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サンド

 

見て・聞いて

     

仏教は、さまざまな説き方があります。
南無阿弥陀仏の教えは、その中の一つです。

仏説無量寿経に説かれる阿弥陀如来の本願の
はたらきで、すぐれた功徳を、すべての衆生に
与え、「南無阿弥陀仏」一つで、救われることを、
教えてくださったのが親鸞聖人です。


親鸞聖人を、宗祖と仰ぐ、浄土真宗の本願寺派。
そこに所属する九州・佐賀の一寺院で
製作しているのがこのホームページです。


「南無阿弥陀仏」の味わいを、電話で
お話ししています。毎週木曜日に、
内容を変更しています。


法話原稿をこのページに掲載して
います。ここで、「見て、聞いて」 ください。

         メールマガジン始めました 「こんな話を聞きました」。
    
         

0952-24-1800

(佐賀局  ニシ  ホンガンと記憶してください。)

24はニシ、西。 本願は、18願。
そこで、24-1800は、西本願







第1009回 喜びの言葉を口に

 平成24年 5月24日~

 よく見ていると、小さな子どもの母親は、子どもにお乳を飲ませながら、
遊ばせながら、盛んに話しかけているものです。
そればかりでなく、
生まれる前から、大きなお腹に、話しかけ呼びかけているものです。

南無阿弥陀仏の教えは、子を思う親の想いに近いのではないでしょうか。
私にいつでもどこでも、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呼びかけて
いただいているのです。

そうした呼びかけに、子どもが成長すると、自然に、無意識に
「おかあさん おかあさん おかあさんてば おかあさん なんにも
   ご用は ないけれど なんだか呼びたい おかあさん」という
 西条八十の詩のように、いつも母親に呼びかけるのでしょう。

これこそが、お念仏の教えだと言ってもいいのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呼びかけていただいていると気づいたとき、
「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶてば なんまんだぶ
  なんにもご用はないけれど なんだか呼びたい なんまんだぶ」と
口に出る生活になるのでしょう。

 妙好人の浅原才市は、「かぜをひけば せきがでる さいちは 
  ごほうぎの かぜひいた おねんぶつの せきが でる でる」と
言っています。

風邪をひいて咳が出るように、南無阿弥陀仏と言ってほしいというのが
親心でしょうが、せめて「ありがとう」とか「うれしい」とか「よかった」
「たのしい」といった、喜びの言葉を口に出来る生活をしてほしい。

都合の良いことばかりではなく、都合の悪いことが起こっても、
悲しいこと苦しいこと イヤなこと、何が起ころうと、何一つ無駄な
ことはない。

どんな出来事も仏になる道を一筋に進んでいるのだと、人生を充分に
味わい、豊かで喜び多い毎日を送ってほしいと、望んでいるのが、
親の願いであり、仏の願いだと思います。

「南無阿弥陀仏」は、最高の報恩感謝であり、希望の言葉です。
この世で仏の仲間にし、お浄土で利他を完成させる。生死を超えた
真実の教え。

「利他円満の仏に成る」ということを先祖たちは伝え残したかったために、
お墓を、仏壇を、お寺を、法座を、法事を受け継いできたのでしょう。
南無阿弥陀仏に出遇ってさえくれれば、何が起ころうとも大丈夫。

人間の私に、どうしろ、こうしろという難しい注文をつけるのではなく、
仏さまのはたらきによって、南無阿弥陀仏によって、救われてほしい。
南無阿弥陀仏に育てられ、やがて親となって、今度は、すべての
子や孫たちの為に、いのちを燃やし輝ける、利他円満の喜びが得られるのです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、5月31日に新しい内容に変わります。







第1008回 生まれてきてくれて ありがとう

 平成24年 5月17日~

「本願寺新報」という、本願寺派の新聞に
「親としての歩み 一緒に考えましょう。」 との記事がありました。

お念仏の教えを示してくださった親鸞聖人のご誕生をお祝いする
「宗祖降誕会」が行われる季節ですが、この「ご誕生」あわせて
初参式(初参り)をする寺院もあります。

新しいいのちの誕生は、同時に「親」としての歩みがスタートすると
いうことです。
子どもの誕生をお祝いするこのご縁を通じて、「親」とは何かを考えていただき、
あらためて自分の生き方を見つめ直していきましょう。・・・・

との前書きの後、横浜の早島大英さんの「降誕会によせて」という
文章が掲載されていました。ご紹介させていただきます。

〇 子どもの自立をさまたげる親の思い

子どもが誕生して、親も親としての歩みが始まります。
すくすくと育ってほしいとその成長を願うのは、親なればこそです。
しかし、その親の願いが子どもの成長をさまたげていることも
しばしばあります。

 こうしろああしろと親の思いを押しつけてばかりいると、
子どもは自分でものごとを判断したり、自発的な行動をとることが
できなくなってしまいます。

あるいは、子どもがなすべきことを親がやってしまうと、いつまでたっても
なすべき能力が養われないし、それどころか親にしてもらうのが
あたりまえに
なっていきます。

こんな具合で、親の側の自分勝手な願いが、子どもの自立をさまたげて
しまっていることを、私は自分の子どもたちから教えられました。


〇 自立ということ

親として子に対して願うべきことは、自立した人間になってもらいたいと
いうことでありましょう。自分で考え、自分で行動し、他者への配慮も出来る、
そういう自立した人間になることを願うのが親の役目だと思うのです。

  私は、自立には三つの要素があると考えています。
まず一つは「報恩」です。ありがとうと感謝する人間になることです。
多くの恵みやおかげによって生かされているわが身に気づくこと。
それが自立には不可欠です。大人の方から「生まれてきてくれてありがとう」と、
成長していく折々に子どもたちに言葉をかけていきましょう。


二つには「利他」です。自分さえよければよいとする利己心を離れ、
他者のために行動することです。

人それぞれ能力や性格に違いはありますが、必ずその人なりの
持ち味というものがあります。それを活かすところに利他行があります。
「やってもらう」立場から「してあげる」という行動へ、さらには
「させていただく」といいう意識への転換です。

そして三つには「慚愧」です。
「慚は人に羞づ、愧は天に羞づ」と示されます。私はこれを、
慚は人様に対して恥じ入ることで、愧は自分を越えた存在や哲理に
対して恥じ入ることだと理解しています。

私たちはみな自分中心の心を持っています。
人のためにと思ってしたことが人を傷つけることもあります。
そんな思い通りにならない世界にあって、「申し訳ない」と慚愧する心が
芽生えたなら、それはまさしく自立にほかなりません。


〇 真の自立は 仏さまの願いを実感できる人間になること

ただし「報恩」「利他」「慚愧」とい自立心を自分一人の力で身に
つけるのは至難のわざです。

しかしありがたいことに、南無阿弥陀仏のお念仏は、仏さまの
大慈悲心を生きる支えとしてわが身に実感していくものです。
そのお慈悲の支援により、親子ともども「報恩」「利他」「慚愧」の
意識をもてる人間へとお育てにあずかります。

お念仏の教えをお示しくださった親鸞聖人のご誕生を、
心から感謝しお祝いいたします。


という文章です。お互いに仏さまの願いが実感できる毎日を
送らせていただきたいものです。

妙念寺 電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、5月24日に新しい内容に変わります。






 


第1007回 仏さまのこと

 平成24年 5月10日~

少年のための仏教問答」の小冊子より

この世界は、太陽の光をうけることによって、すべてのものは生きて行くことができます。
動物も、草や木も、太陽の暖かい光に、みな平等に照されています。
そのように、私たち人間の心は、仏さまの清らかな光によって、みな、平等に照らされて
育てられ、喜びをあたえられ、そして、正しい生活を恵まれています。

さびしいときも悲しいときも、だれでも、仏さまの教えを聞くことによって、
元気が出ます。仏さまは、私の心の命の親です。私たちの最後のよりどころです。


仏さまのすがたと心

〇 仏さまとは、祖先や死んだ人のことですか。
 A いいえ、祖先や死んだ人たちが、そのまま仏さまではありません。

〇 では、なぜ、先祖を仏さまとして拝むのですか。
 A それは、なくなった先祖の方が、仏さまの徳をいただいて、仏さまと
   ひとしくなっているからです。

〇 お地蔵さんや観音さまは、仏さまですか。
 A いいえ、仏さまとは言いません。仏さまのとうとさを現わし、仏さまのお手伝いを
    される方ですから「ぼさつ」さまと言います。

〇 仏さまは、寺や仏壇の中におられる方ですか。
 A そうです。木像や絵のすがたをされた仏さまです。

〇 すると、仏さまは、木像や絵にかかれたもので、人形のようなものですか。
 A いいえ、木像や絵の仏さまは、私たち人間の目に見えない仏さまの心を、
    私たちにわからせようと、現われてくださったすがたです。

〇 目に見えない仏さまは、どこにおられるのですか。
 A 私たちが、山に行っても川に行っても、どこに行っても、いつもいっしょにおられます。
    目に見える仏壇にだけおられるという、かぎりのある方ではありません。
   かぎりのない方だから、「アミダ」仏と言うのです。

〇 ニョライさまとも、言うのではありませんか。
 A そうです。くわしくは、ナモアミダブツ、阿弥陀如来、南無不可思議光如来とも言います。
   短くして、如来と言うのです。


〇 どうしてそんなに、いろいろの言い方があるのですか。
 A たとえば、ひとりの人間でも 〇〇さん、おかあさん、おふくろ、おくさん、
   などとちがった呼び名があるようなものです。


〇 仏さまとは、どんな方ですか。
 A かぎりない智慧と、かぎりない慈悲をもたれた方です。

〇 かぎりない智慧とは どんな ことですか。
 A この世のすべてのことについて、ほんとうの道理を、全部知りつくしておられることです。

〇 すると、私たちの心の中までも知っておられますか。
 A そうです。私たち自身でも気づかない、深い心のかくれたところまで、仏さまは、
    すっかり知っておられます。

〇 かぎりない慈悲とは、どんなことですか。
 A すべてのものを、助けずにはおられないという、おかあさんの心のような、
   情け深い願いをもっておられることです。


〇 では、犬やねこも、助けたいと思っておられますか。
 A そうです。鳥やけだもの、草木にいたるまで、すべてのもののことを思っておられます。

〇 仏さまは、私たちのことを、どう思っておられますか。
 
A まちがったことをして、苦しみ悲しんでいる私たちを見られて「かわいそうでたまらぬ。
   早く正しい道を教えて、あやまりをなおして幸福にしてやりたい」と、
   自分の子どものように思い、いつもはなれず、はげましてくださいます。

  次回は 5月17日に新しい内容に変わります。







第1006回 仏さまの拝み方

平成24年 5月 3日~

 少年のための仏教問答という 小冊子の中にこんなところが
 ありました。

〇 仏さまは、どのように拝むのですか。
 A インドの人たちのように、両手をあわせ、口に仏さまの名を
    称えて拝みます。

〇 仏さまは、拝むと病気をなおしてもらえますか。
 A はい。病気をなおしてもらえます。でも、それは身体の病気でなくて
   心の病気です。

〇 心の病気とは、どんなことですか。
 A 欲張り、怒り、おろかなことの三つの病気などです。

〇 すると、身体の病気は、仏さまにいのってもなおりませんか。
 A はい、それは、仏さまにたのむのでなく、お医者さんに相談する方が
   大切です。
  でも、仏さまを拝んで、心が安らかになると、身体の病気も、
   しだいに良くなることになりましょう。

〇 お金が儲かるよう、学校の成績が良くなるよう、仏さまにおいのり
  すると、聞いてもらえますか。
 A いいえ、自分だけもうかるよう、自分だけ幸福になるようにと、
   願ういのりをすると、仏さまは悲しまれます。ただ、仏さまの教えを
   聞いて、正直に、くよくよしないで、落ち着いて努力していると、
   自然に金ももうかり、成績も良くなることになりましょう。

〇 では、どんな気持ちで、仏さまを拝むのですか。
 A 私は、仏さまをうやまいます。みんないっしょに、まことの道を
   進んで、よい心を起こしたいとおもいます。
  私は、仏さまの教えをうやまいます。みんなといっしょに、一心に
   教えを聞いて、智慧のくらしをしたいと思います。
  私は、仏さまの教えを信じる人たちをうやまいます。みんなと
   いっしょに、すべての人たちと仲良くしたいと思います。
   と言う気持ちで拝みます。

〇 仏さまの教えは、どうして知ることができますか。
 A お経によって、知ることが出来ます。

〇 お経とは、どんなものですか。
 A インドのお釈迦さまの話された、仏さまのいろいろの教えを、弟子の
   方々が集められ、字に書いて残された本で、何千冊もあります。

〇 お釈迦さまのおられたインドから、この日本の私まで、どのようにして、
  教えは伝えられてきましたか。
 A 孫悟空の物語で有名な、三蔵法師が、さまざまな苦心をして、インドから
  お経を運び、中国の漢字のことばになおしたように、多くの尊い
   お坊さんの力によって、インドから中国、そして、朝鮮を通って
   日本に伝えられました。

〇 今、日本には、仏教といっても、いろいろの種類の教えがあるでは
   ありませんか。
 A そうで、天台宗、真言宗、禅宗、日蓮宗などいろいろあります。

〇 なぜ、仏教に、いろいろ違があるのですか。
 A お釈迦さまが、いろいろの人たちに、それぞれ能力に応じて、
   分かりやすいように別々にお話されたので、それが別々に
   伝えられてきたからです。

〇 すると、もとはみんなお釈迦さまのお話ですか。
 A そうです。もとは一つ、お釈迦さまの心からとかれた、仏になる教えです。

〇 私たちの今聞いている教えは、何と言いますか。
 A 浄土真宗といって、七百五十年前になくなられた親鸞さまによって、
   ひろめられた教えです。
             ・・・・・・・・

  子ども向けですので 分かりやすく 説かれて誠に有り難いものです。
 妙念寺電話サービス 次回は 5月10日に新しい内容に変わります。


  








第1005回 心は 六つに変わる

 平成24年 4月 26日~

 「少年のための仏教問答」という 小さな冊子を見つけました。
 高校の先生やスカウト、日曜学校、少年連盟の先生方が
 昭和50年代に
編纂されてものです。その中に こんなところがありました。


〇 人の心は どんなに変わりますか。
 A およそ、六つのちがった心に変わります。

〇 六つの心とは、どんな心ですか。
 A 天、人、あ修ら、畜生、餓鬼、そして、地獄という六つの世界の心です。

〇 天の世界の心とは、どんな心ですか。
 A うれしい気持ちがいっぱいで、自分のこと以外は 考えない心です。
    だから、すっかり得意になって、夢中でいる時のことを「有頂天」
    とも言います。

〇 人の世界の心とは、どんな心ですか。
 A ふつうの人間の心のことで、苦しいことがいっぱいの心です。

〇 どんな苦しいことがありますか。
 A ふつう、四苦八苦と言われています。

〇 四苦八苦とは、どんなことですか。
 A 1,生まれる苦  2,年老いる苦 3,病気の苦 4死ぬ苦
   5,すきな人や物に別れねばならない苦 6,大きらいなことに
    会わねばならない苦 7,ほしいものを得られない苦
   8,思うようにならない身体の働きの苦、の八つです。

〇 あ修らの世界の心とは、どんな心ですか。
 A 争うことに夢中になる心で、けんかや戦争をして、他人に勝とうとし、
   法律にそむき、社会のきまりを破り、自分の
ことを忘れる心です。
   このことから「我無修ら(がむしゃら)」と
いう ことばもあります。

〇 畜生の世界の心とは、どんな心ですか。
 A 犬やねこのように、恥を知らない心です。

〇 恥を知らないとは、どんなことですか。
 A 自分がうけた親切を忘れ、他人に迷惑をかけても平気でいる、
    わがままなことを「恥しらず」と言います。

〇 餓鬼の世界の心とは、どんな心ですか。
 A いつも、何かほしいと、うえている心です。

〇 地獄の世界の心とは、どんな心ですが。
 A 他の人の欠点を探して、それをさばき、責めいじめ、そして、
   自分自身も責めいじめられ、いつまでも苦しんでいる心です。

〇 地獄には、鬼がいるというではありませんか。
 A そうです。その鬼とは、私が他人を責めいじめる時の心の姿のことです。

〇 地獄は、土地の深い所にあるというではありませんか。
 A そうです。深いところにあります。でも、その土地とは、
   地球のことではなく人の心のことです。

〇 人の心のことを、土地というのですか。
 A そうです。お釈かさまの話の中で、国、土、地、境、世界などと、
   言うことばは、山や川のある国や土地、地球のことでなく、心の
    感じる広さをあらわすことが多いのです。

〇 私たちは、日ごろ、どの世界の心にいますか。
 A あるときは、餓鬼(何かほしい)の心、あるときは、天(うれしい)
     の心と、朝から晩まで、たえず変わって、六つの世界をぐるぐる回っています。
     親鸞さまは「地獄は住みかである」と言われました。
     このような人の世を「シャバ」とも「迷いの世界」にいるとも言います。

〇 シャバとは、どんな意味ですか。
 A インドの古いことばで、六つの世界の心のものが、ごっちゃに、
    いっしょにいることを意味しています。苦しみ、悲しみが、いっぱいですから、
    たえしのんで生きねばならないわけです。

〇 迷いとは、どんな意味ですか。
 A 自分が、今、どのような心であるか、気がつかず、また、
   どのようなことが、本当の幸福なのか、わからないので迷っていると言います。

〇 天(うれしい)の世界の心が、幸福なのではありませんか。
 A いいえ、自分では、楽しいと思っていますが、長くは続かず、
   いつか破れます。そして、後には、かえって苦しみの原因となります。
     また、うれしい心といっても自分だけで、みんな別々の世界に住んで
    いるので、さびしい思いです。

〇 私たちは、みんな一つの世界に住んでいるのではありませんか。
 A 
いいえ、身体は、一つの世界に住んでいますが、心は、同じ世界では
    ありません。百人おれば、百人の心は、みなちがう世界を作って、
    別々に住んでいます。

〇どうして人間は、同じ地球に住んでいながら、心は、別々の
   違う世界を作るのですか。
 A 兄弟でも性格がちがうように、人は、それぞれ生まれた所がちがい、
   育てられた生活がちがうため、行いや心も、大変ちがう働きをするからです。

  こんな内容です。大きな項目では 人の世のこと、私のすがた、仏さまのこと
  心がけたい行いと、大きく四つに分けてありました。
  
  妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
   次回は 5月3日に新しい内容に変わります。

  








第1004回 三つのよろこび

 平成24年 4月19日~

青少年のための聖典があります。
その最初に こんなことが書いてあります。少年連盟の大谷範子総裁のお言葉です。

みなさんへ

お釈迦さまは、今から二千五百年ほどまえに、インドに お生まれになり、
さとりを開いて、仏さまになられました。

そのとうといお釈迦さまのみ教えを、お弟子たちが中心となり、書き残されたのが、
中国に伝わり、漢文に訳されて、現在のような
 お経ができあがりました。

 親鸞さまは、お釈迦さまのみ教えを書いてあるお経を、一生けんめい 勉強され、
むずかしく、わかりにくかった、仏さまのみ教えを
 私たちにやさしく説いてくださいました。

 私たちが、お経を読むということは、文字だけを読むことでしょうか。
私たちは、毎日ごはんを食べています。一回だけ食べれば、それで
一生食べなくていいというものではありません。

 仏さまのみ教えを聞くことも、それと同じではないでしょうか。
毎日毎日聞いていかねばなりません。お経を読むときに、文字を通して、
仏さまのお心を、まちがいなく受けとらせていただくのです。

 今、この「せいてん」を手にした私たちは、まちがいなく、
仏さまのお心を受けとらせていただくようお経を読みましょう。・・・・・・

また、お経などの後、後半部分の  「せいく」の中には

三つのよろこび

 報 恩

ひとつひとつのいのち 日の光 暖かい土 やわらかい風と雨

わたしを つつむ いく千万の このめぐみ

生かされて 生かされて 生きてきた

ご恩の深さ ありがたさ み仏さま ありがとう


 歓 喜

はてしない 宇宙の中の あなたと わたしは 同じ世界のもの

み仏さまと むすばれた この 父母 この 兄弟 この 友だち

生かされて 生かされて 今 生きる

大きな力 あかるい のぞみ み仏さま ありがとう


  慚 愧

ちえを いただき ひかりを いただき いのちを いただき

ゆるされ 支えられ はげまされ 

生かされて 生かされて 生きていく

はるかな未来 たのしいみくに  み仏さま ありがとう

               
                   とあります。

妙念寺電話サービス お電話ありがとう ございました。
次回は、426日に 新しい内容に変わります。









第1003回 全体を見る

 平成24年 4月12日~

指先に 小さなトゲがささったとき そのトゲが気になって気になって
その痛みに 心のすべてが奪われてしまうことがあります。

同じように 解決しなければならない問題が起こり そのことばかりが
気になって落ち着かないこともあります。
親しい人との喧嘩も ほんの些細なこと 小さな行き違いから
起こるものです。

人間のこころは 集中できる特徴と 集中すると他のことが見えなくなる
欠点があるようです。

冷静になって 考えれば 身体の中で 痛いのは 指先だけで、
その他は 順調で 問題ないのです。
ほんの些細なことで 悩んだり いらだったり喧嘩をしたりしています。

全体が見えなくなっている 好調なこと順調なことは 意識の中から
消えてしまい 小さな問題や些細な悩みだけが、意識のすべてとなって
苦しんでいるのが 私たちです。


 また、子どもの頃から 「なせば成る 成さねば成らぬ何事も・・・」と
努力することの大切さを教えられてきました。

どんな苦しいこと 大問題でも あなたの努力で解決しますと
教えられてきました。

自然とともに生きている生活をしている人は、人間の力だけでは
問題は解決できない もっと大きな力を実感して 人間の力の及ぶ範囲と
及ばないところがあることを 理解していると思いますが、
人間関係だけ人間中心の生活をしている人たちには
言葉による説得で 人間の誠意で 努力で何事も問題は
解決するように信じ切っています。


浄土真宗は 無量寿仏 無量光仏 と説かれます。
仏のはたらきは 限りが無く いつでもどこでも誰でもが目当てである。
そして やがてこの私も 限られた命を終わると 限りない命の
仏と同じ はたらきが出来ると 説かれています。

私には 生きている人間の世界がすべてであり 今この瞬間しか
意識の中にはありません。

これまでの 数限りない 喜びや感動のすべてを忘れ
目の前の小さな出来事に 右往左往しています。

南無阿弥陀仏のお念仏を聞くとき この小さな世界から 拡がりを持った
大きな世界へと目を向けさせていただくことで 私の人生の輝きは
大きく違ってくるものです。

今この瞬間だけに目を奪われず、これまでの過去 そして未来を
見つめる習慣を身につけることで まるで違って見えて
くるのではないでしょうか。

 集中し、今に焦点を当て、真剣に生きることは大事ですが
私のすべてを 全体を 過去から現在 未来の すべてを見通し
意識できるそうした力を 養いたいものです。

そこに報恩感謝 喜びの人生が すべての人に間違いなく
味わえてくるものなのです。

妙念寺電話サービス 次回は4月 19日に新しい内容に変わります。










第1002回 蓮如上人と 一休和尚

 平成24年 4月 5日~

西本願寺から 発行されている 「大乗」の最新号の巻頭法語に
 勧学の 稲城選恵先生が 次のように お書き頂いています。

日本仏教史の室町時代を代表する高僧で、誰にでも広く知られているのは、
一休禅師と蓮如上人であろう。
入滅は一休禅師が、蓮如上人より十年前といわれている。

禅師は禅宗であるから肉食妻帯はしていない。しかし、蓮如上人は
親子夫婦の家庭生活の生涯の中で「自信教人信」の生活を送られたのである。
両者は禅と念仏で全くその立場を異にするが、接点もある。
それは、人間として生まれてきた意義を人々に明らかにされたと言うことである。

 仏教は元来、そもそも人間であるということに問いを持つ。
現代人は、この問いを持つことを知らない人が多い。
仏教やお寺、僧侶や経典はすべて死者に直結するもののごとく誤解している。
テレビの番組でも、お寺や僧侶が登場するのは、葬儀や死者に関係する
場面ばかりである。

仏教や僧侶は人生問題、生死問題の現実と、かけ離れているように
誤解されている。
それ故、若い人たちには全く現実とは無関係だとさえ思われている。

 確かに、現代の寺院、僧侶の現実は、死者儀礼によって成り立っている
側面が強い。しかし、死者だけと接しているわけではない。
遺族、生きている家族とも時間を共有するのである。
だからこそ、死者を縁とした寺院の儀礼や門徒宅へのお参りは大変重要な
意味が与えられているのである。

この重要なつながりを、ただ機械的にし、いつでもどこでも、
ありふれたもののように軽く受けとめると、教化などおぼつかないのである。
「自信教人信」という善導大師の言葉は、日々の門徒宅へのお参りの中に
生かされるのである。

 日常の暮らしの中で、僧侶・門徒が膝を交える大変貴重な法縁の場である。
これを死者にばかり目を向けるものとし、自らの生死に心を傾けないがために、
仏教の教えはあっても、人びととは遊離したものとなっているのである。
寺院・僧侶の深く反省すべきものである。・・・・・・


仏教は人間であるということに問いも持つもの、
この問いを持つことを知らない人が現代は多いと。
また、死者にばかり目を向けるものとして、自らの生死に心を傾けない
ために仏教は人びとと遊離したとあります。

こころして この言葉をいただきたいと思います。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 4月12日に新しい内容に変わります。

 

 






第1001回 阿弥陀如来 = 南無阿弥陀仏

 平成24年 3月 29日~

 新しく出来た 浄土真宗必携 「み教えと歩む」(本願寺出版社発行)
の中にこんなところが ありました。

「浄土真宗の教章」の「ご本尊」の項には
「阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」と示されています。

「南無阿弥陀仏」を「名号」といいます。 名号とは名前という意味です。

つまり南無阿弥陀仏は阿弥陀如来のお名前ということです。
どうして「阿弥陀仏」に「南無」を付けた「南無阿弥陀仏」が、
阿弥陀如来のお名前ということになるのでしょう。

南無が付くことに意味はあるのでしょうか。

南無阿弥陀仏の「南無」は 「帰依」という意味です。
そこで 一般に南無阿弥陀仏とは、「私は 阿弥陀仏に帰依します」という、
私から 阿弥陀如来に向かっての宣言であると考えられてきました。

 それに対して親鸞聖人は、南無阿弥陀仏とは「この阿弥陀に帰依しなさい、
 まかせなさい」という、阿弥陀如来から私に向かってのよびかけであると、
一般の考えとは 反対方向の意味があることをあきらかにしてくださったのです。


先回りの南無阿弥陀仏

阿弥陀如来は、私が「お助けください」と頼んでからようやくすくいに
来てくれるような仏さまではありません。

私が阿弥陀如来に気づきもしなかったときから、「この阿弥陀に
まかせなさい、かならずあなたをすくいとります」とよびかけ
続けてくださっていた、先回りの仏さまなのです。

つまり阿弥陀如来という仏さまは、南無してくださる(よびかけてくださる)
仏さまなので、南無阿弥陀仏がそのまま阿弥陀如来の
お名前ということになるのです。


「はい、おまかせします」の南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏が阿弥陀如来からのよびかけならば、私のとなえる
南無阿弥陀仏はどういう意味になるのでしょう。私が阿弥陀如来に
向かって「阿弥陀にまかせなさい」といっているのでしょうか。


こんなたとえがあります。
赤ちゃんが「ママ」という一言を発するようになるのは、母親が自ら
「ママですよ」とよびかけ続けた結果です。

それと同じように、いま私が南無阿弥陀仏ととなえているのは、
阿弥陀如来がさまざまなご縁を通じて南無阿弥陀仏とよびかけ
続けてくださったからにほかなりません。

つまり、私のとなえる「はい、阿弥陀さまにおまかせします」なのです。


    ・・・・・・・・・・とあります。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、4月5日に新しい内容に変わります。








第1000回 遠い目標

 平成24年 3月22日~

おかげ様で 1000回を迎えました。皆さまの応援のお陰と感謝しています。

ところで、近頃つくづくと感じることは、現代は 結論をあまりにも
急ぎ過ぎているように思います。
それに、余りにも早くから準備をしすぎているようです。

大人たちの関心は 子どもや孫のことでしょうが、その子どもや孫のためと
小さいときから学習塾や家庭教師などと 大人たちが一生懸命になっている
ケースを 見聞きします。

これは 実は 子どもにとって本当に必要な教育は 誰かにまかせて
自分は責任を逃れているのかもしれません。

人間として生きていくには、学校の勉強や学力だけではなく、幅広い
社会的な見識を学ばせる必要があるのではないか。
点数で評価できるもの 比較して優劣が決められるもの、その評価や優劣に
左右されて、人間誰でも全員が持っている必要がある経験や知識が 
欠落しているようにも 思います。


戦前の貧しい時代は、家庭を助けるために子どもの頃から、働くこと
親を助けること、弟や妹の面倒をみることなど、共同で生活することで
大事なことを、多くの子どもたちが体験し学んでいたと思います。

それが、現代は 生活に余裕が出来、しかも子どもの数が少なくなって
自分が若い頃苦労したために、子どもにだけは 楽をさせたいと甘やかし、
我が儘な片寄った生活をさせているのではないかと、感じています。


 お仏壇のある家では、昔は仏さま中心の生活をしていたようですが、
今は 仏さまに変わって、お子さま 中心の生活になったのではないか。

そのために、年配の人々は 子どもや孫と離れて住まい、同居しても
発言力のないペットの様に 行動を制限されて生きている人も少なくない
ようです。


 子どもの本当の幸せを願うなら、仏教的な壮大な価値観をもっと
受け入れ 伝えていく必要があるようです。
阿弥陀如来は、すべてのものを救う、お浄土へ生まれさせ仏のさとりを
得させて、仏のはたらきをさせる。これが、仏さまの願いであり、救いです。

われわれは、試験に合格させてほしい、健康でいたい、この病気を
治してほしい、いつまでも若さを保ちたい、あれがほしいこれがほしい、
死にたくないと願って生きています。

しかし、そのどれをも 阿弥陀如来の救いではないのです。
結論は もっと遠くにある 今この瞬間に結果を求めてもそれには
応じてもらえないのです。
もっと、末通った人間の究極の幸せ よろこびを 与えるとの教えです。

目先のことに一喜一憂する生活から、もっと遠くを目指した余裕有る
豊かな生活をしてほしいとの願いを、じっくりと味わいたいものです。

南無阿弥陀仏の願いは、身近には多くの苦しみ悲しみ悩みが沢山あるものの
やがて、それが一つとして無駄なことではなかった。

仏として活躍出来るその時にためには みんな有り難い経験だったと
言える 人生を、生き方を与えていただくのだと思います。
南無阿弥陀仏の教えは どんどんどんどん 喜びが増してくる教えです。

年を取れば取るほど、病気をすればするほど、いのちが終わりに近づけば
近づくほど 悲しみ苦しみが増えてくれば来るほど、喜びが増してくる
教えだと味わえます。

すばらしい人生だった、無駄なことは一つもなかったと 味わえる
喜びを与えていただく、それが南無阿弥陀仏のはたらきであり、
お念仏の教えだと感じています。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、328日に新しい内容に変わります。









第999回 もっと分かる話を

 平成24年 3月15日 ~

25回忌の父 17回忌の母を ご縁とした法要でのこと、
ご親切に 導師席のすぐ横に ストーブ置かれ 暑さに耐えての
お勤めを終わり、「わがまま言っていいでしょうか よろしければ
ストーブ
 皆さんの方へ 向きを変えていただけませんか」

いつものように 持参した 一枚法話を 読みながらお話をしておりましたら、
年忌の時にしかお会いしない老年男性が、
「今日は 父母の法事でみんな集まっているのですから そんな分からん話を
  せずに、父や母のことを 話していただけませんか」と、
 少し 感情的な声を掛けられました。

お手元の念珠から 新宗教か聖道門系の信者の方だろうと 思います。
南無阿弥陀仏の人は お浄土に生まれ 仏のはたらきをするという話が 
ご不満だったようです。

「そうですね。お父さん(おじいちゃん)は 写真でしか存知ませんから、
  叔父様方から 後で お聞きいただくとして、お母様 (お祖母ちゃん)とは
  毎月一回 叔母様がいつも一緒でしたが、今日のような 仏さまのお話
  お浄土のお話を 熱心に聞いていただいていました。・・・・・」


 ご主人を亡くされたお母さんが 取り残された方が知りたいのは 
亡くなった方が 今 どうしておられるのか、また、自分は今後
どうなるのだろうかとの疑問だろうと思います。

一緒にお念仏をして生活していた 大切な方が 自分を置いて
どこか 遠くへ 居なくなってしまったのではなく、お浄土へ生まれ
仏のさとりを得て 今も 自分のために はたらいていてくださる。

南無阿弥陀仏の仏さまとなって いつも一緒にいてくださる。
自分は 見捨てられたのではなく 生前と同じように自分のことを
気遣っていただいている そう 味わうことが出来れば 悲しさ寂しさを
乗り越えていける 大きな力になるのではないか。

同じように 子どもや孫も 父母や祖父母は 今も 自分たちのことを
いつも心配して 見守っていてくれる。
そう味わう人生は 素晴らしいものになるのではないか。

世間の常識で 勝った負けた損した得した 健康第一 死んだら終わり
という価値観だけではない。学校でも教えてもらえない 仏教的な価値観
それを受け取ること、それが、今は亡き父母が もっとも喜んでくれる
生き方ではないか、そして 私の人生を豊かにすることではないかと
お話をしましたが、

「よう分からん、もっとみ砕いて 分かるように話してください」
さらに注文が 入りながらも 法座は終わりました。


親の願いや 思いは なかなか理解出来ないもの、それ以上に仏の願は
なかなか分かる話ではありません。

繰り返し聞くことによって、世界観が 価値観が転換したとき
はじめて うなずくことが出来るものですが、ご縁がある方と
どうしても ご縁をない方 様々です。

「親の言うことを素直に聞く子どもと、なかなか聞けない方が
  ありますからね。でも お母さんは きっと、こうした価値観を
  お持ちでしたよ」とお別れしました。

外へ出ると 背の高い お孫さんが たばこを手に、
ニッコリ笑って 見送ってくださいました。

妙念寺 電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、322日に新しい内容に変わります。







第998回 聞く側の問題

平成24年 3月 8日~

突然の脳血栓で倒れられた村上速水和上は、大学の教授でありながら、
「ものを書くこと」「言葉を喋る」という二つの機能に障害が起こり
闘病のご苦労をされましたが、病院の帰りには、本願寺の総会所に聞法に
通われることを日課とされていたといいます。

あるとき、先生がいまだ辿々しい口調で、次のようなことを話された
といいます。
総会所通いをしていると、聴聞の人の顔ぶれが大体決まっている。
そんな中で、法座が終わるといつも口癖のように、
「ああー、今日もいい話を聞かせてもらった。有り難い、有り難い」と
独り言をいいながら帰っていくおばあさんがいる。

自分が聞いて、それほど有り難いと思えない話のときでも、
「有り難い」という独り言が出る。
そのおばあさんの言葉をいつも聞いていながら、実は今日、
初めて気づかしてもらった。

聞法というのは、話す側に問題があると言うよりも、聞く側に
問題があるのではないかと・・・・・。

親鸞聖人の教学研究において第一人者として評されている先生が、
しかも六十歳を越えられて、今まで気づかなかったものを
一人のおばあさんから教えてもらったといわれたとき、
すばらしい師匠に出遇わせていただいたという感動を憶えたと、
お弟子の白川晴顕先生は、お書きになっています。

そして、村上先生は「病気をして嬉しいとは思わないが、
有り難いと思うようになった」と述懐されています。

それは、「病気をしたからこそ ご法義がよろこばれる。
病気は今まで気づかなかった喜びの再発見である」との味わいから
にじみ出た言葉です。

誰もが病気になることを好んではいません。その病気を有り難いと
味わうことのできる心の他に、どこに力強い生き方があるでしょうか。

如来の本願の大海に帰入すれば、病のままで病が有り難いと
受けとめられていく、悪が消滅することなく善に転じられていく、
ここに「一切の業繋ものぞこりぬ」の意味があるように思われますと
書かれています。(白川晴顕著 浄土和讃を読む 本願寺出版発行 参照)



受け取る側の問題、どんな有り難いお話を聞こうと、どんな親切な言葉を
かけてもらおうと、それを受け取る側が ちゃんと受け取らなければ、
その力を発揮しません。

子どもの将来を思う親の言葉も 有り難く受け取ることが出来るか
うるさくて邪魔だとしか受け取れないのか。

受け取る側の問題です。

南無阿弥陀仏の言葉も、おまえを救うという言葉も、阿弥陀さまが
お前のためにご苦労されたという言葉も、聞く力を持たないものには 
何の意味も 有り難みもないものです。

この私のためにと、受け取れることができる、それがお育てに預かったという
ことだろうと思います。
私の周りの出来事 良いことも悪いことも みんな私のためにと
味わえる そうした力を育て養い、与えてくださるのが お念仏のはたらき
南無阿弥陀仏の力だと味わいます。

 妙念寺電話サービス 次回は 3月15日に新しい内容に変わります。







第997回 さすがあー

 平成24年 3月 1日~

また一人 先輩のご住職が 往生されました。 
高等学校の先生をしながら 五十年余り住職として
お法を伝えて下さった方です。

同じ、組内の僧侶 全員が出勤して 門徒葬が行われましたが、
ご門徒ばかりではなく 多くの方々が参列していただきました。

葬儀委員長は ご挨拶で 戦後まもなく御住職は お寺でボーイスカートを
結成され 自分もその一員で 厳しく優しく ご指導いただいたと
懐かしく語っておられました。
子どもの頃からの尊いご縁が、今に続いていることを味わっています。


 ところで、市内の仏教会の会長さんも参列していただきました。
今は 修行をされるご宗派の会長さんで、
100日間の荒行から 帰ってこられたという 引き締まったお姿で
司会の案内に ひとり焼香に向かわれましたが、その時 「さすがーー」と、
参列していたご門徒の方から 声がかかりました。

七条袈裟を美しく着けた 20人近くの僧侶が 次々に焼香をした
その後で 黒い衣のご住職のさっそうとした立ち振る舞いに
つい「さすがー」との声が出てしまったのでしょう。

能楽か狂言 舞踊でもみるような ゆったりとして しかも緩急があり、
動作の一つ一つが ちゃんと決まって まさに流れるようで
お敬いの心も 深く感じられる 実に見事な お焼香でした。

見られている ということを 改めて感じました。
仏さまにいつも見守れている それとともに 多くの人々にも 
見られている。

自分の行動を ちゃんとコントロールできるように 寒い雪の季節に
水をかぶり 朝となく夜となく修行をされた方の素晴らしさを 感じました。

誰にでも出来ないことを ちゃんとやり遂げた方の言葉は 有り難く
素直に疑いなく 聞き取ることが出来るのではないか、
見られていることを 意識もせずに ごく自然に 傍目には
だらだらとした姿に見えている人の言葉は なかなか素直に聞こえないの
かもしれません。

仏さまの言葉を お取り次ぎするものとして そこにいる方々に
「さすがー」と 思わせる 立ち振る舞いも こころすべきではないかと
つくづく味わいました。

南无阿弥陀仏 南无阿弥陀仏は 仏さまのことば その 仏さまのことばを
口にする人が 美しく有り難く 目に写るように 心して 行動や
立ち振る舞い ことば使い 発言をしていきたいものです。

子どもや孫たちも、大人たちの姿をちゃんと見ているのだと感じます。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました
次回は 38日に新しい内容に変わります。








第996回 他力本願とは

 平成24年 2月23日~


親鸞聖人のみ教えのキーワードを まとめた冊子があります。
その中の「他力本願」には

「他力本願(たりきほんがん)」という言葉は、
浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)が
いわれた「他力(たりき)」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、
もちろん他人の力をあてにすることでもありません。

また、世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、
他の力という意味でもありません。「他力(たりき)」とは、
そのいずれをも超えた、広大無辺(こうだいむへん)な
阿弥陀如来(あみだにょらい)の力を表す言葉です。


「本願(ほんがん)」とは、私たちの欲望を満たすような願いを
いうのではありません。

阿弥陀如来(あみだにょらい)の根本の願いとして
「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)を信じさせ、
称えさせて、浄土(じょうど)往生(おうじょう)せしめよう」と
誓われた願いのことです。

この本願(ほんがん)のとおりに 
私たちを浄土(じょうど)に
往生(おうじょう)させ、
仏に成らしめようとするはたらきを
「本願力(ほんがんりき)」
といい、「他力(たりき)」といいます。

 私たち念仏者は、このような如来(にょらい)の
本願(ほんがん)のはたらきによる救いを、
「他力本願(たりきほんがん)」という言葉で聞き喜んできたのです。

ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、
いまのいのちの尊さと意義が明らかに知らされるのであり、
人生を力強く生き抜いていくことができます。

  ・・・・・・・・・

 と、親鸞聖人のみ教えが説かれています。

 この他 「悪人正機」、「往生」という言葉をまとめたものが
1セット100円(税別)で 本願寺出版社から 発行されています。

特別に選ばれた人だけではなく すべての人が救われていく道を
教えていただいているのが、お念仏の教え、南无阿弥陀仏の教えです。

妙念寺電話サービス次回は 31日に新しい内容に変わります。






第995回 生きる基本

 平成24年 2月 16日~

電波が混雑するこの地方では 有線テレビが非常に発展しており
密度の高い地域情報や 長時間にわたる中継放送など 通常の
テレビでは なかなかお目にかかれぬ内容が沢山あります。

 子どもの食育をどうするのか 給食担当の先生たちの研究発表会と
思われる番組が放送されていました。

スライドを使って、学校給食の改善や、生徒達が自分たちで 大豆を育て
納豆を作り、それを販売した体験発表などがあり 最後に 大学教授が登場して、
講演が始まりました。



 小中学校で いのちの大切さ、食事の重要さを教えていただいているが
大学生を調査すると、朝食事を まったくとらない生徒が 実に40パーセント
もあり、自分では食事を作らず 外食ばかりをしている学生がほとんどである。

一昔前までは、学生食堂では バランスのとれた定食が、主流であったが
今は 一品料理ばかりを学生たちは選び、栄養の偏りが心配される。

また、成績優秀な東京の大学では トイレに、落書き禁止、喫煙禁止、
食事禁止との張り紙があるといいます。
他の人と一緒に食事をするのが面倒で、一人でしか食べれない
子どもたちが 多くなっているとのことです。

 小中学校では 月に一度だけ 自分で作った弁当を持参させ、調理の
機会を増やそうとの取り組みも 行われているが、子どもに任せきれずに、
親が準備しているケースが 多いのではないか、どう炊事をしていいのか
知らない学生がほとんどだと言われます。

栄養の偏り、食生活の不安定などもあり、便秘の学生がほとんどで
規則的な生活の指導がなされていないのが現状であるとの報告です。

受験勉強を優先させて、人間として本当に必要な教育が家庭の中では
まったく忘れたれているとしか思われません。
義務教育の先生方にも、将来を見据えた指導を期待するとの講演でした。


これを聞きながら、体の健康ばかりではなく、こころの健康についても
大人たちは、こころ配りを怠っていることをつくづく感じます。

家庭での法座の席に 若者の姿が見えなくなっていることも、その一つです。
受験がある勉強が忙しいと、折角の尊いご縁から遠ざけているのではないかと
感じています。

体も心も、規則正しく調整していくこと、人間として最も基本の部分が
今 忘れられているように感じます。
どうか、お寺の法座へ 家庭での法要に、将来ある若者達に
参加させていただくよう呼びかけていきたいと思います。

南无阿弥陀仏の教えは 人間が人間として 生きがいをもって生きていく
ことの出来る生活習慣を養っていただく、最も大事な基本的な内容を
含んでいると思います。
子どもの頃から ちゃんと身につけさせておきたいことです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、223日に新しい内容に変わります。







第994回 最高のプレゼント

 平成24年 2月 9日~

会合に 必ず おみやげを持ってこられるご住職があります。
地元特産のミカンや、牡蠣、前回は 加えて焼き芋や、あんこが 
沢山入った回転焼き等々 もらった人が喜ぶ姿を見るのが

大好きと、来る道々で求めて来られるのでしょう。

これは お孫さんにお菓子や おもちゃを買い与えるのとよく似ています。
甘いものは虫歯になる、お菓子をたべて食事が入らなくなるなどと
若いお母さんから歓迎されないことを 知っていても、孫の喜ぶ姿を
見たいばかりに ついつい買い与えてしまうのが おじいちゃんであり、
お祖母ちゃんだろうと思います。

「子どもの好きなものばかり いつもいつも買い与えるのは、本人のために
  なりません」と、きつく言われても 喜びの姿を思い出すと、やめられません。

誰でも もらうのも嬉しいものですが、実は 与える方がもっともっと
嬉しいことだと思います。


 ところで、南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀さまが私たちに与えて
くださった言葉です。

阿弥陀さまは 我々の喜ぶ姿を見たいために、末通った究極のよろこびを
与えるために 南無阿弥陀仏のお念仏を与えてくださいました。

私たちが求める前から準備して 私たちに与えてくださいました。

南無阿弥陀仏で 今 生きていることを喜ばせ やがて命終われば
お浄土へ生まれさせて 仏にし活躍させるぞと、苦労して苦労して
南無阿弥陀仏を完成していただきました。

南無阿弥陀仏を口にして 生きがいある生活をする人を、孫の姿を
見るように 温かく見守っていてくださるのです。

数限りない多くの仏さまたちも 阿弥陀さまを誉め讃える南無阿弥陀仏を
常に称えておられるといいますが、人間の私がいっしょになって
南無阿弥陀仏を口にすると、有り難い うれしい、よかったと声をそろえて 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と みんなで喜んでくださっているのでしょう。


 やがて 孫が成長して、お菓子やおもちゃを卒業したとき、
親や年寄りが 喜ぶのは,孫や子どもが、周りの人々に認められ
みんなに誉めていただき、自分の能力を充分に発揮していることを
知った時 このうえなく嬉しくなるものです。

阿弥陀さまも この私が 南無阿弥陀仏を口に みんなに褒め称えられ、
生きがいをもって、力の限り生きている姿を見て よくぞ聞いてくれた
南無阿弥陀仏を受け取ってくれたと 大変喜んで頂いているのでしょう。

南無阿弥陀仏を口に 南無阿弥陀仏の生活をする人は 阿弥陀さまばかりか、
多くの仏さま、そしてお念仏を受け継いだ 多くの先輩たちが

そろって、喜んでいただいているのです。

 私が、南無阿弥陀仏を口にする姿を見て、孫が立派な大人に
成長したのを見るように これで この子の将来は大丈夫 間違いないと
大変に喜んでいただいているのでしょう。

 南無阿弥陀仏を口にして、生きがいある生活をさせていただくこと
それが 今 私にとって 最高の喜びを与えていただくものであり、
やがて もっと嬉しい 与えることの出来る 仏に成らせていただくこと
なのです。もっともっと 嬉しい最高のよろこびが与えられるのです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。
次回は2月16日に新しい内容に変わります。









第993回 たまたまの出あい

  平成24年 2月 2日~

寒い日の朝 親子ずれでの墓参りが 多い日があります。
きっと 中学とか 高校、大学の入学試験の日なのでしょう。
ご先祖様に 受験の報告へ来られるのか、何組もお参りされる日があります。

希望通りの学校に入った方、残念ながら 第二志望の学校の方もあることでしょうが、
どれも無駄ではない 意味があるのだと
 味わうことが出来るようになるのが 
お念仏の教えだと思います。


どんな 環境に入ろうと 希望道理にことが進まなくても、いろいろの出あいがあるもの 
一つとして 無駄なものは ないと
言える 素晴らしい人生をスタートしてほしいものです。


 このごろつくづくと 思うことがあります。

高校や大学ですと 専門の教科は それぞれの先生が教えていただきますが
小学校の場合、担任の先生の責任は 重大だろうと思のです。
すべての教科から、生活指導まで一人の先生が一年間から数年間 全部受け持って
いただくのですから、しかも、その先生は
 子どもの方からは選ぶことは出来ません。

その先生の熱意や頑張りようによって、子どもさんの人生は 大きく違って
くるのではないかと思います。


同じように、小さな集落にある 町医者の方の力量で その地域の人々の
生命は左右されることも多いものです。


 これと同じように 所属の寺院の 住職との出あいが ご門徒の人生を
大きく左右するものだろうと、自分に言い聞かせています。

先輩たちが苦労して受け継いで頂いたお念仏の教えに、ご縁がある人生と
ご縁がなく、まったく世間の常識だけで送る人生 そこには大きな違があると感じます。

そういう意味で,住職という役目は 大変に責任が重大だと思います。
小学校の担任の先生は 一年か二年,数年経てば 新しい先生と変わり
新しい出あいがあります。

病気の場合も、近くのお医者さんだけではなく、大きな病院を選んで
診察を受けることも出来ます。

しかし、所属の寺院は なかなか思うように 自由に変われないもの、
住職も数十年と変わらないものです。

ご縁に会あうことが出来なければ、南無阿弥陀仏に会えなければ その人は
一生涯 空しい、怒り 腹立ち、貪りの辛い苦しい人生となることでしょう。

或いは、間違った教えに誘われて 尚一層 悲しい苦しい人生で
終わることも考えられます。

住職は そういう意味で 責任が大きいものだと言い聞かせています。
それと同じように 自分の子どもや孫 連れ合いが、お念仏の教えとの
ご縁のないことは 最大の不幸だと思います。

どうか、南無阿弥陀仏のご縁に出遇っていただき、私の人生は本当にすばらしかった、
有り難かったと言えるように お互い成らせていただきたい
ものです。

そして身近の人、一人でも多く 南無阿弥陀仏を聞く生活 豊かな人生との
ご縁と 出遇っていただいたいものです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとう ございました。
次回は、2月9日に新しい内容に変わります。







第992回 信心をいただくと

 平成24年 1月26日~

ご本山の通夜布教を 記録しようと 小型のICレコーダーを求めました。
録音できる容量が余りにも多いので、これまでテープで持っているご法話を
収録し始めました。
その中に 妙好人の和泉の吉兵衛さんを三宮義信先生が語って頂いたものに、
こんなところがありました。


親鸞聖人は 信心に10通のご利益を数え上げておられます。
これを、三つほどにすべくくることが出来ます。

一つには 信心をいただくと 阿弥陀さまが始終自分を守って
いてくださるとの確信が沸き上がりますから,嬉しいにつけ悲しいにつけ、
仏さまに感謝の心がわいてきます。
従って日常の生活が愉快になってきます。

第二には 信心を得た人は 先々に大きな期待がありますから
失敗があっても 立ち直ることができます。
仏さまから受けた大きなご恩に報いるために しっかり働かねばならない
という活気のある生活になります。

第三に、信心を得た人は 仏さまとともに起き 仏さまとともに寝る
という思いがありますから 自分一人ぼっちの生活ではない 
目には見えないがいつも付き守ってくださる仏さまがあると
自らをたしなめながら 蔭 日向なく生きていくことが出来ます。
ですから 仏さまに取り計らわれた生活 仏さまによって築き上げられた
人生です。

これが信心の利益といえましょう。

ある人が 吉兵衛さんに 息子の金遣いのあらいことを訴えました。
吉兵衛さんは その人に 息子さんに譲ろうと思ってあんたは財産を
こしらえたんでしょう。

だから 息子さんが使ってくれたら本望でしょうがと 言いました。
そして今度は 金遣いの荒い息子に向かって あんたは年が若いから
お金を使いたんでしょう。

お使いになるのは 結構ですが しかし金を使うときに この金は
親父さんが 汗と涙の中から こしらえてくれた金だと思いながら
使いなさい。
これだけを頼んでおきますよと、言いました。

吉兵衛さんのところには このような相談事がいつもあったようです。
ところで いつもこんな難しいことを言っていたのかというとそうでも
ありません。

自分の家の台所で 火鉢の前に座って 隣のうちをみながら
お隣の障子は破れ放題 張り替えたら良いのにと笑っている人がいる
その人は 隣の家をどこから見ているかと言うと自分の家の障子の破れから
覗いていると ユーモアに富んだことも言っています。

人の振り見て我が振り直せ,人の欠点ばかり目につけて,自分のことは
忘れている そんな自分をたしなめなさいということが言いたかったのでしょう。

    ・・・・・・・・

 本堂や月忌でお会いする人が
いつも愉快で 活気があり、蔭 日向なく
生きておられるのを味わい

信心のご利益であると 有り難く感じています。

どうぞ、仏さまによって築き上げられた人生を、精一杯生かさせていただきたいものです。
妙念寺電話サービス 次回は 2月2日に新しい内容に変わります。






第991回 野菜づくり

 平成24年 1月 19日~

親鸞聖人が ご往生されて749年 この116日は 750回忌にあたりました。
京都西本願寺では 昨年の49日から 65日間 のべ115座の法要が行われ、
参拝者は 140万人あったといいます。

 15日は 夜を徹して 通夜布教が行われ、ご本山の聞法会館 一階の総会所と 
3階にあるホールでは、全国各地から来られた13人の布教使さんが,
40分づつ 
ご晨朝がはじまる直前まで 連続して ご法話をいただきました。

その中に こんなお話がありました。

この大遠忌の前に,食事のことばが 改訂されました。
これまでは、「みほとけと皆さまのおかげにより このご馳走をめぐまれました。
深くご恩をよろこび、ありがたくいただきます。」 だったのが

「多くのいのちと みなさまのおかげにより このご馳走を恵まれました。
深くご恩をよろこび、ありがたくいただきます」 に変わりましたが、
つくづくその通りだと感じているという お話です。

野菜作りをしていた先代の住職が亡くなってからは ご門徒のおじいさんが
畑を守ってくれていましたが、そのおじさんもご往生になり、しかたなく、
農作業を始めることになりました。

それを見た,隣の畑の農家のおじさんは 大変に喜んでくれたものの、
「ごいっさんは 殺せるかなー」と謎のような言葉を つぶやいたといいます。

何のことか分からずにいましたが その訳がやっと分かったというのです。
野菜には 実に沢山の虫がつくもの 最初は 可愛そうで 一つ一つ取り除いて、
捨てていたといいます。

しかし、次の日には その虫たちは 野菜に戻って一生懸命に かじっている。
取り除いても 取り除いても 虫は 次々に野菜に戻って来るのです。
自分の手で殺すか 殺虫剤をまかないと、人間の食べるところは
無くなってしまうのです。

虫に食べさせれば 人間が食べる分がなくなり、虫を殺さないと
野菜は収穫出来ないことを知ったというのです。

スーパーに並んでいる野菜には 虫に食べられた痕跡は一つもありません。
ということは、すべての虫を殺したお陰であるというのです。

魚や肉、野菜や果物 動物や植物のいのちを頂いているということは
頭で理解していましたが、その野菜も 実のところ多くの虫のいのちを
奪った結果、食べることが出来ている、そのことを 自分で野菜作りを
始めてみて 初めて知ったというお話です。

 私は 自分一人で生きているのではなく 多くのいのちの犠牲の上に 
生かされているのだ。
そのことを、考えると もっともっとこの私の生活は充実させて行かねば
申し訳ないと味わえてくるものです。

私が生きているのではなく、多くのいのちに生かされている。
「多くのいのちと 皆さまのおかげで 生かされている」このことを
つくづくと 感じていますという お話でした。

南無阿弥陀仏の生活は、真実に目覚めさせていただく はたらきが
あるのです。
私の生き方を 問い直してくれる力があるものです。

妙念寺電話サービス 次回は、126日に新しい内容に変わります。





第990回 元気が自然に

 平成24年 1月 12日~

インターネットを検索していて お寺のすばらしいページが見つかりました。
甲子園球場の近くと思われますが 念佛寺という
大谷派のお寺です。

毎月発行の新聞が、掲載されており そこに、こんな内容がありました。
相談者Aを縁として」 と題して書かれたもので,
 Aは質問者
 Dは 御住職の会話のようです。


A「会社を続けようか、辞めようか迷っています」
「どうして」
A「事務の仕事なんですが、なかなかうまくこなせなくて、よく上司に叱られます」
D「叱られるから辛いんですね。だからもう辞めようかと」
A「ええ、辞めたいと思のですが、どうしていいかわからない」

D「辞めた方が楽なら、そうしたらいいし、辞めないで続けた方が
  自分にとって楽なら続けてみたら」
A「ただ、今の仕事を辞めるというのは何か、苦しいことから逃げてしまうようで。
  今までいろんな苦しいことから逃げてきたので、また今度も逃げることに
  なると思とそれがいやで」

D「辞めるにしても辞めないにしても、どちらを選んでもお念仏を聞きつけていきなさい」
A「辞めるとやはり逃げになってしまうのでは」
D「どこまで逃げても阿弥陀さまの中からは逃げれないし、阿弥陀さまはいつも
  南無阿弥陀仏と喚びかけておられるのです」
A「怠け者の私は仕事をしなくなったら、食べていけなくなる」

D「だったら誰かに食べさせてもらいながら念仏していけば」
A「そんなんでいいのですか」
D「自分で働いて念仏していけるなら、働きながら念仏を聞けばいいし、働くのが
  イヤなら、仕方がありません。誰かに食べさせていただいてお念仏聞いていきなさい」
A「でも自分はもっとがんばらなくてはといつも思うんです」

D「それならがんばってみては」
A「がんばらねばと思いながら、ずるずるとがんばれないままに今まできて
 しまったのです」
D「なかなかがんばれずにきてしまったのですね。がんばれないからがんばれないまま
  お念仏一つを聞いていったらどうですか」
A「がんばれないままでいいのですか」

D「今まで生きてきたようにしか人はなかなか生きられないもんです」
A「がんばろうとしてもがんばれないという、くり返しでなさけないです」
D「がんばれないままでいいから、南無阿弥陀仏を聞いていきなさい。 
  南無阿弥陀仏を聞くと、阿弥陀さまは〈ここにあなたとともにいつもついている。
  引き受けている、そのまま念仏するばかりでよい〉と大悲をかけて
  くださっているのです。この世のことはどっちへどうころんでも阿弥陀さまから
   離れられません。ただ阿弥陀さまとの結びつきだけは忘れないように」

A「どうしてですか」
D「この世に生まれてきたのは阿弥陀さま(真理)にあうために生まれたのですから」
A「じゃあこれからどうしたらいいのですか」

D「念仏しながら今の仕事を続けれるようだったら続けたらいいし、苦しくて辞めたい
  なら家で念仏聞いていけばいい」
A「やはり仕事はしたい」

D「じゃあもっと楽にできる仕事を探してみては」
A「そうしてみますが、もしそんな仕事が見つからなかったら」
D「家の中で念仏しながら生活していきなさい。どこにいても阿弥陀さまと
  いっしょだから大丈夫」

A「がんばらなくては自堕落な生活になりませんか」
D「たとえ自堕落になっても、阿弥陀さまはあなたを受け入れてくださっています。
  阿弥陀仏にであうと、不思議に生きる元気が自然にわいてきます。阿弥陀仏に
   あわないと真に生きようとする力がなかなかでないものです」

A「仕事もせずに食えなくなったらどうするのですか」
D「どこまでも阿弥陀仏が引き受けてくださいます。食えなくてたとえ死んでも、
  浄土に生まれさせてくださいます」

  ・・・・・・というものです。
 有り難い お話です。

妙念寺電話サービス次回は 119日に新しい内容に変わります。





第989回 泥の中の白蓮華
 
 平成24年 1月 5日~

「イケテル」とか「おっしゃれー」という言葉を聞かれたことがありますか?

まあひと昔前の「ナウい」とったような意味なのでしょうが、容姿や服装の「お洒落」の
センスがよいといったことから派生して、
生き方の「かっこよさ」みたいなことを誉める時に
もつかわれるようです。

時代を問わず、若者が「かっこよさ」に憧れるのは、無理からぬことですが、
ある程度の年齢になると、「かっこよさ」よりも「尊さ」にひかれるように
なるのではないでしょうか。

 私たちは、どんなところにその人の「尊さ」を感じるのでしょうか?
一つのことをやり続ける「努力」とか自分を犠牲にしてでも他の人につくす「奉仕」などを
挙げることができるでしょう。

けれども、その人の態度にある種の謙虚さがなければ、どんなに立派な行動であっても、
鼻に付く嫌味が先立って、「尊さ」を感じないと
いうことにもなりかねません。

ここでは、お釈迦さまが他力の信を得た人の「尊さ」を
「すぐれた智慧を得たものであるとたたえ、汚れのない白い蓮の花のような人とおほめに」
 なりますが、それには理由があります。

蓮の花はドロドロの泥沼に生息するにもかかわらず、見事に清らかな花を咲かせます。
そこで本来は、世間の泥沼の中に
ありながら泥に染まらず、むしろ泥沼を美しく浄化して
いくという
仏さまや菩薩様の徳を蓮の花に譬えていたのです。

ところがお釈迦さまは「観経」で、汚い煩悩の泥の中にいる凡夫の念仏者を
蓮の花の中でも最高級の白い蓮の花として讃えられているのです。
それは、仏さまの中で最も尊い阿弥陀さまの智慧と慈悲の徳を煩悩の中に
いただいていることを 白い蓮の花に譬えておられるのです。

「妙好人」と讃えられる他力の信心を得られた方々は、どこか恥ずかしそうで申し訳
なさそうにしておられるところがあったと
聞いたことがあります。

妙好人は、自らに届いた阿弥陀さまのはたらきを喜ばれたに違いないのですが、
その仏さまの真実はもともと自らがもっていたものではないことを
味わっておられ、
もともともっている自らの泥沼から目を背けることは
できなかったのです。

だから、仏さまのはたらきを喜べば喜ぶほど、仏さまに対して申し訳ない気持ちと 
自らの泥沼を恥ずかしいと思う気持ちが隠しきれずに表に
あらわれていたのでは
ないでしょうか。


その態度が、人々に「尊さ」を感じさせることになったように思います。

  ひらがな正信偈 森田真円師著  本願寺出版社発行 より





第988回 何事も 初ごと

 平成23年 12月29日~

蓮如上人の聞書に、こんなところがあります。

 ひとつのことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信のうへにはあるべきなり。
 ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞申すとも、
 めづらしく初めたるやうにあるべきなり。

とあります。現代語訳では(130)
 信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、いつも目新しくはじめて
 耳にするかのように思うべきである。

 人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、
 いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない。

お念仏の教えは 阿弥陀さまの救いのお話 すべてのものを南無阿弥陀仏で
救わねばおかぬとの阿弥陀さまの願いを 聞くことです。
この私を救うとの 南無阿弥陀仏を聞くことでしょう。

そして、毎回 はい はい 有り難うございますと ご返事をする  
何度聞いても そうでしたこの私のための教えでしたと 受け取ることだろうと思います。

赤尾の道宗というひとは 日頃こうのように言っていたともあります。
同じく 蓮如上人御一代記聞書の 131に(現代語訳)

  道宗は、 「 同じお言葉をいつも聴聞しているが、何度聞いても、はじめて
  耳にするかのように ありがたく思われる 」 といわれました。


南無阿弥陀仏は おまえを救う との呼び声 毎回毎回 そうだそうだ
この私のための南無阿弥陀仏、阿弥陀さまのはたらき 法蔵菩薩のご苦労
親鸞聖人のご苦労 そして 多くの先輩たちのご苦労であったと
味わいたいものです。

世間の話を聞くのではなく、南無阿弥陀仏を聞かせていただく毎日
ただただ おまえが可愛くて心配で、おまえ一人を救うぞとの呼び声です。
南無阿弥陀仏と聞こえたら南無阿弥陀仏を返事をする毎日でありたいものです。

 妙念寺電話サービス 次回は 1月5日に新しい内容に変わります。





第987回 雑行雑修自力

 平成23年 12月22日~

蓮如上人がお書きいただいたご文章、最も読まれるものの一つに
聖人一流章が あります。

  聖人一流の御勧化のおもむきは 信心をもって本とせられ候
 そのゆえは・もろもろの雑行をなげすてて 一心に弥陀に帰命すれば,
  不可思議の願力として・仏のかたより往生は治定せしめたまう・・・・

 とか、ご和讚にも

   仏号むねと修すれども、現世をいのる行者をば、これも雑修となづけてぞ、
   千中無一ときらはるる


など、雑行とか雑修とか 自力とかを 嫌って再三 否定されています。


人間は どうしても自分の行い 自分の思いが中心になって他が見えなくなります。
特に、現代は 努力すること 頑張ること 他人の力に頼らず
競争に勝つことで 目的が達し 幸せになると 信じこまされています。

受験生や スポーツ選手などは 勝ち抜くことが必要でしょうが
一般の人には もっと違った見方 考え方が必要ではないでしょうか。

病気にかからず健康で、いつまでも若く年をとらないのも あなたが努力すれば 
希望どおりになるのですよ、

そのためには 適度な運動をして、食事に気をつけて、加えて〇〇を 
欠かさず飲んでいれば 若さと健康が保てますと テレビで
毎日毎日呼びかけられ、お互いの日常の会話も、私の努力が話題になります。

年を取るのも病気するのも あなたが原因を作っている、その原因を取り除けば大丈夫と
少ない原因を提示して それさえ無くせば希望が叶うという幻想を抱いています。

しかし、原因は一つや二つではなく、我々の知識では理解出来ない多くの
原因が存在しているのだと,仏教では説かれています。

ご縁があって 仏教のお話や お念仏に出会えた人は、人間同士の力
ばかりではなく もっと多くのはたらきを気づかせていただくもの。

世間の価値観 常識で生きている人たちは、気づいた目先の 一つ二つの原因だけを
理解して、対処し、何故希望どおりにならないのかと、悩み苦しんでいる方が多いものです。

こうすれば こうなるものと 勝手に想定して がむしゃらに励むことで 
欲望を叶えようとすることは 道理に外れていますよと
南無阿弥陀仏は 呼びかけていただく言葉だろうと味わいます。

仏さまのお話を聞けば聞くほど、いままで気づかなかった多くのはたらきかけに
気づかせていただく、そうすると 私の行いはだんだんと 方向と目的が
変わってくるものです。

何が 雑行で雑修なのか、こうした行いが自力なのかと 少しずつ 頷けてくるものです。
そして、いつも ハラハラどきどきの不安な生活から こころ豊かな
安心した生活へと転じられていくものです。


妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。
次回は,12月 29日に新しい内容に変わります。





第986回 二つのグループ

 平成23年 12月15日~

近頃 感じることがあります。
お会いする人々に 二つのタイプがあることを、

一つは 一生懸命勉強して 学校に行き 社会に出て それなりに
成功した人で 何ごとも努力さえすれば 自分の希望が 願いが叶えられると
思っている方々です。

新聞も本も読んでいるし 講演も聞き テレビも見ている 世の中のことで
分からないことは一つもない、みんなわかっている 今さら 仏教の話など
聞く必要はない 僧侶の話などたいしたことはないと
思っておられる方々です。

 もう一方は いろいろのご縁があって お寺にもお参りになり
お聴聞しておられる方々です。

浄土真宗の教えは ご恩の教え 感謝の宗教であると
ご恩、感謝ということで お話しますと

最初のグループの 自分は何でも分かっていると思っていらっしゃる方々は
「そうですね。今の若い者は感謝ということを 知らないですね。
 お礼も言わない あれほどやってやったのに、気づいていない」と
感謝されることを 思い浮かべる方が多いことです。


一方 お聴聞のご縁のあった方々は 「自分も子どものためにいろいろ
やったつもりだが、今となっては 自分の親の方が もっともっと苦労して
くれていた ご恩を気づかずにきた、申し訳ない」とか

「今あるのは 先輩や仲間のお陰 助けていただきました。」と
 自分が受けた恩を 思い浮かべられる方々です。

学校の教育と社会の経験だけで 仏教のご縁のない方は、誰にも頼らず
自分の力で努力すること それがすべてであり、自分は人一倍頑張って
現在がある。
みんなのためにも頑張った 後は お礼をいただくだけと
自分の行為だけしか 思いつかず 受け取る恩を お返しを 評価を
期待しておられるようです。

仏さまのお話を聞いた人は 自分も努力したが よくよく考えてみると
自分の親や周りの人々が この私のために 気づかないところで一生懸命
頑張ってくれていたことに 始めて気づき有り難い 申し訳ないという
すでに 受けた恩を どう返せばいいのかという、その違です。


 おかげ様で 学者や芸術家の方々で 一流といわれる方々に
お会いする機会が たびたびありました。

その方々の共通点は 「いくらやっても分からないことが多いですね。
 ほんのちょっと分かっただけで 知らないことの方が多いです」と
 おっしゃる方が多いことです。


一方 中途半端な方は 「何でも知っています 分かっています、
聞いてください」と、自信過剰で 進歩が少ない方が、多いように感じます。

知れば知るほど、努力すれば努力するほど もっと多くのことが見えてきて
多くのはたらきかけに気づかせていただく、これが 仏さまのはたらきかけ
他力ということではないかと 味わいます。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 自分のはたらき以上に 自分の努力以上に
周りの多くの方々が 関係ないと思っているすべてのものが 私のために
はたらきかけ ご苦労いただいていることを 気づかせていただく
有り難い もったいない おかげ様と 喜びを味わわせてくださる
はたらきが あるのです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、12月22日に新しい内容に変わります。





第985回 一水四見

 平成23年 12月8日~

仏教には「一水四見」(いっすいしけん)という言葉があります。
同じ一つのものでも、見る側によって、いろいろ 異なって見えることで、
同じ「水」を見る場合でも、立場によって
四つの様相があることをいい、
一処四見、一境四見 との表現もあります。


 人間が「水」を見れば普通の水であっても、魚にとっては 自分たちの住む世界、
住み家であり餌を求める生活の場。
天人には 宝石で飾られ輝きを放つ池。
餓鬼には 膿血で充満した河と見えたり、飲もうとした瞬間に火に変わり
からだを焼くこがず苦しみの存在に見えるものでしょう。

 このように、同じ一つの「水」を、「人」「魚」「天人」「餓鬼」という立場で、
おのおの異って見えることを例えたものです。
仏教の唯識学で使われている例えです。

同じような意味で 「一月三舟」(いちげつさんしゅう)という言葉もあります。
舟から月を見るとき、止まっている舟からは、月は止まっているように見え、
南に向かう舟からは、月も南に向かっているように、北に向かう舟からは、
月も北に向かっているように見えるという意味です。
人間は、その立場立場によって、いろいろと違う見方をするものです。


「山川草木悉皆成仏」 ということが 大乗仏教の特徴と言われます。
人間だけではなく、山も川も 草も木も 法を聞くことが出来ないものまでも
すべてが仏に成るというのです。

どうも これは 極端でなかなか理解できませんでしたが、
仏教は 私の問題 誰か他の人や 他のものを心配する前に この私が
どうなるのかの問題です。

そう考えると、もし 修行をしてお浄土へ生まれる教えで、本人の力によって
さとりを開くことが必要なら、努力できないものは 救われることはないのでしょうが、
阿弥陀さまの願いによって、お念仏によって私が 救われ 仏にしていただく、
そう考えると 今 私が見ている平凡な 馴染みの山や川も 草も木も
私がお浄土へ 生まれ 仏のさとりを いただくと もうそれは お浄土の
素晴らしい荘厳に見えるであろうと思います。

 そして、今は この私を救うために 風を起こし 雨を降らせ 音をだし 
様々に はたらきかけてくださっているのだと 。
人間の私には 普通の山も川も 仏になって見つめるとき それは
お浄土のすばらしい荘厳であろうと思います。

私が 救われれば 私の周りのすべてのものが 仏の荘厳 仏国土になっている 
そう味わうのが お念仏の教えでは
ないかと 思えてきました。

私が 救われることで すべてが 救われる 南無阿弥陀仏には
そのはたらきがあるのです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、1215日に新しい内容に変わります。




第984回 前提が違う

 平成23年12月1日~

阿弥陀さまという仏さまは 私たち衆生の罪を見ても それを裁きません。
「あなたのところに南無阿弥陀仏という名の仏となって至り届き、
あなたに南無阿弥陀仏を聞かせて救うよ」と語りかけて下さいます。

これは私たちには なかなか理解しがたいのです。
「善い人は浄土に参るかもしれないが、悪い人は地獄に堕ちるのが当たり前だ」
というのが私たちの考えです。

しかし、阿弥陀さまは私の罪を裁かれません。
それは私と阿弥陀さまは「親子」の関係だからです。
親と子というのは特別な関係ですね。

 先日、友人が面白い話をしてくれました。
子どもの時に母親の作ったご飯がおいしくないと「これはおいしくない」と
平気で口にし、残すことができた。
場合によっては母親の前でカップラーメンを食べることもした。

しかし、結婚した今、妻の作ってくれたご飯には「これはおいしくない」
とはなかなか言えない。「あれ、これちょっと・・・」と言って、
「どうしたの?」と向こうが気づいてくれるのを待っている。

「もしかしたら僕の口がおかしいのかもしれないが、ちょっと
塩辛いのではないかなあ」と言って、向こうから「辛すぎるかな」と
言ってくれるのを待っている。


この違いは何だろうか、というものです。面白いですね。これは皆、経験がありますね。
なぜ、母親と妻では態度が違うのか。それは前提が違うからです。

夫婦というのは、お互いが「仲良くしようね」と約束をして夫婦になります。
お互いの意見を確かめ合ってから、一緒に暮らし始めます。

しかし、親子はそうではありません。母親の方が一方的に子どもを産んで、
一方的に子どもを育て始めます。子どもと約束して親子になるのではありません。

 母親は子どもが赤ん坊の時、お乳を飲ませます。それは子どものため、
子どもが元気に成長するため、無条件で子どもを愛しているからで、子どもも
何となくそのことを感じているのでしょう。確かにご飯を残せば母親の機嫌は悪いです。
しかし、もう二度と食事を作ってくれなくなるというようなことはありません。


それどころか、翌日は子どもの好きなものを作ろうとする。
もし、母親とけんかして
食事も食べずに部屋に引きこもってしまったなら、母親は
夜中にそっとその子の部屋の前に
 おにぎりを置いておくのでしょう。
それは子どもが心配でならないからです。

一方、妻は違いますね。夫婦とは、お互いが助け合う約束を交わして夫婦に
なったからです。ですから相手が一方的に約束を破ったら、もう食事は作ってくれません。
作った食事に「おいしくない」とクレームをつけるのはルール違反です。

もし、妻の前で食事を残し、カップラーメンを食べたりすれば、まず三日は食事を
作ってはくれないでしょう。
「あなた、そんなことをするなら、明日から自分で料理を作りなさい」と、
きついお叱りがありますね。

 しかし、子どもはいつしか「おいしくない」といって平気でご飯を残すように
なりますね。それは子どもにとって、私の妻は母であるからです。母親と妻とは
前提が違います。

阿弥陀さまは 私の親さまです。私が背を向けている時も、
「あなたを捨てることは
できない、あなたは私の子どもだから」と私を
抱き取ってくれるのです。・・・・・・・ (後略


大乗23年12月号より 一部掲載  大阪府・正満寺住職 安方哲爾師





第983回 南无阿弥陀仏の意義

 平成23年11月24日~


 米沢英雄先生の 真実教の意義という お話の中に、南无阿弥陀仏の意義という文章が
あります。その途中からですが、こんなところがありました。

人間は自分のことは自分が一番知っているように思うのでありますが、
悲しいことには、自分のことは一番わからぬのであって、
どうしても自分を超えたものから、自分を教えていただかなければならぬ。

そこでこういう仏の智慧を自分で得ようとしてもなかなか得られません。
それが53仏の遍歴となって、最後に世自在王仏に会われて、自分自身を知れと言われて、
初めて自分の無力さを悟られて、真に謙虚になられた時に、どんなところでも
生きて行くことが出来るようになったのである。

人間は障りがあると、障りを何とかしようとしている時は、障りばかりであったが、
障りを受け取っていくことによって、障りは外にあるのでなくて、
自分の能力もかえりみずに、その障りを何とかしようとしていたのだという、
愚かな自分であることに気付くというと、障りが障りでなくなる。
そればかりか、その障りがあるお陰で、自分自身というものが
明らかにされてきた。

こういうことになると、もはや障りをどうかしようというような野心なしに、
障りは障りのままでそこに自由の境界というものが開かれてくる。
そういう道を世自在王仏の前に立たされるところに、法蔵比丘が初めて阿弥陀仏を
実現されたというわけであります。

阿弥陀仏というのは、いつも申し上げるように、無量寿・無量光と言われているのである。
それは無限というもので、宇宙の法則というか、相というもので、そこから人間は一歩も
出ることは出来ない。
法則のままに人間は生死していくという、自分の位置をはっきり自覚した言葉が
南無阿弥陀仏という言葉である。

我々は無量寿・無量光からは一歩も出られない。
真実の世界からは一歩も出られない。
その真実の世界に生きておって、自分では、自分の力で何もかもしておるようで
ありますけれども、真実の世界からは一歩も出ておらぬのであります。

我々は真実の世界におりながら、真実の世界に背いているのが我々であって、
その背いているということがわかりますというと、真実の世界と一つになることが出来る。
それが南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏することによって、真実に背いていた自分が
真実に帰らしめられ、真実と一つになる。それが南無阿弥陀仏という言葉である。

そうすると阿弥陀仏は南無阿弥陀仏することによって、阿弥陀仏になられた
ということが出来ると思う。
南無阿弥陀仏という言葉は、真実の中に生きながら真実に背いて、
真実と一つになれないという自覚を通して、真実と一つになったということである。

法蔵比丘は南無阿弥陀仏して阿弥陀仏になられた。
南無阿弥陀仏して阿弥陀仏になるというと、人間でありながら
阿弥陀仏に等しい智慧が与えられるので、南無阿弥陀仏することによって、
人間が人間でありながら、人間を超えて自由自在になれるというので、
この南無阿弥陀仏の法をすべての人に伝えて、全部の人に阿弥陀仏になってもらいたい。

障りの無い仏になるには念仏以外にない。
念仏を全部の人に伝えたいという願いから、法蔵菩薩となられて
人間の間を遍歴せられるというのが、法蔵菩薩の物語であると思う。


 妙念寺電話サービス 次回は 12月1日に新しい内容に変わります。





第982回 反抗しても 抵抗しても

 平成23年11月17日~

自動車の運転、慣れたところと 初めてのところとでは その緊張に違があります。
初めてのところに出かけるときには、カーナビという便利なものが誘導してくれて 
重宝しています。

出発する時に、目的地の電話番号か住所を打ち込みますと、いくつかの道順を
選べるようになっており、そのうち一つのルートを決定すると
到着する時間も知らせてくれます。

道なりの時は何の指示もありませんが、分かれ道が近づくと,車を中央車線で
走らせればいいのか、それとも左車線がいいのかを、
判断できるように
五百メートル先、左折しますとか、右折しますと、
あらかじめちゃんと教えてくれます。

そして、分岐点の三百メートルまで近づくと 画面が変わり、三百、二百、百メートルと、
目印が少しずつ減っていき、分岐する交差点を確実に
 教えてくるのです。


もし、その指示に従わずそのまま進むと、新しいルートに変わりましたと、
また新たな道順を指示し始めます。
ちゃんと指示に従わないから知らない、もう教えないと怒ることもなく
むくれることもなく、ひたすら目的地への最短距離を、教えてくれるのです。

目的地さえはっきりしていれば、どんなに反抗し抵抗しても、すぐに計算して
間違いなく道順を教えてくれるのです。
指示する道順は いつも同じなのかと,試しに馴染みの場所を指定して
確かめますと、時間により道路の混雑状況も加味して、もっとも早く
到着出来る道を選び教えてくれる優れものです。


ところで、私たちの人生の目的地は どこでしょうか。
お念仏の人にとっては、それは、お浄土です。

このお浄土への道を、正確に教えてくださるのが 南無阿弥陀仏の 
お念仏のはたらきだと味わいます。
右に行くのか左にいくのか、まっすぐ行くのか、この私を導いて
くださるのが 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の呼び声。


どうか、自分で口にしながら,自分で聞きながら 進むべき方向を
確認しながらの毎日でありたいと思います。
間違った道へ 進んでしまっても ちゃんと修正してくださる呼び声。

このまま道なりに行けばいいのか、どちらかへ曲がるのか、前もって教えて
くださるアナウンス。

予想もしない大問題が起ころうと、希望道理にことが進まなくても、
病気をしても、物忘れしても、悲しい苦しい辛い出来事に出会っても
朝晩のお勤め、本堂でのお聴聞、南無阿弥陀仏の生活をさせていただければ
必ずお浄土へ導いてくださる、先輩たちもすでに行っているお浄土へ
この私も導いてくださる。

そう信じられる安心した心豊かな生活を送らせていただきたいものです。
この道で良いんだよ、急がなくてもいいのだよ、そのまんま南無阿弥陀仏の
この道でいいんだよと、呼びかけていただけるのです。

妙念寺電話サービス 次回は、11月24日に新しい内容に変わります。





第981回 大いなる恵み

 平成23年11月10日~

車の中で聞こえてきた音楽、
「突然の手紙には、驚いたけど嬉しかった 何より君が 僕を
 恨んでいなかったということが・・・・


手紙のような歌、どこかで聞いたことがあるものです。

「千鳥ヶ淵で昔君と見た夜桜が恋しくて
 故郷ではなく東京の桜が恋しいということが、自分でも おかしい位です。・・・・

 感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありました。・・・・・

 診療所に集まる人々は 病気だけれど 少なくとも心は 僕より健康なのですよ
  僕はやはり来てよかったと思っています
  辛くないと言えば嘘になるけど しあわせです。

 あなたや日本を捨てた訳ではなく 
  僕は 「現在」を生きることに思い上がりたくないのです・・・・

 僕は風に向かって立つライオンでありたい・・・・」

そして、ハミングで懐かしい音楽が続き、会場も一緒になって
ハミングで歌っている様子です。
長い曲でしたが、物語のある感動的な歌でした。

気になって、「風に ライオン」を手がかりに検索してみましたら、
さだまさしさんの「風に立つライオン」という曲でした。

 国際医療ボランティアとして青春を捧げた一青年医師の実話
海外に医療派遣の若い医者が、結婚の知らせをくれた
元恋人へ宛てた手紙、もう20年も前に作られた曲のようです。

どうして感動したのか、使命感に燃え、海外で活躍する若者の気持ちに
共感したためでしょうが、加えて、後半の懐かしいメロデイー
も 
大きな要素のようです。



アメイジング・グレイス」という 曲だということです。

学校で習った曲なのか、昔見た 映画の挿入曲なのか、
「神様の大いなる恵み」を讃える歌だと 解説されています。

この曲が 気がかりで、繰り返し聞いていますと、 
「なもあみだぶ なもあみだ」 という 言葉が ぴったりとはまること、
そして、ご和讚も、当てはまることに 気づきました。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても・・・・ も

また、ほとけのみ名をききひらき・・・・も  ちゃんと歌えます。

讃嘆する よろこびをあらわすには 人間共通の音があるのでは
ないかと感じますし、感動を呼ぶものであることを感じています。

また、我を忘れての行動、仏さまのはたらきに近い行動は 多くの人の
こころをとらえるものだろうと味わっています。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 を 声たかだかに 風に向かって
歌い上げたいものです。
多いなる恵みを喜ばせていただきたものです。。

妙念寺電話サービス 次回は 11月17日に新しい内容に変わります。







第980回 ピーコちゃん

平成23年 11月3日~

いつも人形を抱いて、降誕会の余興では、カラオケで 愛敬たっぷりに
歌を披露されていた あのおばあちゃんが、ご往生されました。

過去帳には、30年近く前に亡くなられたご主人のお名前はあるものの、
ことによると、赤ちゃんを亡くされ それが忘れられず、人形をいつも
抱いておられるのではないかと想像するものの、事情を、詳しく
聞くことが出来ずにいました。

ずっと、一人住まいで、道路の拡張とか、都市開発などで 何度も転居を
繰り返されましたが、ビーコちゃんという名前のセルロイドで作られて
いるであろう 年代物の人形がいつも一緒で 実の子に話すように話しかけ
法座の前、おトキの時には、人形の口元にお料理を運び、
食べさせるような仕草をされていた、みなさんの印象に残っているあの方です。

 ところが、法座のご案内のはがきも宛先不明で返ってくるようになり、
連絡がとれなくなっていました。
老人施設に入られたとの噂を聞いていましたが、突然、姪御さんという方から
連絡で、枕経にいくことになり、

そこには息子さんや親戚の方が数人おられ、ご家族があったことに驚きました。

息子さんは 関西から駆けつけられたということですが、お母さんとは
姓が違います。
尋ねもしないのに、息子さんは 自分が成長してから この人は、
再婚したので 名前が違うんですと、話してくださいました。


「あのお人形は 息子さんの代わりだったのでしょうね。」と言うと
 「自分は、小さいときから祖母のところで成長したし、
  この人とは ほとんど 生活したことが ないんですよ。」と。

人形は 女の子だし、自分とは関係ないでしょうと、どことなく迷惑そうに
つぶやいて おられました。

ある日、お母さんを尋ねたら そこに男の人がいて一緒に生活していた、
その時のショックが いまだに抜けきらない感じでした。


ちょうど、仏さまの苦行の話を読んでいましたので、
「如来はすべての人々のために、常に慈悲の父母となってくださる。
  よく知るが良い。あらゆる人々はみな如来の子なのである。
  世尊が大慈悲をもって衆生のために苦行を修められるようすは、
  ちょうど人が 魔ものにとりつかれて、錯乱してさまざまなことを
  するようである。」

  と説かれていますと、
 
 子どもの方は気づかないものの、仏さまは、親の方は 子どものために、
 衆生のために 狂気のように、努力し苦労して育ててくださるものだと
 お話しておりましたら、もう60近いであろう息子さん
 独身でお子様もないということでしたが、お葬式も済み、お別れする時には、
 お母さんが抱いていたお人形さんは、自分の代わりであったかもしれないと、
 思われた様子が どことなく感じられました。
 気づくと、息子さんの名前には 一字 「輝く」の字がありました。


  親のこころ、子知らず、仏のこころ、衆生知らず

  親の思いが すこしでも味わえてくると、人生はまるで違って
  見えてくるということを、味わえる、数日間でした。


  妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
  次回は、11月10日に新しい内容に変わります。






第979回 本当の慈悲は  
   
   平成23年 10月27日~


久方ぶりに お念仏とまったくご縁のない 世間の会合に参加しました。
話題の中心は 勝った負けた 損した得した、昔は良かったから始まって
いかに自分は頑張ったかの自慢話へと、まさに娑婆のまっただ中に
いることを実感させられる一時でした。

何でも知っていると、学識が自慢の長老が,何かのことから
「仏教で言う 慈悲と同じことだろう」と、水を向けてこられました。
「少々 それとは 違うようですが」と 言ったものの、あまりの大演説に
 遮って言葉を発することが出来ませんでした。

母親のような優しさ 思いやり、何でも わがままを叶えてもらうことを
「慈悲」と誤解しておられるようです。

仏の慈悲とは 衆生の現実を見て、苦悩の衆生を 平等に救済する、
慈悲の慈は 衆生に楽をあたえること、慈悲の悲は、衆生の苦を抜くこと
「仏心とは 大慈悲これなり」と説かれています。


これに対して、我々が起こす慈悲と思う心は、眞の慈悲ではなく、
これを慈悲と思う心がすでに 如来の慈悲に気づかず、無視している心
であると、それを批判して、正像末和讃には、

「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ、如来の願船いまさずは、
 苦海をいかでか わたるべき」とあります。


また、親鸞聖人のことばを お弟子さんがまとめた歎異抄には、
「慈悲に 聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、
  かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとく たすけとぐること、
  きわめて ありがたし。

  浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって
  おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。・・・・」とあります。

この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、
思いのままに救うことはできないのが現実です。
人間の起こす、慈悲はまったく完全なものではありません。


慈悲父母(じひのぶも)という言葉もあります。
釈尊を慈父にたとえ、阿弥陀仏を悲母にたとえ、父が子を教え導くように、
釈尊は浄土へ生まれる道を教えるいつくしみ深い父であり、母が子を
育てるように、阿弥陀仏はその衆生を引き取って、仏に育てあげて
くださる なさけ深い母であるという意味で、高僧和讚には
「釈迦弥陀は慈悲の父母」とあります。

浄土への道を知らせるためには、優しさだけではないはず
教え知らせるためには、厳しさ苦しさも伴うもの。

親鸞聖人は、「ただ念仏することだけが本当に徹底した
大いなる慈悲の心なのです。」と 南無阿弥陀仏を勧めておられます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏のお念仏こそが 慈悲のはたらきであり、
この私を、ありのままに素直に行動させていただく はたらきが、
仏さまと一緒の生活ができるように育てていただくはたらきがあるのです。


妙念寺電話サービス 次回は 11月3日に新しい内容に変わります。







第978回 八方の風に 柳は


 平成23年10月20日~

田舎の座敷の鴨居に すすけた額があり、『八方の風に 柳は 柳かな』
という、句があったことを、思い出しました。
叔母は、正岡子規の直筆だと聞いた、大事にしなければと言っていたことを。

 友人のブログに、近くのお寺でお聴聞した軽妙な語り口の法話の中に
理性をまったく要としない「他力」の例えとして

外国の祭りに 赤ちゃんを、高く放りあげ、落ちてきたところを受けとめる、
という行事がある。
親は 必ず受けとめる。
どんなに高く 放り上げられても赤ちゃんは、笑っている。
赤ちゃんは、親を信用しているから、笑っているのだろうか。
いや、そうではなく 赤ちゃんは、何も考えていないのである。・・・・・


 この文章を見て、風に柳を 思い出したのでしょうが、
博多の仙厓和尚の川柳に、「気にいらぬ 風もあろうに 柳かな」というのも
有名です。

柳は どんな風が吹こうと、逆らわずその風に従う。多くの植物も、
与えられた条件の中で精一杯に 生きています。

しかし、人間だけは、それも赤ちゃんの時には自然に生きていたのに、成長し
知恵がついてくると、自分の思いのままになることを望み、怒り腹立ち
喜び泣きながら生きているようです。

 境内の柿の木を見る度に思います。秋になれば葉が色づきやがて散り、
柿の実も青から黄色,赤く変わって落ちていきます。
人間も いつまでも変わらないものではなく、歳を重ねてやがては
いのちが終わるものなのに、自分だけは 違う特別と思っています。

生老病死の苦しみを 自然現象として受け止めるのが普通でしょうが
仏教では、自分が作った業によって、行いによって、他のものを苦しめ
痛い目にあわせた そのことが 今、自分に返って来ていると、
理解してきたようです。

歳を取ることでの様々な苦しみも、知らず知らずに、親や兄弟、周りの仲間に
迷惑をかけ、苦しませたその報いを,今になって受け取っているのだと。
人間だけを悩ませ苦しませたのではなく、生きていくために他の生き物を殺め、
苦しみを与えたことに比べれば、こんなことでは、相済みません。

申し訳ありませんと、それなのに、こうして生かされていることを 有り難く
喜んでいたのだろうと思います。

こんなことでは、あいすみません。申し訳ないもったいないと
身体や心の痛みの中にも よろこびを味わっていたのではないかと思います。

南無阿弥陀仏は、気づいたことへの感謝だけでなく、気づかない
多くのことへも 感謝と喜びと,お詫びの言葉であろうと味わいます。

風も光も音も臭いは勿論、痛みも苦しみの一つ一つを、忌み嫌い
嘆き悲しむのではなく、有り難く充分に味わえる、豊かな人生で
ありたいものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

次回は、1027日に新しい内容に変わります。






第977回 極上の良書

 平成23年 10月13日~

中溝文次という お念仏の方が 近くに住んでいらっしゃいました。
もともと禅宗の方ですが、若いときからずっと お念仏のお話を
聴聞なさっていた有り難い方でした。

先日 奥様がお見えになって、主人が読んでいた本、もらって
いただけませんかと、金子大栄先生の本を 中心にして お持ちいただきました。

その一冊に、赤のマジックで 極上良書 11年書と 書かれた
「念佛 ただ一筋の大道」(有渾社発行)がありました。

表紙には 赤丸をつけて、赤い字で
「分からずとも再考再考 平20,8,10」とあり。
表紙の裏側には「本書無限の味 19,7,6」
「唯拝読すること、分かる分からんは 次の事。佛のお言葉を唯相続すべし
 平19,8,3」等が書かれ

最後には、
「佛教が分からないというのも お慈悲の内であろう。平成22,1126日」とあります。
 また、金子先生が、「87才から89才までの講話、私は93才にもなる
 そして分かりづらい。」とも 書かれています。

目次の前の頁には、感動した内容が抜き書きされたのか。
「 称うるものが 念佛であって 称うる心が信心である。95」
「 佛のおまことを信ずる心、それが即ち称えるこころになるのである。95」
「 称えということと信ずるということと一つにして いただかしてくださるのが
 曇鸞大師の思し召しであります。」等が見えます。

また、本文の中で 赤い線が沢山引いてあるところの一つに
 「称えずにはおれないもの」181頁

   どうして称えなければならんのでしょうか、ということである。
   称えなければならんというわけはないんだな。
   けれども称えなければこの身と阿弥陀との間柄が実際に感知されません。
   お父さん、お母さんという時に父母と自分との間柄が明らかになるのです。
   そのように南無阿弥陀佛と称えなければ念佛の意味は実現しないのであります。
   したがって称名でない念佛は観念であります。

   また称名念佛は即ち如来の廻向であります。
   それは呼び名があるからでしょう。だからお念佛というものは称えなければ
   ならんというようなものではない。けれども称えずにはおれないものなのであります。
   称えなければならんとうものと、称えずにおれないものというのは違うのです。
   従って、称えねばならんことはないけれども、称えられるものであり、
   称えないでもよいものであるけれども、称えずにおれないものがあります。;・・・

 お念仏の先輩が 還相の菩薩であっただろう方が、赤く印をつけていただいたところ、
 有り難く拝見しております。

 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
  次回は、1013日に新しい内容に変わります。






 第976回 自業自得(自因自果

 平成23年 10月6日~

法座を持ち回りで開く巡番報恩講、秋の5日間が終わりました。
京都の大学の大先生のお話を、連続して聞かせていただきました。
お説教というよりも、大学の授業という感じで 有り難く
聞かせていただきましたが、周りを見渡して少し心配になりました。

僧職のものや よくお聴聞した人にとっては とても有り難いのですが、
一般の人にとってみると、それほど重要ではなく、もっと身近な
大問題があるのに、教室の中で、あるいは寺院の中だけで感じ
味わった世界しか、この世には存在しないと 理解しておいでのようで、
どこか、世間離れした生ぬい感じがするのではないかということです。

また、僧侶を目指しながら まだ生活体験のない青年たちにしては、
ただ単なる知識として、試験のためのことばを理解することとなって
こうした授業は とても苦痛な時間ではないのかと思えてきました。

もし、このご法話と同じような授業が行われているとすれば、これから
育ってくる僧侶たちは あまり期待できない、門信徒の方々から、
浮いた存在になってしまうのではないかと思えてきました。

その一つに、生老病死の苦しみも 自然現象として全員苦しみが来る
という世間の価値観だけでなく 仏教の価値観 自分の行いによって
苦しみの世界を作り そこに落ちていくという 自業自得的な
価値観が 少しも触れられない点です。

専門的に勉強されている方には それは当然の常識でしょうが、今
仏教的な知識のない者にとっては そうした仏教の考え方を
ちゃんと押さえた上で、説いていただく必要があるように思います。

「救われる」とか 「お浄土」という言葉の意味も、
社会全体が、戦争や飢饉、台風や津波で破壊された状態、病気になっても
医者にかかるだけの余裕がない時代、食べるものにも事欠く貧しい時代、
科学も進歩していない 希望のない時代であれば、
この地獄のような世界から抜け出せる 救われるという意味は実感して
全員が持っていたのでしょうが、
現代は あたかも極楽か天国に近いような、豊かさが満ちているために、
救われるという意味、お浄土の存在がもう一つ理解出来なくなって
いるのではないかと思います。

そうした時代であるからこそ、自分が他の人に与えた苦しみ悲しみは
やがて自分にも返ってくるという、仏教的な価値観が もう少し
述べられていいのではないかと つくづく思えてきました。

まるで一人っ子のように わがまま放題で、周りの人々を傷つけ
悲しませている存在であることへの気づき、驚き。
自然現象としての老病死の苦から逃れたという一般的な表現だけでは、
仏教は 存在し得なくなるのではないかと感じました。

自分の行いの結果、地獄に落ちるべきこの私を お念仏で なんとしても
お浄土へ救い取りたいとの願い はたらき、南無阿弥陀仏のはたらきを
こころして 味わいたいと思います。

「地獄は一定すみかぞかし」のお言葉を忘れたくないものです。

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第975回 トウガラシ

 平成23年 9月29日~

辛いものが 大好きな人がいますが、トウガラシはどうしてあんなに 辛いのか、
それは トウガラシが、動物から自分の身を守るためのもの
だといわれます。

動物は その辛さが苦手で敬遠し 食べませんが、辛いという感覚がない鳥たちは 
その実を食べ 遠くへ種子を運んでくれます。

その結果、広い範囲に 繁殖することが出来て 生き残っているのだといわれます。

 ところで その辛さを嫌いな動物も 何かの機会に食べてしまうと それが習慣と
なっていくことを 猿を使った実験で見ました。

普通の餌と 辛さを加えた餌を 置いておくと 猿は 辛いものを嫌います。
しかし、普通の餌を与えずに 辛い味の餌を繰り返し与え続け やがて、
普通の餌、辛い餌の両方を与えると 嫌いだった辛い餌を好んで
 食べるように
なってしまうという実験です。

これは、一説には、大きな痛みや 苦しみに出会うと動物の脳は その痛みを
和らげるために快感物質を分泌されるためだろうと言われている。

強烈な辛さや痛みに襲われたとき その痛みを和らげようとする物質が
脳から分泌される心地よい体験をすると、動物は その快感が忘れられず、
虜になってしまうのだといわれます。


 肉食が好きな西洋では 香辛料は必要不可欠の食材です。
アメリカ大陸が コロンブスによって発見され、またたくまに アメリカの
トウガラシは ヨーロッパに広がり、ますます辛いものが求められるように
なり、つぎつぎに品種改良が繰り替えされ、栽培法の研究がすすめられて
きました。

辛さを増すには、直射日光があたらない日陰を作ってやり、思う存分
栄養を吸収させると、ますます辛くなることが分かったそうです。
栄養をより取りやすくするために行き着いたのが、ミミズが分解した
土から取り出した成分を与え、成長中のトウガラシたちに出来るだけ
声をかけ、話しかけることが大事だとのことです。

自然のいきもの、その性質 充分に生かすことだとの説明でした。


これを聞きながら 思いました。
南無阿弥陀仏で救われる といっても仏さまの願いや はたらきを
感じられない人にとっては あまり意味のない言葉なのではないか。
繰り返しお聴聞している人は、私が生きていくために 多くの人々の
ご苦労や努力を味わえるように育てられ、私を生かすために、
自分のいのちを投げ出してくださった多くの生き物たち、自然の
はたらきに気づかされたとき、申し訳ないという慚愧のこころと
有り難うございますとの歓喜の気持ちが芽生えてくるとき
私の中の脳の働きに変化が起こるのでないかと思います。


特に とても耐えられない苦しみや悲しみに出会ったとき、
おまえ一人のために、おまえのことが一番心配だと、呼びかけてくださる
仏さまのはたらきが味わえたとき、その悲しみを 苦しみを和らげる
分泌物が出てきているのでしょう。

そのときの喜び快感を体験できた人は、尚一層 南無阿弥陀仏のはたらきが 
味わえるようになるのだろうと思います。

私のことを、もっともわかってくださる方がある。父や母のように
いやそれ以上に 私のことを心配し励まし導いてくださるはたらきがある
南無阿弥陀仏がある。その南無阿弥陀仏を、楽しいときも苦しいときも
悲しいときも いつも味わえる豊かな人生を いただきたいものです。

妙念寺電話サービス 次回は、10月6日に新しい内容に変わります。


                         妙念寺       

 

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                 掲載者 妙念寺住職  藤本 誠


電話法話一覧表

第501回  しあわせ  8月29日~
第502回   造りだした世界           9月 5日~
第503回 遺 言  9月12日~
第504回 プラスだけでなく  9月19日~
第505回 私がさびしいときに  9月26日~
第506回 讃 嘆 10月 3日~
第507回 こころの健康のために 10月10日~
第508回 供養するのか されるのか 10月17日~
第509回 私のために 10月24日~
第510回 十種の利益 10月31日~
第511回 鉄砲の反対 11月 7日~
第512回 恵まれた いのち 11月14日~
第513回 今お帰りになりました 11月21日~
第514回 自転車に乗れた 11月28日~
第515回 みんな預かりもの 12月 5日~
第516回 わがものは 一つもない 12月12日~
第517回 自然の不思議 12月19日~
第518回 喜びはここに 12月26日~
( 平成 15年分 )
第519回 慈しむ  1月 1日~
第520回 世界で ただ一つの  1月 9日~
第521回 マイナスもお蔭さま  1月16日~
第522回 ひずみを直す  1月23日~
第523回 世界に一つだけの花  1月30日~
第524回 何を聞くのか  2月 6日~
第525回 人間存在の意義  2月13日~
第526回 お浄土への道  2月20日~
第527回 地獄は誰のため  2月27日~
第528回 こころつながる  3月 6日~
第529回 お寺に参らぬと  3月13日~
第530回 仏法に卒業はない  3月20日~
第531回 親の願いが  3月27日~
第532回 法を聞かぬと  4月 3日~
第533回 たまたま  4月10日~
第534回 生はおどろき  4月17日~
第535回 生老病死に驚きを  4月24日~
第536回 人間はなぜ  5月 1日~
第537回 受け身では  5月 8日~
第538回 色眼鏡なしで  5月15日~
第539回 気づかなくても  5月22日~
第540回 自然と  5月29日~
第541回 私が主役の  6月 5日~
第542回 生きていますか  6月12日~
第543回 長い長い間  6月19日~
第544回 おかげさまで  6月26日~
第545回 ご先祖の願い  7月 3日~
第546回 念仏喜ぶその人は  7月10日~
第547回 縁にふれれば  7月17日~
第548回 汗をかき  7月24日~
第549回 南無阿弥陀仏をとなふれば  7月31日~
第550回 お寺に行こう  8月 7日~
第551回 お墓の清掃  8月14日~
第552回 家族そろって  8月21日~
第553回 はい 喜んで  8月28日~
第554回 おおいなるもののちからに  9月 4日~
第555回 遇えてよかった  9月11日~
第556回 一冊の本なら  9月18日~
第557回 はっとするような言葉  9月25日~
第558回 はかりなき寿と光の 10月 2日~
第559回 道具ではない 10月 9日~
第560回 本願力に遇いて 10月16日~
第561回 ハスの花が咲く 10月23日~
第562回 自力の壁 10月30日~
第563回 お蔭さまの毎日 11月 6日~
第564回 今は末法なので 11月13日~
第565回 味わえる人生 11月20日~
第566回 阿弥陀さまのおはたらき 11月27日~
第567回 焼いてしまうより 12月 4日~
第568回 自己顕示 12月11日~
第569回 十の惠み 十の念仏 12月18日~
第570回 あなたのいのちを 12月25日~
(平成16年)
第571回 光る 光る   1月 1日~
第572回 目的のある人生  1月 8日~
第573回 阿弥陀如来は とにもかくにも  1月15日~
第574回 如来と等しい  1月22日~
第575回 また来ます  1月29日~
第576回 心を耕す  2月 5日~
第577回 唯聴弥陀本願海  2月12日~
第578回 私は代表選手  2月19日~
第579回 救いと生き方  2月26日~
第580回 人と人 人と仏  3月 4日~
第581回 鶏さん・ありがとう  3月11日~
第582回 阿弥陀さまがいっしょ  3月18日~
第583回 あいみての のちのこころに  3月25日~
第584回 念仏もうすということ  4月 1日~
第585回 重荷背負うて  4月 8日~
第586回 目覚めの宗教  4月15日~
第587回 平等 西洋と東洋  4月22日~
第588回 仏教というものは  4月29日~
第589回 内か外か  5月 6日~
第590回 宗教とは  5月13日~
第591回 いのちは誰のものか  5月20日~
第592回 誕生日祝い  5月27日~
第593回 この度の このご縁は  6月 3日~
第594回 いのちの言葉  6月10日~
第595回 如来の本願に遇う  6月17日~
第596回 親さま  6月24日~
第597回 お父さんは今  7月 1日~
第598回 南無阿弥陀仏とは  7月 8日~
第599回 お願いします  7月15日~
第600回 ほどく  7月22日~
第601回 八功徳水  7月29日~
第602回 信心まことに得る人は  8月 5日~
第603回 ただ念仏のみぞまこと  8月12日~
第604回 やるべき時に 淡々と  8月19日~
第605回 巡番報恩講  8月26日~
第606回 人は食うために  9月 2日~
第607回 献灯献華献香  9月 9日~
第608回 真宗のおとき  9月16日~
第609回 お ろ そ か  9月23日~
第610回 た の む  9月30日~
第611回 聞法の大切さ 10月 7日~
第612回 仏法の繁昌 10月14日~
第613回 如来まします 10月21日~
第614回 おまかせ 10月28日~
第615回 往  生 11月 4日~
第616回 早く 早く 11月11日~
第617回 味わえる人生 11月18日~
第618回 もうひとりの自分 11月25日~
第619回 不可思議な力 12月 2日~
第620回 あいし しあわせ 12月 9日~
第621回 伝わる 12月16日~
第622回 生活必需品 12月23日~
第623回 もったいない 12月30日~
    (平成17年)
第624回 お仏飯の担当  1月 6日~
第625回 言葉添えて  1月13日~
第626回 鎌倉時代の四人の開祖  1月20日~
第627回 問いに答える  1月27日~
第628回 ようこそ ようこそ  2月 3日~
第629回 いつか私は  2月10日~
第630回 念仏に相談  2月17日~
第631回 宗祖750回大遠忌  2月24日~
第632回 まずは相談  3月 3日~
第633回 桜街道の夢  3月 9日~
第634回 仏のはたらき  3月17日~
第635回 体験してみて  3月24日~
第636回 なるようになる  3月31日~
第637回 お念仏と長寿  4月 7日~
第638回 味覚を伝える  4月14日~
第639回 味わい方により  4月21日~
第640回 重誓偈  4月28日~
第641回 神通力  5月 5日~
第642回 生きてる間に  5月12日~
第643回 お念仏申す身になったら  5月19日~
第644回 浄土真宗の救い  5月26日~
第645回 みんな生きている  6月 2日~
第646回 機法一体の  6月 9日~
第647回 残された犬とともに  6月16日~
第648回 100ペンの念仏  6月23日~
第649回 如来の信楽  6月30日~
第650回 レンコンの穴  7月 7日~
第651回 もし生きていたなら  7月14日~
第652回 永代に  7月21日~
第653回 支えられたいのち  7月28日~
第654回 みんな関わりあって  8月 4日~
第655回 大丈夫 離さないよ  8月11日~
第656回 自由に発言  8月18日~
第657回 塩 ロウソク シャボン  8月25日~
第658回 お医者さんも お念仏  9月 1日~
第659回 何がやりたいのか  9月 8日~
第660回 仏教は 人間の遺産  9月15日~
第661回 わが師の恩  9月22f日~
第662回 滅私か 活私か  9月29日~
第663回 最上の理想の国 10月 6日~
第664回 宝の山 10月13日~
第665回 今日という日を 10月20日~
第666回 遇えて よかったね 10月27日~
第667回 大切に 育む 11月 3日~
第668回 選ばれている私 11月10日~
第669回 里の母親 11月17日~
第670回 決まりを守る 11月24日~
第671回 いつも見守っています 12月 1日~
第672回 私を動かす言葉 12月 8日~
第673回 パスワード 12月15日~
第674回 私に沿って 12月22日~
第675回 大きな力 12月29日~
   (平成18年)
第676回 味わえる人生  1月 4日~
第677回 祈らない宗教  1月12日~
第678回 どんな苦しみでも  1月19日~
第679回 世間の人々は  1月26日~
第680回 一つの目印  2月 2日~
第681回 デジタル時代の一つの試み  2月 9日~
第682回 来迎は諸行往生にあり  2月16日~
第683回 真実ということ  2月23日~
第684回 善悪のふたつ  3月 2日~
第685回 永遠のいのち  3月 9日~
第686回 念仏せよの呼びかけ  3月16日~
第687回 目的地は  3月23日~
第688回 肥 料  3月30日~
第689回 蓮の花  4月 6日~
第690回 今 ここに寄り添って  4月13日~
第691回 人間と動物の違い  4月20日~
第692回 善 と 悪  4月27日~
第693回 足元にある  5月 4日~
第694回 降誕会によせて  5月11日~
第695回 願いの言葉  5月18日~
第696回 生涯を疑わない  5月25日~
第697回 ありがたい  6月 1日~
第698回 好きなものだけ  6月 8日~
第699回 痛みは 呼び声  6月15日~
第700回 出る息 入る息  6月22日~
第701回 預かりもの  6月29日~
第702回 気づいてみれば  7月 6日~
第703回 誰が 救われるのか  7月13日~
第704回 誰のために  7月20日~
第705回 仏の仲間  7月27日~
第706回 二つの言葉  8月 3日~
第707回 気づくか 気づかないか  8月10日~
第708回 伝えたい  8月17日~
第709回 行き先変更  8月24日~
第710回 GNP より GNH  8月31日~
第711回 卒業記念の団体参拝  9月 7日~
第712回 積極的に参加したい  9月14日~
第713回 念仏と呪術  9月21日~
第714回 新たな価値観  9月28日~
第715回 ある遺書 10月 5日~
第716回 み仏の影 10月12日~
第717回 同じ 光なのに 10月19日~
第718回 無関心は 無責任 10月26日~
第719回 今を生きる 11月 2日~
第720回 誰かのために 11月 9日~
第721回 光と ともに 11月16日~
第722回 自然法爾ということ 11月23日~
第723回 男の料理教室 11月30日~
第724回 伝統の意味 12月 7日~
第725回 有り難い 尊いご縁  12月14日~
第726回 やはり基礎工事が大事 12月21日~
第727回 遇 う 12月28日~
    (平成 19年)
第728回 賢い主婦は  1月 4日~
第729回 伝統の有難さ  1月11日~
第730回 無我について  1月18日~
第731回 後をたのみます  1月25日~
第732回 闇を破る  2月 1日~
第733回 青色青光  2月 8日~
第734回 功 徳  2月15日~
第735回 あなた この世に  2月22日~
第736回 仏に成る  3月 1日~
第737回 犬に噛みつく  3月 8日~
第738回 ご縁をいただく  3月15日~
第739回 広大なる智慧  3月22日~
第740回 照らされている  3月29日~
第741回 表面だけでなく  4月 5日~
第742回 呼び声 聞こえたら  4月12日~
第743回 更新プログラム  4月19日~
第744回 スペースができました  4月26日~
第745回 見方 考え方 味わい方  5月 3日~
第746回 アンパンマン  5月10日~
第747回 いのちの願い  5月17日~
第748回 わがまま坊や  5月24日~
第749回 応報大悲弘誓恩  5月31日~
第750回 あなたの願いは 何ですか  6月 7日~
第751回 右か 左か 1か0か  6月14日~
第752回 その名を聞くと  6月21日~
第753回 他力ということ  6月28回~
第754回 いただきもの  7月 5日~
第755回 習 慣  7月12日~
第756回 お掃除  7月19日~
第757回 人間に生まれても  7月26日~
第758回 人間と環境  8月 2日~
第759回 ハードとソフト 機と法と  8月 9日~
第760回 浄土真宗の教え  8月16日~
第761回 ベースが大事  8月23日~
第762回 深く生きるためには  8月30日~
第763回 子供が思う以上に  9月 6日~
第764回 癒しと 安心と  9月13日~
第765回 名号は 声である  9月20日~
第766回 私を救ってくださるのは  9月27日~
第767回 私にかわって 10月 4日~
第768回 学仏大悲心 10月11日~
第769回 生きている 今が 10月18日~
第770回 知らされた時 10月25日~
第771回 念仏者へのお手紙 その1 11月 1日~
第772回 念仏者へのお手紙 その2 11月 8日~
第773回 念仏者へのお手紙 その3 11月15日~
第774回 健康第一と言うけれど 11月22日~
第775回 感謝する だけでなく 11月29日~
第776回 明日に向かって 12月 6日~
第777回 ナンマンダブのマーチ 12月13日~
第778回 明日が 12月20日~
第779回 死んだら おしまい ? 12月27日~
      (平成 20年 )
第780回 気づくか 気づかないか  1月 3日~
第781回 電子顕微鏡  1月10日~
第782回 敬いの こころ  1月17日~
第783回 福は内 鬼は内  1月24日~
第784回 信心まことにうるひとは  1月31日~
第785回 隠れた能力  2月 7日~
第786回 ふかくたのみまいらせて  2月14日~
第787回 育ち 盛り  2月21日~
第788回 愚者になりて  2月28日~
第789回 引いたら ゼロ  3月 6日~
第790回 注意していたつもりでも  3月13日~
第791回 順調は プラスか  3月20日~
第792回 名号のほかに 何が不足  3月27日~
第793回 唯説→ 唯聴⇒ 唯説  4月 4日~
第794回 悪人正機  4月10日~
第795回 本当に可愛いのなら  4月17日~
第796回 私の歩む道  4月24日~
第797回 迷いの世に還って  5月 1日~
第798回 念仏は称えるが  5月 8日~
第799回 仏と語る人  5月15日~
第800回 無明我執の中で  5月22日~
第801回 情報操作  5月29日~
第802回 いのちの尊さ  6月 5日~
第803回 自他ともに 心豊かに  6月12日~
第804回 この世も  6月19日~
第805回 奥の座敷には  6月26日~
第806回 目的は  7月 3日~
第807回 見る人の能力で  7月10日~
第808回 いま はたらいて  7月17日~
第809回 自然のはからい  7月24日~
第810回 いのちに組み込まれた  7月31日~
第811回 功徳の宝海  8月 7日~
第812回 これでいいのだ  8月14日~
第813回 恥ずかしいこと  8月21日~
第814回 報いは 自分自身で  8月28日~
第815回 仏教もさまざま  9月 4日~
第816回 感じる能力  9月11日~
第817回 ウイルス対策ソフト  9月18日~
第818回 戦争は したくない  9月25日~
第819回 新しい誕生 10月 2日~
第820回 法味愛楽の目 10月 9日~
第821回 信心は 信受 10月16日~
第822回 私 ひとりのために 10月23日~
第823回 ホンマは 私の娘よ 10月30日~
第824回 伝わっていく 11月 6日~
第825回 亡き人の はたらき 11月13日~
第826回 それを幸いに 11月20日~
第827回 小倉山 モミジの葉 11月27日~
第828回 待たれる身 12月 4日~
第829回 最終の目標 12月11日~
第830回 お預かりします 12月18日~
第831回 通過点 12月25日~
      (平成21年)
第832回 無量寿  1月 1日~
第833回 阿弥陀如来の化身  1月 8日~
第834回 お誘いするのは  1月15日~
第835回 如来と共に  1月22日~
第836回 名号を となへんものをば  1月29日~
第837回 お祝のことば  2月 5日~
第838回 二種の回向  2月12日~
第839回 新たな出発には  2月19日~
第840回 如来のはたらき  2月26日~
第841回 自分の心の中に  3月 5日~
第842回 癒しで 止まったら  3月12日~
第843回 八万劫中大苦悩  3月19日~
第844回 聞くべきものを 聞いたか  3月26日~
第845回 共に歩いて  4月 2日~
第846回 こころにも 栄養を  4月 9日~
第847回 目標は  4月16日~
第848回 信ずるは 喜び  4月23日~
第849回 よく見れば  4月30日~
第850回 赤ちゃんを授かって  5月 7日~
第851回 私なりの花が咲く  5月14日~
第852回 自力回向 他力回向  5月21日~
第853回 ブッダの願い  5月28日~
第854回 法然の発見 親鸞の確信  6月 4日~
第855回 二つの宗教  6月11日~
第856回 ギリギリ最後の  6月18日~
第857回 北風と太陽  6月25日~
第858回 みんな輝け  7月 2日~
第859回 お聴聞のご縁に  7月 9日~
第860回 ああ そうか  7月16日~
第861回 リーダーになる  7月23日~
第862回 いつも一緒に  7月30日~
第863回 生まれた意味は  8月 5日~
第864回 目標を持って  8月13日~
第865回 親の願いは  8月20日~
第866回 問題の解決  8月27日~
第867回 一人 ひとり  9月 3日~
第868回 あまえ  9月10日~
第869回 一歩 一歩  9月17日~
第870回 いま はたらいて  9月24日~
第871回 ご本山と同じように 10月 1日~
第872回 ハタと 気づく 10月 8日~
第873回 人間の考えは 10月15日~
第874回 明るくて たしかなくらし 10月22日~
第875回 知恩 感恩 報恩 10月29日~
第876回 頼む 後は頼みます 11月 5日~
第877回 平生業成の世界 11月12日~ 
第878回  第28願 (本 願) 11月19日~
第879回 ローマの休日 11月26日~ 
第880回 二軒屋の譬え  12月 3日~
第881回  私たちのみ教え(浄土真宗) 12月10日~ 
第882回  これも預かりもの  12月17日~
第883回  仏教の基本  12月24日~ 
第884回 朽ちていくもの 萌えるもの 12月31日~ 
     
      (平成22年)  
     
第885回  科学だけでは   1月 7日~
第886回 56億7千万   1月14日~
第887回  多くの いのち と   1月21日~
第888回  仏さまって どんな方   1月29日~
第889回  いつも ニッコリ 笑うこと   2月 4日~
第890回  アア そうか そうなんだ   2月11日~
第891回  不幸の完成   2月18日~
第892回 「昨日の私」 「今日の私」   2月25日~
第893回 なにの分別もなく   3月 4日~
第894回  風船の外側の世界   3月11日~
第895回 決して無駄にはしません   3月18日~
第896回  生老病死の問題   3月25日~
第897回 今 末法の時代には   4月 1日~
第898回  どうぞ お先に  4月 8日~
第899回  ちょうどよい  4月15日~
第900回  安楽浄土に いたるひと   4月22日~
第901回  栄光への脱出   4月29日~
第902回 讃えます  5月 7日~
第903回 可愛い子には  5月13日~
第904回  呼ばれたら   5月20日~
第905回  お浄土のただ中に   5月27日~
第906回  はたらきかけ   6月 3日~
第907回  分別を離れて   6月10日~
第908回  低反発の   6月17日~
第909回 転じられて  6月24日~
第910回  願いにかなった   7月 1日~
第911回  若者に こそ   7月 8日~
第912回 ここは愛敬町  7月15日~
第913回 第二の矢   7月22日~
第914回 あなたは すばらしい   7月29日~
第915回  こころに 唇に  8月 5日~
第916回  縁起するいのち   8月12日~
第917回  見てますよ   8月19日~
第918回  数限りない仏がたが  8月26日~
第919回  遠い国でも  9月 2日~
第920回  見ているもの  9月 9日~
第921回 いそいそと   9月16日~
第922回  骨を砕きても  9月23日~
第923回  親の心を  9月30日~
第924回  子どもと どう向き合えば  10月7日~
第925回 そのうちお世話に  10月14日~
第926回   たった一日のいのち 10月21日~ 
第927回 おかあさん おかあさん  10月28日~
第928回  親指と小指の法則  11月 4日~
第929回  私のために生まれてくれた人 11月11日~
第930回  今がチャンス 11月18日~ 
第931回  目覚めれば弥陀の懐  11月25日~ 
第932回 「今ここ」 の 生き方  12月 2日~
第933回  莫大な遺産  12月 9日~
第934回 見聞が蓄積されても  12月16日~ 
第935回 罪の消滅  12月23日~
第936回 阿弥陀仏の救い  12月30日~ 
     
      (平成23年)  
     
第937回  それまでして   1月 6日~ 
第938回  みちみちて   1月13日~
第939回  母の愛よりも   1月20日~
第940回 生きる意味と方向   1月27日~
第941回  自己満足のためではありません   2月 3日~
第942回  人と宇宙との関係   2月10日~ 
第943回  み教えを あなたと聴く   2月17日~
第944回  いよいよ ご本山の大遠忌法要   2月24日~
第945回 お念仏に生きる喜び  3月 3日~
第946回  命の尊さと喜び   3月10日~
第947回 与えられた いのち   3月17日~
第948回 念仏しなされや   3月24日~
第949回  今大切なもの   3月31日~
第950回 新しい誕生   4月 7日~
第951回 修正プログラム   4月14日~
第952回  いつも人々の中にいて   4月21日~
第953回  迷惑では  ないよ   4月28日~
第954回  ボランテイア   5月 5日~
第955回  アクセス解析   5月12日~
第956回  片思い    5月19日~
第957回  自在の救い   5月26日~
第958回  人生そのものの問い   6月 2日~
第959回  真実の教え  6月 9日~
第960回  限りなき光と寿の仏    6月16日~
第961回  今ここでの救い    6月23日~
第962回 光の浄土   6月30日~ 
第963回  報恩の念仏    7月 7日~
第964回 かならず再び会う    7月14日~
第965回  まずは 南無阿弥陀仏から    7月21日~
第966回 ありがとう、よかった、うれしい    7月28日~
第967回  周りのすべてに    8月 4日~
第968回  VIP待遇    8月11日~
第969回  二泊三日    8月18日~
第970回  人生は 自分のものではない   8月25日~
第971回  無党派層は 無関心層ではない    9月 1日~
第972回  いのち終わっても    9月 8日~
第973回  痛手を受けて  9月15日~ 
第974回  今から練習   9月22日~
第975回  トウガラシ    9月29日~
第976回  自業自得(自因自果)  10月 6日~
第977回  極上の良書 10月13日~
第978回  八方の風に 柳は  10月20日~ 
第979回  本当の慈悲は  10月27日~ 
第980回  ピーコちゃん  11月 3日~
第981回 大いなる恵み 11月10日~ 
第982回 反抗しても 抵抗しても  11月17日~
第983回  南无阿弥陀仏の意義  11月24日~
第984回  前提が違う  12月 1日~
第985回  一水四見  12月 8日~
第986回  二つのグループ  12月15日~
第987回  雑行雑修自力  12月22日~
第988回 何事も 初ごと  12月29日~
     
      (平成24年)   
第989回 泥の中の白蓮華    1月 5日~
第990回 元気が自然に    1月12日~
第991回  野菜づくり   1月19日~
第992回    1月26日~ 
第993回     2月 2日~ 
第994回     2月 9日~ 
第995回      2月16日~
第996回     2月23日~
第997回     3月 1日~ 
第998回    3月 8日~ 
第999回    3月15日~ 
第1000回      3月22日~
      3月29日~
      4月 5日~
     
     
     


                       
               妙念寺



記載者 住職  藤本 誠

 
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