがどういうわけか、三四年以来から勿体ない「コリャ」とは
何だか強いて奇言を弄する所謂ホコリ同行めいたいやみを感ずる、
というような感じがしだして、トンと口にせぬことになった。
が其の反対に「弥陀のけんまく」の方はいよいよ老いて、いよいよ
面白くありがたく、ともすれば口ずさんでお念仏している。

 浄円君(足利浄円師・和里子師の甥)は
「年がよるとヒガミ心が強くなる」というておられる。
私も年は充分よっていることゆえ、ヒガミ心ネタミ心が強うなったかげんで、
切角の妙好人の法悦に対しこんな感じを持ち出しだのかも知れん、
それなら恥ぢ入ったことである。瑞義が今猶世に在らば教えを
乞うのであるが、今春七回忌を勤めた。

  (「新修 草かご」、一四五~一四六頁、百華苑)







第1362回 光顔巍々

平成31年 3月7日~

こんな文章にであいました。
『大乗』に蓮照寺の松岡満優住職のことばです。

 わが子の話をしている時のお母さんの顔は 輝いています。
保育園の園長として 保護者と話をするたびに思います。
それまで違う話をしていた時の顔とうってかわって、わが子の話に
なった途端、パツと顔が明るくなって目が輝きます。
その日イヤなことがあったとしても、つらいことがあったとしても、
わが子を思った瞬間、いい顔になります。

 カメラを向けられ、「笑って」とよく言われますが、笑顔になれるコツは、
大好きな人を思い浮かべることだそうです。
私自身も「笑って」と言われると、わが子や園児のことを思い浮かべます。
大好きな人を思うということは、慈しむということにもなるのでしょう。

 子どもたちにも同じことが言えます。
皆、お母さんが大好きです。「世界一のお母さん」と誇らしく語ります。
照らし照らされ、慈しみ合う親子の姿こそ、輝いています。
その姿に、親は子の皮膚の内側のかゆみまで感じ取ることができるのでは
いかとさえ思ってしまいます。

 「讃仏偈」みなさんも日頃から親しんでいらっしゃる偈文です。
そのはじめに「光顔巍々」とあります。
法蔵菩薩(阿弥陀如来)が、師の世自在王仏のお顔をご覧になり、
「お姿が光り輝いています」と、そのお姿とお徳を讃えられるのです。
そして法蔵菩薩ご自身も、そのようになりたいと、一切の衆生を
救わんがための願いを誓いとしてお立てになるのです。

 その時、世自在王仏が輝いていたのはもちろん、法蔵菩薩もまた
光り輝いていたことでしょう。
衆生が救われるなら、どんなこともいとわないと誓われたそのお姿は、
世自在王仏とともに光を放っていたと思います。

その救いの対象が、「私が一番かわいい。私さえよければいい」と
思っているこの私だと言われるのですから、その慈悲の深さは
凡夫のはからいを超越しています。

 いま阿弥陀さまは、私たちの苦しみ悲しみに常に寄り添い続けて
くださっています。どんな人生であっても、あなたの人生は
光り輝いています、と。

                       大乗 20193月号より






第1361回 年忌法要

 平成31年 2月28日~

 核家族化が進み、ひとり暮らしが増えつつある今日このごろです。
私たちが多くの「いのち」のつながりの中で生きていることを、実感する場が
少なくなりました。

そのことからいっても、亡き人をご縁に、親類縁者が集まって営む年忌法要の
もつ意義は、大きいといえましょう。


 その一つは、亡き人を偲ぶ中から連綿と受け継かれている、深い「いのら」の
流れに触れること、すなわち「いのち」の縦のつながりが実感できることです。


二つめに、縁ある者が集うことによって、その大いなる「いのち」に包まれて、
共に生きていること、すなわち、「いのち」の横のつながりが味わえることでしょう。


 年忌のおつとめは、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌二十五回忌、
三十三回忌、五十回忌、以後五十年ごとに行うのが一般的ですが、二十三回忌と
二十七回忌など、「三」「七」のつく年忌をつとめる場合もあります。
一周忌を除いて、かぞえ年で計算し、たとえば十三回忌は丸十二年後になります。

  こうした年忌の年は、どういう根拠でできあがったものか、かならずしも
明らかでありませんし、一挙に今のような年忌のかたちが成立したわけではなさそうです。
しかし、故人を身近に偲び、慕う心が、年忌の習慣を定着させたことだけは確かでしょう。

 ただ、私たち浄土真宗の法(みのり)を聞く者にとって、年忌法要は、亡き人の
霊を慰め、追善回向するためのものではなく、故人を偲びつつ、静かに人生を思い、
み教えを聴聞する法座なのです。

 そして、阿弥陀さまのかぎりない光といのちの中に、亡き人も私も抱かれている
ことに思いをいたし、阿弥陀さまによって、かならず救われていくことをよろこび、
感謝するご縁として営ませていただくのです。

   では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                            朗読法話集 第一集より






第1360回 命日は「いのちの日」

平成31年2月21日~

故人が亡くなられた日を命日(めいにち)といいます。
毎月めぐってくる死亡日と、同じ日をさすのが普通です。


 また、同じ月の同じ日を、とくに祥月命日(しょうつきめいにち)といいます。
「祥」の字は、今は「さいわい」とか「めでたい」という意味の「吉祥」の「祥」
(示偏に羊)と書く字を使っていますが、これは儒教から出た言葉のようです。


 また、「忌」とは「いむ」とか「つつしむ」という意味の言葉です。
浄土真宗では「つつしみ」の意味で用い、この日は身をつつしんで

あるいは祖師のお徳をしのび、あるいは亡き人を偲ぶ日ということです。

 ところで、この命日という言葉は、もとは「命を捨てる」と書い
「捨命日(しゃめいにち)」とか、「命が過ぎる」と書いて「命過日(みょうかにち)
とかいかれていたそうです。
それが「捨てる」という字や「過ぎる」という字が省略されて、「命」という
字だけが残ったという説があります。

しかし文字通りでは「いのちの日」です。

 考えてみますと、私たちは日々、「いのち」の大切さをかみしめ、
生きていることのよろこびを感じながら生活しているでしょうか。
ついつい「生きているのがあたりまえ」、「いのちのあるのは当然」
と思い込んでいるのではないでしょうか。

 そんな私たちに、「いつまでもあるいのちではないぞ」、「はかり知れない
多くのいのちに支えられて、今生きているんだよ」、「如来さまの御いのちを思え」と、
私に「いのち」のありがたさ、ほんとうの姿を気づかせるために、亡き人が
設けてくださったご縁が「いのちの日」、すなわち「命日」なのだと思います。

 大切な肉親のかたの死を、ただ悲しむばかりではなく、毎月の命日を通して、
如来さまに「いのち」の本来のありようを聞いて、味わいたいものです。


 では最後に、ご一緒にお念仏巾しましょう。南無阿弥陀仏……。
                                
                                 朗読法話集 第一集より







第1359回 法名と戒名

 平成31年 2月14日~

浄土真宗では 法名といい、戒名とはいわないことを、はじめに
申しあげておきましょう。

さて、この二つはどちらも、仏教徒としての名前のことで、
キリスト教でいえば クリスチャンネームに相当します。


このうち、戒名というのは、悪行をやめて善行をつみ、心を浄化して、
さとりを得て仏になろうとする人が、仏道修行の基礎であり、規律である
「戒」(戒律)をまもることを誓う、受戒の時にいただく名前のことです。


 これに対し浄土真宗は、阿弥陀如来のご本願を信じて、仏になせていただく
教えですので、受戒をしません。
それで戒名ではなく、法名と申します。
法名とは、仏法に帰依し、仏法をよりどころとして生きる、仏弟子としての名前です。


 浄土真宗本願寺派では、僧侶なら得度式で、また門信徒は帰敬式、いわゆる
「おかみそり」を受けることによって、仏弟子となったしるしとして、
ご門主からいただきます。この法名は通常、二文字の漢字であらわされ、
そのうえにかからず「釈」の字がつきます。
これは、お釈迦さまの一族にならせていただいたという意味です。


 生前、おかみそりを受ける機会がないまま亡くなった人には、葬儀をとり行う
住職が、ご門主に変わって「おかみそり」を行い、法名をつけることになりますが、
本来の意味から考えても、やはり今、生きている間に、おかみそりをうけ、
法名をいただいておきたいものです。

 なお、院号というのは、法名の上につけられる一種の称号で、もともとは
寺院の名前が、そこに住む僧侶の、呼び名となっていたものです。
現在では、宗門の護持発展につくしたかたに、生前・死後を問わず、
本願寺から贈られています。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                             朗読法話集 第一集より    







第1358回 チューリップの花 〔いのちの輝き

 平成31年 2月7日~

 童謡で「チューリップ」という歌がありますね。
「咲いた、咲いた、チューリップの花が……」という、あの歌です。
「ならんだ、ならんだ、赤、白、黄色。どの花みてもきれいだな」と続きます。


 とくにめずらしいことをいっているのではありません。
ただ、赤や白や黄色に咲いた、チューリップの花がきれいだといっているのですが、
よく味わってみると、そこには生き生きと輝く、チューリップの「いのち」が感じられますね。


 赤いチューリップは赤いままで精いっぱい輝き、白は白でけんめいに輝いています。
黄色の花も黄色のすばらしさを、花いっぱいにあらわしています。

どの色の花がすぐれていて、どの色の花がおとっているというのではありません。
それぞれの花が、それぞれのもち味を生かして、精いっぱい輝かせているのです。
この「チューリップ」の童謡は、「いのち」のすばらしさをうたっています。


 そしてこのチューリップの花よりも、もっともっと美しい、いのち輝く花が
満ちあふれているのが、仏さまの国、お浄土です。


 お仏壇に、お花をお供えするのは、このお浄土の色とりどりの花を思っての
ことなのです。きれいに咲いたお浄土の花の一つひとつには、仏さまの願いが
込められているのですよ。


 仏さまの願いは どういう願いなのでしょう。
それはね、「顔や形、性格は みんな違っていても、一人ひとりがそれぞれの
「いのち」を精いっぱい、輝かせてくれよ。
人と違っていることで 悲しんだり、淋しがったり、くじけてはいけないよ。
たとえ、くじけそうになっても、私がちゃんと ついているから、安心して
精いっぱい、元気をだして生きてくださいよ」という願いです。


 チューリップの花と同じように、みなさん一人ひとり、お念仏を称えながら、
赤・白・黄色と、輝くように生きてくださいね。

では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏・・・・・

                               朗読法話集 第一集より








第1357回 人生と念仏

平成31年 1月31日~

 浄土真宗で最も大切な経典である『仏説無量寿経』には、
「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る」

(註釈版聖典56頁)と、人間の孤独のありさまが説かれています。

また、財産があればあったで、それが苦しみのたねとなり、
なければないで、また苦しみにつながるように、人生はつねに、苦しみを

ともなうものであると述べられています。

このようなことが説かれるのは、孤独で苦悩する私たち一入ひとりのうえに、
共に悲しんでくださる仏さまの願いがかけられていることを、教えるためでした。


 阿弥陀さまの願いは、「南無阿弥陀仏」という名号となって、
を呼びさましつづけていてくださいます。
ですから、どんな苦しいときでも、孤独の淋しさの中にあっても、
この「南無阿弥陀仏」の六字の名号が私を支え、導き、私の人生を力強く、
歩ませてくださるのです。


 以前ドイツ語の教師として、岡山大学の教壇に立たれた池山栄吉先生は、
親鸞聖人のみ教えを深くよろこばれ、多く人のびとに影響を与えられたかたです。
この池山先生が、重い病をわずらわれ、臨終近くのときに


  何も残るものはない 何も残るものはない
  ただ念仏だけが残ってくれる
  ただ念仏だけが残ってくれる
  えらいこったよ 有り難いこったよ

と語られたそうです。

 どのようなときでも、「南無阿弥陀仏」のいわれを聞かせていただき、
「南無阿弥陀仏」をとなえさせていただき、それをとおして

如来さまの親心にふれていくことは、人生において、ほんとうに
強い依りどころを持つことなのです、

 阿弥陀如来さまの救いのよびかけを、なかなか素直に聞くことの
できない私ではありますが、せっかくこの世に生を受けた身です。
如来さまの大きな慈しみのこころにふれ、お念仏の深い みこころを、
聞かせていただきましょう。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

               朗読法話集 第一集より







第1356回
 悪を転じて徳とする

平成31年 1月24日~

「困った時の神だのみ」という諺があります。
そして多くの人びとは、困難な問題にぶつかったときに、神や仏にすがって、
をなくしてもらうのが、宗教であると考えています。
ですから人びとは、霊験あらたかな神さま、仏さまを求めて祈願をし、
ご祈祷をしてもらいにいきます。


 しかし、人間は誰もが、生きる、老いる、病気になる、死ぬという、
人生の根本の問題をさけることはできません。
老いない人はいないし、死を避けることは誰にもできません。
どんなに神さまにお願いし、おすがりしても、一時的な気休めには
なるかも知れませんが、根本的には何の解決にもなりません。

では、いったい私たちは、「生、老、病、死」という、人生の
本問題に直面したとき、どうすればよいのでしょうか。
親鸞聖人はこのことについて、「名号は、悪を転換して徳にする
智慧のはたらき」をもつと、お教えくださいました。

私たちは、生身の体です。どんな災難に見舞われるか知れません。

病気をわずらったり、大ケガをすることもあるでしょうし、
死と向きあわねばならないときが必ずきます。
そのとき、その苦難に耐える力と、のりこえていくい智慧を与えて
くださるのが、お念仏のみ教えです。


 親鸞聖人は若いころに、念仏弾圧によって流罪になるという
苦難にあわれました。
また晩年には、お子さまや、奥さまと別れ別れに暮さなければなら
ないというような、悲しいことや淋しいことにしばしばおあいになりました。
しかし、どのようなときでも、お念仏のみ教えに導かれて、みごとに
悲しみを克服し、力強く生きていかれました。


 悪が徳に転じられるというのは、お念仏をとおして与えられる
さまの智慧と慈悲が、私のかかえている、苦しみや悲しみを
縁として、かえって私を人の痛みのわかる暖かい心と、どんな
苦難にも堪えられる力強さをもった人間に、育ててくださるということです。


では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……、
                     
                  朗読法話集 第一集より






第1355回 慚愧と歓喜

 平成31年 1月17日~

 日ごろから私たちは、「南無阿弥陀仏」と、お念仏をとなえさせて
いただいております。では、お念仏をとなえるとは、どういう意味
あるのでしょうか。


 他のご宗旨では、たとえば「百万遍念仏」などといわれますように、
数多くとなえるほど功徳があると、回数を問題にされるところもありますが、
浄土真宗では、念仏の数が問題なのではありません。


 お念仏をとなえさせていただくことは、お念仏を聞かせて
いただいているのです。
私のような煩悩具足の凡夫を救うために、如来さまが与えてくださった
本願の名号ですから、名号を称えますと、そこには、「罪はいかほど
重くても必ずたすける」と仰せられる、仏さまの大悲のご本願が
聞こえてくるのです。

そして仏さまの慈愛の中に、生かされている自分であることに、
気づかせていただくわけですが、同時にまた、仏さまの教えに
照らされますと、私の愚かな姿が見えてきます。

 平気でウソをいうし、人をどなりつけたり、ねたんでみたり、
欲張りなことを考えたり、とにかく、罪深く愚かな私であることが、
しみじみと知らされます。


 妙好人の浅原才市さん(島根県温泉津町)は。「あさましい」と
「ありがたい」という言葉を、いつも口にしておられたそうです。
「あさましい」とは、我欲にまみれた私であるという、深い反省から
出た言葉です。
また、「ありがたい」というのは、こんな「あさましい」私を救うと
仰せくださるとはなあ、という感謝の思いをあらわされたものです。

 この「あさましい」と「ありがたい」が、お念仏を聞き、お念仏
申す生活の中でひとつになるのです。
この「あさましい」私を、あさましいままで、阿弥陀さまはお救いくださる、
なんと「ありがたい」ことかとよろこぶと同時に、だからこそ、
このみ仏の御恩に報いるためにも、懸命に生きなければならないのです。


      では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう南無阿弥陀仏………

                               朗読法話集 第一集より





第1354回 念仏の生活

 平成31年 1月10日~

 お念仏をとなえるということは、お念仏を聞かせていただくことです。
お念仏を聞かせていただくというのは、実は「南無阿弥陀仏」という
み名にこめられている、如来さまの本願のみ教えによびさまされて、
如来さまの智慧と慈悲こそ、私の人生のまことの依りどころである
ということに、気づかせていただくことです。

そしてそれを基として、ほんとうの自分の姿を知らされ、正しい方向に
かれていくことが、「お念仏を申す生活」だといえましよう。

 お念仏をとなえたら、願いごとがかなったり、お金がもうかるという
のではありません。
自分本位にしか生きられない、罪深い私でありましたと慚愧しつつ、
少しでも如来さまのみこころにそいたいとつとめる生活が、お念仏を
とおして開かれるのです。


 自分本位の心をもった愚かな私どもが、共に手をとって、生きるには
どうしたらいいのか、お互いが心と心を通わせて生きるには、どういう
心がけが必要であるかということも、教えを聞き、お念仏申す中から、
知らせていただくのです。


 お念仏さえ称えておれば、どんな悪いことをしてもいいというような
考え方を邪見といいます。
私自身が、いかに罪深い人間であるかということを知らされることによって、
さらに悪を犯さないように、できるかぎり身をつつしみ、互いにいたわりあい
ながら生きようと努めるようになります。

それによってお互いに、さらに充実した日々をおくらせていただけるように
なるのです。


 願いごとがかなったり。病気が治ったりすることを宣伝する宗教が多い中で、
お念仏というまことの仏の道を、心豊かに生きぬかれた親鸞聖人のみ教えを、
間違いなく聞かせていただき、私どもの人生の指針とさせていただかなければ
なりません。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                        朗読法話集 第一集より







第1353回 南無阿弥陀仏のおいわれ

 平成31年 1月3日~

 蓮如上人は『御文章』のなかで、信心を得るにはどうしたらよいか、
ということについて、つぎのようにおっしやっています。


 信心を得るということは、阿弥陀如来さまがお誓い遊ばされた、
第十八願のおこころを聞きうけさせていただくことですが、その第十八願の
おこころは、南無阿弥陀仏という六字のみ名のうえにあらわされているから、
南無阿弥陀仏のいわれを心得たらよろしいといって、くわしく説明されています。


 南無阿弥陀仏とは、インドの言葉の音を写したものですが、
南無とは、帰命と翻訳されているように、如来さまの勅命(仰せ)に

帰順する(したがう)ということで、仰せにしたがい、おまかせするという
信心をあらわしています。そのように、仰せにしたがい、まかせることを、
「たのむ」ともいいますから、南無とは、阿弥陀如来さまを
「たのむ」ことであるともいわれています。


 つぎに阿弥陀仏とは、また無量光仏とも無量寿仏ともいわれますように、
はかり知れない智慧の光と、限りない「いのち」をもって。

すべてのものを救いたもう如来さまという意味の言葉です。蓮如上人は、
それを要約して、「おさめ、たすけ、すくう」というおこころをあらわす
み名であるといわれました。

要するに「阿弥陀仏」とは、阿弥陀如来さまに依りかかり、たのみ、まかせるものを、
この世においては護りつづけ、いのちが終われば、必ずお浄土へ救いとつて
くださるという「摂取不捨」のことわりをあらわしています.


 こうして、南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏という言葉の方からいえば
「われをたのめ、必ず救う」という本願の仰せであり.
南無という言葉からいえば、それを疑いをまじえずに聞きうけている私ども

の「必ずお救いにあずかると阿弥陀仏をたのむ」信心をあらわしています.

このように「たのめ、たすける」という南無阿弥陀仏を聞けば、
「おたすけをたのむ」信心となってくださることを.
「信心を如来より与へたまふ」と仰せられたのです。


 では ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……

                   朗読法話集 第一集より








第1352回 信心正因のおすすめ

 平成30年12月27日~

 親鸞聖人のみ教えの一番大切な点は、どのような罪深いものも、

阿弥陀如来さまのご本願を信ずれば、即座にお救いにあずかるとい
信心正因のいわれを、明らかにしてくださったことです。


 本願を信ずるということは、阿弥陀如来さまが「わたしをたのみ、
わたしの名を称えなさい、そなたがこの世に生きているかぎりは護りつづけ、
いのちが終われば浄土に迎えとって、清らかなさとりの身にしてあげましょう」
と誓われたみ言葉を、疑いなく聞きいれて、阿弥陀如来さまのおはからいに
おまかせすることをいうのです。

 そのことを親鸞聖人は「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」
『一念多念証文』・註釈版聖典(678頁)といわれています。

 また聖人は信心を、日本語で「たのむ」といいあらわしておられます。
信心には、信頼とか信憑という熟語がありますように・うそ・いつわりのない
言葉に対して、「よりかかり」「よりたのみ」「まかせる」という意味が
あるからです。

「たのむ」というのは、「たより」にし、「まかせる」ということです。
今日では「たのむ」を、「請い願う」という意味で使うことがありますが、
親鸞聖人や蓮如上人のころは、「お願いする」という意味で「たのむ」という

言葉を使われたことはありません。必ず「力としてよりかかり、まかせる」
という意味で使われていました。


 そこで阿弥陀如米さまの本願に「われをたのめ、必ず救う」と仰せられて
いるのは、そなたの罪も、さわりも、生も、死も、すべて私にまかせなさい、
必ず救ってあげますと仰せられているのです.

 そのみ言葉のままに、如来さまにおまかせするとき、即座にお救いにあずかるわけで、
親鸞聖人はそのことを「信心の定まるとき往生また定まるなり」『親鸞聖人御消息』・
註釈版聖典735頁 と仰せられたのです。

 このように、信心一つでお救いにあずかることを信心正因といい、そのうえで
み名を称えているのは、「おたすけくださってありがとうございます」と。
お礼を申しあげていることですから、これを仏恩報謝の念仏と仰せられたのです。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                  朗読法話集 第一集より







第1351回
 「聞く」ということ

 平成30年 12月20日~

 仕事ひと筋に、何十年も歩みつづけ、立派な業績を残した人々がおられます。
たとえば、「人間国宝」と呼ばれる人たちです。

こうした、一芸にひいでた人たちは、こぞって「多くの人びとの支えがあったればこそ、
なしえたことだ」と、語っておられます。


さらに、その仕事を、ひと筋に歩みつづけることは、その“仕事に聞きつづけていく”
ことだともいわれます。

「仕事に聞く」というのはおかしな表現ですが、こういうことです。

 たとえば、陶芸の道ひと筋に、生きぬかれたある方は、自分の窯に合った土を求めて、
土をさがす中で、土は生きてていると実感したとおっしゃいます。
また、農業ひと筋の人は、稲は生きていると語っておられます。
そして、山へ田へ、土の「声」稲の「声」を聞きに出かけるのですと、
おっしゃっていました。


 私が力をつくす中で、それぞれの道をきわめていくと、それまで「私がしてやった」
という自負心は消え、私に呼びかけてくる、いろいろな「いのちの声」を、お聞かせ
いただいたからこそ、今の私があるのだという、感謝の日々の中で、さらに
新しい境地に入って、仕事をされるというのです。
「聞く」という世界は、「いのちの声」に、「呼びさまされる世界」でもあるのです。

浄土真宗における「聞法」、つまり、阿弥陀如来の法(みのり)を聞くのも同じことです。
お寺などでお説教を聞いても、初めのうちはうわの空でしょう。
しかし、何度も何度も聞かせていただいているうちに、柿の実が、お日さまに照らされて
すこしずつ赤く熟していくように、仏さまのお言葉を、素直に受けいれられるように
ってきます。


 初めは難しく、抵抗を感じていた私が、その一言一言に、今までとは違った響を
感じるようになってきます。
ひたすらお聞かせにあずかるなかで、新しい境地が開けてくるのが仏法なのです。


 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                        朗読法話集 第一集より






第1350回 私たちのちかい

 平成30年12月13日~

  浄土真宗の本願寺派では、平成26年に第25代専如門主さまが法統を継承され、
平成28101日、伝灯奉告法要の初日に、専如ご門主はご親教「念仏者の生き方」を
お示しくださいました。

このご親教はその題名にある通り、私たち念仏者が浄土真宗のみ教えに出遇う、
阿弥陀如来の救いにあずかることによって、それまでの私たちの生き方が
どのように変えられ、この現実世界でどのように生きていくようになるかを
示された大切なご教示です。


そして、この秋、この「念仏者の生き方」の肝要を『私たちのちかい』として
次の四つにまとめていただきました。


私たちのちかい

一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
  穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
  微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように

一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
  しなやかな心と振る舞いを心がけます
  心安らかな仏さまのように

一、自分だけを大事にすることなく
  人と喜びや悲しみを分かち合います
  慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように

一、生かされていることに気づき
  日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
  人びとの救いに尽くす仏さまのように

 この「私たちのちかい」は、特に若い人の宗教離れが盛んに言われて
おります今日、中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や
浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で
唱和していただきたいと思っております。そして、先人の方々が大切に
受け継いでこられた浄土真宗のみ教えを、これからも広く伝えていく
ことが後に続く私たちの使命であることを心に刻み、お念仏申す道を
歩んでまいりましょう。
              本願寺新報2018(平成30)年 121日号掲載







第1349回 「相続メモ」 の手引き

 平成30年12月6日~

断捨離やエンディングノート、散骨などが話題となり、自分一代で
すべてを終わらせようとする風潮が蔓延しています。

生物は本来、経験したことを次へ伝えていくことで、進化してきました。
特に、人間は、言葉や文字を使って、多くの情報や経験を、次の世代に
伝え残すことで、様々な苦難を乗り越え、豊かな人生を享受してきました。
宗教もその大きな要素のひとつです。

特に浄土真宗は、阿弥陀如来の浄土を説き、お念仏の人々が、この浄土に
生まれ仏となり、自分たち子孫を導いておられることを、
そして自分もまた、やがては、浄土に生まれ仏となり、次の世代のために
はたらくことを信じて、自分一代ですべて完結するのではなく、未来を
意識して生きていくことの豊かさ、喜び、重要さを伝え残してきました。

 ところが現代は、「子どもに迷惑をかけたくない」との理由から、
自分だけで終結して、前の世代から受け継いできた貴重な教えを、
次の世代へと伝承することの重要さを忘れているように見受けます。

毎回毎回、同じ失敗を繰り返すのではなく、前の世代の経験を土台にして

その上に経験を積み重ねていくことこそ、充実した人生を受け取れる
可能性は大きいものです。
そういう意味から、自分が受け継いだものを、どのように伝承していくのか

子や孫へ 何をどう残していくのかが、今問われていると思います。

そこで、次の世代へ相続すべきもの、伝承すべきことを、「相続・伝承メモ」
として書き残すことが必要ではないかと思えます。
エンディングノートではなく、相続のノートを書いてみてはいかがでしょうか。
次の世代を意識して、自分の言葉で、書き残すことが、お念仏の繁盛に
つながるのではないかと、味わいます。








お念仏のこころ

平成30年11月29日~

 赤ちゃんを抱いているお母さんの姿をみていますと、母も子も、
ほんとうにしあわせそうですね、お母さんは、抱いた子に、絶えず

語りかけながら、お乳をのませています。
赤ちゃんもお母さんの胸に抱かれて、安らかにお乳をのんでいます。

 このような愛情にはぐくまれて、人は身も心も育っていくのです。

だから、うれしいにつけ、悲しいにつけ、両親や私を育ててくれた人のこと、
中でも母の愛情をなつかしく想い出すのです。

ときには「お母さん」と、母の名を呼びながら、人生の苦難を越えて
いくこともあります。

このような愛情に はぐくまれてきたことのありがたさを、ほんとうに
知るのは、自分が親となり、親としての苦労を味かったときでしょう。
私の親も、このように苦労をして、私を育ててくれたのかと、
そのご恩のありがたさに、自然と頭が下がる思いがします。


 若いときには、自分の力で大きくなった、自分で道をきりひらいてきたと
思いがちです。

しかし年をかさねるにつれて、そうじゃなかった、両親をはじめ、多くの
人びとのおかげであったと、気づいてまいります。


 おもえば私は、ものごころもつかぬうちから、「お母さんだよ、お母さんだよ」
という、やさしい言葉の中で、育ってきました。

ですから、なにかことがあればつい、「お母さん!」と母の名を呼びます。
自分で気づくより先に、「お母さん」と思わず声にします。 

七高僧の一人、源信僧都は、仏さまをおがむときには、

「この上もなく大きなお慈悲のお母さん(極大慈悲母)」といわれたそうです。
仏さまは、私が気づくより前から、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「そなたのお母さんだよ、お母さんだよ」と声をかけ、護りつづけて
いてくださるのです。

私どもは、そうした仏さまのお育てをうけて、子供が、「お母さん」と呼ぶように、
お念仏する身にしていただきました。


 親鸞聖人も「浄土和讃」のなかに、
「子の母を おもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 
  現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず」(註釈版聖典577頁)と、
お念仏のここらをうたわれています。


母の名を呼べば、母の面影が心によみがえるように、念仏する人の心は
如来さまの慈愛で満たされていきます。

では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。


                              朗読法話集 第一集より     








第1347回 恵まれた念仏

 平成30年11月22日~

 親鸞聖人は、二十九歳のとき、それまで二十年間修行された比叡山を降りて、
京都の六角堂に百ヶ日のあいだこもられました。
して、夢のお告げを得て、東山吉水の草庵を訪ね、法然聖人にであい、
まことの道をおたずねになったといわれています。

それは、「お釈迦さまは、たくさんのみ教えを説かれましたが、私のような

愚かなものは、どの教えを依りどころとすれば、よいのでしょうか」と、
自分自身の「いのち」の依りどころをたずねる問いかけでした。


それに対する法然聖人のお答えは、「善人も悪人も、平等に救ってくださる
阿弥陀如来さまの本願を信じて、み仏の仰せのままに念仏申すことです」
という一言だったといわれています。


 お念仏は、たしかに私の口から流れでています。
しかし、それは決して私の煩悩のこころから出たものではありません。
「お願いだから私の名をとなえておくれ、必ず浄土へ生まれさせる」と
誓われた阿弥陀さまの、お慈悲の本願から出てきたものです。


 ちょうど水道の蛇口から出る水は、遠く水源地から水道管をつたつて
とどけられるように、お念仏は阿弥陀さまの願い(本願)から出て、
お釈迦さまや祖師がたのみ教えをとおして、私のところまで

とどいてくださった、み仏の願いの結晶なのです。
それゆえ本願の念仏というのです。


 浄土真宗の中で、とくに信仰の深い人を「妙好人」と呼びますが、
その妙好人の一人、石見(今の島根県)の善太郎さんは、お寺の梵鐘がなると、
田畑で仕事をしていても「はいはい、これからお参りさせていただきます」と
返事をされたそうです。

善太郎さんにとっては、見るもの聞くもの、一つひとつのできごとが、
み仏や親鸞聖人からの、お念仏のおすすめであったのです。
思えば阿弥陀さまをはじめ、あらゆる仏さまや祖師がたにとりまかれ、
お念仏のおすすめのまん中に、今、私は、あるのです。


 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。
      
                     朗読法話集 第一集より





第1346回 のんのさま

 平成30年 11月15日~

巡番報恩講の稚児行列の時に、「のんのさま」という曲に合わせて
お祖母ちゃんやお母さんと一緒に子供たちは歩きました。
この歌には サブタイトルがあり、「地球のこどもの子守歌」とあります。

ノンノンノンの のんのさま
この子の生命 まもりゃんせ
この子の明日 まもりゃんせ
この子の未来 まもりゃんせ

ノンノンノンの のんのさま
この子の友だち  まもりゃんせ
この子の地球 まもりゃんせ
この子の夢を まもりゃんせ

七つの海に 橋架けて
世界をつなごう 手をつなごう
橋は橋でも 虹の橋
世界の子どもが あそぶ橋


 昭和58年に永六輔さんのラジオ番組で公募して、東村美穂さんの詞が
選ばれ、中村八大さんが作曲したもので、第二回子守歌大賞を受賞した曲ということです。
「この子の○○まもりゃんせ」という言葉の繰り返しですが、母親の深く暖かい
愛情が感じられる素晴らしい曲です。  

ノンノンノンの のんのさま  この子の生命 まもりゃんせ
この子の明日 まもりゃんせ  この子の未来 まもりゃんせ

ノンノンノンの のんのさま  この子の友だち  まもりゃんせ
この子の地球 まもりゃんせ   この子の夢を まもりゃんせ

七つの海に 橋架けて  世界をつなごう 手をつなごう
橋は橋でも 虹の橋    世界の子どもが あそぶ橋


 次の仏教婦人会の例会で みんなで歌おうと思います。 もう子どもさんは 大きくなっていますが、
お孫さんを思いながら歌っていただきたいものです。






第1345回 帰すべきところ

 平成30年 11月8日~

 よく人生は、旅であるといわれます。
しかし旅であるとするなら、最後に帰り着くところが、明らかになっていなければなりません。
そうでなければ、行くあてのない、「流浪の旅」になるでしょう。


 では人生の旅で、最後に帰り着くところは、どこでしょうか。
このことがはっきりし、約束されていないと、どんなに楽しみの多い日々であっても、
それはむなしい砂上の楼閣であり、不安の中で、人生の旅を終えることになるでしょう。


 浄土真宗の教えは、人生のほんとうの目的を示し、帰するべきところを教えています、
私たちの帰るべきところ、それが阿弥陀如来のお浄土です。
私どもは、決して浄土から出てきたわけではありません。
しかし、親のいるところが子どもの帰るべきところですから、祖師がたも、
浄土を「家郷」とか「本家」とよんでなつかしんでおられます。
私たちを、必ずお浄土に生まれさせようという、阿弥陀如来さまの
おはからいによって、お浄土を帰るべき「家郷」とよばせていただけるのは、
本当にありがたいことです。

 親鸞聖人は、先立っていったお弟子を偲んで、「かねて申していたとおり、
必ず浄土でお会いします」と記されています。
お浄土は、同じ念仏を申すものが、もう一度、会いまみえることのできる世界です。
『阿弥陀経』には「倶会一処」――ともにひとところで会うことができると、
説かれています。


 お念仏のみ教えにより、限りない「いのち」の世界が帰すべき家郷として
約束されていること、そして、お浄土でふたたび、先立った人びとと会わせて
いただくことができることを、しみじみと味わせていただきましょう。

では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                                朗読法話集 第一集より






第1344回 つなぐ 受け継ぐ

 平成30年 11月1日~

 物が豊かになって 数多くの品物が家の中に散在しています。
必要な物だけ残して、あとは捨てようという断捨離が話題になっています。

 ところで、今年は 明治維新から150年たったということで、いろいろな行事が行われ
日曜大河ドラマも 西郷隆盛の物語です。
江戸時代、武士たちは 自分の藩を守り残すために奮闘し、自分の子孫のために
俸禄や名誉を守るために腹をも切り、地主は山に植林し、田畑を肥やすことを続け、
次の時代へと大事に伝え残してきました。


しかし、幕藩体制をなくし、新しい日本を作ろうと、それまでのものを
すべて否定し、投げ捨てて、大きな変革が断行され、明治を迎えました。

 同じように、第二次世界大戦の後も、軍国主義を排除して、民主主義の
新しい時代を作ろうと、大胆な変革が行われました。
その変革の時代に育ってきた世代は、前の時代をすべて否定する教育を受け、
捨てることが進歩であり、受け継ぐこと護ること、伝えていくことの
大切さを、知らされることなく育ってきました。

前の時代のもの、古くなった物は すべて捨てて、新たに作り出すことこそ
進歩であると、教えられ信じこんだままでいます。

 すべてを再スタートさせることより、前の時代を受け継ぎ、それを土台に
変革することこそ、進歩も早いことをあまり知らずにいます。
種を蒔き育てるよりも、挿し木や接ぎ木した方が、早く成長するものがある
ことに気づいていません。
前の時代を全否定して、ゼロからスタートするのではなく、取捨選択して継ぎ足し
育てていくことこそ、文化的な発展だと考えます。

 そして、人間が必ず受けとらねばならない、四苦八苦を力強く乗り越え、
人生をより豊かに味わうことが出来る教えがあることも、否定するのではなく、
その神髄を受け継ぎ、味わいを深めていくことこそ、
喜びの豊かな人生を得ることであり、人類の進歩へとつながるものと思います。

 捨てる、否定するだけではなく、味わい、受け継ぎ、それを土台に再構築する。
時代が変わっても、変わることのない人間の本質を知らせ、
苦悩を乗り切り、豊かな人生を送ることの出来る、お念仏の教えがあることを是非
確認したいものです。

 捨てるだけではなく、受け継ぐこと、伝えること、そこから新しい芽が出ることこそ
大事なことではないか、自分だけではなく、子どもや孫へ残せるもっとも
大切な贈り物だと味わいます。

 お念仏の教えは、先輩たちが残してくださった人間を人間らしく、喜び多く
生きていける仏さまの智慧が説かれた宝もの、捨ててしまうのではなく、
自分自身で味わって、次の時代へと確実につなげ 残していくことこそが、
親の世代の大きな責任ではないでしょうか。








第1343回 み仏は共に悲しみたもう

 平成30年 10月25日~

 さびしいとき、悲しいとき、阿弥陀さまの前にすわって、「南無阿弥陀仏」と
名前を呼びましょう。
きっと、この悲しみをわかってくださいます。


 うれしいとき、そのことをご報告いたしましょう。きっと「よかったね」と、
よろこんでくださいます。


 阿弥陀さまはいっでも、あなたとご一緒です。
手を合わせて、「南無阿弥陀仏」と、仏さまのお名前を呼ぶとき、あなたの
そばにきて、語りかけてくださいます。淋しいあなたのそばにいてくださいます。
悲しいときはなぐさめ、ともに心を痛めてくださっています。

 このような、阿弥陀さまのおこころを、「同体の慈悲」といいます。
人々の悲しみをわがこととして悲しみ、人々のよろこびをともによろこんで
くださるからです。
だれも、私の悲しみをわかってくれないときでも、阿弥陀さまだけは、わかって
くださいます。


 こうしたおこころから、阿弥陀さまは、迷いの中にいる私たちを、
かならず浄土に救いとると誓われたのでした。
お念仏は、この誓いによって、私たちを救いとるため、完成してくださった
救いの道です。
ですからお念仏は、阿弥陀さまの大慈悲心の結晶であるといえましょう。
こうした「同体の慈悲」を仰いで念仏する人は、み仏の限りないお慈悲の光に
つつまれているのです。


この世を生きぬくということは、決してたやすいことではありません。
しかし、阿弥陀さまの光につつまれ、お護りいただいていると、お聞かせに
あずかるならば、深い安らぎと明るさをもって生きぬくことができるでしょう。


 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                            朗読法話集 第一集より






第1342回 正定業

平成30年 10月18日~

  深川倫雄和上の勉強会で用いられた教行信証ご自釈版を見返していましたら、
本願名号正定業の所に、正決定と 決の字を加え・・「私の将来が決定した」と
手書きしていることに気づきました。

その他の正定のところにも、正決定と 決の字を書き入れています。
和上は、何度も繰り返し、正決定とお話いただいたのでしょう。

 三国照國先生の正信偈入門には、そこのところを「わたくしの救い」として
次のように書かれています。

 わたくしたちは、如来のみ光のお照らしをこうむって、やっと仏法にあい、
そして真宗のおみのりにあうことができました。
しかし悲しいことには、如来の光りかがやく おすがたを見たてまつることが
できません。それなのにどうして仏になる因(たね)をいただくことかできましょうか。

わたくしは仏になるべき一つの善も一つの行も積み重ねることをせず、反対に
まよいの因となる悪い業(おこない)をせっせと積みあげているのです。
このようなわたくしは、どのようにすれば、仏になることができましようか。

 ところが、このまったく救われようがないわたくしを救わんがために、
如来は本願を立ててくださり、わずか三歳のこどもでも耳に聞き、口にとなえ
られるところの名号をもって このわたくしを救おうとされたのであります。
ながいご修行の結果「名号を信じ称えるものをかならず仏にする」という
第十八願をなしとげられたのであります。

 ここに名号は「正しくわたくしたちが浄土に生まれることを決定する業因(力)」
となり、じっとしておらずつねにあらゆる時、あらゆる世界に、その第十八の
本願のとおりに動いて、あらゆる者を信ぜしめ(至心・信楽・欲生我国)、
称えしめ(乃至十念)、わたくしたちをすべて仏にしようとはたらきかけて
いることになります。

すなわち如来は、名号にみずからの光明をはじめとする一切のもっている徳を
のこらず注ぎこまれたのでありますから、名でありながら実は如来そのものに
ほかならず、つねにわたくしたちの身近かにいてくださる「いきた仏」なのであります。

この如来は第十七願に「あらゆる仏がたにわたしの名をほめたたえていただこう」
という誓いを立て、その願いが如来になることによって果たされることと
なったのですから、わたくしがいかなる世界におろうとも、その名号の
ふしぎなお徳をほめたたえられる仏がたの説法の声となって、わたくしの耳に
ひびいてくるのであります。

 釈尊が浄土の三部経を説かれたのは、この名号のおいわれをわたくしたちに
聞かせるためであり、しかもそれをうけ伝えて現在のわたくしの耳にまで
届けてくだされたのは七高僧や親鸞聖人、それから蓮如上人をはじめ、
わたくしにこの教えを伝えてくだされた多くの人々であります。

これらのかたがたのおすすめによって、わたくしがはからいなく名号の
おいわれを聞かせていただいて如来の真実(名号)をわたくしのものと
するとき(至心)、如来のお救いを疑う心や自力のかざり心はすっかり
とれてしまい、ただ与えられたみ名のおいわれを喜び楽しむということに
なります(信楽)。

しかも「信ずる者を浄土に生まれさせよう」という第十八願が成就した
ことにより、わたくしの心に如来のお救いを喜ぶ心がおこってくるので
ありますから、そこには当然いずれ浄土に生まれて仏になることに
まちがいないという心がそなわっているのであります(欲生)。

仏の教えを聞きながらもいっこうに仏になりたいとも浄土へはやく

行きたいとも思いませんが、「わたくしはまちがいなく浄土に生まれ仏に
ならせていただくのだ」という安堵のおちついた心をもつことになるのであります。

 このように人生の荒波にもまれながらも安心立命の境地を現在の心にもつ
ことかできるとともに、最高のさとりを開くべき因をわたくしのものとして
持つことができるのであります。
すなわち如来の名号をいただく信心のところに、菩薩でさえもなかなか
もつことのできない清浄で真実な因を、きたなくいつわりに満ちている
わたくしの心のなかにうえつけられるのであります。

 それによって、わたくしはもはやまよいの世界に趣くところの一切の
悪い因はたち切られ、この命が終わるとき如来と同じさとりを開かせて
いただくのであります。
しかも現実の世において仏になるための一切の因、一切の徳をもたされ、
ただこの生が終わればただちに仏になるのをまつばかりであるから、
菩薩の最上の位である等正覚(五十一位)に定まることとなります。

如来の真実をもたされていながら少しも菩薩らしくもないこのわたくしが、
ほとんど仏に等しいという等覚(とうがく)の位に入り、弥勒菩薩(みろくぼさつ)
と同格ということになるのであります。
仏になることが決定しているなかまに入るので本願では「正定聚(しょうじょうじゅ)」
といい、ふたたびまよいの世界に退くことがないので龍樹菩薩は「不退転」と

いわれております。

 このように、この世においては大菩薩の位に定められ、次の世においては
如来とひとしい最高のさとりを開くことかできるというのも、「定聚に住し、
かならず滅度にいたらずば正覚をとらないであろう」とお誓いになった

第十一願力のおかけであります。 ・・・・
                              本願寺出版社 正信偈入門より

       と お書きいただいています。






第1341回 仏さまのおこころ

 平成30年 10月11日~

『仏説観無量寿経』の中で、お釈迦さまは、「仏心とは大慈悲これなり。
無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す」(『註釈版聖典』一〇二頁)と
いわれています。

 仏さまのおこころを一口でいえば、「大慈悲」です。
慈悲の「慈」とは、人にまことのしあわせを与えようとする心、
「悲」とは、人々の悲しみや悩みを取り除こうとする心であるといわれます。


 そのためには、まず自分自身に対してと同じように、心から、他の人の気持ちが、
わからなければなりません。
ですから、慈悲は「人の悲しみをわが悲しみとし、人のよろこびを
わがよろこびとする」心だといわれるのです。


 このような慈悲のこころを、人間はなかなか持つことができません。
私たちにはいつも、自分に都合がいいようにという、自己中心のこころが、
はたらいているからです。
ただ、母親のわが子に対する気持ちは特別です。
自分のことは忘れて、わが子のしあわせを思います。

しかし、その心も、残念ながら、他人の子どもにまでは及びません。
このような、限りのある人間の慈悲に対して、仏さまの慈悲は、
あらゆる人びとに対し、差別なくかけられる、限りのない慈しみのこころです。


 その「大慈悲心」から、仏さまは、私たちが早く迷いの現実に気づき、
真実の世界にめざめてゆくことを、願いつづけておられるのです、
しかもそのこころは、たとえば、幾人の子供があったとしても、
母親の思いは、子供たちみんなにかけられているように、私たちの
一人ひとりに、わけへだてなく向けられているといわれています。


 親鸞聖人は、そのような仏さまの深い親心に、気づかれたのでした。
阿弥陀さまは、このような愚かな私ひとりを救うために、大悲の本願を
おだてくださったのだと味わい、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」
(『歎異鈔』・『註釈版聖典』八五三頁)と仰せられたのでした。


 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                          朗読法話集 第一集より





第1340回 法を聞く

 平成30年 10月4日~

 私たちは、なかなか自分では、自分の姿に気がつきません。
人から指摘されるまで、自分の姿を知ることができないことが多いようです。
そして、人の欠点ばかりが目につき、人の悪口ばかりいって、

お互いに傷つけあっているのではないでしょうか。

このような、自分を振り返ることのない、自己中心のこころを「煩悩」といい、
れが私の迷いや、悩みの原因となっているのです。

しかし、自分のみにくい姿は、とても見えるものではありません。

それどころか、迷っていることさえ気づかないのです。
自分の欠点だらけの姿を見るということは、不愉快なことですし、
たとえ親しい人から指摘されたとしても、受け入れにくいものです。
仏法も同じことで、なかなか耳に入ってきません。


 お寺の法要や聞法会などで、せっかく法話を聞き、ご縁にあわせて
いただいているのにもかかわらず、素直に仏さまの教えを受け入れられないのは、
やはりひとりよがりの心が邪魔をしているからです。
仏法を、他人ごととしてしか受けとめようとしないのは、その心のせいです。


 浄土真宗は、法(みのり)を聞くということを、なによりも大切なことだと教えます。
法を聞くことによって、私たちは自らのはずかしい姿を知らされると同時に、
このような私に慈愛をそそぎ、救わずにはおられないと願い続けておられる、
阿弥陀如来の存在を知らされるからです。


 私の、かたくなで、みにくい心をくずして、素直に仏さまの言葉が耳に入るように
なるには、何度も何度もくりかえし、教えを聞いてゆかなければなりません。
一生涯が聞法です。


 そうして、この煩悩だらけの私も、阿弥陀如来の大きな慈悲の中に、
いだかれていると気づかせていただくとき、素直に、「南無阿弥陀仏」と
称えさせていただけるようになります。


 忙しい日常生活の中で、なかなか仏法を聞く機会を見いだしにくいかも
知れませんが、つとめてみ教えに触れ、わが姿を反省していきたいものです。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                                  朗読法話集 第一集より





第1339回 聴聞のすすめ

 平成30年 9月27日~

 仏教や浄土真宗に対して、間違った考えをもっている方がたくさんおられます。
たとえば、仏教などは病気をしたり年をとって、気の弱くなった人が
すがる教えであって、「私は、まだお寺参りをするほど、年をとっていません」と
おっしゃる方がいます。


 また中には「宗教というものは、人間の理性をマヒさせる阿片のようなものである。
理性的に生きていこうとする人間にとって、宗教など必要ではありません」と
おっしゃる方もいます。


 しかしそんな方でも、ながい人生の歩みの中で、子供に先立たれるとか、
信頼していた人に裏切られたり、事業に失敗するとか、

深刻な出来事が、なんの予告もなしに突然やってきて、今までの自信がくずれると、
ほんとうに自分の人生を支えてくれるような宗教を求めるようになります。


浄土真宗の教えは、私どもに、心豊かに生きる道を与え、安心して死ぬことが
できる道を教えてくれるものなのです。

つらく苦しいことであっても、その事実をしっかりと見つめながら、
力強く生きぬいていく智慧と力とをあたえてくれるものこそ、お念仏の教えです。


『蓮如上人御一代記聞書』(第155条)で、「仏法には世間のひまを闕きて
きくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり
仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。」(註釈版・280頁)
といわれています。


ひまがあったら聞こうというような心がけの人には、仏法は聞けない、
時間をつくって聞くようにせよと仰せられているのです。

自分はもちろん、夫や妻や、子や孫も明日があるかどうか保証のない
「いのち」をかかえているのです。

その「いのち」の意味を問うのに、明日の日はないはずだといわれるのです。
まことに厳しいお諭しです。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                       朗読法話集 第一集より






第1338回 相続すること

平成30年 9月20日~

 ネットを見ていると、家族だけでの小さなお葬式の宣伝がよく目にとまります。
時代がどんどんと変化して、一体何が変わったのでしょうか。


一昔前までは葬儀というのは、親戚や近所の人の 協力がなければ
自分たちだけでは出来ないものでした。

遺族や親戚、手伝いの人への食事の炊き出しや、受付など、それぞれの
集落には決まり事があって、仕事を休んで協力しあったものでした。

そして、親戚の長老や集落の古老が、伝統を受け継ぎ若者達に指示して

決まり通り、何の疑問もなく しくしくと葬儀が行われてきました。

そこに 専門の葬儀社が誕生して、近所のお世話にならなくても、

お金を支払うことで、自分たちだけで葬儀が可能となってきました。
それまで、采配をふるっていた親戚や地域の人々は、伝統やしきたりを、
指導し、確認する機会がなくなり、参列者の一人となってしまいました。

遺族は、自由な発想で葬儀を行えるようになりましたが、何のために

葬儀を行うか 葬儀をする意味を見いだせず、簡素化することが
多くなっているようです。

 地域のみんなでお葬式をしていた時代にはあった、伝承や、決まりことが
突然に途絶えてしまったことで、葬儀をする意味や目的、成果などが、
次の世代に伝わらなくなっているように感じます。

 それとともに、通夜葬儀の長い時間を通して、亡くなった親たちの願いや
希望、期待、故人の人間的な特徴、良い面も悪い面も、すこし誇張しながら
子どもや孫たちに語られていたことでしょう。

そして、親の願いを集約したものが お念仏の教え、この教えとの

ご縁を結ぶことが、子どもや孫たちに出来る最大の親孝行だと、
念仏者の仲間としての喜びや生きがいを伝えたり
寺院や墓地、お仏壇、ご法事、お聴聞が最も大事であることなども
話されていたことでしょう。

 人間を超えた力 自然や宗教的な大きな力があることを教え伝えること
人生の先輩として、様々な体験を伝え、未来への橋渡しになり
身近な大人の生き様を見せ、さまざまな人生があることを感じさる
効果があったことでしょう。

 また、縦のつながり、未来へむけて次の世代のためになすべきこと
集落や一族の共通の理想、目標 集団、共同体、公の立場があること
など、先祖から受け継いだ想いを 話しかけていたのでしょう。
親からだけではなく、こうした近所や親戚の人からの伝承が、
今まったく消えてきているようです。

 こうした現状を、はっきりと認識して、意図的に次の世代に伝えていくよう
喜び多い人生を受け取っていただけるよう、それぞれの立場で、
こころがける必要があることをつくづくと感じます。

今何が必要なのか、次の世代に相続していく必要を感じます。






第1337回 老いの中で

平成30年 9月 13日~

 今、「老い」の生き方が、問われています。
お釈迦さまは、「老いること」を、生・病・死とともに、人生の根本苦である、
四苦の一つとしてお説きになっています。

 眼は視力もおち、頭は鈍くなり、気力のおとろえを感じるようになったとき、
なるほどそうだなと、このきびしい現実を認めざるをえません。
社会的にもだんだん周囲からうとんじられ、ときには、ののしられることも多く
なってくるでしょう。


 しかし、顔にしわがよっても、こころにしわがよらないように。
身はこわばっても、こころは頑固にならないように。肉体はおとろえても、
こころは明るく、肉体は老いても、こころは若くありたいものです。
私の人生は、二度とやり直しがききません。
今日は、たった一度かぎりの、「今日」ただ今です。さまざまなご縁によって、

生かされている「今日」です。

 明治の中ごろ、西本願寺の大谷家にお生まれになり、社会事業にたずさわり、
仏教婦人会活動に積極的に取り組まれた、歌人の九條武子さまは、


 「見ずや君 明日は散りなん花だにも 力のかぎり ひと時を咲く」と、よまれています。

 老いるとも、きょうという日は、まだ歩んだことのない元日です。
大切に味わい、大切に生きていかねばなりません。
たとい世間からは、うとんじられるようになっても、私を見護っていてくださる
仏さまがおられます。
さびしい私、ひとりぼっちの私に、その一人ひとりに声をかけて下さるのです。

仏さまの願いに生かされているということが、年をとって見えてきた、
お法がほんとうに聞こえてきたと、おっしやった方がいました。

生をうけた、本当のよろこびを味わうことができたと、しみじみとよろこばせて

いただこうではありませんか。

 人として生まれたことは、まことにありがたいことです。
仏法に遇うことができたのも、まことにありがたいことです。
人として生まれた悲しみを、人として生まれたありがたさに、変えてくださった、
仏さまの不思議なお力に、感謝したいものです。

 最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                         朗読法話集 第一集 より






第1336回 お願いごと

平成30年 9月 6日~

エンディングノートに こんな記載がありました。

お願いごと              

  我が家は、浄土真宗の門徒で、○○寺に所属し、代々門徒総代を勤めてきた。
祖父○○、父○○ともに、率先して本堂の最前列に座り、仏さまのお話を聞いていた。


私も、子どもの頃、祖父母に連れられて、よくお参りしていた。
頂くお菓子が楽しみだったが、周りの大人たちが、大きな声で、南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏と口にしていたことや、日頃、厳しい祖父が、本堂でだけは、
やさしい顔で愛想がよく、別人のようだったことを不思議に思っていた。

   父が亡くなって、本堂に座り、お聴聞するようになってから、
 祖父母が、何故あんなに柔和な顔をしていたのか、少し分かってきた。
 そして、働き盛りの若い頃、もっと仏さまのお話を聞いておけば、
 くよくよ悩まず、堂々と生きてこれただろうに、もっと豊かで、
 喜び多い毎日だっただろうにと、残念でならない。

  今反省している。祖父母がしてくれたように、君たちにお念仏の
 ご縁を結ばなかったことを、誠に申し訳なく思っている。
 どうか、先祖が大事にしてきた、「仏教の価値観」である
 お念仏の教えを受け取り、次に伝えていってほしい。
 お念仏を受け継ぐことを先祖たちは、相続すると表現してきた。

 是非、是非、受け取り、相続してほしい。どんな財産より、すべての
  子どもや孫たちにとって、大きな宝物となると、私は今確信している。

   通夜葬儀は、遠慮せずに知らせてほしい。
 家族だけで行うと、後で、次々に弔問客が訪れ、大変だと聞いている。
 来る来ないは相手の勝手、知らせるだけは知らせた方が良い。
 親戚にもご近所にも、これまで何度も何度もお布施を包んでいる、
 そのお返しを受け取るだけ、遠慮することなく、堂々と受け取っていい。

   七日七日の法要や、年忌法要などは、子どもや孫たちが
出席できる曜日や時間を調べて、ご住職に相談するが良い。
小さい時に、仏さまのお話を聞かせておいていただきたい。
子どもの頃に蒔かれた種は、いつか、きっと花開くものである。
一人でも多くの子どもや孫たち、そして親戚の方々に、先祖が
大事にしていたお念仏の教えを、味わうことの出来るように
喜び多い豊かな人生を受け取れるよう、どうか、勤めてほしい。
相続してほしい。これだけはお願いします。


      このように書かれた ノートを拝見しました。






第1335回 あみだくじ

平成30年 8月30日~

 阿弥陀さまの六字の名号、九字・十字のお話をしましたら
あみだくじは、そこから来たのですかとの質問をうけました。
阿弥陀さまの九字名号、あみだくじ、阿弥陀九字、確かに音は同じですが
はたしてどうなのでしょうか。

 普通、くじを引くといいます。
こよりや 小さな棒の先に目印をつけ、それぞれが一本づつ引いて、

アタリ、ハズレ、あるいは順番などを決める際に便利なので、昔から行われていたようです。

 しかし、これを準備するのは案外大変で、参加者も限られることなどから、
一枚の紙に、真ん中から外に向かう放射線状の線を書いて、くじを作るようになったようです。
この線が、阿弥陀仏の光背に似ていることから「あみだの光」と
呼ぶようになったと伝えられています。

 やがて阿弥陀仏の後光のように放射線に引かれた線が、明治以降、上から下へ
平行線に変わっていき、みんなで横線を自由に書き入れるようになってから、
「あみだくじ」と呼び方が変わったようです。

 さて、あみだくじの阿弥陀仏さまは、他の仏様とは大きく違って
すべてのものを、一人ももらさず、平等に救うという、ちょっと変わった仏さまです。
能力のある者、ない者も、男も女も、金のある人もない人も、
分け隔てなく平等に救うのが、阿弥陀さまのはたらきの特徴といわれます。

普通の仏さまは、努力出来たもの、優秀な者、すぐれたものだけを選び
すくい取り、その他の人は相手にしない仏さまです。

 平等な仏さまの名前が付いた、あみだくじは、空クジなし。
お金を払う人、払わない人、いくら出すかは阿弥陀に決めて頂こう、そして
みんなで平等にお菓子を頂こう。
あとはお任せ、文句を言わずみんなで、楽しもうと、無料アプリのラインでも、
あみだくじアプリがあり、盛んに利用されているようです。

 あみだくじは、主催者だけが勝手に決めるのではなく、
みんなで横線を書き込み、道順を変えることができるなど、参加感があり、
決められた道を、左へ右へ、その道は自分で選ぶことは出来ない道ですが、
必ず全員目的地へ行き着く、これは必ず浄土に往生することが出来ることと、
どこか共通点があるようにも思います。

この人生も、思うようになることばかりではありません。
様々な障碍や問題が発生し それでも、南無阿弥陀仏とともに進んで行けば、
必ずお浄土へ。

 あみだくじを引く度に、どうか南無阿弥陀仏を口に、与えられた目標、仕事を
喜んで引き受けさせていただきたいものです。
みんなが親しみ遊ぶゲームに、阿弥陀さまの名前を呼ぶことは、大変に有り難いことです。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏





第1334回 願以此功徳

 平成30年 8月23日~

お勤めの最後に「願はくは この功徳を以て……」というと、
意味がわからなくても、お経を読んで、仏さまに聞かせれば、
それが功徳となって、ご利益がえられる……と、自分勝手に
考えている人がおられるようです。


 しかし、「お経」は、仏さまから聞かせていただくものであって、
迷いの凡夫が意味も考えずに発音して、仏さまに聞かせてあげる
ものではありません。

この「功徳」とは、読み、味わった、お経に説かれていた、阿弥陀さまの
すばらしいはたらきのことであります。


阿弥陀さまが、菩薩として修行されたときに積み重ねられた善根の果報として
そなわった、すばらしい救いのはたらきを「功徳」とあらわしたのです。

阿弥陀さまのことを説かれた「お経」を通して、阿弥陀さまがあらゆる人びとを

平等に救いたもう。すぐれたはたらきを知らせていただきました。

 ですから、知らせていただいたすばらしい功徳を、ご縁のある人びとに伝えて、
伝えた者も聞いてくださった人も、ともに仏さまを尊く仰ぐ心をおこして、
安らかで幸せな阿弥陀さまの国を目指して生きて往きます……と、
み教えに遇えた者が、自らの生き方と責任を仏さまに対して表明することばが、
この「願以此功徳」の句だったのです。

 お互いに「願以此功徳……」と、となえていますが、浄土に向かって
生きている、阿弥陀さまにお会いさせていただく人生を生きている……との
自覚を持っているでしょうか。

 間違いなく浄土へ生まれる身と聞けば、せめて浄土にふさわしい生き方をと、
緊張感を持つべきではないでしょうか。
決して、立派に生きなければ往生できないということではありません。
むしろ、いかなる生き方であっても、必ずお浄土に生まれさせていただくと聞くとき、
せめてもお浄土にふさわしく生きようとすべきではないでしょうか。

 教えを通して静かに浄土を思うとき、浄土の光が闇のごとき人生を生きる人に

とどき、その人をしてかがやく願生行者へと育ててゆきます。

 恩師山本仏骨先生は、晩年、「華厳」と題されて、次のような和歌を遺されました。

  一輪の華をかかげて今日もまた

     浄土へかへる旅をつづけむ

         生きるよろこび 本願寺出版社 天岸浄圓師






第1333回 人生と念仏

 平成30年 8月16日~

  浄土真宗で最も大切な経典である『仏説無量寿経』には、
「人世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し独り去り独り来る」

(『註釈版聖典』五六頁)と、人間の孤独のありさまが説かれています。

また、財産があればあったで、それが苦しみのたねとなり、なければないで、
また苦しみにつながるように、人生はつねに、苦しみをともなうものであると
述べられています。


 このようなことが説かれるのは、孤独で苦悩する私たち一人ひとりのうえに、
共に悲しんでくださる仏さまの願いがかけられていることを、教えるためでした。


 阿弥陀さまの願いは、「南無阿弥陀仏」という名号となって、私を呼びさまし
つづけていてくださいます。
ですから、どんな苦しいときでも、孤独の淋しさの中にあっても、この「南無阿弥陀仏」の

六字の名号が私を支え、導き、私の人生を力強く、歩ませてくださるのです。

 以前ドイツ語の教師として、岡山大学の教壇に立たれた池山栄吉先生は、
親鸞聖人のみ教えを深くよろこばれ、多くの人びとに影響を与えられたかたです。
この池山先生が、重い病をわずらわれ臨終近くのときに


  何も残るものはない 何も残るものはない
   ただ念仏だけが残ってくれる
   ただ念仏だけが残ってくれる
  えらいこったよ 有り難いこったよ

 と語られたそうです。

 どのようなときでも、「南無阿弥陀仏」のいわれを聞かせていただき、
「南無阿弥陀仏」をとなえさせていただき、それをとおして

如来さまの親心にふれていくことは、人生において、ほんとうに力強い
依りどころを持つことなのです。

 阿弥陀如来さまの救いのよびかけを、なかなか素直に聞くことの
できない私ではありますが、せっかくこの世に生を受けた身です。

如来さまの大きな慈しみのこころにふれ、お念仏の深いみこころを
聞かせていただきましょう。

では、最後にご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 


                   朗読法話集 第一集 より







第1332回 悪を転じて 徳とする

 平成30年 8月9日~

「困った時の神だのみ」という諺があります。そして多くの人びとは、
困難な問題にぶつかったときに、神や仏にすがって、禍をなくしてもらうのが、
宗教であると考えています。
ですから人びとは、霊験あらたかな神さま、仏さまを求めて祈願をし、
ご祈祷をしてもらいにいきます。

 しかし、人間は誰もが、生きる、老いる、病気になる、死ぬという、
人生の根本の問題をさけることはできません。
老いない人はいないし、死を避けることは誰にもできません。

どんなに神さまにお願いし、おすがりしても、一時的な気休めには
なるかも知れませんが、根本的には何の解決にもなりません。

 では、いったい私たちは、「生、老、病、死」という、人生の
根本問題に直面したとき、どうすればよいのでしょうか。
親鸞聖人はこのことについて、
「名号は、悪を転換して徳にする智慧のはたらき」をもつと、
お教えくださいました。


 私たちは、生身の体です。どんな災難に見舞われるか知れません。
病気をわずらったり、大ケガをすることもあるでしょうし、
死と向きあわねばならないときが必ずきます。
そのとき、その苦難に耐える力と、のりこえていく智慧を与えて
くださるのが、お念仏のみ教えです。

親鸞聖人は若いころに、念仏弾圧によって流罪になるという苦難
あわれました。
また晩年には、お子さまや、奥さまと別れ別れに暮さなければならない
というような、悲しいことや淋しいことにしばしばおあいになりました。

しかし、どのようなときでも、お念仏のみ教えに導かれて、みごとに
悲しみを克服し、力強く生きていかれました。

 悪が徳に転じられるというのは、お念仏をとおして与えられる
さまの智慧と慈悲が、私のかかえている、苦しみや悲しみを縁として、
かえって私を人の痛みのわかる暖かい心と、どんな苦難にも堪えられる
力強さをもった人間に、育ててくださるということです。

では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

              
朗読法話集 第一集 より







第1331回 倒懸 とうけん

 平成30年 8月2日~

 盂蘭盆経というお経を元に、お盆の行事がはじまったと言われますが、
目連尊者の母親は どうして餓鬼道に落ちてしまったのでしょうか。

お釈迦様の弟子として、頭角を現した賢い子どもを育てた、立派な母親なのに
なぜなのでしょうか。
それは、かわいい息子を育てるために、困った人が水を乞うても

食べ物を求められても、自分の子どものために隠して与えず、布施する
ことが出来なかった、むさぼりの心で作った罪が原因で苦しみの世界へと
落ちてしまったのでしょう。

子どもを育てることは、並大抵のことではありません。

しかし、子どもの方は、その親の苦労にほとんど気づかずにいます。

 ところで、浄土真宗では、お盆に、一般の提灯とは違った 
切り子灯籠を荘厳する地域があります。
白い紙を細く切って長く垂れ下げた、少々不気味な灯籠です。

これは、餓鬼道に落ち、逆さづりにされ苦しむ目連尊者の母親の
長い髪を表していると言われます。
修行して、修行して、神通第一と言われた目連尊者であっても
餓鬼道に落ちた実の母を、自分の力では救い出すことは出来なかったのです。

 お釈迦様は、雨期の間に這い出した小さな虫たちを踏み潰し、
知らず知らずに殺生することがないようにと、一カ所にとどまり修行する
安居を行っておられました。
その安居の最終日に、多くの修行者の力をかりて 目連尊者の母親は
無事救い出されたと盂蘭盆経には記されています。

目連尊者が、修行者に供養した功徳でとありますが、すでに地獄で
苦しむ人が救われるのは、お念仏の教えしかないと、
多くの修行者や菩薩たちが「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏を
称えて呼びかけてくださったことで、目連尊者の母親も、やっと
お念仏のご縁に遇うことが出来、餓鬼道から抜け出すことが出来た
と味わうのが浄土真宗なのでしょう。

 浄土真宗では、南無阿弥陀仏の人は 「往生即成仏」と言われます。
ですから、お浄土に生まれ、仏となった多くの先輩方は、すでに
私たちを導いてくださっていると味わいます。

では、倒懸の姿を現す灯籠や そうめんを使って餓鬼道で苦しむ人の
長い髪を表すのはなぜなのでしょうか。
それは、この私を育てるために、親たちは多くの罪を犯し、一方ならぬ苦労して
くださったそのご恩に、気づかせようとするためでありましょうし、
もしその親たちが、この私を育てるために作った罪が原因で、苦しみの世界に
留まっておられるのであれば、この私がお念仏して、間違いなくお浄土に生まれ、
仏となって救い出す責任があるということを教えるためでもありましょう。

また、この私も親として子どもを育てるために、知らず知らずに罪を犯し、
行き先は地獄しかないのだぞ、どうか南無阿弥陀仏の教えに出会い、

必ずお浄土に生まれなさいとのお示しでもありましょう。

そしてまた、世間で言うように、お盆だけ返って来る先祖と思って
いるだろうが、それは地獄に落ちた先祖のこと、多くの先祖は仏となって、
お前にお念仏を勧めておられることを、早く気づけ、ただ念仏しかないのだぞ、
少々の善根を積むことで救われるような軽い罪ではないと、気づいてくれよとの
呼びかけであると受け取れます。


 必ず地獄しか 行き場所のないこの私を 南無阿弥陀仏のお念仏で
間違いなく必ず救うとの南無阿弥陀仏の呼びかけを、確かに聞き取り 
お盆の三日間だけではなく、寝ても覚めても、立っても居ても、一生涯
お念仏とともに、よろこびの生活を送らせていただきたいものです。







第1330回 憍慢のいましめ

 平成30年 7月26日~

 私たちは、自分が他の人よりすこしでも、高い存在でありたいと思っています。
高い存在というのは、たとえば社会的地位や、いろいろな能力についてでしょう。
もし社会的に立派な人間になりたい、人々のお役に立つために自分の能力を
高めたいということであれば、人間や社会の向上につながることですから、おおいに
奨励すべきことでしょう。


 しかし、自分を高めたいという気持ちは、すぐに、自分は他の人より、優れているのだ
という気持ちに変わってしまいます。
仏教で
慢」つまり、おごり、たかぶるこころです。
ですから自分は「高い」のだと思い込んでいる気持ちを否定されると、私たちのこころは、
すぐに怒りへと変わります。


 私たちには、ともすれば、自分の知識や考えのみが正しいと思い、
他の違った考えを、排除しようとするこころがあります。
しかし、私が正しく知っていると思っていることは、ほとんどの場合、自己中心の
こころで、ゆがめられていることが多いのです。
なぜかといいますと、私はよくわかっているという、おごりのこころが、正しい意見、
他人の考えに耳を傾けることを、さまたげるからです。


 この「
のこころ」は、私が他のすべてのものによって、生かされているという、
恩を知る心と、他の意見を聞き、自分を反省する眼を失わせます。
情報化社会といわれる中で、現代の人びとは、多くのことを学び知っています.
しかし、多くのことを知っているがゆえに、かえって自分自身のことが、
見えなくなっているのではないでしょうか.


 素直に、仏さまの教えに、耳をかたむけましょう.仏さまの智慧の光に照らされ、
自分を見直してみましょう.
人とくらべて、優れているといえるような私ではなく、むしろみずからを高しとする
ごりのために、真実を聞く耳をふさがれている、愚かで恥しい私だということを
知らされます.


 真実とはなにか、このような私になにができるのか、仏さまの教えに耳をかたむけ、
謙虚に聞かせていただきたいと思います。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                  朗読法話集 第一集 より






第1329回 布施のこころ

 平成30年 7月19日~

ただ今、(  )のおつとめをいたしました。この機会にひとこと、
ご法話を(朗読)させていただきます。

「布施」という言葉は、サンスクリット語でダーナ、すなわち
「与える」という意味ですが、仏教では、単に物を人に与えるとい
うことではありません。

 一般に、私たちが、物を人に与えようとするときは、
「人がよろこぶから与える」「人がこまっているから与える」
「物が余っているから与える」というような場合です。

 しかし、仏教でいう「布施」は、必要以上に物を蓄えて、むさぼる
という執着のこころを、取りのぞくための修行なのです。
ですから、布施を行う場合には、なにを与えるかということを、
意識してはなりませんし、だれに与えるのかということも、さらに、
私か与えたというとらわれがあってはならないという、きびしい条件が
ついています。


「物」は本来、善でも悪でもありません。
しかし、私たちの思いが加わるとき、それがみにくいものともなり、
人をよろこばせるものともなるのです。
仏教では、そうした物への執着のこころをいましめて、こころから布施を
行なうことをすすめているのです。


 また、布施は、お金や物が豊富にないとできないものではありません。
「無財の七施」といって、だれにもできる布施があることを教えています。
たとえば、

①人にやさしいまなざしで接する布施、②にこやかに人に接する布施、
③人にやさしい言葉をかける布施、④人に礼をつくして接する布施、
⑤愛情のこもっだこころで接する布施、⑥人に座席をゆずる布施、
⑦人をあたたかく家にむかえる布施です。

 このような布施なら、私たちの心掛けしだいで、いつでもできることです。


 今の世の中、人と人とのあたたかい関係がうすれ、孤独感を味わうことが
多くなってきました。
もっぱら、利害関係が中心になっています。
こんなときこそ、布施のこころは、福祉を支える精神として、最も大切に
しなければならないものでしょう。


 自分の利益のみを追い求めるこころを反省し、少しでも布施の行ないをさせて
いただくのが、仏教者として、念仏者としての、つとめといえるでしょう。


 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

           朗読法話集 第一集 より







第1328回 自らを灯明とせよ

 平成30年 7月12日~

 ただ今、(  )のおつとめをいたしました。この機会にひとこと、「自灯明、
 法灯明」の教えについて、ご法話を(朗読)させていただきます。

 お釈迦さまが晩年病気にかかられたときのことです。
お弟子たちは、お釈迦さまがなくなられたら、あとは誰をたよりにしたらよい

だろうかと心配しました。

そのことに気づかれて、お釈迦さまは、「自らを灯明とし、自らをたよりとして、
他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして、他のものをよりどころとせずに

あれ」『大般涅槃経』)と語られたといいます。「自灯明、法灯明」の教えとして、
有名なお言葉です。


 とかく私たちは、人の言ったことに左右されがちです。
とくに権威のある人に追随して、自分で考え、自分で何が正しいかを見定め
ようとはしません。実はその方が安易だからです。
しかし、結局、「信用していたのにだまされた」ということになりがちです。

人間が人間を信じるということは、危険性をともなうことなのです。
の言葉を鵜呑みにして頼るのではなく、何か正しいかを、はっきり
見定めることのできる自分を確立してゆくことが、大切であることを、
お釈迦さまは「自らを灯明 (ともしび)とせよ」と教えられたのでした。


 それでは、私どもは何を根拠に正しいと判断すればいいのでしょうか。
それをお釈迦さまは「法を灯明(ともしび)とせよ」と教えられたのです。
法とは、物ごとの本当のあり方のことです。
たとえば、すべてのものは変化し、永久に続くものは一つとしてありません。
この事実が無常という真理なのです。この疑いようのない真理を法といいます。


 また、すべてのものは依りあって成り立っています。この事実が
「縁起」という法です。
これらのことは誰でも認める真理ですが、しかし、私たちはこの明白な事実でも、
自分自身のこととなるとなかなか認めようとしません。

他人は死んでも、自分はいつまでも元気でいると思っています。
これが、迷いそのものなのです。
私たちが、自分だけは例外だ、と無意識に思いこんでいる誤りに気づき、
迷いから抜け出すには、この法に根拠をおき、法に教えられて、自分自身が
目覚めていくことが大切です。
そのことを、お釈迦さまは「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と、教えられたのです。


では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                         朗読法話集 第一集 より






第1327回 足るを 知る

 平成30年 7月5日~

 ただ今、(  )のおつとめをいたしました。
この機会にひとこと、ご法話を(朗読)させていただきます。

 お経の中に、「少欲知足」ということが説かれています。
「少欲」とは少ない欲、つまり欲望を抑えるということです。
「知足」とは、足るを知るということです。


私たちにはなるべく楽をしたい、おいしい物を食べたい、
いいものを持ちたいなど、たくさんの欲望があります。
それだからこそ、少しでも、よい環境を求め、物をつくりだす
努力をし、すばらしい将来を希望するのです。その結果として
進歩というものがあるともいえましよう。

 しかしこの欲望は、次から次へと涌いてきて、とどまるところが 
ありません。

欲望を満たすためにあくせくし、みにくい争いも起きます。
お釈迦さまは、それを、「求めても得られない苦しみ」であると
いわれました。
そして、その欲望になりふりかまわず身をまかせていくのでなく、

欲望をなるべくおさえ、今、こうして与えられているものの価値を
見いだしていくことが、重要であると、教えてくださったのです。

 考えてみると、私たちには、ずいぶん多くのものが与えられています。
しかし、それに気づくことなく、つぎつぎに、それ以外の欲望を
満足させるためのものを求めて生きているのが、今の私たちの
姿ではないでしょうか。

 自然から受けている数かぎりない恩恵、得がたくして得ている
「いのち」。人びとからの好意に気づき、欲望を抑えていくことが、
仏教そして、仏教徒としての第一歩でしょう。

 欲望に縛られ、自己を見失うことのないよう、ほんとうに私を
生かしてくれているものを、見過ごすことのないよう、さらには、
おかげさまでと感謝し、身をつつしむことが大切であることを、
仏教は教えているのです。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                 朗読法話集 第一集 より







第1326回 ありのままに見る

 平成30年 6月28日~

「朗読法話集」という 法要の後に朗読できる法話集が、
平成8年に発刊されました。
その中に 「ありのままに見る」という項目があります。

ただ今、(   )のおつとめをいたしました。この機会にひとこと、
ご法話を(朗読)させていただきます。

 私たちは、自分に都合のよいように判断する自己中心のこころの
ために、物の真実の姿を、誤って見ている場合がほとんどです。
そのために、さまざまな間違いをおこします。

人の好意を悪意にとったり、自然のありのままの姿を、ありのままに
感じることができないのも、自己中心のこころにさまたげられて、
物を見ているためです。

 お釈迦さまは、私たちが真実の物のありかたを知らないために、
混乱をひきおこしているのだということを、明らかにされました。
そして如実に知見すること、つまり、物事をありのままに見ること
が大切であると教えられました。
ありのままに物をみること、それが「智慧」といわれる能力です。
仏教のさとりとは、この智慧を得ることでした。

 では、智慧によって見る世界は、どのように違うのでしょうか。
私をふくめ、すべての物が変化し、変わっていくこと、すなわち
「無常」であることも、智慧の眼によって知らされます。
それがわかったとき、いかに今、ここにいる私の「いのち」が、
ありがたいものであるか、他の一切の「いのち」も、同じように
大切なものであるかを、納得されることでしょう。

 また、すべてのものが縁りあい、支えあって、なりたっていること、
すなわち、「縁起」の関係にあることも真実です。
このことを知ることによって、私は、ただひとりだけで生きているのではなく、
多くのもののおかげによって、生かされている事実に、めざめるこ
とでしょう。

そこに、すべての人びとが、互いに害しあうことなく助けあい、
感謝しあう世界がつくられていくのです。

 仏教の教えの目的は、私たちの生きていく世界が、そのような
世界になることです。
まことにまれなご縁をえて、人間に生まれてきた私たちです。
仏教の教えを聞き、間違った見かたをしている自分を恥じながら、
少しでも真実にかなう生きかたをしたいものです。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                   朗読法話集 第一集 より







第1325回 信心の本質

平成30年 6月21日~

信じるということは、何かが見えてくる、「目覚めてくる」ということ。
目覚める、何かが見えて来るということは、人格的には、何かが、
どっかで変わっていくことだと思う。
変わるというのは、皮が取れて、そうして何か内なるものが育ってくる。
こう膨らんで成長していくということだと思います。

  信じるということは見えてくる、わかってくることである。
その解ってくる、見えてくるというのは、何らかの意味で人間変革が
生まれてくることで、皮を脱ぎ、そして成長していくという。

そういう一連の私の生きざまに、影響をもたらしてくるものである。
すなわち、人格の根本を育てていくというものが信心の本質だと思うんですね。

その信心という時に、とかく、神様、或いは仏様と私というふうに、
二元的に捉え勝ちですが、仏というものは、私を離れて、私の外に

二元的に捉えられるべきものではありません。

一般の古い宗教理解、特に仏教理解の中で、伝統的な教義理解においては、
信じるというのは、対象的に捉えていました。
信じる主体の、私がここに居て、信じられる対象の仏がどこか外なる
ところに存在して、そういう対象的なもの、仏と呼ばれるものを、
私が信じるという、いわゆる二元論的に、そして対象的に捉えると
いう信じ方を語りますが、そのような信心は、まったく仏教の本質を
外れていると、私は思います。

有名な西田幾多郎博士が亡くなられる少し前にお書きになった論文に、
 もし対象的に仏を見るというごときならば仏法は魔法である

        (西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」から)

という、言葉をお書きになっておりますが、まさにそうだと思います。
(まこと)の信心というのは、限りなく、遠い存在であり、決して
私にある筈のない仏に、いまここで私において、私に即して出合う、
発見すること。そういう出会い、「目覚め」が、そういう私の体験が
信心だと思いますね。

経典の原語、サンスクリット語まで、ちゃんと帰えしてみますと、
信仰ではなくて、信心というべきでありましてね、仏教では、信心(しんじん)
(じん)、「こころ」というのは、人間の一番根元的な生命を表したり、

或いはまた、人間として最も根元的な人格主体を表す言葉が心(しん)
「こころ」という字です。


またこの心という字は草冠を書きますと、柿の芯とか、リンゴの芯という
字になります。
この芯とは、その中に柿やリンゴそのものの生命が凝縮されているわけで、
やはり人間、我々一人一人も、そういうものを持っていて、それを心、
「こころ」と言っているわけですね。


仏教では、心とはそういう根元的な生命とも捉えます。
そういう心、生命に基づいて「目覚め」、そしてまたそういう生命そのものが
脱皮し、成長していくという。それを仏を信じるというんですね。

            こころの時代 信楽 峻麿 (しがらき たかまろ)








第1324回 面白い 楽しい

平成30年 6月14日~

悪質なタックルで、監督やコーチなど指導者の問題が指摘されていますが、
今回被害を受けた関西学院大学アメフト部の指導者が、記者会見でこんなことを
言っています。

「コーチを20数年やって気づいたことは、闘志は勝つことへの意欲だと

 思いますし、それは外から言われて大きくなるものではないと思っています。
 自分たちの心の中から内発的に出てくるものが一番大事ですし、それが選手
 の成長を促すものです。
 その一番根源にあるのは、『フットボールが面白い、楽しい』と
 思える気持ちです 」       

「我々がコーチとして一番大事なのは、選手の中に芽生える楽しいという
 気持ち、これは『ロウソクの火』みたいなもので、吹きすぎると消えて
 しまいますし、大事に、少しずつ大きくしないといけない。
 そっと火を大きくするような言葉も大事でしょう。内発的に出てくるものを
 どう育てるかが、コーチにとって一番難しい仕事だという風に思っています」


この会見を見ていたインターネットユーザーから大きな反響があった
といいます。選手が強制されてではなく、自ら進んで取り組む心を
大事にしたいという言葉に、共感を呼んだようです。          

また、この指導者は、以前に、こんな文章を書いています。
「『やらされている』ような状態では、成長はおぼつかない。
 しかし、人間はなかなか努力が長続きしないものである。
 ましてや、米国のようにスポーツ奨学金がもらえるわけでもなく、
 プロへの可能性もない日本の大学フットボールにおいて、選手の
 高いモチベーションが維持される基礎条件は大きくない。
 では、そうした受身の姿勢に陥らず、自分から夢中になって
 厳しい課題にも取り組むことができるようになるためには、
 どうしたらいいか。いろいろな答えがあると思うが、
 そのうちの一つは、やはりフットボール自体を『面白くて仕方がない』
 と感じられるようになることだ。好き、になることこそが近道だと思う」


南無阿弥陀仏の教えも 人間に生まれてきたことのよろこび、生きることのよろこび、
そして、仏となって活躍出来るという、この世だけではなく、

お浄土という未来を見つめた人生がることを聞き取り、描き味わうことが
できるかどうかだろうと、思います。

人間に生まれたことが、当たり前と思って、何の感動もなかったものが、
教えに出会うことで、今の自分に出来ることは何か、何がやれるのか
そしてそれがよろこびに変わっていく、それには、仏様の願いを、繰り返し
聴聞することで、はじめて気づくことです。

南無阿弥陀仏は、この人生は面白く楽しく、夢中になって生きていく力を
与えてくださる大きなはたらきが、人間として、生きることの喜びに
気づかせていただく力があるのではないかと、味わいます。

どうか、お聴聞して、仏さまの話を、仏さまの願いを聞いて、すばらしい

よろこび多い人生を受け取りたいものです。







第1323回 断捨離

平成30年 6月7日~

 終活とか断捨離とか、人生の終わりが近づくにあったって、身の周りを
整理しておくことが話題になっています。

しかし、慣れ親しんだものや関係を「捨てる」ということはなかなか
難しいものです。

 有り余るものや情報、煩雑な関係など、不要なものを断ち切り、捨て、
離れることで、身の回りや心を整理して、自分の生き方を見直して

みようということでしょうが、インドのヨガの考え方に基づいて
いるようです。

仏教でも、「煩悩を断ずる」、「ものを喜捨(布施)する」、「執着を離れる」
などと、「捨てる・断つ」ということは大切なこととされてきました。

 ところで、外国に留学した人に聞くと、何でも捨てようとする日本人を奇異に
見られていたといいます。食べること生活することで精一杯の国々の人にとっては
捨てる余裕はなく、ものが豊かで贅沢な人たちの発想だというのです。

 断捨離という言葉が流行するなかで、何でも捨てることのメリットが
聞かれる反面、失敗した例も多く聞かれます。
中には、大切な人間関係までも、無駄なもの、やっかいなものとして
断ってしまっているケースがあるようです。
親子の関係、親戚兄弟の関係など、迷惑をかけたくないと、だんだんと
疎遠になってきているようにも感じます。

そして、人生を終わる葬儀や、仏教的なご縁を結ぶ貴重な年回法要などまで
限られた少人数で行うことが、良いことのような風潮があるのは
まことに残念なことです。

 捨てることが目的ではなく、その前に持っているものを
ちゃんと見直すことが大事なのではないか。
特に浄土真宗のお念仏の教えは、捨てるのではなく残すことではないかと感じます。
子どもや孫へ伝え残していくこと、そのためには何をすれば良いのか。

 念仏の人を必ず救う 決して捨てることはないという阿弥陀さまの願いを
聞き取り、捨てようとしても捨てきれない煩悩を持って生きている自分であることに
気づかせていただくことであり、いのち終わっても仏となって働き続けておられる
多くの先輩があることを味わうこと、そして私もやがて仏となって活躍できる、
すばらしい明日が、限りない未来があることを気づかせていただくこと、

それがお念仏の教えだからです。

 身の回りのものを、見直し本当に大事なものを見極め、見つめ直し、
人間として、親として、残しておくべきものを、伝えていくべきものを
知るために点検し、すべてのものを無駄にしないこと、
周りのものの有り難さを気づくことが重要であると思います。

そして、最も大切なものの一つが 人生の味わいを一層深めさせていただき
生きる意味、喜びをはっきりと教えていただく、お念仏の教え、南無阿弥陀仏であると
確認し、私のことをどうしても捨てることが出来ないという、阿弥陀如来の願いを
味わい伝え残していくことが最も重要だと思います。








第1322回 みほとけとともに
 
 平成30年 5月31日~

 皆さん、自分が辛い、苦しい、悩んでいる というときは、ひょっとすると、
ひとりぼっちに なってはおられませんか。

ともすると、一人くよくよすることが 多いようです。
この自分の悩みを聞いてくれる人、親身になって話してくれる人がいたら、
どんなにか 心安まることでしょう、どんなにか頼もしいことでしょう。

 でも、なかなかそういう人は いないかもしれません。
家族であっても、親類であっても、友達であっても、みんな自分の世界があり、
仕事があり、思いがありで、ゆっくり、心ゆくまで話を聞いてくださる人、
「それは こうしたらよいでしょう」と よい導きをしてくださる人は、
少ないのが現状かもしれませんね。
これが、娑婆というところの悲しい現実の相と言わねばならないようです。

 しかし、仏さまは違います。『無量寿経』というお経の中に、
仏はさまざまな人々のために、請われなくても すすんで友となり、これらの
人々の苦しみを 背負い引き受け、導いていく。
と書いてあります。「請われなくても」とは お願いしなくてもということ。
いつも来ていてくださるということです。

 『無量寿経』の中で、仏さまが こういうすごいことを誓っておられますよ。
  たとえ私は どんな苦難の中に この身を沈めようとも、
  衆生を救うために耐え忍び、この行をつとめはげんで
  最後まで悔いることはない。

 仏さまが「どんな苦難の中に身を沈めようとも」とは何のことでしょう。
仏さまご自身に 苦難があるはずはありません。私たちの苦難のことです。
言い換えたら、「たとえお前たち衆生が、自分で造った罪のために地獄の
大苦難の中に沈み込んでいっても 救うてやろう。もしそれで仏が地獄から
出られなくなっても、一切後悔はしない」とおっしゃるのです。

 私たち人間は、疑い深いもの。一度や二度、仏さまのお慈悲の話を聞いても、
なかなかおまかせしない。そうして地獄に堕ちていかねばならない。

 しかし、如来さまは、「疑うから 駄目なのだ。憐れなものよ」と
見捨てられるのではありません。
地獄の底まで行っても、追いかけていって、かならずあなたを
救わずにはおかない。

あなたが、どんな苦しみを受けようとも、如来はかならずいっしょに
その苦しみを受けていくぞ。あなた一人じゃないんだよ、と、常に
喚びかけていてくださる。

それが「南無阿弥陀仏」の切なるお喚び声なのです。

苦しいときに私たちの口から出てくださるお念仏なのです。

 苦しいとき、淋しいとき、お念仏しましょう。
耳に「南無阿弥陀仏」と聞きましょう。聞くまま、称えるままが、
いっしょに苦しみながら、励ましていてくださる阿弥陀さまに触れて
いるのです。

 こうしていつも私たちに寄り添い、み仏もともに歩んでいてくださることを
憶い、さあ、いっしょにお念仏申しましょう。
  ナンマンダブツ、
  ナモアミダブツ、
  なもあみだぶつ。

               藤枝宏壽師 老いて聞く 安らぎへの法話







第1321回 人生が変わる

平成30年 5月24日~

 子供の頃に、誕生日を祝ってもらった記憶はありませんか。
赤飯と尾頭つきの鯛が食前にあったことを思い出します。
親の願いは 誕生してくれてありがとう、そして、子どもにはこの世に
生まれたことを喜べるような人生を送ってほしいとの思いだったのでしょう。

 逆に、親の誕生日を 祝ったことはありませんか。
両親とも亡くなった今、もう遅いとお思いでしょうが、祥月命日が
お浄土へ生まれた親の誕生日だと味わうことは出来るのではないでしょうか。
お浄土で仏になった今でも、生きているときと同じように、子どもの私に
どうか、喜び多い人生を受け取ってほしいと、はたらきかけていただいて
いると味わえないものでしょうか。

 ところで、親鸞聖人の誕生をお祝いするのが宗祖降誕会です。
お念仏の教えは仏教ですから、お釈迦さまの誕生日をお祝いすればよいのに 
なぜ親鸞さまの誕生日なでしょうか。

お釈迦さまは、因果の道理を説かれ、人間の行いの結果が自分に返ってくる
私の行動に、様々なご縁が加わって結果が現れると、そのためには努力、頑張り、
悪を出来るだけなくす為に、修行しやすいよう家を捨て、家族を捨て、財産を捨て
出家することが大事だと。 


 ところが、私たちのように出家も出来ないのに、それでも幸せになりたいと
思っている人たちがたくさんいます。
そんな人たちのために、お念仏の教えを説いていただいているのだと
法然上人に導かれて、親鸞聖人は、お釈迦さまの真意を受け取られたのです。

  そして、この教え、南無阿弥陀仏に出会えれば、むなしい人生を送ることはなく、
喜び多い豊かな人生を受け取ることが出来ると、自分自身の体験を元にして、
お念仏を勧めてくださったのです。


 私たちの周りには、善因善果 悪因悪果 さあ頑張ろう、努力しよう
健康も長寿も美貌も、財産もあなたの努力次第であるとの考えが主流です。
テレビのコマーシャルは、頑張るために必要な商品を連呼しています。

 ところが、親鸞聖人がお勧めいただく、お念仏の教えは、私の
努力だけでは、どうしても解決出来ない老病死の大問題を、解決出来る
糸口を与えてくださるものです。
この教えに遇えば、人生がまるで変わって見えてくる、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にする生活を始めると、
ものの受け取り方、考え方がまるで違ってきて、人生が大きく変わって
味わえてくると、教え伝えていただいた親鸞聖人の誕生日が、降誕会です。

その教えは、どんな内容なのか、繰り返し繰り返しお聴聞することで
仏さまのお話を、仏さまの願いを、聞き取ることで、受け取れるものです。
是非 私の人生は 本当にすばらしかった この世に生まれて来てよかった
お母さん生んでくださって有り難うございますと
言える、豊かな意義ある人生を味わいたいものです。

 こんなお話を、降誕会でいたしました。







第1320回 智慧の念仏

平成30年 5月17日~

 智慧の念仏を得るということはどういうことなのでしょうか。
そして、智慧と慈悲のおこころを私が頂戴していくということは
一体どういうことなのでしょう。

今まで見えなかった世界を、我執にとらわれて今まで気づかなかった世界を、
自分中心にばかり見ていた世界を、仏さまのおこころや智慧のおこころを
頂戴していく中で、なかなか我執は破れませんけれども、その我を抱えた
ままで、自分中心の思いを抱えたままで、生かされている世界、
願われている世界、認められている世界、力一杯生き抜いていく世界が、
この私の上に拡がっていくということではないでしょうか。

 もがいて、もがき続けているけれども、いのちをいただいてよかったな、
仏法に遇わせていただいてよかったな、お念仏の教えに遇わせていただいて
よかったなと、思うこころが聞法のお育てにより、如来さまのはたらきにより
起こってくるのです。

そういう教えを、街の中で、みなさんがお仕事をしておられる中で、毎月
毎月のご法座の世界で、報恩講のご縁で、お盆の法座で、お彼岸の法座などで、
聞法させていただき、その深いおこころを頂戴していくということになるのです。


 浄土真宗では、こういうことをあまり申しませんけれども、仏法に遇われる前と、
仏法に遇われるようになってからは、ものの考え方や見方、生き方が……
どうでしようか、少しずつ変わってきているのではないでしょうか。

何にも変わらないのですとおっしゃる方もあるかもしれませんが、それは
「何も変わらないということに気づかせていただいたのです」。

今までは当たり前だと思っていたことが、仏法のご縁に遇わせていただく
ことによって、自分の我が出たときに、「これでよかったのかな、自分の
ことばかりしているけれども、相手のことも考えないといけないのじゃ
ないかな」と考えられるようになれるのです。

あるいは、次つぎと悲しいことや、つらいことが起きて、どうしてなのかと
思うけれども、「やっぱり、つらいことや悲しいことの中で、如来さまの
ご縁の中で、お育てを受けていくということもあるな」ということを、
一つひとつ私たちが頂戴していくということになるのです。

 親鸞聖人は智慧の信心や慈悲の信心とおっしゃっておられます。
一つは、生活の中での、ものの考え方や生き方というものを、常識的な
考え方とは違うところから、それぞれを大事にしていくということ。

もう一つは、死というものには、深い意味があって、最後は往生浄土の
問題を通しながら、帰するところは親鸞聖人のみ教えを頂戴し、頷いて
いくということになるのではないでしょうか。

そして私たちの周りには、そのみ教えに生きた方が沢山おられます。
いろいろな方々から、少しずつでも、そういうことを頂戴したいものですね。
お念仏をよろこばれる方が沢山おられまして、「そうだなあ、そうだなあ」と
日々教えていただきたいものです。

               お浄土を願って生きる 浅井成海師法話より








第1319回 私の心に入って

 平成30年 5月 10日~

 親鸞聖人は 私たちが南無阿弥陀仏とお念仏申すことを、阿弥陀さまの
説法ととらえておられるのです。南無阿弥陀仏は説法なのです。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えるのは、阿弥陀さまに聞かせるなり、
亡くなった人の供養のために称えるという感覚で受けとめておられる方が

おられます。

 ところが、阿弥陀さま自身はそうではないとおっしゃっているのです。
「私は生きている人の中にあって説法をしています。ライオンが吼えるように
人びとに説法をしています」と。

「それでは、その説法というのは何ですか」と言えば、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
という念仏の声が説法であるとおっしゃっているのです。

どうか「南無阿弥陀仏」が仏さまの説法であると信じ、一度称えてみてください。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と自分でお念仏をすると、
今まで響いていなかった念仏が、あるときには自分の心に響いてきます。
それが、あるときはブレーキになったり、あるときはアクセルになったり、
私をコントロールするのです。

「こんなことを考えながら、私は生きてきた。浅ましいことだな」と。
「おかげさまでこんなことに気づくことができた。尊いことだ。よかったな」と。
ですから、仏さまというのは、お念仏になられて私の体と心のただ中に入って
私の人生のコントロール機能になってくださるのです。

それでもなかなか言うことをきかない頑固で、ものの道理がわからないな私ですが、
常づね「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお仏壇の前、またお仏壇の前でなくても
出来るだけお念仏申させていただく。
そのときに、仏さまの慈悲を感受し、「これこそ大事なことだな」
「仏さまって大事だな」と、そういうことを私に告げておられるのだという
意識を持つのです。


 その意識を持って生きさせてもらうことで、ボーツと生きなさるなと、
ボーツと生きれば、ボーツとしたままで終わっていきますよ と、
阿弥陀さまはお念仏を通しておっしゃってくださっているのです。

きわめて鈍感で、きわめて自分勝手で、浅ましい私ですが、「私は仏さまを
大切にし、私はこういう正しいものを心にいただき、そういうものに
導かれながら、この人生を生きさせてもらいました」と。

「私の人生は仏さまに対して誇ることが出来、尊いものに遇わせていただくことが
できました。仏さまにお礼を申すことのできるような人生でした」と受けとめるとき、
仏さまに対して、「おかげさまで」と言える心が少しは開けてきませんか。


それを私たちに伝えようとされたのが、親鸞聖人というお方だったのです。
私たちに正しい生き方、まことの生き方、そういうことを告げようとし、
知らせようとしてくださったのが仏さまであり、それを現実に我々に取り次いで
くださったのが親鸞聖人であります。

それゆえに、その親鸞聖人のご苦労と尊さをご恩として受けとめていくべきでは
ないでしょうか。

                  恩に気づく生きかた 自照社出版 天岸浄圓師ご法話より
   








 第1318回 恥ずかしい

 平成30年 5月 3日~

一般社会では、普通、教育 という言葉 を  よく使っています。

これに対して 仏教 では 「 教 化  (きょうけ) 」 という言葉を 使います。
教育 については、学校教育というように、教え によって、その人が
育っていき、 変わっていくのです。

これに対して、仏教の 教化は、 教えても らったことで、自分自身の生き方に
変化が 出てくるということです。 この生き方に 変化が出てこなかったら、
教えが 教えに なっていない 証拠です。


仏さまの 教えによって 教化、つまり 変化が 生じて 凡夫という自覚を 持つことが
出来たとします。そうなることで、恥ずかしいという 事柄に気づき、 さらには
必ず 恥ずかしくない 生き方につなげていく という、さらなる 変化が 起こってくるのです。


恥ずかしいという気づきは、 恥ずかしくないようにという意志となり、
それを 行動に つなげていくことが 大切なのです。 それがなければ、
恥ずかしいという言葉は、 言葉だけに 終わってしまいます。


ところが、恥ずかしいという事実は、気づくまで  わからないものです。
顔の汚れ、衣服についたゴミや ストッキングの伝線、ズボンの開いたチャックなど、
気がついた途端、恥ずかしくなる。 恥ずかしいとなれば 次は 必ず、
目立たないように さまざまに 工夫します。


気づくまでは 平気で歩いていたのに、気づいた途端に 恥ずかしくなって、
慌てて 隠そうと 苦労するのです。

気づくまでは 恥ずかしいと 思わないのです。

 ところが、もっと 恥ずかしい 事柄を、私たちは 持っています。
それは 仏さまの慈悲 」 人のことを 大事にするとか、人の悲しみを
わがものとして 受けとめて、人を 楽にさせてあげるという慈悲の心に 対して、
「 今どき   そんなことを言っていたら、 この世の中を 生きて行けるか
などと言うのです。

これは 恥ずかしさもなく、傲慢なだけです。

しかし、その傲慢な私が、ご縁があって、この仏さまの 慈悲の尊さというものを
聞き受けるようになった。そして この尊さというものを自覚して 
生きるようになったとき、その自覚は 「 自らが凡夫である 」という 気づきに
つながっていきます。


そうすると その凡夫が、ただ単に 凡夫で 停滞するのではなく、 凡夫でない方向へ
向かおうとする、方向転換が 生じるのです。

しかし、一時に 完全な方向転換は 出来ません。凡夫の生涯が終わるまでは
完全な転換は あり得ないでしょう。
でも コントロールしよう という気持ちは 起こってくるはずです。


昔風に言えば、少しでも 慎もうという思いが出てくるのです。
そして、今までの人生は 傲慢であった、あやまっていたという意識も出てきます。

そういうところに、人が正しく「 まこと 」というものを 心に宿して、
それを 拠りどころにして 生きて行くという 変化が 生じてくるのです。

そして 尊いと 思っている 仏さまは、 凡夫の自覚を 持った  その人を讃えてくださいます。
「 よくがんばった 」 「 よく仏さまの言葉を聞いた 」「 よく それだけの 思いを
 持って 生きてきた 」 と讃えてくださるのです。
そしてさらに、仏さまは 私に届いて、 そのことを 常に言い続けていてくださるのです。
            
             恩に気づく生きかた 自照社出版 天岸浄圓師ご法話より










第1317回 自力と他力

平成30年 4月26日~

ご法座で、いつも一番前の席に座って、お聴聞されている方から、
こんな話を聞かせていただきました。


 お聴聞を初めて聞いた時、特に気になったのは 自力と他力のお話でした。
自力の否定、お念仏は他力だということが、なかなか納得いきませんでした。

子どもの頃から他人に頼らず、自分で努力することが重要であると教え込まれて
育てられてきましたから、自分の力、頑張りを否定されると、何とも言えない違和感が
ありました。これまでの人生を否定されているようで、反発の気持ちが
あったように思います。

 日常生活の自分の行為、行動のことではないと、頭では理解できても
自力ではないと、言われると、どことなく、つらい苦しい思いが起こってきたものでした。
お浄土に生まれること、往生出来るのは、私自身の力では無理だとのお話なのですが、
努力すること頑張ること、それが無駄で無意味なことと
 聞こえてきて悩んだものです。


 今では、お念仏に出会うことも、口にするのも私自身だけの努力ではなかったのだと
うなずけるようになりましたが、最初は努力すること、頑張ることのすべてを
無意味だと言われているようで、戸惑ったものです。
ご縁のないときには、老病死であっても私の力で大きく変わるもの、自分で
努力することが大事だと思い込んでいましたから。

なまけずに目標を持って、誰よりも努力して、成果を勝ち取るのがすばらしい人生だと
強い思いがあったものです。

 やっと、生まれてきたことも、こうして元気でお聴聞できるのも、おいしく
食事がいただけるのも、私の力だけではないこと、理解できましたが、
何十年にもわたって、学校でも職場でも自分で努力し、頑張ったことを
評価され、認められて生きてきましたので、その体質が染みついていたのでしょう。

 今では、お浄土へ生まれさせていただくことだけではなく、すべての出来事が
この私の力だけではなく、大きなそして多くのはたらき、あらゆる力で生かされていると
味わえるようになってきました。
そして、南無阿弥陀仏も私の力で称えているのではなく、称えさせていただいて
いると、味わえるようになって、肩の力が抜けたというか、こころやすらかに
のびのびと、何が起ころうと慌てず騒がず、すべての出来ごとを素直に
ありがたく受け入れることが出来るようになってきたように思えています。

 無駄なことは一つもない、無意味なことは何もない。全部、おかげさまの
出来事、自分にとって都合の良いことも、都合の悪いことも、悲しいことも
辛いことも、すべてが、一番良い方向に向かって歩ませていただいているのだと
思えるようになりました。

あらゆる経験を積んで、お浄土へ生まれさせていただき、仏さまになれるのだから、
どんなことでも、一つとして無駄なことはないのだと。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏のはたらきによって、こんなにも人生が
生きる意味が、大きく変わってくる教えだからこそ、かわいい子どもや孫たちに
お念仏にさえ遇えれば大丈夫、これさえ残せば大丈夫と伝えてくださったのだろうと、
味わえるようになりました。と

 よく本堂でお聴聞をされ、お念仏を口になさる方から、こんな話を 聞かせていただきました。








第1316回 遇えて はじめて

平成30年 4月19日~

お母さんが亡くなられたことを機に、お念仏とのご縁を頂だかれた方から
こんな話を聞きました。

ご住職に勧められて法座に出かけましたが、最初聞いた時は、専門用語ばかりで

素人を相手に、何でこんな意味のわからない話をするのかと、疑問を持ちました。
世の中では出来るだけ多くの人に理解してもらおうと、工夫をして

わかりやすく説明しているのに、一般の人から遊離して、昔ながらの進歩のない
専門家だけが分かる説き方に、よく今まで続いてきたものだと感じたものです。

 まだ人々が素朴な時代には、伝統的な旧来の説き方で良かったのでしょうが
今情報化が進んだ時代、このままではやがて仏教は絶えてなくなるのでは
ないかと、批判的にお話を聞いていました。

 もっと分かりやすくするには、どのような表現が出来るか、自分で考えながら
聞いていましたが、何度かお話を聞くうちに、専門用語を使わずに説明するのは
とても難しく、返って混乱をもたらすのではないかと、思えるようになりました。

とともに、今まで自分が持っていた価値観とはまるで違っている、というより、

まるで逆の価値観が説かれているのだと思えてきました。

お釈迦さまが求められたものは、現代人が求めているものとはまるで逆であり、
我々が認めている価値を全部否定されたのだと聞こえてきました。
愛情や財産や権力、これらを全部捨てて道を求められたのが

お釈迦さまだったと気づきました。

 そう気づくと、自分はこれまで、仏教を間違って理解していたこと、
社会の一部、表面だけを見て、すべてがわかっているつもりでいたのだと
少しずつ納得し、お話の内容が少しつづ、見えてきたように思います。

現代は自分の都合のよいところだけを見て、それを実現するのが幸せだと
しかし、人間は生まれてくれば、みんな年齢をとり、病気になり
やがては命が終わるのに、それを見ないように気づかないようにして
ごまかして生きているのだと思い至りました。

都合のよいことだけではなく都合の悪いことも見て、感じて、受け入れといく
それが出来なければ、いつの日か突然に絶望が訪れて、何のために生きているのか
何を目指して生きているのか見えなくなることを、仏教は教えているのだと。

そう思えるようになるとお聴聞が非常に楽しく、お話の内容がよく理解できる
ようになってきました。
そしていま、仏さまのお話を聞くのが実に楽しく、いそいそと法座へ通っています。

このような喜びは、会社勤めをしていたときには味わったことのない充実感です。
そして、それは、勝った負けた、損した得したとの一喜一憂の感動ではなく、
すべての人が誰でも同時に喜ぶことの出来る、非常に有り難い感動だと思っています。


南無阿弥陀仏のお話は、今まで喜んでいたこととは大きく違った、いつでも、
どこでも、誰でもが、どんなときでも、敵も味方もなく同時に喜びを感じ、
大きな感謝の気持ちが持てて、自分ほど幸せ者はいない、なんと多くの力に
支えられて生きているのかと気づかせ、感動を与えるものだと感じています。

今思うのは、もっと早くこうしたお話を聞くチャンスがあれば、
人生の深みを、感動を若いときから味わうことが出来たのに、もったいないことをしたと
思っています。
でも、母が亡くなることをご縁にはじめて遇えてのですから、母親からの
プレゼント、残してくれた真実の喜びだろうと味わっています。

是非、自分の子供や孫、ご縁のある人に一日でも、早く気づいて受け取って
味わってもらえれば、うれしく思うばかりです。
でも、私自身が今まで出合えなかったことを思うと、ご縁があるのか、ないのか、
遇えない人は遇えず、遇える人だけが遇える、尊い有り難い価値観だと思っています。
お念仏にあえてはじめて、私の人生は、意味のある素晴らしものだ
思えるようになりました。

どんなに専門用語を使い、なかなか理解できなくても、
遇える人は遇える、遇えない人はどうしても遇えない、いただきものだと、
だから2500年消えずに残ってきた、伝わったきたのですねと・・・・・。

こういうお話をしていただきました。






第1315回 凡夫はわたくし

 平成30年4月12日~

 「隣り蔵建ちや、ワシヤ腹が立つ」ということばがあります。
隣りの家がわが家より素晴らしい家を建てると、心から素直に喜べない自分がいます。
これは蔵(家)だけではありません。
わが子と隣りの子が同じ学校(会社でも構いません)を受験し、わが子がダメだった時、
自分の心の中はとてもお祝いを言う気持ちにはなれません。


それどころか思ってはならないこと、口に出せないことがたくさんあります。
また、職場をはじめ、ギクシャクする複雑な人間関係を通して、
「もしあの人さえいなかったなら」と思った時、それは一人のいのちの
全存在を否定する恐ろしいこころです。

しかも言葉や態度に表わさなかったなら、自分の本性は他人にはわかりません。
その他、名誉、お金、肩書、愛情……どれ一つとっても自分が執われのないものは
一つもありません。実に厄介な存在が凡夫です。


 ところが世間には時々、「自分のことは自分が一番よく知っている」と
豪語する人がいます。しかし「知っている」ことと「知っているツモリ」とは
大きな隔たりがあります。
「ツモリ」とは「不実」の意味で、本当のことではありません。
自分が一番身近な存在だけによく見えないものが自分なのです。

 本願寺第八代宗主蓮如上人は、「他人の悪いところはよく目につくが、
自分の悪いところは気づかないものである。もし自分で悪いと気づく
ようであれば、それはよほど悪いからこそ自分でも気がついたのだと思って、
心をあらためなければならない。
人が注意をしてくれることに耳を傾け、素直に受け入れなければならない。

自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」
(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』一二五頁)と戒められています。


この言葉を頭の中ではナルホドと理解はできても、日常生活ではなかなか
実践できません。
他人のことになると、どんな小さなことでも見逃さないのが自分です。
夫婦げんかや嫁・姑のホットな軋轢などを折々に目にし耳にします。
「鉄砲は他人を撃ち、仏法は己を撃つ」ものであると、いわれています。

 このように、わが身には仏になる要因は何一つ持ち合わせていない、
どうにもこうにもならないものを「凡夫」というのです。

『正信偈』には「凡夫」または「凡」のことばが四ヵ所に記されていますが、
この後には必ず阿弥陀如来のお救いの言葉が添えられています。
凡夫だから見捨てられるのではなく、見捨てることのできないのが
阿弥陀如来の大きなお慈悲の心なのです。

親鸞聖人は『歎異抄』で[それほどの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『註釈版聖典』八五三頁)
と、しみじみよろこばれています。

     藤井邦麿著 「拝読浄土真宗のみ教え」の味わい 本願寺出版社








第1314回 会葬御礼

 平成30年4月 5日~

 皆さまに大変お世話になりました前坊守が、ご往生いたしました。
通夜・密葬とおかげさまでつとめることができましたが、
49日には、門信徒の方に、門徒葬をお勤めしていただきます。
その会葬の御礼に次のような文章を書かせていただきました。



 十八年前に往生の小倉院(前住職)が、植えた桜が満開で、

子どもや孫、ひ孫たちが里帰りして、皆そろった春休みに、
仏教讃歌が流れる中、にぎやかな笑い声を聞きながら、
前坊守は、九十七歳で往生の素懐を遂げました。


 部屋のしつらいが好きで、季節に合わせて床の軸を替えたり、 
前住職が大事に育てていた、草花を飾って楽しんでいました。
ご本山から届く、本願寺新報 大乗 めぐみ、それに施本で
頂いた小冊子、住職が作る法話カード等、必ず読んでおり、

自室に飾られていた色紙には、自筆で

  常々に 仏のみ名を 称うべし
   身の終わりには となえ得ずとも 
                 足利義山和上の歌でした。

 密葬が終わり、つくし斎場に着くと、周りの山々は桜が満開で、
「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ」 西行法師の歌のように。

 孫の一人がつぶやきました。
「覚え易いね。平成30330日、午後330分収骨、100歳まで後3年、
  身(3)を尽くしだね」

「 讃嘆、三願、三信、三宝、三帰依、讃仏偈、散華 ・・・」 と。

 阿弥陀さまに導かれ、多くの皆さまに支えられ、お念仏の尊い
一生でした。本当にお世話になりました。ありがとうございました。
そしてもう、還相の菩薩さまとして、今ここに、はたらきかけて
おられることでしょう。  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 

   こんな言葉を お礼とさせていただきました。






第1313回 「行く」 のか 「来る」 のか

 平成30年 3月 29日~

 九州地方の方言の一つに 行くと来るとが、逆転するものがあります。
普通は「僕の家に遊びに来るかい」といえば、「うん、行くよ」でしょうが
相手の立場にたって「うん来るよ」と言うのです。

 九州以外の人には、おかしく感じられるでしょうが、「行く」「来る」の
使い分けは、使っている人の視点の違いにあるのでしょう。
英語でなら、家に来ないかということを
"Would you come to my hous?"と言い、それに対して
"Yes, I will come"となるだろうし、行くのではなく 来ると言うので
九州方言は英語と同じ使い方のように感じられます。

話題の中心に向かうことが「来る"come"」で、話題の中心(目的)から離れることが
「行く"go"」であるようです。

ですから、友達の家が話題の中心ですから、そこに向かうのは「来る"come"」になるのです。
別の言い方をすれば、相手側から見て、自分が近づいて来るのが
「来る」であり。この表現は 相手の立場に立っていることになります。

 これに対して「行く」は 自分の移動のことを表現しているだけである。
自分中心であり、幼児的であるとも言えなくはありません。
相手を尊重するのが大人ですから、「行く」「来る」の表現は、話題の中心を
どこに置くかで区別する思いやりのある言葉だろうと思います。


 さて、相手の立場にたってのこうした言葉遣いは、ことによると浄土真宗の
お聴聞の成果なのではないかと感じています。
お念仏が盛んな地方の独特の言い方なのではないかと。

 阿弥陀如来は 私のところに来てはたらいていただく、真如から現れ来った
仏さまが、如来さまが、南無阿弥陀仏となって、はたらいていただいていると、
繰り返し、繰り返し、お聴聞をすることで、私のために、ここに来て

いただいている、私がゆくのではなく、来てくださっている。

お聴聞することで、そうした感覚が育ってくると、相手への思いやりが強くなり、
行くのではなく、来るという表現が定着してきたのかもしれません。


お浄土へ 生まれると 仏となって すぐに還って来る 行って
しまうのではなく、還ってくる。
九州の方言「来る」は、そう味わうと 有り難い言葉だと思えてきました

 先だった方々は、仏となってここに来て、はたらいていただいている、
私も命終われば 仏となって、この世に還ってくる。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は いまここで、はたらいていただいているのです。








第1312回 小さな石に お花が

 平成30年 3月 22日~

 巡番報恩講の季節、正装して法要に出勤するために後堂で待っている時に、
本堂の裏に石が等間隔に置かれ、花が飾られている一角が目にはいりました。
お墓にしては、小さな石で、しかも不揃い、庭石にしては小さすぎで、
それぞれの石の前には、花が供えてあります。

「何だろうとつぶやく」と、前にいた地元の老僧が、小さな子どもさんの
お墓ですよと、教えてくださいました。
「家の墓には、納めないんですか」と聞くと、「あまりに小さくて火葬すれば

 なくなってしまう、そこで、ここに埋葬してあるのですよ」と。

 お寺の過去帳に、昭和30年代までは、小さな子どもさんの名前がたくさん
あることを思い出しました。
そうした赤ちゃんたちは、火葬できずに、ここに埋葬されているのでしょう。
よく見ると、造花もあるものの、新しい花が供えてあるところもあります。
その数、四十から五十近くもあるようです。
もう、親たちは亡くなって、兄弟姉妹たちが、今も墓参に来ているのでしょう。

 現代は、医学が進んで年配者から順に亡くなっていく時代になりました。
ところが、終戦から二十年余りは、効果的な治療薬がなく、栄養状態も

良くない時代には、かわいい我が子を亡くす悲しみ、幼い兄弟を亡くすことも
珍しいことではなかった。
死別の悲しみが、他人ごとではなく、自分のこととして降りかかっていた時代には、
宗教がもっと身近にあったことでしょう。


しかし、今、身内の死ということが、だんだん遠いものになり、驚きや
悲しみを経験することが、少なくなってきたように感じられます。
その結果、人生に味わいを増す はたらきがあるお念仏の教えに

なかなか遇えない時代になってきたのでしょう。

つらい苦しい逆縁を経験しなくなったことで、尊いご縁に出合えるチャンスが
少なくなったのだろうと残念に思います。
どうか、悲しみを伴わなくても、一日でも早く、お念仏の教えに出会って
いただき、人間らしい人間、仏様にならせていただく身に、育てていただきたいものです。

南無阿弥陀仏に遇えば 人生は大きく変化して、味わいを増し、喜び多い毎日が
受け取らせていただけるものです。
阿弥陀さまの呼び声を、お聴聞して、是非聞きとっていただきたいものです。









第1311回  おばあちゃんのように

 平成30年 3月15日~

 こんな話を聞きました。
認知症の方を見ていると、日頃、どのような 生き方をされていたかが、
そっくりそのまま 出てくるように思えてしまいます。

  介護施設が増え、施設で働いているご門徒さんも多くなりましたが、お話を聞くと
「あまりお話をしてはいけませんが、お仕事ですから 一生懸命介護しているんです。
正直言って、こういう方だけには なりたくないなあ、と思える方と、こういう方だったら

認知症になっても、いいのかなあと思える人がいらっしゃるんです」。

「どういうことですか?」 と聞くと、「私たちが一生懸命お世話しいると、
にっこりして〝ありがとう、ありがとう“ と言ってね、手まで合わせてくださる。
どうかすると、念仏まで称えてくださる方もあるんです。 
そうしますと、何だか知らないけど、この方のためだったら、何でもしてあげたいと
思えてくるんですよ 」。


「毎日 その方に会いに行くのが 楽しみになる。そうかと思うと、三分の二以上の方は、
まぁ こういう方には 絶対なりたくないという、悪い例になっちゃって申し訳ないですけど」 。

 実は手を合わせて〝ありがとう、ありがとう“ と言って、お念仏をしてくださる方は、
まさに家族の誇りになるんですね。
家族の方が施設へ訪ねてこられた時に、 「お宅のおばあさんはねぇ、みんなに こうして
手を合わせてくださるんですよ。いい方ですね」 って、褒めたくなるんです。

うちのおばあちゃんは、そんなに立派に生きているのかと。
ボケたおばあさんを、家族は見直すんですね。そして家族は安心する。
そして、もし、自分たちも、認知症になったとしても、こういうふうに有り難い
おばあちゃんに なれるんじゃないかな、というふうに、なんかすごく喜ばれるご家族が
いらっしゃるんですね。
家族を喜ばせ、働いている方を喜ばせているんですから、立派な有り難い方なんですね。

 だけどそのためには、急にそんなになるんじゃなくて、長年の生き様が そういう形になって
現れてくるんでしょうから、やっぱりある程度の歳になったら、仏教の勉強もし、お聴聞して
高齢者になったときの生き方を考えておくことが大切でしょうね。

 日頃から、感謝できる、そういう生き方をしていなければ そういうふうになれないのでしょうね。
認知症なんですけれども、 認知症を克服していらっしゃる、こうした、有り難いおばあさんのように
なるには、日頃の生き方で、習慣づけておくことが大事なんでしょうね。

       宗教の時間 愛知県一宮市・光専寺住職 加藤 智見師を参照


第1310回 もらったこと

平成30年 3月8日~

毎日 ご門徒のお宅にお参りしていますが、時々お会いする方と
よくお会いする方とでは 大きな違いがあることに気づきました。

本堂でのご法座で、よくお顔を拝見する方々、月忌参りでいつもお会いする方とは
ご自宅のお仏壇の前で、ご一緒にお勤めをし、仏さまのお話をした後も、話が弾み、
楽しく帰ることができます。
しかし、本堂で、ほとんどお顔を拝見しない方、数年ぶりにお訪ねした方の
お宅からの帰り道は、とても疲れを感じるものです。

 仏さまのお話を聞くご縁が少ない方は、ご自分のご苦労や、体の痛み苦しみ、経験した
悔しいこと辛いことなど、世の中の苦しみを独り占めしたように次から次に、訴えてこられます。
子どもにどれだけ尽くしたか、ご主人や義理のご両親に、どんなに苦労したか、
そのご苦労を次々にお話くださいます。

誰かに話すことで、こころが落ち着くのでしょうから、住職に話していただくのは、
誠に有り難いことではありますが、少々疲れます。


「仏さまは、この私のことを一人子のように いつも見守っておられるといいますから、
 貴方に、ご苦労じゃったなー、よーう頑張ったなあと、そのご苦労を認め、ほめて
 おられると思いますよ」と、申しても、聞く耳を持たず、悔しさ辛さを訴えつづけられます。

どうも、人間は 自分が頑張ったこと してあげたことは 何時までも憶えていて、
ああしてやった、こうしてやったと言うものの、反対に、両親始め多くの方々に、
お世話をかけたことや、やってもらったことは、ほとんど気づかず、気づいても
すぐ忘れてしまい、当たり前になるもののようです。

目が外に向いていますので、自分のことはよく見えず、気づかないものですが
仏さまのお話を聞くことによって、見る目が変わってくるものです。
仏さまがご苦労をして、私にはたらきかけておられることを聞かせていただくこと
お聴聞をすることで、自分が受けたご恩に気づくことが出来るように育てられていくのです。

お聴聞をされる方が、落ち着いて堂々と生活をしておられるのは、
受けたご恩を気づくことが出来、多くの力に支えられている自分であったと
知る事が出来、自分は多くの人々に支えられて生きていることが分かったからの
喜びからなのでしょう。
それに対して、お聴聞の経験を持たない方が、自分のことだけを考えて
怒り腹立ちの生活を送られているのでしょう。

どうか、豊かで喜び多い人生を送りたいのであれば、仏さまのお話を
是非、繰り返しお聴聞することで、もっともっと喜んでよいことが沢山あることに、
気づかせていただくことが出来るのです。

 親たちやご先祖が、お寺やお仏壇、お墓を残してくれたのは、人生の味わい方を
学び、受け継いでほしいとの願いからでしょう。
お料理を味わうことが出来る人と、味わえない人がありますように、人生を
味わう力が育っている人と、味わう能力が開発されていない人とがあります。
同じ人生なら、自分が、してもらったことを気づき、もっともっと、こころから喜べるように
お育ていただきたいものです。

仏さまのお話を聞くこと、お聴聞することで、人生は、大きく違って見えてくるものです。
南無阿弥陀仏とともに、この人生を充分に味わう力を育てていただきたいものです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にして







第1309回 親の七光り

 平成30年 3月1日~

 テレビ見ていると二世タレントや、有名人の子どもたちが活躍する姿をよく見ます。

政治の世界でも、二世議員が増えているようです。
伝統的な工芸や芸能、中小企業などでは、当然のように親の後を受け継いで
いますが、大企業の入社試験などに、親の威光が及び、恩恵を受けることを
「親の七光り」といって、あまり良い意味では使われないものです。

 親から素晴らしい能力を受け継いでいるのでしょうが、そうした後ろ盾を
持たない人にとっては、うらやましくまた妬ましいものです。
子どもの頃、先生の子どもや父兄会役員の子どもが、悪いことをしても、
先生が本気でしからなかったとき、不公平だと感じたものです。


 さて、光といえば仏さまのはたらきも光で表します。
阿弥陀さまのはたらきである、仏の智慧の徳を、十二種に分けて称讃します。

1.無量光(むりょうこう)。量かることのできない光。
2.無辺光(むへんこう)。際限のない光。
3.無碍光(むげこう)。何ものにもさえぎられることのない光。
4.無対光(むたいこう)。くらべるもののない光。

5.炎王光(えんのうこう)。最高の輝きをもつ光。
6.清浄光(しょうじょうこう)。衆生のむさぼりを除くきよらかな光。
7.歓喜光(かんぎこう)。衆生のいかりを除きよろこびを与える光。
8.智慧光(ちえこう)。衆生のまどいを除き智慧を与える光。
9.不断光(ふだんこう)。常に照らす光。
10.難思光(なんじこう)。おもいはかることができない光。
11.無称光(むしょうこう)。説き尽くすことができず、言葉もおよばない光。
12.超日月光(ちょうにちがっこう)。日月に超えすぐれた光。

 阿弥陀さまは、すべての人を一人子のように、照らし続けておられると
説かれていますが、そのはたらきに気づくこともなく、私たちは自分の力
自分の努力だけで生きていると思っています。

 阿弥陀さまは、すべての人を必ず救う、お浄土へ生まれさせ仏にするぞ、
そして一緒になってお念仏の教えを人々に伝えようと、この私に向かって、
ずっと休むことなく、はたらきかけておられるのです。
しかし、仏さまのはたらきに 気づくこともなく生きてきました。

 親の七光りは、この世でしか通用しませんが、仏さまのはたらきは、
この世だけではなく、いのち終わっても大丈夫な力があるのです。
そして、阿弥陀さまが、この私を一人子のように、心配しはたらきかけて
おられるのなら私には、比べることも出来ない大きな力を持った偉大な
親があり、十二の光で、南無阿弥陀仏で護り導いていただいているのです。
そう味わうことができれば、安心して堂々と、生きることができるものです。

 私は、阿弥陀さまの御曹司・お嬢さまであると気づけば、大企業の社長の 
子どもや、絶大な権力者の子ども以上に、素晴らしい親、阿弥陀さまを親に持った、

注目され護られている特別待遇の子どもであると味わえます。
ですから、厳しい修行も出来ないのに、人並み以上の能力を持たないのに、
南無阿弥陀仏のお念仏一つで、やがてお浄土に生まれさせていただき、 
仏になって、はたらく能力を与えられているのです。


 これからは親に反抗せず、迷惑をかけないよう、繰り返しお聴聞をし
喜び多い豊かなお念仏の生活をさせていただきたいものです。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏  








第1308回 盲亀浮木(もうきふぼく)

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」で始まる
礼讃文(三帰依文)が、日頃お勤めする聖典の最初に記載されています。

  人間に生まれることは、とても難しいことであり、仏法に出遇うことは、
もっと難しいことなのに、すでに人間に生まれることが出来ており、すでに
お念仏のご縁にもあえていることを、何の感動もなく、当たり前のように
思って生活しています。


 人間に生まれたことを、本当に喜ぶことが出来るようになるには、実は、
仏法に遇えてお聴聞することで、はじめて気づかされることなのだろうと思います。

お念仏の教えに遇うことができなければ、人間に生まれたことは、喜びではなく、
苦しみ一杯の「一切皆苦」と説かれている、つらい人生で終わってしまうのでしょう。

人間として生をうけることが、とても難しいことの例えとして、
大海の中に落ちている一本の針を探しだすほどに難しいことなのであるとか、
須弥山(しゅみせん)から垂らした糸を、この地上の山麓においた針の穴に
通すことのように難しいことである等と例えられています。

『雑阿含経』の中には、「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえが説かれております。

ある時、お釈迦さまが「大海の底に一匹の目の見えない亀が住んでいて
100年に 1度、浮かび上って、海上に顔を出すとしよう。
その時 1本の流木が漂っていて、その木の真ん中には、1つの穴があり、
浮び上がったとき、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すようなことがあるだろうかと」
お弟子さんに尋ねられました。

いつもお側に仕えていた阿難は「そんなことはほとんど考えられません」と答えると、
お釈迦さまは「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。
しかし、全くないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、
今の例えよりも更にありえぬほど難しいことなのだ」と、
それほど稀な尊いご縁をいただいているのだと説かれていると聞きます。

そして仏法聴聞が出来るという不思議な 稀なうえに、稀なご縁をいただいて
生かされている私であるのに、充実した人生であると感じて、喜びを味わい
人間として生き甲斐を持って生きていると言えるのでしょうか。

折角有り難い人間に生まれ、今すでにお念仏の教えに出遇うことができていますが、
お聴聞をくり返すことによって、さらに味わいを深めさせていただき、もっともっと
喜び多い豊かな人生を、限られたいのちではなく、永遠のいのちをたまわり、
お浄土への道を、一歩一歩歩ませていただきたいものです。

お聴聞をくり返し、お念仏を申しながら、仏さまのはたらきを、味わえば味わうほど、
なんとすばらしい、尊いご縁に合わさせていただいているのかが、もっともっと
味わえてくるものでしょう。







第1307回 お礼をする

平成30年2月15日~

お仏壇の前で 手を合わせ南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と
お念仏することを お礼をするといいます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は、報恩のお念仏とも言われます。

御文章などには、「たのむ」と書かれていますが、その当時言葉では
信頼する、たよる、お任せするという意味で、私の思いの通りに願いを
叶えてくださいという意味とは違うと言うことです。

ですから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とはお礼の報恩感謝のお念仏と
言われるのです。

お礼と言えば、感謝する相手の行動、はたらきを口にして、お礼の言葉を
言うものです。
「昨日は、わざわざお訪ねいただき、美味しいお菓子までいただきありがとうございました」
「子供をわざわざ送っていただき 本当に有り難うございました」
「いいお得意様をご紹介いただきありがとうございました」
などと、相手のはたらきを口にして感謝の言葉を言うものです。

 過ぎ去った、過去のことばかりではなく、これから未来のことに
も感謝することがあります。
「ご紹介いただき、早速明日お訪ねしたいと思います。ありがとうございました。」
「知りませんでした。そんな便利なものがあるとは、早速注文したいと思います」
など、まだ実現していないものの、未来に対することでもお礼をいうものです。

 さて、それでは、報恩のお念仏とは、どういうことを口にしているのでしょうか。
阿弥陀さまがこの私を救っていただくのは、過去ではなく、これから未来のことです。
もう救われたのではなく、これからお浄土へ生まれさせていただくのです。

ですから、「阿弥陀さまが、この私をお浄土へ生まれさせ、仏にすると
はたらきかけていただいていることを、知る事ができました。ありがとうございます」とか
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と口にしているこの私は、もう仏の仲間と仰って
 いただいていると、教えていただきました。やがて、このいのちが終われば
  お浄土で、仏のさとりを得ると思えば、有り難く嬉しく、元気が出てきました」
「歳を重ねて、もう何もできなくなり、お世話ばかりかけていますが、
 お浄土で仏にしていただき、阿弥陀さまと一緒に、人々の悩み苦しみを
 取り去るはたらきが出来ると教えていただきました。役立たずの私にも
 明るい未来があることを知り、有り難くうれしくてお念仏しております」

などなど、四苦八苦の苦しみの中でも、明るい明日を思い描くことができ
希望と喜びが与えられるのでしょう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と口にするだけではなく、時には、具体的に自分の言葉で、
お礼を表現してみると、その喜びは、もっともっと、深まってくるものです。

南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏で これから明るい未来が開けてきて、有り難さが
増していき、ますます生き甲斐がわいてくるものです。

お念仏に遇えて、よかったですね。お釈迦さまが説かれた教えの真意を教えてくださった
親鸞さまありがとうございます。

南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とともに、時にはお礼の言葉を口にしてみませんか。







第1306回 お墓や納骨堂は

 平成30年2月8日~

 お寺の境内に 墓地と納骨堂がありますが、お彼岸やお盆、年末年始には
実に沢山の方が次々にお参りになります。
それも、お孫さんなど若い方をお連れの方が多く、売店を出しても良いような賑わいです。

そして、何故か参拝の時間が重なって、お昼前とか 午後一時すぎなどにピークになります。
きっと、お祖父ちゃんやお父さんが、「お昼ご飯を食べに行くぞ」と号令をかけ、
一緒に住んでいる家族だけではなく、訪ねてきた子や孫を誘って、食事をする前や、
食後に揃ってお墓参りをされているのではないかと、感じています。


 お年寄りだけでお参りされるところもありますが、家族づれでお参りになるところは、
若い人と一緒にお墓や納骨堂にお参りすることで、子供や孫に、大切なものを伝え、
教えておこうとの配慮があるのではないかと思います。


 親たちの願いは、子どもや孫の幸せです。
そのためには、学校教育を受けさせ、子どもや孫に少しでも豊かな生活をさせたいとの
思いを多くの親は持っているものです。

確かに、高等教育を受けることによって、活躍する場所が広まることは、子供の幸せに
繋がることでしょう。


 関東や関西、近頃は海外で活躍しておいでのお子さんやお孫さんも多く、なかなか
顔を合わせるチャンスも少なくなっています。

お寺の住職として見ていると、高等教育を受けた人の方が、必ずしも、より幸せとは
感じられなくなりました。


 むしろ、地元の企業や自営業として地道に生活して、汗をかきながら頑張っている人、
地元で平凡な生活をしている人の方が、幸せな人生を送っておいでのように感じます。

お子さんやお孫さんたちが、近くに住んでいて、よく顔を合わせることが出来のはどうも、
豊かな生活に見えてきます。


お墓や納骨堂は、親や祖父母、多くの先輩がいて、はじめて、いま自分がいることを
教え伝えるには、もっとも適切な場所のように見うけます。

自分だけではなく、多くの力に支えられて今の自分があることを教え伝える所だろうと思います。

 そして、お寺の境内地にあることは、いつか本堂に座って、お念仏の教えに遇ってほしい、
若い時は、自分の努力で大抵の問題は解決するものの、老病死が近づくと、今まで持っていた
価値観では、辛い苦しい人生になってしまうもの、お念仏の価値観に出会ってはじめて、
人間に生まれてきた意義や、生きる喜びが味わえてくることを、親として伝えておくことが
最も大事なことだと思います。


 近頃、子供に迷惑をかけたくないと、ご法事や葬式など簡素化してしまうことがあるようですが、
他の人に、迷惑をかけなければ生きていけないのが人間であり、一人だけで生きいくことは出来ません。

多くの方のお世話になって生きており、自分も同じようにお世話をしていくことが、生きることであり、
喜びであることを、伝えておくことが大事だと思います。


その点では、法事も葬式も、お墓や納骨堂も、そして、ご自宅のお仏壇も、そのことを
知らせ味わわせるもの。

お互いに助け合って生きていくことの大切さと喜びを教えておくことが可愛い孫や子どもにとっては、
幸せになるには最も大事なことだと味わいます。


どうか、人間は多くの力に支えられ、生かされていることを、気づかせ感じさせ
共に生きることに、喜びを感じる力を味わい、次の世代に伝えていくには、
お墓や納骨堂、お仏壇は重要な役割をはたしてくれるものです。







第1305回 ご先祖が最も喜ぶのは

 平成30年 2月 1日~

 お正月やお彼岸、お盆、命日などに、家族そろって先祖の墓に
お参りをするのは、日本人のすばらしい習慣です。
想い出深い父や母、あるいは祖父母の在りし日を 偲びながら、
墓前に花を供え、皆んなが こうして すこやかに過ごさせて  
いただいていることに感謝するのは、美しい習俗だといえましょう。


 しかし、墓参りするのは、先祖供養だとするのは どうでしょうか。
「 供養 」という意味のなかには、先祖のために 何かしてあげる 
私が祈ってあげるという心理が働いています。


祈ることによって ご先祖をどうにかできる力が、はたして私に 
あるのでしょうか。また、祈らねば ならないような状況に、 
自分の先祖はおられる、と思っているからでしょうか。


 讃岐の庄松さんは、「 墓を作ってやろう 」という知人の言葉に、
「 わしは死んでも、石の下にはおらんぞ 」と・・・・。
肉体の抜け殼としての骨は 土に埋められても、自分は如来の大悲に
救われて お浄土に生まれ、そして衆生済度の務めをするのだ、  
土の中で眠っているわけにはいかん、という意味なのでしょう。


 山口県柳井の沖にある笠佐島では、お骨は 火葬したままで
墓は作らないそうです。

全戸浄土真宗門徒で、庄松さんと同様の意識からのようです。
京都のある著名な商家でも、お骨は親鸞聖人のお墓がある  
大谷本廟におさめて、自分の家では墓を持たない主義、それが
ご法義にかなうという 信念によるものでしょう。


 人間は、自分の果たし得なかった夢を、子どもに託すものです。
子どもこそは、親の願いであり 期待であり、また いのちなのです。
親から子へ、子から孫へ 次々に伝えられた 先祖の願いが、
この私に凝縮しているのだと、考えられないでしょうか。

中国の『 礼記 』に「 身は 父母の遺体なり 」とあるのも、
同じ意味でしょう。


 とすると、真にご先祖を喜ばせる方法は、私自身が真の教えに
目覚め、永遠の いのちをいただくこと ではないでしょうか。

そのとき私のなかに 凝縮されて、一緒にいるご先祖もともに、
永遠の いのちを得るのです。先祖は それを願っているのです。


 先祖に謝念を捧げる墓参を あながち否定しませんが、形式的に
墓参するだけではなく、ご先祖を 喜ばせようと 思われるのであれば、
あなたが お寺に参って ご法話を聞かれる以上の方法はありません。
私が 仏法に目覚め、お念仏とともに 喜び多い人生を送ることが、
ご先祖が最も 喜んで頂けることだと味わいます。 
             (参照 霊山勝海著 やさしい真宗講座)

 今、持っている知識や常識では、これから必ず訪れてくる苦しみ、 
四苦八苦の問題は解決できません。一日でも早く、南無阿弥陀仏に

出遇っていただくことが、ご先祖を、そして自分自身を最も喜ばす  
ことになるのです。教えを聞かねば、気づかない世界があるのです





第1304回 今や 稀少な教えに

平成30年 1月 25日~

「宗教年艦」が文化庁から毎年発艦されています。
それによると、信者数が多い宗教は、浄土真宗で、本願寺派が792万人
真宗大谷派791万人と、あわせると1600万人、浄土真宗が、日本では
もっとも信者数が多い宗教だということです。

 ところで、今から 150年前の明治時代初期には、日本の人口は 凡そ300万人で、
そのうち浄土真宗の信者が 2000万人もいて、国民の半数以上は

南無阿弥陀仏の教えだったと聞いたことがあります。

 現在、日本の人口は、約4倍の12千万を超えていますが、お念仏の人は
逆に減ってしまい、その比率は、60パーセントから、大きく下がって
わずか 12パーセント余り、現代では、国民全体から見れば
少数派の珍しい貴重な教えになってしまったようです。

 農村地帯では、家族や地域で南無阿弥陀仏の教えが、生活の中に
位置づけられ伝わっていましたが、だんだんと親と子供が一緒に住まなく
なってきて、親から子へと、南無阿弥陀仏が伝わらなくなっているように感じます。

 そして、ご門徒の中でも、実際にお聴聞をして、
「お念仏の人は、やがてお浄土に生まれ仏になる、この世をさった先輩達は、
すでに南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と はたらきかけて頂いている」と
味わっている人が、はたして、どれだけおられるのでしょうか。

 残念ながら、自分のまわりのご門徒をみていると、その2割から3割だけが
本堂に座ってお聴聞していただく方で、その他の多くの方々は、お聴聞のご縁がなく、
一般でいう「先祖供養が仏教である」と理解しておられるのではないかと思います。


 ですから、お釈迦さまが説かれ、親鸞聖人が勧めていただいている
南無阿弥陀仏の教え、お念仏で救われるということを、ご存じでない方が
ほとんどで、仏教は自分のためのもの、この私のための教えとは
味わっておられる方はほんのわずかなのだろうと思います。

 昔よく聞かれていた、お陰さまで、もったいない、有り難うございます。という
自分の人生を、すばらしいものと喜んでおられる方は、非常に少なく 現代は
暮らしは豊かになったものの、心は貧しく苦しみ多い人生を送っておいでの方が
多数派となったのでしょう。

 月忌参りで、毎月お逢いする心豊かな方々と、南無阿弥陀仏のご縁が
まったく無い、その他の多くの方々を見比べると、お念仏にご縁が無い方々が、
老病死に悩み苦しみ、人間に生まれてきたことを、喜ぶどころか、悲しみ
嘆いておられる姿を拝見することがあります。
実にもったいない、辛い人生を送っておいのようで残念でなりません。

日本人の価値観の中心にあった、南無阿弥陀仏・お念仏の教えが今や、
貴重なごく少数の方々にだけに伝わっている教えとなっているように味わえます。

 若い世代は、追い求めて欲望を叶えることも大事でしょうが、
歳を重ねた世代は、無い物ねだりをするのではなく、いま自分に与えられた
環境・境遇を、そして自分の周りに起きる出来事を、また共に生き
ご苦労かけている人々の存在に、気づかせていただき、感謝の気持ちを
味わえる喜び多い豊かな人生を送らせていただきたいものです。

歳を取っても、健康でなくなっても、残りのいのちがわずかでも、
お浄土という確かな未来を与えていただき、南無阿弥陀仏に導びかれて、
慌てず騒がず堂々と生きぬいていきたいものです。
気づかねば、辛い苦しい人生で終わり、南無阿弥陀仏の教えに遇えて、
初めて喜び多い人生を受け取ることが出来るのです。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にし、耳に聞きながら、喜び多い、
生き甲斐ある人生を味合わせていただき、この貴重な教えを子や孫へ
伝えていただいものです。

これこそが確かに次の世代に残すことの出来る最高の財産、宝ものだと味わいます。







第1303回 他力本願とは

 平成30年 1月 18日~

本願寺出版社から出ている「親鸞さまの教えって何?」には

親鸞聖人が90年のご生涯をかけて私たちに教えてくださった“み教え”には、
すべての人が救われていく道が説かれています。

「他力本願」「悪人正機」「往生」の3つのキーワードで、味わう ことが出来ます。

その一つ 他力本願 (たりきほんがん)という言葉は、浄土真宗に
おいて、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がいわれた「他力」とは、自然や社会の
恩恵のことではなく、もちろん他人の力をあてにすることでもありません。

また、世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、他の力という
意味でもありません。

「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺な阿弥陀如来の力を表す言葉です。

「本願」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。
阿弥陀如来の根本の願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏を信じさせ、
称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われた願いのことです。
この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとする
はたらきを「本願力」といい、「他力」といいます。


私たち念仏者は、このような如来の本願のはたらきによる救いを、「他力本願」 
という言葉で聞き喜んできたのです。

ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、いまのいのちの尊さと 
意義が明らかに知らされるのであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。

・・・・と書かれています。


 私たちは つい自分の力を頼ることではないと、説明するために
「他力」とは、自然や社会の恩恵や、親や兄弟、先生や先輩などの力を
含めて、表現してしまいがちです。

 しかし、他力とは そうした力のことではなく、そのいずれをも超えた、
広大無辺な阿弥陀如来の力を表す言葉というのです。

 自分を取り巻く多くの働き、力が、どうして他力に含まれていなのか。
疑問に思っていました。
気づいたことは、私たちはどうしても、自分に都合の良いことだけを
有り難い、良かったと受け取り喜んでいます。

 ところが、ここでいう「他力」とは、自分にとっては不利益で困った
問題であっても、迷惑なことでも、すべてを受け入れること、阿弥陀さまの
はたらきという味わいがないと、自分の勝手な欲望を叶えるための力と、
間違って受取ってしまうことになりそうです。

そうではなく、南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせお浄土へ生まれさせるという
はたらきを「他力」と受け取ることによって、すべての出来事には意味があり、
何事もお浄土への順調な道のりであり、無駄なことは一つもないと受け入れることが
出来るのです。


 都合の良い出来事も困ったことも、すべて、良い経験をさせて頂いている、
有り難いことと受け入れて生きていく、それが、お念仏に生きる人の姿だと
味わえてきました。








第1302回
 おつとめする意味

 平成30年 1月11日~

 こんな文章に 出あいました。

 おつとめする意味 ~優しい心遣いに応える言葉は? ~

 お寺の法要やお家の法事などで、「浄土三部経」や「正信念仏褐・和讃」を
拝読していますが、そもそも、「おつとめする」ということは、何をしているのでしょう。
このようにお尋ねすると、「それは〈聖典〉のご文を声に出して読んでいるのです」と
おっしゃるでしょう。

それでは、どのような思いで、私たちは拝読しているでしょう。

 毎日、忙しく生活していますと、「ちょっと一息つきたいな」と思われることも、
しばしばあるでしょう。
こうした時、身近にいらっしゃる方に、「お茶を入れてくれる?」と頼んで、
休憩されることがあると思います。
ところが、こちらの気持ちを察して、相手の方から「どうぞ」といって、
お茶を差し出されたら、思わず「ありがとう」とおっしゃるでしょう。

 どちらも何気ない会話のやりとりですが、頼んでからいただくことと、
その前に差し出されのとでは、大きく意味が違ってきます。
依頼するということは、自分の思いを伝えて、お願いするということですから
声をかけるまでは、気持ちは伝わっていないでしょう。


しかし、相手の方から声をかけられるということは、こちらの思いを
察してくださっているのですから、気持ちが通っているということです。
そうした時には、感謝の気持ちが湧き起こってくるでしょう。

「おつとめする」ということについても、同じように考えることができるのです。
私たちが拝読している「聖典」は、「どうぞ(まかせておいてください)」という

「阿弥陀仏のおこころが綴られてあるもの」です。

ところが、「私か読んでいる」という思いから、「おつとめする」ということは、
「どうぞ」と声をかけていただいているのに、「お茶をいれてくれる?」と
頼んでいるようなものでしょう。

 阿弥陀仏は、煩悩に振り回されて、どうすることもできない私たちを
救い取ろうとして「すでに」はたらきかけていらっしゃいます。
ですから、「勤行(おつとめする)」ということは、いついかなるときも、
私たちのためにはたらきかけてくださっている阿弥陀仏を称え、
そのおこころのうちに救い取られていることに対して、感謝の気持ちから
行うもの、ということでしょう。

  本願寺出版社 なるほど浄土真宗 佐々木義英著より








第1301回 むなしく過ぐる 人ぞなき

平成30年 1月 4日~

浄土真宗の通信教育の機関誌に、こんな文章に出会いました。

 毎年、連休になると、多くの人たちが休みを利用して旅行に出かけます。
皆さんの中にも、連休中旅行を楽しまれた方々も多いと思います。
その時には、事前に目的地について調べたり、旅先で何をしようかと
相談したりすることが、実際の旅よりも楽しい時間だったりもします。

 どこかに出かけようとする時、私たちは事前にいろいろと調べた上で出かけ
ていきます。
ところが、日頃、自分の人生の行く先についてどれだけ考えることがあるでしょうか。
旅行とは違って、自分の人生の目的や行く先を問わないまま何となく生きて

いることが多いのではないでしょうか。

 仏教はよく「転迷開悟」の教えであると言われます。
では、仏教で言う「迷い」とは何なのでしょうか。
それは「貪欲・瞋恚・愚痴」の煩悩に閉ざされた私たちのあり方で
あるとよく言われます。
少し分かりやすく言い換えると、「ほしいほしい」といろいろなものに執着し、
ありのままの現実を見つめず「くやしい」と他を責め、
自分を省みることを忘れ「知っている」と思い上がっている私たちのあり方が、
迷いの相です。

それは、虚仮不実なものに惑い、今生きている自己の本当の拠りどころを
見失っている人生の旅だと言うことが出来ないでしょうか。

 親鸞聖人の「高僧和讃」に、「本願力にあいぬれば むなしくすぐる
ひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(「註釈版聖典」
580貞)というご和讃があります。

現代語訳すると、「阿弥陀如来の本願に出遇ったならぱ、人生がむなしく
過ぎるということはありません。
大海の水が隔てなく満ちているように、阿弥陀如来のおはたらきは、
煩悩にまみれた私たちにも分け隔てなく満ちわたるのです」という意味です。

親鸞聖人は、自己の本当の拠りどころを見失って生きている私たちに向かって、
「阿弥陀如来の本願に出遇った念仏者の人生は空しく過ぎることはないのです。
如来のはたらきは、煩悩にまみれた私たちを満たす真実のはたらきです」と
仰っています。

親鸞聖人の教えは、迷いの中に生きている私たちに、その人生の目的、
拠りどころとなる真実を明らかにされています。
日頃の学びを通して、その阿弥陀如来の本願の意味を深く一人ひとりが聞き
開いていくことが大切です。 

          嵩 満 也 師  (龍谷大学教授:宗教担当)






第1300回 ただ法を聞く

 平成29年 12月28日~

 浄土真宗は「聞法(もんぽう)の宗教」であり、法のあるがままを
お聞かせいただいて救われていく教えです。
ですから聞法を何より大切にしています。

親鸞聖人は「『聞其名号(もんごみょうごう)』といふは、本願の
名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを
『聞』というなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」
 (註釈版聖典678 頁)と示されています。

つまり聞法とは「いっさいの衆生を必ず救いとって浄土に生まれさせよう」という
誓願が成就された本願の名号(南無阿弥陀仏)を疑いなく聞きひらくことであり、
その阿弥陀仏の喚(よ)びかけどおりに聞き受け、何のはからいもなく
そのお救いにまかせたことを信心というのです。

また信心は、仏の大悲のまことをこの身に賜ることですから、仏さまのはたらき
一つで自然に浄土に往生させていただくのです。

霊山(よしやま)先生は「信じるという一般の語は、思い込む、念じる、祈る、
あるいは信念などの語と類似していて、私の意志の力で作り上げる心理作用である。
これに対して他力の信心は阿弥陀仏の本願という法則を聞いて、なるほどと

うなずくことである。
それは法則を私の中に受け入れることであり、私的な我執に代わって本願という法則が
私の拠点になることである」(『歎異抄
親鸞己れの信を語る』)と、
他力信心の核心をわかりやすく解き明かしてくださっています。


聖人は「浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである」と
述べられています。
それは、如来のはからいによって自然に浄土に往生することは易いことであるけれども、
己れの信念や意志がかたく、とらわれ心がつよい私たちには、如来の真実に心を開き、
その法則を受け入れることは至難のことであるといわれるのです。


浄土真宗は、一定期間集中的に念仏したり聴聞すれば信心が得られるとか、
決められた聴聞の回数や学習段階の目標を一つひとつ満たしていけば
必ず信心に到達する、というような教えではありません。
近道を探すことよりも、ただひたすらに聞いて、じつはその過程の
一つひとつにこそ意味があると思われます。

また、たとえ信心が得られたからといって、そこで聴聞が終わりになるわけでも
ありません。聴聞には生涯卒業はないのであります。
仏の御前にどこまでも愚かな自身を投げ出し、ひとすじにそのおこころを聞き、
仏の法則にまかせていくばかりであります。
                    貴島 信行(きしま しんぎょう)



                         妙念寺       

 

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掲載者 妙念寺住職  藤本 誠


電話法話一覧表

   ( 平成18年 )
第676回 味わえる人生  1月 4日~
第677回 祈らない宗教  1月12日~
第678回 どんな苦しみでも  1月19日~
第679回 世間の人々は  1月26日~
第680回 一つの目印  2月 2日~
第681回 デジタル時代の一つの試み  2月 9日~
第682回 来迎は諸行往生にあり  2月16日~
第683回 真実ということ  2月23日~
第684回 善悪のふたつ  3月 2日~
第685回 永遠のいのち  3月 9日~
第686回 念仏せよの呼びかけ  3月16日~
第687回 目的地は  3月23日~
第688回 肥 料  3月30日~
第689回 蓮の花  4月 6日~
第690回 今 ここに寄り添って  4月13日~
第691回 人間と動物の違い  4月20日~
第692回 善 と 悪  4月27日~
第693回 足元にある  5月 4日~
第694回 降誕会によせて  5月11日~
第695回 願いの言葉  5月18日~
第696回 生涯を疑わない  5月25日~
第697回 ありがたい  6月 1日~
第698回 好きなものだけ  6月 8日~
第699回 痛みは 呼び声  6月15日~
第700回 出る息 入る息  6月22日~
第701回 預かりもの  6月29日~
第702回 気づいてみれば  7月 6日~
第703回 誰が 救われるのか  7月13日~
第704回 誰のために  7月20日~
第705回 仏の仲間  7月27日~
第706回 二つの言葉  8月 3日~
第707回 気づくか 気づかないか  8月10日~
第708回 伝えたい  8月17日~
第709回 行き先変更  8月24日~
第710回 GNP より GNH  8月31日~
第711回 卒業記念の団体参拝  9月 7日~
第712回 積極的に参加したい  9月14日~
第713回 念仏と呪術  9月21日~
第714回 新たな価値観  9月28日~
第715回 ある遺書 10月 5日~
第716回 み仏の影 10月12日~
第717回 同じ 光なのに 10月19日~
第718回 無関心は 無責任 10月26日~
第719回 今を生きる 11月 2日~
第720回 誰かのために 11月 9日~
第721回 光と ともに 11月16日~
第722回 自然法爾ということ 11月23日~
第723回 男の料理教室 11月30日~
第724回 伝統の意味 12月 7日~
第725回 有り難い 尊いご縁  12月14日~
第726回 やはり基礎工事が大事 12月21日~
第727回 遇 う 12月28日~
    ( 平成 19年 )
第728回 賢い主婦は  1月 4日~
第729回 伝統の有難さ  1月11日~
第730回 無我について  1月18日~
第731回 後をたのみます  1月25日~
第732回 闇を破る  2月 1日~
第733回 青色青光  2月 8日~
第734回 功 徳  2月15日~
第735回 あなた この世に  2月22日~
第736回 仏に成る  3月 1日~
第737回 犬に噛みつく  3月 8日~
第738回 ご縁をいただく  3月15日~
第739回 広大なる智慧  3月22日~
第740回 照らされている  3月29日~
第741回 表面だけでなく  4月 5日~
第742回 呼び声 聞こえたら  4月12日~
第743回 更新プログラム  4月19日~
第744回 スペースができました  4月26日~
第745回 見方 考え方 味わい方  5月 3日~
第746回 アンパンマン  5月10日~
第747回 いのちの願い  5月17日~
第748回 わがまま坊や  5月24日~
第749回 応報大悲弘誓恩  5月31日~
第750回 あなたの願いは 何ですか  6月 7日~
第751回 右か 左か 1か0か  6月14日~
第752回 その名を聞くと  6月21日~
第753回 他力ということ  6月28回~
第754回 いただきもの  7月 5日~
第755回 習 慣  7月12日~
第756回 お掃除  7月19日~
第757回 人間に生まれても  7月26日~
第758回 人間と環境  8月 2日~
第759回 ハードとソフト 機と法と  8月 9日~
第760回 浄土真宗の教え  8月16日~
第761回 ベースが大事  8月23日~
第762回 深く生きるためには  8月30日~
第763回 子供が思う以上に  9月 6日~
第764回 癒しと 安心と  9月13日~
第765回 名号は 声である  9月20日~
第766回 私を救ってくださるのは  9月27日~
第767回 私にかわって 10月 4日~
第768回 学仏大悲心 10月11日~
第769回 生きている 今が 10月18日~
第770回 知らされた時 10月25日~
第771回 念仏者へのお手紙 その1 11月 1日~
第772回 念仏者へのお手紙 その2 11月 8日~
第773回 念仏者へのお手紙 その3 11月15日~
第774回 健康第一と言うけれど 11月22日~
第775回 感謝する だけでなく 11月29日~
第776回 明日に向かって 12月 6日~
第777回 ナンマンダブのマーチ 12月13日~
第778回 明日が 12月20日~
第779回 死んだら おしまい ? 12月27日~
      ( 平成 20年 )
第780回 気づくか 気づかないか  1月 3日~
第781回 電子顕微鏡  1月10日~
第782回 敬いの こころ  1月17日~
第783回 福は内 鬼は内  1月24日~
第784回 信心まことにうるひとは  1月31日~
第785回 隠れた能力  2月 7日~
第786回 ふかくたのみまいらせて  2月14日~
第787回 育ち 盛り  2月21日~
第788回 愚者になりて  2月28日~
第789回 引いたら ゼロ  3月 6日~
第790回 注意していたつもりでも  3月13日~
第791回 順調は プラスか  3月20日~
第792回 名号のほかに 何が不足  3月27日~
第793回 唯説→ 唯聴⇒ 唯説  4月 4日~
第794回 悪人正機  4月10日~
第795回 本当に可愛いのなら  4月17日~
第796回 私の歩む道  4月24日~
第797回 迷いの世に還って  5月 1日~
第798回 念仏は称えるが  5月 8日~
第799回 仏と語る人  5月15日~
第800回 無明我執の中で  5月22日~
第801回 情報操作  5月29日~
第802回 いのちの尊さ  6月 5日~
第803回 自他ともに 心豊かに  6月12日~
第804回 この世も  6月19日~
第805回 奥の座敷には  6月26日~
第806回 目的は  7月 3日~
第807回 見る人の能力で  7月10日~
第808回 いま はたらいて  7月17日~
第809回 自然のはからい  7月24日~
第810回 いのちに組み込まれた  7月31日~
第811回 功徳の宝海  8月 7日~
第812回 これでいいのだ  8月14日~
第813回 恥ずかしいこと  8月21日~
第814回 報いは 自分自身で  8月28日~
第815回 仏教もさまざま  9月 4日~
第816回 感じる能力  9月11日~
第817回 ウイルス対策ソフト  9月18日~
第818回 戦争は したくない  9月25日~
第819回 新しい誕生 10月 2日~
第820回 法味愛楽の目 10月 9日~
第821回 信心は 信受 10月16日~
第822回 私 ひとりのために 10月23日~
第823回 ホンマは 私の娘よ 10月30日~
第824回 伝わっていく 11月 6日~
第825回 亡き人の はたらき 11月13日~
第826回 それを幸いに 11月20日~
第827回 小倉山 モミジの葉 11月27日~
第828回 待たれる身 12月 4日~
第829回 最終の目標 12月11日~
第830回 お預かりします 12月18日~
第831回 通過点 12月25日~
      ( 平成21年 )
第832回 無量寿  1月 1日~
第833回 阿弥陀如来の化身  1月 8日~
第834回 お誘いするのは  1月15日~
第835回 如来と共に  1月22日~
第836回 名号を となへんものをば  1月29日~
第837回 お祝のことば  2月 5日~
第838回 二種の回向  2月12日~
第839回 新たな出発には  2月19日~
第840回 如来のはたらき  2月26日~
第841回 自分の心の中に  3月 5日~
第842回 癒しで 止まったら  3月12日~
第843回 八万劫中大苦悩  3月19日~
第844回 聞くべきものを 聞いたか  3月26日~
第845回 共に歩いて  4月 2日~
第846回 こころにも 栄養を  4月 9日~
第847回 目標は  4月16日~
第848回 信ずるは 喜び  4月23日~
第849回 よく見れば  4月30日~
第850回 赤ちゃんを授かって  5月 7日~
第851回 私なりの花が咲く  5月14日~
第852回 自力回向 他力回向  5月21日~
第853回 ブッダの願い  5月28日~
第854回 法然の発見 親鸞の確信  6月 4日~
第855回 二つの宗教  6月11日~
第856回 ギリギリ最後の  6月18日~
第857回 北風と太陽  6月25日~
第858回 みんな輝け  7月 2日~
第859回 お聴聞のご縁に  7月 9日~
第860回 ああ そうか  7月16日~
第861回 リーダーになる  7月23日~
第862回 いつも一緒に  7月30日~
第863回 生まれた意味は  8月 5日~
第864回 目標を持って  8月13日~
第865回 親の願いは  8月20日~
第866回 問題の解決  8月27日~
第867回 一人 ひとり  9月 3日~
第868回 あまえ  9月10日~
第869回 一歩 一歩  9月17日~
第870回 いま はたらいて  9月24日~
第871回 ご本山と同じように 10月 1日~
第872回 ハタと 気づく 10月 8日~
第873回 人間の考えは 10月15日~
第874回 明るくて たしかなくらし 10月22日~
第875回 知恩 感恩 報恩 10月29日~
第876回 頼む 後は頼みます 11月 5日~
第877回 平生業成の世界 11月12日~ 
第878回  第28願 (本 願) 11月19日~
第879回 ローマの休日 11月26日~ 
第880回 二軒屋の譬え  12月 3日~
第881回  私たちのみ教え(浄土真宗) 12月10日~ 
第882回  これも預かりもの  12月17日~
第883回  仏教の基本  12月24日~ 
第884回 朽ちていくもの 萌えるもの 12月31日~ 
     
      ( 平成22年 )  
     
第885回  科学だけでは   1月 7日~
第886回 56億7千万   1月14日~
第887回  多くの いのち と   1月21日~
第888回  仏さまって どんな方   1月29日~
第889回  いつも ニッコリ 笑うこと   2月 4日~
第890回  アア そうか そうなんだ   2月11日~
第891回  不幸の完成   2月18日~
第892回 「昨日の私」 「今日の私」   2月25日~
第893回 なにの分別もなく   3月 4日~
第894回  風船の外側の世界   3月11日~
第895回 決して無駄にはしません   3月18日~
第896回  生老病死の問題   3月25日~
第897回 今 末法の時代には   4月 1日~
第898回  どうぞ お先に  4月 8日~
第899回  ちょうどよい  4月15日~
第900回  安楽浄土に いたるひと   4月22日~
第901回  栄光への脱出   4月29日~
第902回 讃えます  5月 7日~
第903回 可愛い子には  5月13日~
第904回  呼ばれたら   5月20日~
第905回  お浄土のただ中に   5月27日~
第906回  はたらきかけ   6月 3日~
第907回  分別を離れて   6月10日~
第908回  低反発の   6月17日~
第909回 転じられて  6月24日~
第910回  願いにかなった   7月 1日~
第911回  若者に こそ   7月 8日~
第912回 ここは愛敬町  7月15日~
第913回 第二の矢   7月22日~
第914回 あなたは すばらしい   7月29日~
第915回  こころに 唇に  8月 5日~
第916回  縁起するいのち   8月12日~
第917回  見てますよ   8月19日~
第918回  数限りない仏がたが  8月26日~
第919回  遠い国でも  9月 2日~
第920回  見ているもの  9月 9日~
第921回 いそいそと   9月16日~
第922回  骨を砕きても  9月23日~
第923回  親の心を  9月30日~
第924回  子どもと どう向き合えば  10月7日~
第925回 そのうちお世話に  10月14日~
第926回   たった一日のいのち 10月21日~ 
第927回 おかあさん おかあさん  10月28日~
第928回  親指と小指の法則  11月 4日~
第929回  私のために生まれてくれた人 11月11日~
第930回  今がチャンス 11月18日~ 
第931回  目覚めれば弥陀の懐  11月25日~ 
第932回 「今ここ」 の 生き方  12月 2日~
第933回  莫大な遺産  12月 9日~
第934回 見聞が蓄積されても  12月16日~ 
第935回 罪の消滅  12月23日~
第936回 阿弥陀仏の救い  12月30日~ 
     
      ( 平成23年 )  
     
第937回  それまでして   1月 6日~ 
第938回  みちみちて   1月13日~
第939回  母の愛よりも   1月20日~
第940回 生きる意味と方向   1月27日~
第941回  自己満足のためではありません   2月 3日~
第942回  人と宇宙との関係   2月10日~ 
第943回  み教えを あなたと聴く   2月17日~
第944回  いよいよ ご本山の大遠忌法要   2月24日~
第945回 お念仏に生きる喜び  3月 3日~
第946回  命の尊さと喜び   3月10日~
第947回 与えられた いのち   3月17日~
第948回 念仏しなされや   3月24日~
第949回  今大切なもの   3月31日~
第950回 新しい誕生   4月 7日~
第951回 修正プログラム   4月14日~
第952回  いつも人々の中にいて   4月21日~
第953回  迷惑では  ないよ   4月28日~
第954回  ボランテイア   5月 5日~
第955回  アクセス解析   5月12日~
第956回  片思い    5月19日~
第957回  自在の救い   5月26日~
第958回  人生そのものの問い   6月 2日~
第959回  真実の教え  6月 9日~
第960回  限りなき光と寿の仏    6月16日~
第961回  今ここでの救い    6月23日~
第962回 光の浄土   6月30日~ 
第963回  報恩の念仏    7月 7日~
第964回 かならず再び会う    7月14日~
第965回  まずは 南無阿弥陀仏から    7月21日~
第966回 ありがとう、よかった、うれしい    7月28日~
第967回  周りのすべてに    8月 4日~
第968回  VIP待遇    8月11日~
第969回  二泊三日    8月18日~
第970回  人生は 自分のものではない   8月25日~
第971回  無党派層は 無関心層ではない    9月 1日~
第972回  いのち終わっても    9月 8日~
第973回  痛手を受けて  9月15日~ 
第974回  今から練習   9月22日~
第975回  トウガラシ    9月29日~
第976回  自業自得(自因自果)  10月 6日~
第977回  極上の良書 10月13日~
第978回  八方の風に 柳は  10月20日~ 
第979回  本当の慈悲は  10月27日~ 
第980回  ピーコちゃん  11月 3日~
第981回 大いなる恵み 11月10日~ 
第982回 反抗しても 抵抗しても  11月17日~
第983回  南无阿弥陀仏の意義  11月24日~
第984回  前提が違う  12月 1日~
第985回  一水四見  12月 8日~
第986回  二つのグループ  12月15日~
第987回  雑行雑修自力  12月22日~
第988回 何事も 初ごと  12月29日~
     
      ( 平成24年 )   
第989回 泥の中の白蓮華    1月 5日~
第990回 元気が自然に    1月12日~
第991回  野菜づくり   1月19日~
第992回  信心をいただくと  1月26日~ 
第993回   たまたまの出あい  2月 2日~ 
第994回   最高のプレゼント  2月 9日~ 
第995回   生きる基本   2月16日~
第996回  他力本願とは   2月23日~
第997回  さすがあー   3月 1日~ 
第998回  聞く側の問題  3月 8日~ 
第999回  もっと分かる話を  3月15日~ 
第1000回   遠い目標   3月22日~
第1001回  阿弥陀如来=南無阿弥陀仏   3月29日~
第1002回  蓮如上人と 一休和尚   4月 5日~
第1003回  全体を見る    4月12日~
第1004回 三つのよろこび   4月19日~
第1005回   心は 六つに変わる   4月26日~
第1006回 仏さまの拝み方   5月 3日~
第1007回  仏さまのこと  5月10日~
第1008回 生まれてきてくれて ありがとう   5月17日~
第1009回  喜びの言葉を口に   5月24日~
第1010回  呼び続ける親  5月31日~
第1011回  私の一冊  6月 7日~
第1012回 二河白道のたとえ  6月14日~
第1013回  宝もの   6月21日~
第1014回 天与のオモチャ  6月28日~ 
第1015回  桧舞台と味わう  7月 5日~
第1016回 親の片思い  7月12日~
第1017回  素通りしてはいませんか  7月19日~
第1018回  キーワードは 恩  7月26日~ 
第1019回 人生の目的   8月 2日~ 
第1020回  往生の彼方に  8月 9日~ 
第1021回  無くして はじめて   8月16日~ 
第1022回  見えぬものでも  8月23日~
第1023回  迷惑でも  8月30日~
第1024回  声の仏さま  9且 6日~ 
第1025回  ただ念仏  9月13日~
第1026回  百獣の王  9月20日~ 
第1027回  おつとめ  9月27日~ 
第1028回 うらを見せ  10月 4日~ 
第1029回  判断の基準は  10月11日~
第1030回  毎日が 表現の舞台  10月18日~ 
第1031回 生前中は  10月25日~ 
第1032回  なんまんだぶつの子守歌  11月 1日~ 
第1033回 主役は あなた  11月 8日~ 
第1034回 ご縁に 遇えば  11月15日~ 
第1035回  仏教の基本  11月22日~
第1036回 次の世代へ  11月29日~ 
第1037回  ほめ称えずには おれない  12月 6日~
第1038回 追善供養を超えて  12月13日~ 
第1039回  確かな道  12月20日~
第1040回  本願の意味  12月27日~ 
     
      ( 平成 25年 )  
第1041回 み光をうけて   1月 3日~
第1042回  そっとつながる  1月10日~ 
第1043回  学ぶ 喜び  1且17日~ 
第1044回  お念仏の教えは 仏教です   1月24日~ 
第1045回  ナモアミダブツとは、なんですか  1月31日~ 
第1046回  近道すれば 南無の一声  2月 7日~ 
第1047回 親を喜ばせたければ  2月14日~
第1048回 出家と在家をえらばず  2月21日~
第1049回  念仏の行者   2月28日~
第1050回  手を合わせられる   3月 7日~ 
第1051回 今 気づかせていただく    3月14日~
第1052回 いそぎ 仏に成りて   3月21日~
第1053回 過去 現在 未来   3月28日~
第1054回 仏心とは 大慈悲これなり   4月 4日~
第1055回 いただいている名号   4月11日~
第1056回  前に生まれた人は   4月18日~
第1057回 阿弥陀さまの願いの中に   4月25日~
第1058回 往き易くして人なし    5月 2日~
第1059回 花は 菊だけ?   5月 9日~
第1060回 味わい深い人生   5月16日~
第1061回  こころと身体   5月23日~
第1062回  かえると 一茶と あみださま    5月30日~
第1063回  この私には   6月 6日~
第1064回 根本的な治療法   6月13日~
第1065回  なぜ今 「仏教」 なのか   6月20日~
第1066回  今ここでの救い 2   6月27日~
第1067回 幸せの見える人   7月 4日~
第1068回  独り生まれ 独り死し   7月11日~
第1069回 信心と利益   7月18日~
第1070回  本願力にあひぬれば   7月25日~
第1071回  宮殿に生まれて   8月 1日~
第1072回  わたくしの救い   8月 8日~
第1073回  見守られている私   8月15日~
                 (平成25年)  
 第1074回 ただ信心の救い   8月22日~
 第1075回 目標がある   8月29日~
 第1076回 彼の岸をめざして いまを生きる   9月 5日~
 第1077回 み仏を よぶわが声は   9月12日~
 第1078回 はたらきづめの 仏さま  9月19日~ 
 第1079回 念仏成仏 これ真宗  9月26日~
 第1080回 ほくほく 生きる 10月 3日~
 第1081回 大好きだよ 10月10日~
 第1082回 ゆらぐ心の支え 10月17日~
 第1083回 お育ていただいた人は強い 10月24日~
 第1084回 行き先が決まった 10月31日~
 第1085回 自力心の否定 11月 7日~ 
 第1086回 失敗のない人生 11月14日~
 第1087回 わが身に驚く 11月21日~
 第1088回 信心 11月29日~
 第1089回 後生 12月 5日~
 第1090回 煩悩 12月12日~
 第1091回 大悲 12月19日~
 第1092回 救うが先手 たすかるが後手 12月26日~
   
                 (平成26年)  
 第1093回 涅槃  1月 1日~
 第1094回 聴聞  1月 9日~
 第1095回 転じられる  1月16日~
 第1096回 やわらかな眼  1月23日~
 第1097回 願作仏心  1月30日~
 第1098回 千無一失  2月 6日~
 第1099回  六神通の願  2月13日~
 第1100回  恩を感じる能力    月 20日~ 
 第1101回  子どもへのメッセージ  2月  27日~ 
 第1102回  地獄と極楽   月  6日~
 第1103回  法要は どんな気持ちで   3月13日~
 第1104回  お念仏で 何が変わるか   3月20日~
 第1105回  浄土とは どのような世界なのか   3月27日~
 第1106回  天上天下唯我独尊   4月 3日~
 第1107回  近道すれば 南無のひと声   4月10日~
 第1108回  磁石のたとえ   4月17日~ 
 第1109回  願いの方向   4月24日~
 第1110回  聴 と聞   5月 1日~
 第1111回  耳で聞く 如来の慈悲   5月 8日~
 第1112回  迷いのHO   5月15日~
 第1113回 浄土は黄金の大地   5月22日~
 第1114回 お念仏は 誰の仕事   5月29日~
 第1115回 「他力」と「自力」の違い   6月 5日~
 第1116回 大きな視線   6月12日~
 第1117回 頑張り知ってるよ   6月19日~
 第1118回 念仏は 呪文では ?   6月26日~
 第1119回 見えぬものでもあるんだよ   7月 3日~
 第1120回 諸行無常   7月10日~
 第1121回 プラス条件を増やせば幸せか   7月17日~
第1122回 いま浄土とは・・   7月24日~
 第1123回 おかあさん   7月31日~
 第1124回 「まかせなさい」の南無阿弥陀仏   8月 7日~
 第1125回 供花のこころ   8月14日~
 第1126回 ロボットにも大事  8月21日~
 第1127回 布施のこころ  8月28日~ 
 第1128回 ご法義のお風呂   9月 4日~
 第1129回 いい人が集まると   9月11日~
 第1130回 アミダさまは ナミダさま ?   9月18日~
 第1131回 星は見えない時でも光っている   9月25日~
 第1132回 育ちざかり  10月 2日~
 第1133回 人は「モノサシ」で物を見る  10月 9日~
 第1134回 「嫌いな人」は あなたを映す鏡  10月16日~
 第1135回 あなたを仏さまにする  10月23日~
 第1136回 どんな あなたであっても  10月30日~
 第1137回 地獄と極楽  11月 6日~
 第1138回 心が変わると景色が変わる  11月13日~
 第1139回 バトンタッチ  11月20日~
 第1140回 わかってるー  11月27日~
 第1141回 習っていないのに  12月 4日~
 第1142回 相手のよろこびは  12月11日~
 第1143回 迷惑かけずに  12月18日~
 第1144回 無駄なものはない  12月25日~
   
                 (平成 27年 )  
,第1145回  遊ぶように   1月 1日~
 第1146回 阿弥陀さまのサイン   1月8日~
 第1147回 右と左   1月15日~
 第1148回 傷つける言葉   1月22日~
 第1149回 一人じゃないから   1月29日~
 第1150回 思い上がり   2月 5日~
 第1151回 プレゼント   2月12日~
 第1152回 両手あわせて   2月19日~
 第1153回 流す涙   2月26日~
 第1154回 あなたが大切   3月 5日~
 第1155回 位牌か 過去帳か   3月12日~
 第1156回 お寺にお参りするのは ?   3月19日~
 第1157回 葬儀は 何故するの   3月26日~
 第1158回 お仏壇は なぜ金色なの ?   4月 9日~
 第1159回 お寺の名前の意味は   4月16日~
 第1160回 阿弥陀如来の救い   4月23日~
 第1161回 他人の失敗は   4月30日~
 第1162回 自分が大切なら   5月 7日~
 第1163回 お浄土でまたあえる   5月14日
 第1164回 死後の浄土より 今が大切   5月21日~
 第1165回 生命は   5月28日~
 第1166回 虹の足   6月 4日~
 第1167回 トンボは 水たまりを 池だと思う   6月11日~
 第1168回 鬼は 私のなかにすむ   6月18日~
 第1169回 どのいのちも 生きようとしている   6月25日~
 第1170回 泣きたいときは   7月 3日~
 第1171回 信心の利益   7月 9日~
 第1172回 憶念の心   7月16日~
 第1173回 求めなくても   7月23日~
 第1174回 有ればあったで   7月30日~
第1175回 ほんとうの宗教とは   8月 6日~
 第1176回 必ずお救いに   8月13日~
 第1177回 お恥ずかしい   8月20日~
 第1178回 如来さまのプレゼント   8月27日~
 第1179回 阿弥陀仏の金の鎖   9月 3日~
 第1180回 出てる 出てるよ   9月10日~
 第1181回 一本の藤蔓   9月17日~
 第1182回 智慧のはたらき   9月24日~
 第1183回 人生は価値ある一瞬  10月 1日~
 第1184回 こころの進歩  10月 8日~
 第1185回 「おかげさまで」のこころで生きる  10月15日~
 第1186回 艱難なんじを玉にす  10月22日~
 第1187回 こころを休める  10月29日~
 第1188回 「自分探し」に惑わされない  11月 5日~
 第1189回 生命科学は万能か  11月12日~
 第1190回 食は いのちの基本  11月19日~
 第1191回 「自分が正しい」 ばかりでは  11月26日~
 第1192回 「苦」 は喜びの種  12月 3日~
 第1193回 自分に自信を持つ  12月10日~
 第1194回 老いも尊い  12月17日~
 第1195回 不安の中で生きる  12月24日~
 第1196回 感激する こころ  12月31日~
   
                   (平成 28年)  
 第1197回 過去から逃げない未来を   1月 7日~
 第1198回 美しく生きる   1月 14日~
 第1199回 この世に生まれてきたのは   1月 21日~
 第1200回 人にまけて信をとる   1月 28日~
 第1201回 母の背中で聞く   2月 4日~
 第1202回 仏さまのお育て   2月11日~
 第1203回 出世本懐   2月18日~
 第1204回 私が如来となる   2月25日~
 第1205回 則我善親友   3月 3日~
 第1206回 報恩 忘恩   3月10日~
 第1207回 にんげんを卒業したら 何になる   3月17日~
 第1208回 私が目覚める   3月24日~
 第1209回 心田を耕す   3月31日~
,第1210回 手を合わすご本尊は ?    4月 7日~
 第1211回 往生浄土の真実   4月14日~
 第1212回 一番良い方向に   4月21日~
 第1213回 聞法の道場   4月28日~
 第1214回 喜んで 勤めて見せる   5月 5日~
 第1215回 祖父母が体験した価値観   5月12日~
 第1216回 乳母車でご案内   5月19日~
 第1217回 手の温もり   5月26日~
 第1218回 阿弥陀如来の本願は   6月 2日~
 第1219回 オキシトシン   6月 9日~
 第1220回 散華楽(さんげらく)   6月16日~
 第1221回 金箔の輝き   6月23日~
 第1222回 正座は 僧侶だけ   6月30日~
 第1223回 老いのよろこび   7月 7日~
 第1224回 私でよかった   7月14日~
 第1225回 世界は誰のために   7月21日~
 第1226回 親のよび声   7月28日~
 第1227回 万人平等の   8月 4日~
 第1228回 人生のもしもしコーナー   8月11日~
 第1229回 自力ということ(聞法のいとなみ)   8月18日~
 第1230回 本願招喚の   8月25日~
 第1231回 還相の菩薩   9月 1日
 第1232回 本当の姿を知る   9月 8日~
,第1233回 精いっぱい生きた いのち   9月15日~
 第1234回 「ナモアミダブツ」 は   9月22日~
 第1235回 目覚まし   9月29日~
 第1236回 条件をつけない  10月 6日~
 第1237回 自分を優先  10月13日~
 第1238回 好き嫌い  10月20日~
 第1239回 欲を拝んでいた私  10月27日~
 第1240回 苦しみからの解放  11月 3日~
 第1241回 熱気球の世界大会  11月10日~
 第1242回 あなたがいて 私がいる  11月17日~
 第1243回 自分は自分の主人公  11月24日~
 第1244回 信心の利益  12月 1日~
 第1245回 空蝉の家  12月 8日~
 第1246回 釈迦の本概  12月15日~
 第1247回 老苦の解決  12月22日~
 第1248回 人間の知恵 仏の智慧  12月29日~
   
                (平成 29年)  
 第1249回 甚難信   1月 5日~
 第1250回 闇を破る   1月12日~
 第1251回 おそだて   1月19日~
 第1252回 感じる力   1月26日~
 第1253回 法蔵菩薩と阿弥陀仏   2月 2日~
 第1254回 他力は 超・大回転   2月 9日~
 第1255回 わが身ひとつ   2月16日~
 第1256回 憂いも悩みもない世界   2月23日~
 第1257回 完全燃焼の生き方 ー南無ー   3月 2日~
 第1258回 おつとめする意味   3月 9日~
 第1259回 優しい心遣いに応える言葉   3月16日~
 第1260回 独りじゃない場所   3月23日~
 第1261回 四門出遊 ~お釈迦さまの出家~   3月30日~
 第1262回 お葬式と浄土真宗の救い   4月 6日~
 第1263回 報恩講の赤い蝋燭   4月13日~
 第1264回 みな漏れず往生すべし   4月20日~
 第1265回 むなしさを超える   4月27日~
 第1266回 念仏の声   5月 4日~
 第1267回 二種の回向   5月11日~
 第1268回 降誕会とは どういう意味ですか?   5月18日~
 第1269回 本願寺 Q&A   5月25日~
 第1270回 仏教の「救い」とは ?   6月 1日~
 第1271回 一緒性   6月 8日~
 第1272回 仏教の「救い」とは ②   6月15日~
 第1273回 仏教の「救い」とは ③   6月22日~
 第1274回 念仏は 喜び   6月29日~
 第1275回 人身受け難し   7月 6日~
 第1276回 教行信証総序 その一   7月13日~
 第1277回 教行信証総序 その二   7月20日~
 第1278回 南無阿弥陀仏とは   7月27日~
 第1279回 お通夜の席で   8月 3日~
 第1280回 仏教への先入観 ?   8月10日~
 第1281回 仏教への先入観 ②   8月17日~
 第1282回 門徒葬後の朗読法話   8月24日~
 第1283回 他者のしあわせを   8月31日~
 第1284回 夢と希望と喜びを   9月 7日~
 第1285回  誰の、私のお寺   9月14日~
 第1286回 いのちのふるさと   9月21日~
 第1287回 わかりゃいい   9月28日~
 第1288回 乾杯というよりは  10月 5日~
 第1289回 「蜘蛛の糸」の後に   10月12日~
 第1290回 お育ていただいて  10月19日~ 
 第1291回 信心獲得とは  10月26日~
 第1292回 みんな仏に成れるのか  11月 2日~
 第1293回 若い二人に(結婚式での挨拶)  11月 9日~ 
 第1294回 私が私になる  11月16日~ 
 第1295回 引力 浮力 磁力 本願力  11月23日~
 第1296回 生きる喜びに  11月30日~ 
 第1297回 新しいいのちを聞く み仏の声  12月 7日~
 第1298回 至極最上の教え  12月14日~ 
 第1299回 三つの生き方  12月21日~
 第1300回 ただ法を聞く  12月28日~ 
   
                (平成30年)  
 第1301回 むなしく過ぐる 人ぞなき   1月 4日~
 第1302回 おつとめする意味   1月11日~ 
 第1303回 他力本願とは   1月18日~
 第1304回 今や 稀少な教えに   1月25日~ 
 第1305回 ご先祖が最も喜ぶのは   2月 1日~
 第1306回 お墓や納骨堂は   2月 8日~ 
 第1307回 お礼をする   2月15日~
 第1308回 盲亀浮木(もうきふぼく)   2月22日~
 第1309回 親の七光り   3月 1日~
 第1310回 もらったこと   3月 8日~ 
 第1311回 おばあちゃんのように   3月15日~
 第1312回 小さな石に お花が   3月22日~
 第1313回 「行く」のか 「来る」のか   3月29日~
 第1314回 会葬御礼   4月 5日~
 第1315回 凡夫はわたくし   4月12日~
 第1316回 遇えて はじめて   4月19日~ 
 第1317回 自力と他力   4月26日~
 第1318回 恥ずかしい   5月 3日~ 
 第1319回 私の心に入って   5月10日~
 第1320回 智慧の念仏   5月17日~ 
 第1321回 人生が変わる   5月24日~
 第1322回 みほとけとともに   5月31日~
 第1323回 断捨離   6月 7日~
 第1324回 面白い 楽しい   6月14日~
 第1325回 信心の本質   6月21日~ 
 第1326回 ありのままに見る    6月28日~
 第1327回 足るを知る    7月 5日~
 第1328回 自らを灯明とせよ    7月12日~
 第1329回 布施のこころ    7月19日~
 第1330回 憍慢のいましめ   7月26日~
 第1331回 倒懸 とうけん   8月 2日~
 第1332回 悪を転じて 徳とする   8月 9日~
 第1333回 人生と念仏   8月16日~
第1334回 願以此功徳   8月23日~
第1335回 あみだくじ   8月30日~
第1336回 お願いごと    9月 6日~
第1337回 老いの中で   9月13日~
第1338回 相続すること   9月20日~
第1339回 聴聞のすすめ    9月27日~
第1340回 法を聞く 10月 4日~ 
第1341回 仏さまのおこころ 10月11日~
第1342回 正定業 10月18日~
第1343会 み仏は共に悲しみたもう  10月25日~
第1344回 つなぐ 受け継ぐ  11月 1日~ 
第1345回 帰すべきところ 11月 8日~ 
第1346回 のんのさま  11月15日~
第1347回 恵まれた念仏  11月22日~
第1348回 お念仏のこころ  11月29日~
第1349回 「相続メモ」の手引き 12月 6日~
第1350回 私たちのちかい  12月13日~ 
第1351回 「聞く」 ということ 12月20日~
第1352回 信心正因のおすすめ 12月27日~ 
            (平成 31年)  
第1353回 南無阿弥陀仏のおいわれ    1月 3日~
第1354回 念仏の生活   1月10日~
第1355回 慚愧と歓喜    1月17日~
第1356回 悪を転じて徳とする   1月24日~
第1357回 人生と念仏   1月31日~ 
第1358回 チューリップの花    2月 7日~
第1359回 法名と戒名   2月14日~
第1360回 命日は「いのちの日」   2月21日~
第1361回 年忌法要   2月28日~
第1362回 光顔巍々   3月 7日~
第1363回 先哲のことば    3月14日~
第1364回 いつもが臨終法話   3月21日~
第1365回 私の側 仏さまの側   3月28日~
第1366回 努力の質が問題    4月 4日~
第1367回 毎日を仏法という鏡に   4月11日~
第1368回 自己中心の心   4月18日~
第1369回    4月25日~


                       
               妙念寺



記載者 住職  藤本 誠

 
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